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NHK大河ドラマ「平清盛」あれってどういう意味だったの?一点解説第31回:後白河上皇と二条天皇

2012-08-06 16:08:01 | NHK大河ドラマ「平清盛」一点解説
 NHK大河ドラマ「平清盛」第31回「伊豆の流人」では、伊豆で静かに暮らす頼朝(岡田将生)が描かれ、また二条天皇(冨浦智嗣)と池禅尼(和久井映見)が没しました。

 かつて鳥羽院(三上博史)は忠盛(中井貴一)に命じて、千体の観音堂である得長寿院を造らせましたが、今回は平家が持っているその造営のノウハウを利用して、後白河上皇(松田翔太)が清盛(松山ケンイチ)に蓮華王院を造らせました(この造営の功によって重盛(窪田正孝)が正三位に叙されています)。

 ドラマでは、二条天皇はついに蓮華王院に行幸しませんでしたが、『人物叢書 平清盛』によると『百練抄』に二条が行幸したと記してあるということです。

 ところで、二条とその父である後白河は何で仲が悪かったのでしょうか。後白河は大治2年(1127)の生まれで、二条は康治2年(1143)の生まれです。何と二条は後白河が17歳のときの子なんですね。

 他の歴史上の人物でもそうですが、父と子の年齢があまりにも近いと、父と子は同等な対抗心を燃やしやすい傾向にあります。父と子が経験や能力・知識などで同じようなレヴェルになって競ってしまうのです。

 父としてみれば「俺はまだ若い」という自負もありますし、子としてみれば「俺は父を超えた」という思い上がりがあり、それに周りに追従する人たちも現れて、それぞれ派閥を作って競い合います。

 二条は、筋を通す性格で、それに対して後白河は自由奔放な人柄だったので、二人の性格は合いませんでした。

 しかし、性格が合わないからといって憎悪することもないわけで、そこは父の後白河がちょっと大人げなかったのではないかと思います。

 まあ、後白河からすると、自分の思い通りの政治ができないというストレスが大きかったせいもあると思いますが。

 二条の崩御は永万元年(1165)7月28日で、8月17日には清盛が大納言に任じられています。大納言までくれば、あとは右大臣、左大臣そして太政大臣で人臣は極められます(ただし、左右大臣の補佐として内大臣という位もありますし、藤原摂関家の摂政・関白は別格です)。なお、清盛はどんどん出世して行っていますが、六条天皇の代の最初に政治を主導したのは、摂政の藤原基実(村杉蝉之介)です(忠通(堀部圭亮)の子)。

 基実の正室は清盛の娘盛子だったので、この夫婦は平家と摂関家がタッグを組む際の強力な結節点となっていましたが、基実は翌永万2年(1166)に赤痢のため24歳で亡くなってしまいます。基実の死は清盛にとってもかなりショックだったようです。

 ※次回の大河ドラマ「平清盛」はオリンピックのために1週飛ばして8月19日の放送になります。

艦隊これくしょん

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