日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会(旧東国を歩く会) ~日本各地の古代・中世史探訪~

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東京都昭島市の歴史3連発!昭島の歴史も面白いよ

2017-01-03 12:02:30 | 歴史探訪
 あっという間に2016年が過ぎ去り、気が付けばすでに2017年1月3日になっていました。

 皆さん、明けましておめでとうございます。

 さて早速ですが、お知らせが2点あります。

 まず一つ目として、「東国を歩く会」の「第8回 歩く日」を1月8日(日)に開催します。

 京王線高幡不動駅に9時集合の予定です。

 歩く場所は、高幡不動をスタートに、その裏山の高幡城に登り、ついで百草城、聖蹟桜ヶ丘駅近くの小野神社、そして関戸城などを予定しています。

 山城をいくつか歩きますが、そんなにハードな山城ではないのでハイキング程度の気分でご参加いただけばOKです。

 そして「懇親会」は、たかお食堂です!

 通常フロアにてやりますよ。

 参加者は直前まで募集しますので、気になった方は私かヤマセミさんまで何らかの手段を講じてご連絡ください。

 背後から近づいて耳元でそっと囁いていただいても結構ですし、夢枕に立っていただいても構いません。

 詳細は後日またご連絡します。

 もちろん、懇親会のみの参加も大歓迎です!

 これを機にたかお食堂に来てみたい方はどうぞご参加ください。

*          *          *


 今年のお掃除も残すところ3日となった12月27日(火)、現場間の移動途中に、昭島市大神に残る五日市鉄道(五鉄)の形跡を見てみました。

 新奥多摩街道は今の会社に入ってから3年以上、しょっちゅう走っており、以前から線路の終端が道路端にポツンと展示してあることは知っていました。

 しかし車を停めて確認する行為に及ぶことは今までなく、ようやくそれを実行してしまったのです。

 こちらが問題の物体。



 でも、説明板などは一つもありません。



 ポイント切り替え機の方は、「株式会社服部製作所」と書いてあります。



 この新奥多摩街道から分岐する道は「五鉄通り」って呼ぶんですね。





 反対方向を見ます。



 新奥多摩街道を横切って西の方向に道路が伸びていますが(画面中央やや右から奥へ向かっている細い道)、五鉄の線路跡ですね。

 その先は多摩川の砂利運搬のために河原へ向けて分岐した方の線路跡がそのまま道路になっているようです。

 なお、五日市鉄道は、立川とあきる野・日の出町方面を結ぶために1922年に設立され、25年に一部開業した鉄道会社で、大東亜戦争中の1940年に南武鉄道(現・JR南武線)と合併して消滅しました。

 しかしそれにしても、スペース的には余裕があるのですから、説明板の一つくらいは設置した方が良いと思うのは私だけではないでしょう。

 つづいて、もう少し立川方面に走り、墓地の隅っこにあるこちらのお堂を訪ねました。



 この古ぼけたお堂が実はこの辺りの歴史を知る上では重要なお堂なのです。



 というか、重要というより、ロマンを秘めているんですよ。

 このお堂については歴史はこちらを!



 まあ、お読みいただければそれで終わりなのですが、一応、郷土史研究家としての側面も持つ掃除のおっさんが少し補足します。

 現在、大神3丁目にある観音寺は大上山薬王院と号する天台宗のお寺で、高月の円通寺の末ですが、ここの墓地はその観音寺の墓地です。

 観音寺は元々は東勝寺と称し、この場所にあったらしいのですが、永禄12年(1569)に武田信玄が小田原城遠征の途中、滝山城を攻める際に兵火にかかって焼失してしまいました。

 その後、上の説明板にも書かれている通り、尼僧がこの場所に東勝庵という庵を結び、慶長8年(1603)には徳川家康の庇護を受け、観音寺として現在の観音寺の場所に再興しました。

 一方、東勝庵もこの地蔵堂としてその形跡を留めているというわけです。

 東勝寺の創建年代に関しては、『昭島市史』によると、東勝庵の境内から文明年間(1469~86)などの板碑が発見されているそうなのでその時代までは遡れそうです。

 また、『新編武蔵風土記稿』によれば、この近辺に「浄土」という小名があり、そこにはかつて浄土寺という天台宗のお寺があったと伝わっており、その近辺からは貞治元年(1362)や永和4年(1378)などの板碑が数十基発見されていることから、南北朝時代末にはこの近辺には人が多く住んでいたのかもしれません。

 すぐ東側の宮沢の阿弥陀寺も南北朝時代の創建と伝わっています(当初の寺地はもう少し東側です)。

 ところで、なぜ私がこの地蔵堂に惹かれるのかというと、以下に述べる歴史背景があるからです。

 おそらく現代の人はこの土地が戦略上の要地であることは想像つかないと思いますが、戦国時代、小田原から北上した道は、現在の八王子市街地に入り、大横町の大義寺南西の交差点を直進し、暁橋を渡って宇津木の龍光寺の近くを通り、そこから「平の渡し」で多摩川を渡っていました。

 このルートを八王子以北では「古川越道」と呼び、その名の通り、多摩川を渡った後は一路川越へ向かっていたのですが、八王子から平の渡しを渡り段丘に上がった先がちょうどこの場所になります。



 (↑クリックすると別ウィンドウで拡大表示されます。)

 昭島市内に入った古川越道は、この東勝寺跡地で右(東)に折れ、阿弥陀寺の横を通って北上して行ったようです(一方で、東勝寺跡地を西に行くルートもあったと思います)。

 ですので、東勝寺というのは、幹線道路のT字路の部分に当たる戦略上非常に重要な場所に建てられたお寺で、お寺というのは場合によっては軍事用の砦になることもあるので、この場所に立つと戦国時代へとイメージが飛躍するわけです。

 ちなみに、上述した古川越道は龍光寺より北は現在の都道162号線となっているのですが、面白いことに多摩川には橋が架かっておらず道が分断されているのにもかかわらず、渡った先も都道162号線として繋がっているのです。

 でも、上の明治の地形図だと多摩川の上に道が描かれていますね。

 おそらく、昔は普段は歩いて渡ることができたのでしょう。

 あと、昭島市の歴史を紹介したついでにもう一点オマケ。

 こちらは11月14日に訪れたお客さんの家の近くにあった御地蔵さんです。





 こちらは「新」ではなく普通の奥多摩街道沿いにあるのですが、面白いのはここから道が90度曲がっていることです。



 (↑クリックすると別ウィンドウで拡大表示されます。)

 明治の地形図を見て思うに、この屈曲は地形には制約されていないので、完全に意図的に作ったものと思われます。

 その時代についてはまだきちんと調べていないので分かりませんが、上の説明板にあるように、拝島宿を形成した際に町の西側のゲート部分としてこの屈曲を故意に作ったのではないでしょうか。

 昭島の歴史について詳しい方がおられましたら、ぜひご教示くださいませ。

 あ、もっと続きを書きたいのですが、ちょっとこの辺で一旦アップします。
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2 コメント

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拝島で生まれ育った者です。 (大葦原四郎将平)
2017-12-04 14:36:22
昨日、愛犬の柴犬に引っ張られて大神公園の帰りに駒形神社と観音寺に寄って見て何も歴史が書いてなかったので検索してたらここへお邪魔しました。歴史には詳しくないですが啓明の対の地蔵さんが旧16号の拝島大師の入り口にあります。拝島の由来にもなった拝島大師がこの辺では一番有名ですね。近くに時々ダスキンさんの車が夜とまってます。
昭島も面白い (稲用)
2017-12-07 17:42:55
昭島の歴史も面白いですよね。南北朝時代創建の寺院もあるし古墳もあるし、そしてクジラもいましたね。

ダスキンの車がもし違反駐車でしたらこれは問題ですねえ。

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