日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

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【上毛野の誕生】群馬県太田市の太田天神山古墳の歴史的意義および被葬者像は?

2019-08-12 23:59:04 | 歴史コラム:古代
 先週は火曜日(6日)と土曜日(10日)がクラツーの講座で、月・水・木・金がお掃除の仕事という感じで、お掃除の仕事の比率が高い一週間でした。

 火曜日は18名様、土曜日は29名様のご参加をいただき、暑い中来ていただき感謝いたしております。

 そして、昨日の日曜日は雷電號に友人を乗せドライヴに行き、久しぶりに休日らしい休日を楽しみました。





 午後2時半に最大の目的を果たすことができたので、次なる目的へ向かいます。

 たまたま道の駅があったのでランチ。



 普段であれば空腹だとかなり機嫌が悪くなるのですが、今日は楽しいので大丈夫。

 ようやくご飯だ。



 あとは予備知識がないまま適当に雷電號を巡航させます。









 時間ギリギリ、第2目的地に到着。

 ずっと姿を現さなかった富士山が、最後の最後少し姿を見せてくれましたよ。



 職業柄、どうしても完全な趣味のドライヴはできないのですが、自分としては極力仕事の要素を排して楽しんだつもりです。

 たまにはこういう休日の過ごし方もいいですね。

 というわけで、本当は今日は朝から群馬方面に次のツアーの下見に行こうと思っていたのですが、珍しく昨晩遅く帰宅したため、今朝は寝坊して4時半に起きてしまいました。

 そのため今日は外出を諦め、「オフィス32℃」で仕事をしていたのですが、考察したことを少しだけお話しします。

*     *     *


 現在の行政区画である東京都とか埼玉県とか、あるいは千葉県とか、そういう区画をそのまま古代に持って行って古代史を考える人はいないと思います。

 便宜上「千葉県の古墳時代は」なんて話すことはありますが、古代には明治国家が造った「千葉県」などという地理的な区画はありませんよね。

 それと同じで、最近は武蔵国とか上野国といった令制国の領域についても古墳時代を研究する際には取っ払うことにしています。

 それよりか、国造の領域を考えた方がより古墳時代の実情に近いですし、純粋に河川の流域で見るのが良いと思います。

 そう考えると、古墳時代の北関東には大雑把に以下の流域勢力が存在しました。



 河川の流路も現在と古代では違うということを念頭に考えなければなりません。

 例えば、利根川と渡良瀬川は古代においては合流しておらず、それぞれ別の流れで東京湾に注いでいました。

 思川は渡良瀬川の支流ですが、それぞれの源流が遠く流域面積が広いので別流域として考えました。

 また、鬼怒川は東京湾に注いでおらず、香取海に注いでいました。

 さらに那珂川は那須地方から山を越えて茨城県方面へ向かい太平洋に注いでいますが、上流域と下流域では別勢力と考えました。

 ただし、これらの大河川には支流がありますので、支流域にそれぞれ小勢力が存在していましたが、いまはそこまで考えません。

 それでは、このような勢力図で見た場合、毛野とはいったいどのような地域なのでしょうか。

 一般的には、毛野が上と下に分割されて上毛野と下毛野となり、それぞれが令制国の上野国と下野国になったといわれています。

 つまり元々は一つで、のちに二つとなりそれが安定するという考えです。

 しかし私は毛野という地域は大きく3つに分かれるのではないかと考えました。

 東は思川流域で、ここは下毛野の領域。

 鬼怒川の「きぬ」という発音が「けの」の語源という説もありますが、もしかすると「きぬ」あるいは「けの」というのは栃木県から群馬県にかけての広域な呼び名だったかもしれません。

 それに関しては即断できませんが、問題は上毛野地域が2つの大きな流域に分けられることです。

 利根川流域と渡良瀬川流域です。

 群馬県は古墳大国で、13,000基ほどの古墳が確認されていますが、両流域の間に当たる伊勢崎市東側から太田市西側の地域は、異様に古墳分布の濃度が低いのです。

 つまりその地域は勢力の空白地帯、緩衝地帯のような様相に見えるわけです。

 ですから、利根川流域と渡良瀬川流域は元々は「上毛野」と一くくりにできる地域ではないと考えるのです。

 ところが、5世紀になり、太田市に東日本最大の前方後円墳である太田天神山古墳が築造されます。



 私は仕事で太田天神山古墳にしょっちゅう行っていることもあり、あの210mもある超大型古墳はいったい何だろう、と常々考えています。

 大きさもそうですが、立地の意味も考えてきたところ、太田天神山古墳は渡良瀬川と利根川のちょうど真ん中あたりに位置していることに気づきました。

 群馬の古墳の編年を見ても、太田天神山古墳が築造されたころは、毛野地域で大型古墳がほとんど築造されず、太田天神山古墳の被葬者に権力が集中したことが読み取れます。

 ただしこれは、もう一世代もあとになると、また上毛野各地に大型古墳が並び立つ様相になるわけですが、太田天神山古墳の築造が一つの画期になっていると考えます。

 おそらく、古墳時代前期には異文化地域同士として認識されていた渡良瀬川と利根川の勢力が、太田天神山古墳の築造をもって一時的に統合を果たしたのではないでしょうか。

 つまり、「上毛野」の誕生です。

 ところで、いわゆる「倭の五王」というのがいましたが、私は438年に南宋に遣使した倭王珍を反正天皇に比定しています。

 珍は南宋の皇帝から将軍の位をもらい、さらに倭の各地にいる13名の豪族(地域王)に将軍の位の徐正を求め許可されています。

 このとき太田天神山古墳の被葬者も将軍になったのではないでしょうか。

 5世紀前半においては太田天神山古墳の被葬者の力は地域王のトップ13に余裕で入るでしょう。

 古墳の築造時期もちょうど合います。

 太田天神山古墳とその被葬者については、今のところは上述のように考えます。

 この考えについては、クラツーでやっている座学の方で詳しく説明しようと思いますし、また太田天神山古墳のツアーもまたやる予定ですので、現地でも話そうかと思います。

 
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