日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

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【何のために来た?】弥生時代の渡来人【何を持ちこんだ?】

2018-03-03 11:48:08 | 歴史コラム:原始
 昨年から今年にかけて、お仕事で北九州に何度も行っていますが、やはり現地に行くと部屋に籠って本を読んでいるだけより何倍も理解や考察が深まり、かつ新たな疑問も浮かんできて、さらに歴史の面白さにハマって行きます。

 北九州の弥生時代の遺跡には渡来人の影響、というか遺跡がまるごと渡来人の遺跡ではないか、と考えられるものが現れますが、昔流行った「100万人渡来説」は間違いだったとしても、元々の九州人にとって渡来人の影響は計り知れないものがあったことが理解できます。

 現在でも北九州と韓国南部は日常的に買い物や食事・レジャーで交流があることを知り、国境のなかった大昔においては尚更のことだったと思います。

 今日は渡来人についてお話ししようと思いますが、今日も主として参照する書籍はこちらです。

王権誕生 日本の歴史02 (講談社学術文庫)
寺沢 薫
講談社


 私には2000冊以上の蔵書がありますが、実は弥生時代について書かれた書物は比較的薄くて、最近は仕事の都合で購入を強化しているものの、昔から愛読している寺沢薫氏のこの本が分かりやすく、そして楽しく読める本かなと思っています。

 さて、北九州に頻繁に行くようになって、地元の人たちと話す機会ができたこともあり、一口で北九州と言っても、玄界灘沿岸地方と有明海沿岸地方でかなり違うなあと感じるようになりました。



 ※「Yahoo!地図」を加工して転載

 これはかなり昔、東北地方に頻繁に行っていた時期に、一口に「東北地方」と言っても北と南では全然文化が違うのを知ったときと同じような感覚です。

 外部の人間には地元に行かないと分からないことが多いですね。

 上述の書では、玄界灘沿岸地域と有明海沿岸地域の違いを載せており、それをまとめると以下の通りとなります。

 【玄界灘沿岸地域】

 ・形質は長身で顔が細く華奢な「北九州タイプ」(中国の山東半島・東北部・朝鮮半島起源か)
 ・米は丸く小さい(半島のものに近い)

 【有明海沿岸地域】

 ・形質は顔面がやや横幅が張り彫りが深い「西北九州タイプ」 (山東・半島・中国の長江流域起源か)
 ・米はやや長めで大きい(長江や淮河流域のものに近い)

 北九州タイプの人びとは山口県にもいたので、方位を考えると、朝鮮半島の人たちが玄界灘沿岸へ進出し、中国江南地方の人たちが有明海沿岸に進出したという構図が見えてくるかと思います。

 もちろん正確に言うともっと細かい表現が必要になると思いますが、単純に考えるとこのような形かと思います。

 ではなんで弥生時代に大陸から日本列島に人びとが渡ってきたのでしょうか。

 たまに「ボートピープル」という表現が出てきますが、着の身着のままで流れついたそういった人びともいたとしても、やはり私は組織的な行為が多かったと考えます。

 半島や大陸では戦乱が絶えず起きていました。

 例えば、あなたが半島のどこかの国の王だとします。

 周辺諸国との戦いが続き、形勢がかなり悪くなり、冷静に考えてもこのままだと落城も近いかもしれない・・・

 そろそろ脱出の準備をしなければ・・・

 という場面で、家族・一族や特殊技能者を引き連れ、財宝を携え逃げる場所を考えたときに、すでに交易などで倭国に渡っている自国出身者が基盤を作っていれば、彼らの手引で倭国へ逃げるというのも一つの案として浮上するはずです。

 これは現代人もそうですが、行き当たりばったりでバタバタしてしまう人もいれば、先の先まで考えてあらかじめあらゆる手を打っておく人もいますよね。

 後者のタイプであれば、用意周到に計画だって倭国に渡った可能性もあるのです。

 ですから、威風堂々といったら大げさですが、落ちぶれたとは言え、鳴り物入りで倭国に渡ってきた半島や大陸の王族もいたはずです。

 そして彼らが九州地方の新たな支配層になった可能性は高く、こう言うと感情的に許せない人もいると思いますが、彼らが天皇家の祖になった可能性もあるわけです。

 感情だったり心の問題も大切ですが、まずは冷静に考古学の研究結果を見て科学的な判断をするのがいいかと思います。

 さて、話を戻して、渡来人は稲作以外にも以下のものを日本にもたらしました。

 ・金属器
 ・弥生土器の原型になったといわれる無文土器
 ・支石墓(しせきぼ)
 ・環壕集落と松菊里(ソングンリ)型住居

 これらのうち支石墓は縄文時代晩期に糸島半島・唐津平野・有明海沿岸から天草諸島におよび、弥生前期から中期には福岡平野にもわずかにおよびますが、そこから東へは波及せずに終わります。

 半島でも西南部に集中していることから、その地方と密接な関係があったのでしょう。

 支石墓は支配者層の墓なので、上述したような半島の支配者が日本列島に渡ってきてその集落を統治したのちに葬られたように思えるかもしれませんが、人骨を分析すると、元々の九州の人が葬られていることもある(つまり地元の人が半島の墓制を採用している)ので、その辺をどう考えるか、これも古代史の楽しみだと思います。

 一定地域に分布をとどめてしまった理由も知りたいですね。

 松菊里型住居というのは、平面形が楕円の二本主柱の竪穴住居で、最古の環壕集落である粕屋町江辻遺跡では集落の一角に11軒の松菊里住居が集まっており、一つの環壕のなかに半島南部から渡ってきた人びとの生活エリアがあったことが分かります。

 私は関東の人間なので知らなかったのですが、松菊里型住居は弥生時代中期前半まで西日本各地の弥生遺跡で見られ、その分布から渡来人は前期前半(紀元前3世紀頃)には和歌山県にまで進出していたことが分かっています。

 さて、そろそろお昼ご飯の時間です。

 お腹が空いてきたので今日のお話はここまでとします。


 




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