日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

朝鮮半島の古代史(日本人は古代、朝鮮半島南部に住んでいたのか?~イントロダクション~)

2014-03-23 22:16:41 | 歴史コラム:古代
 紀元前1046年に周が殷を滅ぼしたあと、殷の皇族で政治家だった賢人・箕子(きし)が、殷の遺民を率いて中国から朝鮮半島へ移住して独立国を建てたという伝承があり、それを箕氏朝鮮と呼びます。

 箕子朝鮮は中国人の研究者の中には実際に存在した国家であると考える人が多いようですが、韓国人の研究者は自分たちの先祖が中国からの移民であったとされたくないので、伝説上の国家であると一蹴する人が多いようです。

 ただ、韓国人の先祖は厳密に言うと、朝鮮半島北部に箕子朝鮮が有ったとか無かったとかとは関係なく、半島南部の「韓」の地域にいた人が先祖です。

 朝鮮半島には現在、ご存知の通り朝鮮民主主義人民共和国(通称「北朝鮮」)と大韓民国(通称「韓国」)という2つの国家がありますが、歴史的に見ると朝鮮半島は元々は各種の種族が多数の国家を形成していた地域なのです。

 さて、それでは朝鮮半島に建国された国家で、確実的に一番古い国家はいつ建国されたのでしょうか。

 現在の中華人民共和国も多数の民族で構成されていますが、秦の始皇帝(嬴政<えいせい>)が前221年に中華を統一するまで、各地の民族がそれぞれ小国を作っており、その中に燕という国がありました。

 燕の領域は、おおよそ現在の北京の辺りから遼東半島までで、いわゆる「中華」という地域の中では北東の辺境地帯でした。

 吉川英治の小説『三国志』で、張飛がよく「燕人張飛」と名乗りますが、張飛は燕の出身なので「燕人(えんひと)」と名乗るのです。

 劉備もまた燕人です。

 『漢書』によると、燕は戦国時代(前5世紀末期から前221年)になって朝鮮半島への進出を果たし、のちに真番郡が置かれる地域(半島中西部あるいは韓国の錦江の河口部)まで版図を伸ばして役人を置き、障(とりで)を築いていました。

 さて、前206年に秦を滅ぼした漢の高祖(劉邦)が前195年に没すると、高祖の親友だった燕王盧綰(ろわん)は、高祖の皇后であった呂氏の粛清を恐れて匈奴(きょうど。北方の異民族)の元に亡命します。

 それと同じころ、同じく燕の衛満(衛というのは姓氏ではなく、『古代朝鮮』によるとその字義に国境・辺境などという意味があり、その姓氏が不明なためにこの字を借用した)も1000余人の徒党を集め、朝鮮に移住して、朝鮮王を僭称していた準(箕子の子孫とされますが、実際は姓氏不明)に取り入って重用されたあと、機を見て準を追い出して衛氏朝鮮を建てました。

 これがおそらく、朝鮮半島で最初に作られた国家です。

 衛氏朝鮮が都とした王険城は、現在の平壌です。

 半島北部には、秦末の混乱期に中華北東部から1万人もの人びとが戦火を避けて移住しており、朝鮮半島最初の国家の一般住民は、元々半島に居た人びとと中国からの移住者が混在しており、支配者は衛満や彼に従って乗り込んできた中国人だったのです。

 ただ、中国の史書を読むと、朝鮮半島北西部に元々いたはずの半島の原住民について何も記されていないので、燕の時代から断続的にかなりの数の中国人(燕人)が移住してきて(燕の政策もあったかもしれない)、秦末に1万人もの移住者が来ると、ほとんど原住民の姿は見えなくなったのかもしれません。

 そう考えると、半島北西部は歴史的に見るとほとんど中国の一部と言われても仕方がないです。

 衛満に追い出された準は、『三国志』によると箕子の40数代目の子孫とされていますが、それが事実でないとしても、衛満がやってくる前から朝鮮半島北部には、燕の支配下であるものの燕から半独立した、準に至る系譜を持つ中国人が支配する地域政権があったと考えてよいと思います。

 考古学的に見ても、半島北西部は燕の影響が強いようです。

 ところで準は、側近や宮女を連れて半島南部へ逃れ、韓王と名乗りました。

 現在も半島南部には大韓民国という国家がありますが、歴史的に見ても韓人は半島南部がその居住地で、韓人も三国志の頃(3世紀前半)には馬韓・辰韓・弁韓(弁辰)の3つの種族に分かれていました。

 衛氏朝鮮はその後、前漢の第7代皇帝・武帝(劉徹)が積極的に領土拡張政策を推し進めた結果、前108年に攻め滅ぼされてしまいました。

 衛氏朝鮮は3代で滅びたのです。

 その結果、前漢帝国は半島北部に楽浪(らくろう)・玄菟(げんと)・真番(しんばん)・臨屯(りんとん)の各郡を設置し、半島北部を自らの領土としました。

 各郡の領域は、おおむね楽浪郡が北西部、玄菟郡が北東部、真番郡が南西部、臨屯郡が南東部でした(『海を越えたメッセージ ~楽浪交流展~』)。

 このうち玄菟郡には元々沃沮(よくそ)という種族がいましたが、沃沮の住民の上に中国人が君臨したわけです。

 前82年には、南側の真番・臨屯両郡が廃止されます。

 そして前75年には玄菟郡が遼寧地方に移転してしまい、上記の4郡の領域はほぼ全域的に楽浪郡としてまとめられ、先述の沃沮の居住区やその南側の濊貊(わいはく/かいはく)という種族の土地は、楽浪東部都尉という軍政下に置かれました。

 このとき発足した25の県を持つ楽浪郡は「大楽浪郡」と通称されます。

 『漢書』によると、楽浪郡には海のかなたから倭人が季節ごとに物を持ってやってきて、郡の太守(長官)にまみえていました。

 この倭人は日本列島人のことだと思われ、当時、倭人の国は百余国に分かれていました。

 ただ問題は、倭人は朝鮮半島南部にも住んでいたと『三国志』に記されていることです。

 朝鮮半島南部の倭人は日本列島の倭人と同じなのか?

 つまり、日本人は古代、朝鮮半島南部に住んでいたのか?

 今後も研究を続けて行きたいと思います。

 次回の記事はこちら








艦隊これくしょん

艦隊これくしょん








コメント (2)   この記事についてブログを書く
« お掃除で使うウエストポーチ... | トップ | 後漢の名将祭肜の活躍と倭国 »
最近の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
真実の韓 (寺坂国之)
2015-01-09 13:58:46
真実の韓(『氷解する古代』より)
皆さん、そもそも韓国の「韓」にどのような意味があるのか、ご承知でしょうか。
「韓」を漢和辞典で見ると、「朝鮮南部の呼び名、井桁(いげた~井戸の縁を取り巻く板の枠)」などの意味がありますが、これだけではこの場合の用をなしません。
しかしこの一字を「偏と旁」にいったん分解してみると、かつて私たちが抱いていた「韓」のイメージとは似ても似つかぬ事実が明らかとなってくるのです。まさにその様相は一変します。
それでは先ず「韓」の左側にある偏の方の意味から求めてみましょう。
そうすると「韓の偏」には「草の間から太陽が昇り、潮が満ちてくる時。日が昇るような強い力。あるいは大きい、強い」などの意味があるようです。
ということは、太陽が昇ってくるというのですから、東方の地という意味も含まれているということですね。
そして、右側の旁にあたる「韋(い)」は、「なめし皮。毛を取り去って柔らかくなめした動物の皮」という意味となっています。
全体としては「毛皮を身に着けた人が住んでいる、太陽の昇る東方の地」ということになります。私が何を言わんとしているのか、もうお分かりですね。
そうです。あの「皮服の鳥夷(ちょうい~『尚書』禹貢・冀州)」ですよ。彼らの本拠地が、この韓地、朝鮮半島の南半部であった。そのことを見事にも、この「韓」の一字が証明しているのです。
それに対して古代の中国人は現地の人々がいう「加羅」の発音から、見事にも「韓」の一字を想起し選択した。そういうことではないでしょうか。
あるいはまた、「韓」を思いついたのは倭人自身であった可能性もありますね。倭人はスサノオやニニギの時代から韓地を韓国(からくに)、その地の神を韓神(からのかみ)などと呼び、それに「韓」の字を適用していた節が伺えますからね。
本来、中国と朝鮮半島にはさまれた内陸部に存在していた朝鮮民族が、海洋の民としての鳥夷であるはずなどあり得ませんから、彼らとは関係のない時代に、半島南部は既に加羅であり韓であったということですね。
これらの事実は、そのことを如実に物語っているとともに、韓はまさに倭人にとって懐かしき濫觴の地であったということではないでしょうか。歴史って、本当に面白いものですね。
ありがとうございました (稲用)
2015-01-11 23:47:57
寺坂国之さん、こんばんは。
>私が何を言わんとしているのか、もうお分かりですね。
>そうです。あの「皮服の鳥夷(ちょうい~『尚書』禹貢・冀州)」ですよ。
あまりにもマニアックで^^
勉強になりました。ありがとうございました。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

歴史コラム:古代」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事