日本史大戦略 Side-B 附 東国を歩く会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

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【奥州古代史探索 2日目 その2】胆沢郷土資料館・角塚古墳・中半入遺跡【最北の前方後円墳】

2018-04-17 06:42:49 | 歴史探訪
 相変わらず睡眠不足ではあるものの、暖かくなってきたので早起きが苦にならなくなってきました。

 お掃除に出勤する前に、1本アップしますよ。

 ⇒前回の記事はこちらです


*     *     *


 1.胆沢郷土資料館

 時間があれば平泉をもっと見たかったのですが、今回はツアーの調査が主目的ですので、涙を飲んで平泉とお別れです。

 律令国家が8世紀末の時点で「賊地」との境界線と認識していたらしい衣川から平泉方面を見ます。



 衣川。



 県道300号線から平泉バイパスに入り、ずっと下道を北上します。

 懐かしい岩手の風景。

 古代、アテルイが治めた土地だ・・・

 なぜか岩手の民家の屋根って瓦にしろトタンにしろ、赤色が多いんですよね。

 昔はしょっちゅう走っていた胆沢の扇状地に入り、平泉を出て約30分後に胆沢郷土資料館に到着です。



 資料館は胆沢文化創造センターという複合施設の中にあるんですね。

 入館料は200円。



 展示内容は時代的には大きく分けて、原始・古代と近世・近代で、ジャンル的には歴史と民俗です。

 私はとにかく、角塚古墳関連の展示が見たくて気が急きますが、まずは呼吸を整えて縄文・弥生の展示を楽しみます。

 これは面白い。



 左のは「燕尾形石製品」、右のは「イチジク形土製品」という名前が付いていますが、要するに用途不明なので「石製品」とか「土製品」などと呼ばれてしまうわけです。

 おーっ、大好きな「顔」関係の遺物!



 縄文後期の土器に顔が描かれているのです。

 展開するとこんな感じ。



 オーソドックスな遺物とパネル中心の展示ですが、こういった小ぢんまりとした資料館は意外と楽しいのです。

 そして部屋の中央には・・・

 バーン!



 角塚古墳のジオラマ!

 5世紀第3四半期に築造された墳丘長45mの前方後円墳で、前方後円墳としては列島最北端の古墳です。

 これを見ると2段築成で、上段にのみ葺石が張られていますね。

 あとで会いに行くよ・・・

 そして現場で見られない遺物はこれだ!



 角塚古墳の周溝から出土した円筒埴輪です。



 これが見たかったのだ・・・

 上のジオラマの通り、築造当初は円筒埴輪は墳丘の縁の部分に立て並べたのですが、時とともにそれが周溝に落ち、発掘するときは割れた状態で見つかるわけです。

 朝顔形埴輪もありますよ。







 角塚古墳コーナー全景。



 珠玉の展示です。

 ここは私のツアーでもご案内しますので、参加予定の方はどうぞ楽しみにしていてください!

 というわけで20分ほど展示を見て、次は角塚古墳を見に行きますよ!

 2.角塚古墳

 胆沢郷土資料館から車で15分ほど走ると、角塚古墳の墳丘と道路を挟んだ反対側に公園らしきものがありました。



 角塚古墳公園!



 こんな公園が整備されていたんですね。



 有田焼で作っちゃったの。





 角塚古墳の説明。



 道路の反対側には角塚古墳が・・・



 いいねえ。

 道路を渡って墳丘の西側からアプローチします。

 墳丘は全体的にかなり崩れており、前方部はとくに損傷が激しいですね。



 前方部から後円部を見ます。





 墳頂。



 墳頂から北西方面を眺めまーす。



 南西方面を眺めまーす。



 南東方面を眺めまーす。



 何度も話している通り、前方後円墳を連合の証としたヤマト王権の影響力は、昨日訪れた宮城県北部の江合川が上限なのですが、江合川から65kmくらい北に行った場所に角塚古墳がポツンと存在しています。

 もちろん、今後新しい前方後円墳が岩手県内に発見される可能性もあるわけですが、現在の段階では、一基だけ飛び地のように存在するヤマト王権に属した勢力の墓ということになります。

 築造年代は5世紀の第3四半期(550~574年)頃ですが、胆沢の地は元々水田耕作に適したポテンシャルがあり、とても豊かな場所だったものの、もしかするとヤマト王権に属したことにより他に抜き出た力を身に付けたのかもしれません。

 さきほどのジオラマでは2段築成になっていましたが、現状では後円部が部分的に3段なんですよね。



 でも後円部が部分的に段の数が違うことはあり得ないためこれは後世の改変で、往時は後円部が2段で前方部が1段の古墳でよいでしょう。

 後円部から前方部を見ます。



 かなり壊されている様子が分かりますね。

 後円部のこちらか見て左側がとくにえぐられているので、こういう場合は一般的には盗掘の形跡です。

 盗人が石室をめがけて穴を掘った跡の場合が多いですが、角塚古墳がどうだかは分かりません。

 角塚古墳は主体部の調査がされていませんが、5世紀の第3四半期という段階でこの地域まで横穴式石室が進出していたかどうかには大変興味があります。

 では下に降りますよ。

 前方部はかすかに数十センチの段差が分かります。



 ところで、この角塚古墳はアテルイの墓でしょうか?

 残念ながらアテルイは8世紀後半から9世紀初頭の人物ですので、角塚古墳はアテルイが生まれる300年くらい前のお墓となります。

 そうすると、アテルイのご先祖様かな?と思うかもしれませんが、6世紀になるとこの地域の集落数は急激に減少するので、もしかしたら一旦そこで血統は断絶してしまったかもしれません。

 この時代にはアイヌの先祖がこの地域まで南下してきているのです。

 そしてまた7世紀には集落数が増えることから、645年の大化改新を経て律令国家が発展していく過程で、またこの地域に西から人びとが移住してきた可能性があります。

 これに合わせてアイヌの先祖はまた北へ撤退してきます。

 こういった時代の流れは、周辺の集落跡を含めた調査をさらに進めて行って解明しようと思います。

 なお、角塚古墳ももちろんツアーでご案内しますよ。

 では、次は中半入遺跡を目指します。

 3.中半入遺跡

 角塚古墳の北北西、約2kmの位置に中半入遺跡があります。

 事前の調査では、標柱が1本立っているだけのようなので、その標柱を探しましょう。

 田んぼの中の細い道をグルグル走り回った結果・・・

 見っけ。



 ここだ。



 来ましたよ、中半入遺跡へ!







 中半入遺跡は角塚古墳と同じ頃の遺跡で、方形の区画溝で囲まれた空間が見つかっており、もしかすると角塚古墳の被葬者が住んでいた館があったのかもしれません。

 ただ、現段階ではそれは「歴史のロマン」ということにしておきましょう。

 将来はこの遺跡もさらに発掘を進めて、面白いものが出てくることに期待したいです。

 ちなみに、中半入遺跡はご覧のとおりツアー向きではないのでツアーではご案内しません。

 つぎはいよいよアテルイ関連のスポットをめぐってみますよ。

 ⇒つづきはこちら




 ⇒稲用のツアー一覧はこちらをご覧ください(一部関係ないものも表示されます)








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3 コメント

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好きな古墳です。 (りひと)
2018-04-18 01:22:08
葺石で朝顔ありいいですね!
人口の動きの考察もさすがですね。
645ってなんなんでしょうね?東北でも蘇我氏って何かあったって事でしょうか?蘇我氏がプロデュースしてたのかしら?仲介者がいなくなったのかも?鎌足や今城辺りの方じゃないかと妄想してますよ。8198、645って鎌足やられてたとしたら間の福島を考えても納得出来ちゃいますよ。

そうか蘇我氏がやられたんじゃなく鎌足がやられたのかも?談山に金堂あるか?気になってきましたよ。
Unknown (稲用)
2018-04-20 12:36:47
645年は東北においても画期でした。とくに北東北においては、645年以前の蘇我政権の時代よりも、その後の律令国家のほうが北東北への進出を積極的にしましたからね。戸籍に登録して税金を取るのも目的の一つでした。
北東北の人々にとっては、ある日突然、「税金払ってください」って言われるわけですから、いやだったと思いますよ。
うわあ納得 (りひと)
2018-04-20 19:30:39
蘇我氏のが融合していたって事かしら?
超面白いですね。でなおかつ、蘇我氏と鎌足ルーツが同じだったように思えてきましたよ。

飛鳥では入鹿の首塚と鎌足の産湯井戸にお参りしてきましたけど同じ地がとても大事に思っていたならばイコールになっている時期ありそうですよね。豊浦というとどうしても鎌足要素に感じてしょうがないんですよ、入鹿よりも蝦夷が特に。鎌足の長男も東北から何か伝えたはずだったし。

あと面白いのが藤原という言葉。鎌足が授かったという説あるんですけど藤原夫人とか藤原宮とかどうも昔から特殊な一族が絡んでいた地名なり言葉でそれにあやかってないのかなあ?と。講演会で専門家のお話を聞いてる時に思った事です。藤には現世でもとても才能ありそうな所もありますね。ただ不比等系はエセっぽいので行動の奇跡で信念なかったり技術の継承が堕落してたりするとすぐ分かるので見極めはすぐ出来ますね。

つまり蘇我のルートに藤原が婿に入り、そのうち両方ともやられて東北との窓口が645ねん辺りから不比等系になっているのでしょう。

それまでは、技術と物の評価が優れていたのでその物をちゃんと評価していた。けどその後はお金で換算での評価だけ。税金ですね。量とかで質問にはこだわらなくなってそうですよね。

土器だって刷毛目にもこだわっていた時期があるのにそのうちそれが出来なくなるって未来に時間が移動したら技術が上がるって思いがちですけどそうでない時期はとてもいい見極めになります。

大化改新って誰が得する史実なんでしょうね。
天智天皇も鎌足もどうも不幸になっていくし、蘇我氏はなくなりつつも石川氏は東北にも貢献しているでしょうし。蘇我っていつから使われるようになったんでしょうね。5067

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