日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

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【クラブツーリズム】GWの始まりは宮城・盛岡の古代史ツアー【ツアーのご報告】

2019-05-03 17:28:34 | 歴史探訪
 世の中的には10連休の方も多いらしいGWですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 こういった祝日が繋がっているのは固定給をもらっている正社員の方々にとっては嬉しい事態ですね。

 私のような自営業の場合は自分のペースで働いている方も多いので嬉しいか嬉しくないかは人によりけりです。

 反対に、非常に経済的打撃を受けるのが、時給で働いている非正規の方々の中で会社が休みなので自動的に休みにされてしまうような職種の方々でしょう。

 そういう方々にとっては、むしろこういった10連休は「飢え死にさせる気か!」と叫びたくなる可能性もあるわけです。

 ですので、全業種のアルバイトの時給の最低賃金は2000円くらいにしていただきたいと思います。

 いただきたいと思います、って誰に言っているのか分かりませんね。

 というか、誰に言ったらそうなるのかも皆目知れません。

 さて、こういった「10連休万歳」みたいな身近な話題以外にも、歴史マニアとしては天皇の退位と上皇の誕生、新天皇の即位そして改元というものすごい歴史的瞬間に立ち会うことができたことがとても重要なわけです。

 平成から令和への変わり目、私はツアーの仕事していました。

 今回のGWの10連休のうち、私はツアーの仕事で7日稼働し、もう一つの仕事で1日稼働、休日は今日と6日の2日間です。

 というわけで、本日はまだ平成だった先月の27日(土)と28日(日)にご案内してきた宮城・岩手ツアーについて簡単にご報告させていただきます。

 まず、4月27日(土)出発のこちらのツアー。



 仙台で合流した地元の方々を含め、18名様のご参加、ありがとうございました!

 風が冷たく寒かったですが、天気はおおむね良くて気持ちよく歩いていただくことができたのではないでしょうか。

 私は案内役なので基本的には写真を撮る暇はなく、ツアーによっては撮った写真は昼飯の写真だけということもありますが、今回はタイミングよく撮れた写真をお見せしながら簡単にツアーの内容をご報告します。

*     *     *


 このツアーの1日目は、仙台駅まで新幹線で行き、そこからバスに乗ってめぐります。

 1日目は昼飯が付かないので、お客様には各自食べ物を用意していただいて、バスの移動時間に食べていただくようになっています。

 仙台駅を出発し、遠見塚古墳、郡山遺跡、そして雷神山古墳とめぐり、午後は多賀城とその周辺を歩くため、多賀城廃寺跡でバスを降りて、散策しながら東北歴史博物館までやってきました。

 ここでは毎回私が館内をご案内します。

 展示は旧石器から新しい時代まで順番に並んでいるオーソドックスな展示で、博物館の名前の通り東北地方各地の代表的な遺跡・遺物の説明や展示があります。
 
 古墳時代の東北で見つかった北海道系の土器は必見ですね。



 ただ、展示の数が貧弱・・・

 展示スペースの都合もあると思いますが、もう少し多くサンプルを並べて欲しいですし、北海道系の土器が東北にあることの歴史的な意味については説明していないので、これではこの土器の面白さが伝わってきませんね。

 音声ガイドの機械を無料で貸し出しているので、詳しく知りたい方はそれを借りましょうということでしょう。

 宮城県栗原市の伊治城跡から出土した4世紀の北大式(ほくだいしき)土器。



 日本の場合、一般的には縄文時代の次には弥生時代が来ると思われていますが、北海道には弥生時代が到来することがなく、本州以西が弥生時代や古墳時代だったころの北海道は続縄文時代と呼ばれます。

 続縄文時代にも様々な土器型式があり、続縄文時代の最終段階に登場したのが北大式土器で、実年代としては5世紀から7世紀の頃です(上の展示の説明では4世紀となっているのは研究者によって見解が違うためでしょうか)。

 北大式土器は北海道大学の構内から出土した土器が標識となりネーミングされました。

 5世紀から7世紀というと、本州以西では古墳時代の後半なわけですが、その時代に北海道にいた「続縄文人」と呼ばれる人びとはアイヌの先祖にあたると考えられます。

 その人々が北東北に南下したため北東北で北大式土器が発見されるわけですが、面白いことにその時代の彼らはそれまで伝統的だった竪穴住居を構築していないのです。

 おそらく、テントのような簡易的な建物に住んで遊動的な生活をしていたと考えられ、定住化した人びとが再び遊動化してしまった可能性があります。

 いわゆる「発展史観」とは相容れられない状況ですが、「発展史観」はある種の幻想にすぎません。

 なお、北東北に残るアイヌ語地名は、その時期に続縄文人によって付けられた地名も含まれています。

 つぎに名取市の清水遺跡出土の後北C2式土器。



 北大式土器よりも前に、後北C1、C2、D式土器というのが作られており、この土器は4世紀のものとされています。

 さきほどの北大式土器は栗原市から見つかったものですが、こちらは名取市ということで、続縄文人(アイヌ)が南下した地域としては太平側ではほとんど南限だと考えられます。

 4世紀、サハリンを本拠地としたオホーツク人が北海道への南下を進め、それに押されるような形で北海道の続縄文人が北東北へ南下してきて、東北地方の古墳文化人(陳腐な言い回しでいうところのヤマト民族)と接触します。

 北海道の続縄文人の北東北進出は、オホーツク人による圧迫もあったかもしれませんが、続縄文時代人が古墳時代人との交易を目論んで自主的に南下したと考える研究者もいます。

 さきほどの北大式土器が見つかった場所は宮城県栗原市ですが、その時代である5世紀にはこの後訪れる角塚古墳が築造されており、角塚古墳のある奥州市は栗原市よりもずっと北にあります。

 角塚古墳の造営勢力は古墳文化人ですので、5世紀という時代は、宮城県北部から岩手県南部にかけて、古墳文化人と続縄文人(アイヌ)が混在して暮らしていたことが分かりますが、6世紀のうちには続縄文人は北海道へ帰っていきますので、もしその時期が6世紀の中でも後半であるとしたら、中央ではちょうど蘇我氏が権力を握っていた時代に当たります。

 私は、蘇我氏は関東の諸勢力と提携して北東北への進出を目論んでいたと考えているので、6世紀末から7世紀前半における蘇我氏による積極的な北方進出によって続縄文人の多くは北海道へ帰って行ったのではないかと考えています。

 ※参考までに、『新北海道の古代2 続縄文・オホーツク文化』(野村崇・宇田川洋/編)から後北C1、C2、D式土器を転載します



 つづいて、福島県会津若松市の会津大塚山古墳から出土した割竹形(わりたけがた)木棺の模型があります。



 割竹形木棺というのは人間の身長の何倍もの長さの木(高野槙だったりします)を半分に割って、その中を刳り抜いて棺にしたもので、古墳時代前期ではもっとも格式の高い棺です。

 この模型を見ると、会津の王がヤマトの王と同じような作法で葬られていたことが分かるのです。

 古墳自体は4世紀末に築造された墳丘長114mの前方後円墳ですので、4世紀末の時点でヤマトの影響は会津まで及んでいたことが分かりますし、同じ時期には午前中に訪れた遠見塚古墳や雷神山古墳が築造されており、太平洋側の勢力でも積極的にヤマトに協力する勢力が出てきたことが分かります。

 しかも、遠見塚古墳の主体部には割竹形木棺が安置されていたと考えられています。

 さて、この博物館のメインは多賀城跡の展示なので、それを含めて見学した後は、多賀城跡へ向かいましょう。

 館前遺跡から多賀城跡の南門跡へ向かい、日本三古碑の一つ多賀城碑を見て政庁跡まで北上。

 多賀城は南北朝時代の始めに奥州小幕府が置かれた場所で、その関係で後村上天皇や北畠親房・顕家父子を祀った多賀城神社があります。

 それに詣で、古代の鹽竈街道とだいたい重なる道を歩いて東門跡へ行き、城域の北東角の崖を見下ろし、アラハバキ神社を詣で、陸奥総社宮の駐車場でバスに乗ったは17時半。

 前回よりも30分遅いのは、往路の新幹線が前回よりも遅かったからです。

 こういう時期なの切符を取るのが難しいというのはよく分かるのですが、旅行のスタートはなるべく早い時間がいいですね。

 探訪の終了時間が遅くなると自動的に夕飯も遅くなりますから、こういうこともクレームの原因になるわけです。

 というわけで、夕飯は今回も一関にある「蔵元レストラン 世嬉の一(せきのいち)」です。



 私はこのお店がお気に入りなのです。

 何でお気に入りなのかは、ツアーに来ていただいた方は理解していただけるかと思います。

 美味しい食事をいただきながら歴史の話も大いに盛り上がりました。

*     *     *


 明けて2日目。

 本日は岩手県内をめぐります。

 最初は奥州市の角塚古墳。



 5世紀半ばに築造された墳丘長45mほどの前方後円墳で、前方後円墳としては本州最北端にあります。

 分布の濃度からいったら前方後円墳の北限は宮城県の大崎平野の江合川流域なのですが、そこから65㎞も北に離れたこの場所に一基だけポツンとあるのです。

 私的には、奥州市から南の一関市などの北上川支流の段丘の上にまだ見つかっていない前方後円墳が眠っているんじゃないかなあなんて思っているので、将来、時間があれば前方後円墳探しに出かけてみようと考えています。

 角塚古墳は後円部が2段築成で前方部は1段、後円部の上段には葺石が葺かれていたのですが、現在でも葺石は散見できますね。



 角塚古墳を見学した後は、奥州市胆沢郷土資料館で、角塚古墳出土の遺物を実際に目で見ていただきます。

 今回は奥州市教育委員会から学芸員の方が来てくださり大変ありがたいです。

 本当は2倍くらいの時間は確保したいのですが、行程の都合であまり時間を確保できずにもっとお話しが聴きたかったのですが残念でした。

 ちなみに、古墳が大好きな私ですが、今は縄文土器にも夢中です。

 ※当日は時間の都合で古墳中心の解説となり縄文土器について説明する時間がなかったので、ここで奥州市内の遺跡から出土した土器を簡単に紹介しておきます。

 まずは縄文早期の土器。



 若柳の大清水上遺跡から出土した深鉢で、この土器の説明には「早期」とありますが、大清水上遺跡自体は縄文時代前期後半(大木5式)がメインの遺跡で国史跡に指定されています。

 縄文早期の土器の形の傾向として底が尖がることが挙げられますが、これもやや尖底の傾向があるため大木5式より古いのでしょうが、早期の土器となると大木式ではなくなると思います。

 次に、南都田の浅野遺跡から出土した脚付鉢形土器で、縄文時代中期のものです。



 縄文土器でもっともポピュラーな器種は深鉢と呼ばれるものですが、この土器の面白いのは鉢の下半分がかなり細くなっていることです。

 ネーミングした方はその部分を「脚」と判断したのでしょうが、関東の縄文土器をたくさん見ている私の個人的な感想としては、「脚」と呼ぶには微妙な感じがしないでもありません。

 つづいて、若柳の宮沢原C遺跡(宮沢原遺跡群)から出土した「人面深鉢土器」で、その名の通り、人面が造られています。



 この土器が造られた縄文時代後期は世相的にも呪術がさらに活性化されてきた時代なので、その時代に土器に人面が付いていることに興味深いです。

 なお、宮沢原C遺跡は、宮沢原遺跡群を構成しており、遺跡群全体で見ると、縄文時代中期全般(大木7a~10式)にわたる住居跡が多数検出されています。

 胆沢郷土資料館は小さな資料館ですが、こういう小ぢんまりとした資料館もいいですね。

 では、つづいてアテルイと紀古佐美が戦った巣伏古戦場跡へ向かいましょう。

 田んぼアートを見るための櫓の上に登ります。

 天気はバッチリですが、櫓の上は冷たい風に晒され寒い!

 奥羽山脈方面。



 北側。



 目の前に北上川が流れていますね。

 南側。



 今見ている方面が合戦の中心地だったはずです。

 寒さのため、櫓の上には長居できません。

 降りましょう。

 午前の最後は胆沢城跡です。

 まずは奥州市埋蔵文化財調査センターの展示を見学します。

 それにしても今日はものすごい人出!

 こんなことを言ったら失礼ですが、ここにこれだけのお客さんが来ているのは今まで見たことがありません。

 歴史マニアというよりかは観光客の方が多いと思いますが、こうやって展示や映像を見ていただいて、興味をもってくださる方が少しでも増えたら嬉しいですね。

 建物2階のバルコニーに出て遺跡の方向を望見します。

 ここに来るまでの間、バスから外を見ていて、遥か北の方に雪をかぶった岩手山のような山容が見えたのですが、まさか奥州市からは見えないだろうなあと思っていたところ、やはり岩手山でした。



 早池峰山も見えます。



 館長さん直々のご案内で館内を見学した後は遺跡へ行きます。

 ここは来るたびに整備が進んでいて楽しいですね。





 いつものように北へ向かって歩き、鎮守府八幡でバスに拾っていただきました。

 さて、昼飯は北上展勝地のレストハウスです。

 昨年はスムーズに入ることができたのですが、今日はかなり道路が渋滞しています。

 このままではお昼を食べる時間がかなり遅くなりそうです。

 あと1㎞くらいの場所まで来て、お客様からの意見もあって展勝地まで歩くことに決めました。

 こういうとき、クラツーのお客様はとても協力的なのでありがたいです。

 某インバウンドの方々の中には「絶対にバスから降りたくない」といって添乗員さんや他のお客様を困らせる方もおられるようで、そういうときに一番大変な思いをするのは添乗員さんです。

 たまたま、展勝地までの道は北上川沿いで、好天も手伝って非常にきれいな景色にお客様は逆に「歩いて良かった」と言ってくださいました。

 北上川と和賀川の合流点。



 国見山から見おろすともっと素敵な景色ですが、私の好きなスポットの一つで、これをお客様にじっくり見ていただいたことは良かったなと思います。

 というわけで、意外とすんなりと展勝地で昼飯にありつくことができました(ドライバーさんだけは休憩時間がずれてしまい申し訳ありませんでした)。

 この展勝地でのランチは私のリクエストです。





 普段食べられない山菜類などが食べられて嬉しい。

 そしてデザートがお餅というのがこれまた岩手らしくて良いです。



 お餅も美味しい。

 北上川の景色を盛んに褒めてくださるお客様もいらっしゃいますが、事実、周りは市街地化が進んでいるとはいえ、まだまだ人工物の少ない風景ですし、北東北独特の空気感というか、そういったものの漂っている北上川の眺めはとても美しいです。

 では、午後の探訪。

 最初に徳丹城跡へ来ましたが、こちらもお祭りが開催中で賑やかです。

 そして最後は志波城跡。



 今日は岩手山が綺麗に見える!



 この辺りには数え切れないほど多く来ていますが、岩手山が綺麗に見られることは意外と少ないので今日はラッキーでした。

 17時過ぎに盛岡駅に到着。

 新幹線の乗車時間まで少し時間があるので盛岡冷麺が食べられる!



 今回は4名のお客様と一緒に冷麺を食べましたが、皆様喜んでくださり良かったです。

 盛岡冷麺ファンをもっと増やしましょう!

 東北の歴史は一般的にはあまり知られていないようですが、今回のように実際に現地を訪れていただき、東北のことが好きになっていただけたらいいなと思います。


エミシ・エゾからアイヌへ (歴史文化ライブラリー)
児島 恭子
吉川弘文館







 

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2 コメント

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Unknown (りひと)
2019-05-04 10:39:55
栗原と名取気になる地です。
割竹木棺好きでしたけど模型はとてもありがいですね。当時の東北がやっていたことと日本の中心でも行われていた事が同じって同じ民族絡んでいるし、信仰も同じだったはず。とすれば〜?って思いますね。順番も。

あとそう蘇我は北へ移動の意欲あったはずでまたそれに適合できない方はやはり北の北海道へ押し出されるでしょう。ただ自然の地形の好みは同じようにあったと思いますね。けど融合出来なかってのがやっぱり信仰の違いだとも思います。

アルテイと紀古佐美さんが戦ったんですね。とすると紀古佐美の子孫がアルテイ現世で助ければいいんですよね。歴史的に掘り出してあげるとかすれば良いはず。結局どちらも現在歴史の中でほぼ見えなくなってますので。

あと人面の土器も関西の博物館であると聞いた事ありますけど東北にあるんですね。物を生み出す時のパワーって表現の仕方が顔ならばとっても理解しやすいですね。

この時期ツツジやその他色々な植物によりあっちゃこっちゃに気が行ってしまうのですけど、それよりも東北なら時期を問わずハマれそうです。

改元で何か新しくなった錯覚起こっていますけど、歴史の中ではそう改元起こる時は相当怖い時期なんですよね。文化風習がなんか一緒に葬り去られる事も多いです。なので明るい面は一般の方にお任せして明るい未来を夢見てもらい、反面の怖い面は歴史の中で同じような事が起こらないように注意していきましょう。

自然や天体での事み等の分岐点ですと、明治より前は旧暦で今日が3/30みたいです。なので植物や栽培や文化等の分岐はもうすぐ立夏のようですよ。
人間が作った分岐点や境界よりも自然や地形の統計から古の方が肌に刻んで感じていた分岐点や境界に意味を感じて生きる方が人間にはいい気がします。

年号ってのも気持ちは嬉しいですけど、何か変わったか?といったらまだ変わらず表面上だけのようにも感じますので天皇の行事としてはやはり秋、そこまでに発掘すべき物を発掘して新しい元号で今までの反省を活かして日本も変わってくるといいですね。

少なくても日本の歴史はその時の権力者が作っているようなので権力者の下の下々も歴史が秋以降いっぱい発掘されていくといいですね。県や境界で分断しないで各点を俯瞰で見れる方が必要です。それを色で示してみたら移動もはっきり分かってくるんではないかな?
太平洋側が特に化けそうにも思いますよ、東北を繋ぐ為にもね。
稲用さんご活躍応援しております。楽しみですね〜!
Unknown (稲用)
2019-05-04 19:42:49
ここ2年くらい、仕事で日本各地に行くようになり、各地の歴史関連の方々と話す機会が多いです。

今までも多少やっているのですが、各地の歴史関係者は忙しくてなかなか他の地域へ行けず、情報も入ってこないので、各地の歴史関係者が興味を持っている情報が他の地域にあった場合、それを伝えるなどしてお役に立ちたいなと考えています。

大げさなことかもしれませんが、私自身が媒体になって各地の歴史関係者が結びつくことができたら幸せだと思います。

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