日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

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【故郷の歴史は面白い!】北総の古墳時代【千葉県松戸市ほか】

2019-03-02 13:00:37 | 歴史コラム:古代
 昨年から考えていたことですが、働き方を変えようと思い、お掃除の仕事を減らして歴史の仕事を増やしています。

 そして同時に、歴史の仕事に必要な研究時間を確保できるように工面しており、今月は歴史の仕事での稼働が多く、お掃除はおそらく5日くらいしか出勤しません。

 このままのペースを夏くらいまで続け、それ以降はさらに働き方を改善しようと思っています。

 ちなみに、「働き方改革」は「働かされ方改革」ですし、「一億総活躍社会」は、「死ぬまで働け社会」ですね。

 あまり政府の批判をすると官憲に摘発されてしまうのでこれ以上は言わないことにして、話は変わって、毎月クラツーでやっている関東の古代史講座は、今年から古墳時代の話に突入しています。

 すでに古墳時代前期の話はしたのですが、私のフィールドの都合で、千葉県の北部や茨城県の話はほとんどできていません。

 当該地方には実際に訪れたことがそれほどないので、私自身の経験値が少ないことが講座で話せないことの原因でもあります。

 やはり、探訪経験の無い場所について堂々と話すのはカッコ悪い。

 自分の足で現場に行かないで机上での研究ばかりしている研究者は恥ずかしい存在ですが、今度の水曜日に千葉県の古墳ツアーをご案内してくるので、千葉県の古墳について机上で調べたことを恥ずかしそうにまとめてみようと思います。

 古代から中世にかけて、現在の千葉県と茨城県の県境を流れる利根川流域には香取海(かとりのうみ)という太平洋の内海が広がっており、現在の霞ケ浦や印旛沼・手賀沼などは一つの海となっていました。

 その地域は、古墳時代後期にはたくさんの古墳が造られ、ヤマト王権から非常に重要視された地域になるのですが、古墳時代の始まりの頃の古墳は少ないです。



 香取神宮が当時どうだったかは分かりませんが、場所を示すものとしてプロットしておきました。



 ※香取神宮門前の猫ちん

 それ以外に3つの古墳あるいは遺跡をプロットしていますが、このように香取海の岸辺にごく少数の前期古墳が営まれます。

 それらは前方後方墳あるいは、前方後方形の周溝墓ですが、香取海の南岸、つまり千葉県側を見てみると、このあとはほとんど目立った大型古墳が築造されず、6世紀半ば以降にようやく成田市の公津原古墳群や栄町の龍角寺古墳群といった大型古墳を内包する古墳群が形成されてきます。

 水曜日にはそれらの古墳をご案内してきますので詳細はそのときにお話ししようと思います。



 ※成田市船塚古墳(他に例がほとんどないと思われる独特な形状の大型古墳)



 ※栄町の浅間山古墳(7世紀初頭に築造された千葉県最後の大型前方後円墳)

 北総の古墳時代の画期と思われる6世紀半ばというと、継体天皇と関連しそうです。

 日本書紀を読むと、継体朝からつぎの安閑朝にかけては、屯倉という王権直轄地の設置記事が異様に多いです。

 安閑朝では武蔵国造の乱というのが発生し、この史実性には問題があるものの、その結果として4か所の屯倉が設置されたことになっており、屯倉の設置がこの時期に集中したのは間違いないと思います。

 継体は朝鮮半島の支配を目論んでいたと考えられ、筑紫君磐井の乱を経て、西の有力者たちはほとんどがヤマト王権の指揮下に組み込まれます。

 では関東地方の有力者たちにはどうだったのでしょうか。

 関東地方の有力者に期待された役割はいくつか考えられますが、例えば群馬では5世紀から渡来人が地元の有力者に協力する体制が整えられ、馬匹の生産が開始されました。

 お馬さんはスポーツカーでもあり、トラックでもあり、戦車でもありますし、有力者にとっては権威の象徴でもありました。

 つまり群馬の有力者は王権の軍事力強化に一役買ったわけです。

 北総地域でも江戸時代は幕府の牧場がたくさん設置されたので同じような状況も考えられますが、同地域は上述した通り、古代・中世には香取海が広がっており江戸時代とでは地形がだいぶ違います。

 やはり北総地域の有力者に期待されたのは北東北へ進出する際の協力でしょう。

 645年に蘇我政権が倒れて改新政府が樹立されてから、王権は北東北への進出を強化し、仙台市太白区の郡山遺跡の第Ⅰ期の遺構はその頃に造られた役所的な建物で、つづく第Ⅱ期の遺構は初代陸奥国府とされています。



 ※郡山遺跡

 ただし、北東北各地の遺跡を見てみると、改新政府より前の蘇我政権の時代に関東の人びとが進出していた形跡を見ることができます。

 日本書紀には書かれていませんが、継体・安閑期、もしくはそのあとの欽明期などに王権は積極的に北東北への進出を企てていたわけです。

 欽明朝では蘇我氏が力を付けてきており、もしかすると中臣(藤原)鎌足が鹿島地方出身という伝えがあるのは事実であり、鎌足の家系は欽明朝の東国政策の際に地元常陸で活躍し、その家系の鎌足は地方から抜擢されて中央に進出した人物かも知れません。

 そうだとすると彼の墓が蘇我氏の本拠地の飛鳥地方にあってもいいですが、欽明の父の継体の今城塚古墳に近い場所にあるというのは蘇我氏と距離を置くために元々の継体朝との縁をもとに決められたのかもしれません。

 日本書紀の制作プロデューサーは鎌足の子の不比等ですから、藤原氏の出自を正当なものにする必要もあり種々工作した可能性があります。

 話を千葉県に戻します。

 私は千葉県松戸市の生まれです。

 ただ、24歳になってすぐに都内に引っ越してしまい、子供のころから歴史が好きではあったものの史跡探訪には興味が無く、したがって松戸市内の遺跡にはほとんど行ったことがありません。

 松戸市内には戦国時代の城跡も多くあって(千葉氏家臣の原氏のそのまた家臣の高城氏の本拠地で、私は高木<漢字は違います>第二小学校出身)、今思えば残念なことですが、河原塚古墳群という古墳群もあります。

 生まれてから小学校に上がる直前までは、新京成線のみのり台駅の近くに住んでおり、その次に同線の元山駅近くに引っ越したわけですが、みのり台にそのまま住んでいたら稔台小学校、ついで河原塚中学校へ行くはずでした。

 その河原塚中学校周辺が河原塚古墳群なんですね。



 考えてみれば「河原塚」という地名はもろに古墳がありそうな地名ですね。

 埼玉古墳群には瓦塚古墳があります。

 つまり、古代の水系でいうと、小学校に上がるまでは太日川水系で育ち、その後は香取海水系に住んでいたわけです。

 そして上述の小学校の横を走っているなじみ深い県道281号線はちょうど二つの水系の分水嶺を通過しています。

 こういう事実は子供の頃は興味なかったですが、大人になって知るととても面白いですし、エキサイティングです。

 Web上での調査からは私の故郷・松戸にはそれほど多くの古墳がなかったようですが、松戸市立博物館に足を運んできちんと調べてこないと恥ずかしいですね。

 ところで、6世紀末から7世紀初頭に置かれた千葉県内の国造分布はこのようになります。



 ※『房総の古墳を歩く[改訂版]』より加筆転載

 『先代旧事本紀』には、上の千葉と長狭は書かれておらず、以前の記事にも書きましたが、国造の勢力に対応する古墳もないことから、大化以降の新しい国造ではないでしょうか。

 そうなると、松戸や隣の市川の古墳群はどの国造の領域に入るのかというと、松戸市内の北東部は旧沼南町などと同様に香取海水系なので、その地方にもし後期古墳があるとすると、それらの被葬者は印波国造の支配下にあったと考えられますが、松戸市内の大部分は太日川(現在の江戸川)とその支流の流域ですので、太日川流域の勢力の支配下ということになります。

 その場合は、国造の空白地域となりそうです。

 ただし、太日川を遡っていくと下野国造の領域になるので、下野国造が遥か上流から東京湾の河口までの広範囲に支配力を及ぼしていたということがあっても面白いかもしれません。

 ちなみに、上述した成田市の船塚古墳は、最新の調査の結果、3段築成の下2段は長方形の基壇のようになっており(最上段の形状は不明ですが前方後円形ではないでしょうか)、広い基壇を設けるのは下野の古墳の特徴です。



 ※栃木県壬生町の茶臼山古墳の墳頂から基壇部を見下ろす

 下野国造の支配領域は太日川流域だけでなく、鬼怒川も抑えており、鬼怒川は香取海に注いでいるので下野の古墳文化の影響が印波地域に伝播したとすると面白い話になりそうです。

 そろそろお腹がすいてきたので昼飯を作ろうと思いますが、こうして考えると私が生まれ育った松戸市の古代史もとても面白く感じます。

千葉県の歴史散歩
千葉県高等学校教育研究会歴史部会
山川出版社





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