日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

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千葉県の古墳分布と国造の配置を整理してみました

2018-02-03 21:32:02 | 歴史コラム:古代
 夕方から今年のツアーの企画を考え始めました。

 クラツーのお客様から千葉県方面のツアーをして欲しいとのリクエストをいくつかいただいたので、今年は千葉県方面にも出張ってみようかなと思っています。

 一応、私は千葉県出身なのですが、地元の歴史をきちんと調べることもなく、24歳のときに千葉県を出てしまいました。

 たまに千葉県の歴史の本を読むと自分の生まれ育った地域にも面白い歴史が沢山あったことを知るのですが、私の住んでいる高尾から千葉県は都心を通過して行かなければならないので、心理的に遠いため今まであまり探訪していません。

 なので、知識が薄いのです。

 そのため今日は少し千葉県の古墳について調べてみました。

 メインとなる資料は千葉県内の博物館で入手することができる『房総の古墳を歩く[改訂版]』(芝山町立芝山古墳・はにわ博物館友の会/編)です(Amazonでも古書で手に入るようです)。

 古墳時代後半の地域の代表(有力者)と言ったら国造(くにのみやつこ)という豪族ですが、千葉県は国造が多い地域なのです。

 そして、前方後円墳の数は日本一で、中世城郭も軽く1000箇所を越えて、今なお人口も多いことから分かる通り、古代の昔から人がたくさん住んでいる先進地域でした。

 国造は時代によって増減したと思うので確かなことは言えないのですが、平安時代に書かれた『先代旧事本紀』によれば、千葉県内には9つの国造がいました。

 ちなみに、群馬県内は1つ、栃木県内は2つ、神奈川県内は2つという感じで、千葉県は全国的に見ても国造が密集していた地域なのです。

 そのため私は、平成の大合併で千葉県内の自治体の合併があまり進まなかったのは、古代以来の千葉県の歴史が関連しているのではないかと思っています。

 さて、千葉県の古代史についての知識が薄いため、まずは代表的な古墳の把握と、国造の場所を整理しようと思い、前述の『房総の古墳を歩く[改訂版]』に掲載されている千葉県の古墳マップを拝借して、国造をプロットしてみました。



 見事に古墳密集地域と国造が一致しましたね。

 それでは、この地図を眺めながら気付いたことを何点か述べてみようと思います。

 まず、上海上(かみつうなかみ)国造と下海上(しもつうなかみ)国造という、元々は一つじゃなかったの?と思われる国造がいます。

 もし、両者が一つの勢力だったとすると、国造は6世紀に配置されるものなので、それ以前に千葉県北部の広範囲を版図とする「海上」という勢力があったことが想像できます。

 手元には千葉県の古代史について書かれた資料がほとんどないので、Webで調べてみると、そういう説があるようですね。

 面白いので今後も調べてみようと思います。

 つぎに、千葉国造と長狭(ながさ)国造はその支配地域に目立った古墳がないことが分かりました。

 手元の『先代旧事本紀』を読むと、その2つの国造は載っていません。

 これもWebで調べたことなので無責任な話になってしまいますが、その2つの国造は新しい国造のようなのです。

 古墳時代が終わってから任じられた国造であれば古墳がなくても当然ですね。

 国造は大化改新によって解体が進んだのですが、宗教的権威者として地域に残るケースもありましたし、律令国家が何かしらの政治的な意図を持って国造に任じた可能性もあるのではないでしょうか。

 れこも今後の研究テーマにします。

 そして私の出身地である松戸市周辺の東葛飾郡地域(千葉県北西部)がどの国造の勢力範囲だったかというと、『房総の古墳を歩く[改訂版]』では千葉国造の支配地域としています。

 ところが、そこで生まれ育った私の肌感覚ですと、千葉方面よりかは、川によって繋がっている印波国造と関わりが強かったように思えます。

 東京に引っ越してからのことですが、千葉県の中世城郭について調べているときに、千葉県北西部の地形図をたくさん買ってきて、地形について調べました。

 さらに千葉県の中世史の本を読んでも、中世の頃は利根川流域が「香取の海」という内海になっていて、東葛飾地域の河川も今よりも水量が豊富で、香取の海に接続していたことを知りました。

 つまり、中世のころまでは松戸辺りからでも船に乗れば霞ケ浦まで行くのもそれほど大変なことではなかったと想像できます。

 したがいまして、北西部地方は千葉国造ではなく(そもそも6世紀に千葉国造はいなかった?)、印波国造の支配地域だったと考えられます。

 ところで、印波国造の墓とも言われる岩屋古墳は7世紀に築造され、方墳としては全国で2番目に大きいのですが(一辺が78m)、岩屋古墳が築造された時点では天皇の墓よりも巨大なのです。



 なぜ地方の豪族が天皇の墓をしのぐ大きさの古墳を築くことができたのでしょうか。

 こういったことを考えるのも古代史の楽しみの一つですね。

 なお、千葉県の古代史を楽しむ上ではこの本も参考になるかなと思います。

房総の古代・上海上氏族
古川 庄次
国書刊行会


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8 コメント

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うわあ、楽しみです。 (りひと)
2018-02-06 19:22:21
縄文海進前は、東京湾もお水なかったはずなので千葉と神奈川が一気に繋がります。で古墳時代には水運が全てだろうから金谷とか橋がかかったあたりは縁があるのか?やたら気になります。

で橋渡った後に鴨川に行った際にはかなりバスでクネクネ通ったんですけど渓谷的な場所なのでかなり好きな民族がいたはずだとも思ってます。で君津から鴨川と上総一ノ宮と長生辺りが個人的に気になっている場所です。諏訪とも関係ありそうに思うんで旧石器だと面白いです。
で鴨川までの間に鎌足のお名前も地図上に出る事もありました。すると7世紀も十分可能性あるので古墳時代には入ってきますね。以前古墳調べたような記憶では後期で棚とかまであったんで個人への思いを持ちながら知恵と効率も色々アイデアを織り混ぜたような民族がいそうに思います。
蘇我姫神社だかにもいったなあ。蘇我も縁ある場所でしょうね。神奈川がくっ付くと個人的にはかなり面白くなってくるんですよ。
宜しくお願いします。そう鋸山は聖武天皇関わるとか看板にあった気がします。日本寺だったかな?飛鳥から奈良時代なら古墳最終辺りですかね。
持統天皇がお墓を簡素化していく中、古墳が続いていたら勢力がこっちまできていない可能性も。
また磨崖仏や洞窟が今気になってます。渓谷の好きな民族はお墓にしていなかったかな?とかこの前鎌倉に行って思いました。千葉の情報はどんな事でも興味あります。楽しみにしておりますね。
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台方の麻賀多神社 (Unknown)
2018-02-06 22:07:44
はご存知ですか?

額田女王
井上靖の古本を見つけ読んでまして、検索したらお邪魔するに至りました。
Unknown (稲用)
2018-02-07 12:48:07
りひとさん、こんにちは。
東京湾が陸地だったのは旧石器時代の終わりのころなので、その頃はまだ関東地方全体でも人口は1000人いないかもしれませんね。

歴史時代になると完全な海ですが、ただ、海や川というのは現代と違って、むしろ交通の便を良くするものなので、千葉と神奈川がは文化的な交流も頻繁でした。

鴨川と賀茂神社との関連も気になります。
Unknown (稲用)
2018-02-07 12:51:00
Unknownさん、こんにちは。

成田台方の麻賀田神社は知りませんでした。
Webで調べてみたら印波国造と関連があるんですね。
今度成田方面に行ったときは参拝してみようと思います。
面白そうな情報がありがとうございました。

それと、『額田女王』ですが、先日私も古本でGetしたのですがまだ読んでいませんでした。
私は井上靖さんの小説、好きなのです。
1000人 (りひと)
2018-02-07 17:01:42
面白い、そんなに少なかったのですね!
とするとみな兄弟って感じですね。

洞窟の中だかの光るコケだか?大昔からきになってましてこの前地図でそんな表示がありました。出雲にハマっていた時期そんな場所探してたんですけど。氷室に額田って関係なかったかな?仁徳の辺りも千葉と関係出てきそうな予感です。

ひとまず私は今洞窟と薬師さん。

昨日神奈川県の稲荷山の古墳の近くのお薬師さまのいる弘仁寺から君津辺りを繋いでみたらいい場所に千葉でも薬師のお寺っぽい場所見つけました。けど千葉も情報すくなそうですね。

でグーグルで弘仁寺とすると奈良の虚空蔵菩薩のお寺が検索されたんですけどそこも渓谷でして奈良がまだ湖があった頃も含めて対岸の葛城方面まで頭の中では繋がってきてます。旧石器後半だと行きやすかったかな?と。でこの前行った奈良の氷室神社ともう一つ天理にも氷室神社がありかなり気になってますが、ここが奈良の弘仁寺と近いんです。

どうやら今私の流れそちらの民族をたどっているようです。多分地形と天文の知識は持っていて天智天皇辺りにつながりそうです。そうそう朝倉というキーワードで稲用さんにも一度コメントしてますが、千葉にもその流れがありそうに思いますよ。

マガタ神社はお昔から行きたいとは思ってましたけど、額田さんと関係あるのかしら?
仁徳さんに氷室の知識を与えた男性のようなお名前が祭神さんでいらっしゃいますし、舞いの神様もいらっしゃいます。猿楽だったかな?詳しくはその都度興味があったらみなさんに調べてもらいたいですね。神事や舞や獅子舞辺りも民族の継承がありでしょうから額田関係はどうだったのか?今後ゆっくりどこかで出会ったら探してみようと思います。そうムサシって方が出てくる頃は戦いだかで大変みたいなのでその前が知りたいです。1000人くらいの時期、どんな事をしていたか?どんな民族がいそうか妄想で楽しみます。

1000人で石を道具に生きて子孫反映する為には自然からの知識はもちろんあったはず、そのおかげで今人間は沢山の命を頂きまたその後へも繋がって行くもにも感動ですね。
で旧石器の頃は交流はしていなかったのか?そこはヤジリの材質等、縄文弥生は葬送儀礼.土器青銅器鉄器、古墳時代はお墓なので埋葬品や作り方でも伝播で何か分かるかもしれませんね。

そう思うと古墳時代はやっぱり鍵になりそうです。興味持っている方いっぱいいますので今後宜しくお願いいたします。4153、8748
Unknown (前田節子)
2019-05-04 20:45:30
こんにちは!うちの叔父が古墳に興味があります。千葉の市原に住んでいますが、古墳を調べる会とかご存じないですか?
Unknown (稲用)
2019-05-05 04:35:50
前田節子さん、こんにちは。

私は千葉県松戸市出身なのですが、市原と言うと千葉県内でも特に古代史が面白いところですね。

市原周辺のそういった会はすぐには思い出せないのですが、私のお客様で上総方面から来てくださる方がたまにいらっしゃるので、今度お会いしたら尋ねてみます。

当たりを付けるとしたら、博物館や資料館などにそういった同好会があることがありますよ。あとは、地元で講演会や歴史講座があるときに出席してみると、会場でそういった活動をしている方と知り合うこともあります。
Unknown (りひと)
2019-08-18 09:03:18
中世の頃は利根川流域が「香取の海」という内海になっていて、東葛飾地域の河川も今よりも水量が豊富で、香取の海に接続していたことを知りました。

ランキングで再度みたら上記が気になりました。
松戸の件も含めて。なんか今の歴史ではあまり出てこないんですけどそれがまたきになりますね。

多摩の八角墳が天皇絡みだともちろん古墳時代に関東も相当歴史的に大事だと思うし、薄葬令の前後は方墳なのか?それによってもかなりこの地域の巨大な方墳は大事そうですよね。中央よりも高度な技術者がまた実際に作業する人たちもいたわけですから。

あと確か関東の古墳はお墓の中に棚で副葬品を置いてあったような?昔の記憶なので調べてみますが近畿の古墳あまり出てこない。墓の被葬者への想いがないとダメと言われてやるわけないので慕われていたとも思います。そしてそれが日常っぽい物だったような?食器とかなかったかな?記憶違いかもしれないので久々関東君津あたりの古墳調べてみます。
横須賀の南辺りとも中世では行き来はどうかな?中世も海進あったなら前後で違うはず。過去行けた事実を知ってた行こうとも思うかもしれないなあと。
潮の満ち引きや暦系の知識あるとチャレンジし易いかも?海進の時期も調べてみます。

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