日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

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【歴史を歩こう協会 第4回歩く日 その2】舘氷川神社・宝幢寺・東明寺【埼玉県志木市】

2019-06-10 15:13:54 | 歴史探訪
 幕府を移転してから半年近くになりますが、いまだに政所は物に溢れ返るカオス状態のままです。

 そもそも、スペースに比してあまりにも書籍が多すぎるので、どうにもならないような絶望的な状況なのですが、そんななか、気が向くとたまに整理整頓をしています。

 先日は紛失していたと思っていたヴィデオテープが発掘されました。

 若い頃やっていた「HUVO(ヒューヴォ)」というバンドの最後のライヴ映像で、1998年の夏ですから、いまから21年も前で当時は26歳でした。

 再生してみると、音が変・・・

 テープのせいか、デッキのせいか、何なのか分からないのですが、音が安定せずにノイズも入るので、とても気持ちよく聴けるものではありません。

 でも懐かしいのでPCに取り込みました。

 「忘れない三叉路」、「碧空」、「立秋」の3曲連続で約13分の映像です。

 編成はシンセサイザーの私とベースのNoBu、それにギターの太田寛で、3曲ともインスト曲(歌無し)。

 当時はプログラマーの仕事をしながら副業で作曲の仕事を請け負い、かつ趣味でこういったバンドもやっていたわけですが、よくもまあ、あれだけ活動できたと感心してしまいますし、思い出しただけで気持ちが悪くなります。



 あ、でも活動量だったら今も負けてませんよ!

 さて、話は変わって、昨日(6月9日)の「歩く日」の続きをお届けします。

*     *     *


 ⇒前回の記事はこちら

 思いのほか柏の城を詳しく知ることができ、つづいて名前が気になる舘氷川神社へ向かいます。

 「舘」と付いているので、柏の城に関係する神社でしょうか。

 神社の境内には裏から入らせていただきます。

 立派な拝殿。



 この説明板には名字について面白いことが書かれていますよ。



 ここに書かれている通り、江戸時代の多くの一般人も名字があったのですが、意外とこれを知らない人が多いような気がします。

 そもそも、今から1300年も前に戸籍を整備した際に、支配者層ではない国民全員に名字の元となった姓は付けられているのです。

 そのとき姓を持てなかったのはおそらく奴隷身分の方々だけです。

 安斉さんが稲荷神社のとなりにコノハナサクヤヒメの碑を見つけました。



 氷川神社自体は縁結びの神様ではありませんが、コノハナサクヤヒメがいらっしゃれば良縁に恵まれるかもしれませんね。

 境内の裏から入ってしまったので、出るときは表からちゃんと出ます。



 お、道沿いに説明板がある。

 図像の板碑があるんですね。



 板碑はだいたい文字だけで(梵字も含む)、仏様が描かれているのは珍しいですよ。

 神仏混交の話も書いてあって面白い。

 由緒も詳しく書いてあります。



 なるほど、柏の城の城域には含まれませんが、城門と街道との間に位置していたわけですね。

 つづいて法幢寺(ほうどうじ)へ向かいますが、舘氷川神社の前の道は古そうな雰囲気ですよ。

 そんなことを安斉さんと話しながら歩いていると、目の前に巨大な馬頭観音が現れました。



 でか!

 皆さん、こんな大きな馬頭観音は見たことが無いと驚きます。

 普通に写真を撮るだけでは大きさが伝わらないので、ここはS源寺さんの出番ですね。

 はい、お願いします!



 普段、S源寺さんには板碑の大きさを示すために並んでいただくのですが、今回はついに馬頭観音への進出も果たしました。

 私たちの会では、度量衡の単位として、ものの長さに関してはS源寺さんが基準となっています。



 高さが2.04メートルで市内一とありますが、私の記憶ではこれくらい大きいものはほとんど思い浮かびません。

 引又宿から大和田へ向かう街道沿いと書いてありますが、舘氷川神社からつづくこの道はやはり古い道だったんですね。

 では、宝幢寺へ向かいます。



 長屋門みたいなものが見えてきましたよ。



 門に時計が掲げられているのを板垣さんが気づきました。

 近所の方々は、もし現在時刻が知りたくなったらここへ来れば良いわけですね。

 しかし考えてみれば、本来は目に見えないはずの「時」が目に見える時計という機械は、画期的な装置ですよね。

 もしタイムマシンができて古代の王に会いに行くときは、時計をお土産に持っていくと喜ばれそうです。

 境内に入ると、おや、カッパさんのお出迎えです。



 水が豊富なところにはカッパの伝承が多いようですね。

 私の祖母も昔、「川で馬を洗っていたらカッパに馬の脚を引っ張られた」というような話をしていました。

 実際には事故で馬が溺れたことをそう表現したのかもしれませんが、祖母の話だと、戦後すぐのころにサルが異常に繁殖して、サルがやったことをカッパの仕業と言ったというようなことも言っていました。

 河童の横は文殊堂。



 おー、高い木ですね。



 S源寺さんが「ヒマラヤ杉」と教えてくれました。

 私は植物は全然知らないのですが、高い木は好きですね。

 近世の遺物もありますよ。





 そういえば、16年前に友人とこの辺をめぐった際も、友人は尾張藩の話をしていましたなあ。

 本堂。



 摩尼?



 マニ教じゃないですよ。

 宝幢寺は地王山地蔵院と号する新義真言宗智山派の寺院です。

 元々は真義真言宗でも醍醐三宝院を本山としていましたが、明治27年から京都智積院を本山として現在に至ります。

 創建年代は不詳で、志木市によると、元々は現在の敷島神社付近にあったものが、のちにこの場所へ移転して来たらしく、この場所は柏の城の城主大石信濃守の子息四郎の屋敷跡といわれることから、柏の城が廃城となった近世以降にこの地に建立または移転された可能性が高いです。



 昔やっていた「奥州城壁癖」というホームページの記事を読み返すと、当時私は宝幢寺の寺域も柏の城の城域に含められるかもしれないと考察していますが、今日歩いてみた感覚では、城のメインの部分は、今日これまで読んできた説明板の通りで、舘氷川神社や宝幢寺は城外になると思いました。

 ただ、宝幢寺の場所が四郎の屋敷跡と伝わっていることから、宝幢寺のある台地も敵の攻撃に耐えられるような造りになっていた可能性が高いです。

 ※あとで気づいたのですが、さきほどの馬頭観音のところから境内へ向かうと山門をくぐって境内に入れました。

 つづいて、東へ向かい、県道113号線を渡ります。

 県道113号線が走っているこの場所は浅い谷となっており、四郎屋敷を防御するとしたら、この浅い谷を利用すと良さそうです。

 県道を渡ると上り坂になっており、段丘を一段上がると左手に墓地が現れ、小さなお堂が見えました。



 ここが東明寺です。

 本堂。



 石仏が並んでいます。







 さて、次は今回探訪予定ではなかった場所へ行ってみます。

 先日、オーメンさんがこの地へ来て、志木市立郷土資料館の方と話したところ、富士塚を非常にお勧めされたということで、ここからさほど遠い場所にはないので、寄ってみようかと思います。

 ⇒この続きはこちら

 ⇒前回の記事はこちら

埼玉県の歴史散歩
埼玉県高等学校社会科教育研究会歴史部会
山川出版社





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【歴史を歩こう協会 第4回歩く日 その1】関東管領上杉氏宿老・大石氏惣領家の本拠地・柏の城【埼玉県志木市】

2019-06-10 12:48:28 | 歴史探訪
 関東もついに梅雨に突入しましたね。

 梅雨の季節は外を歩くのには適していないと思われがちですが、決してそうとは言い切れません。

 雨がしとしと降る中を歩くのも、歩く場所によっては風情がありますし、もし曇りで収まれば、気温も高くなく意外と快適に歩けるものです。

 昨日(6月9日)の「歴史を歩こう協会」の「歩く日」は、最後の最後に雨に降られましたが、運よく曇り模様のもと快適に歩くことができました。

 参加者は、

 ・安斉さん
 ・池上さん
 ・板垣さん
 ・稲用
 ・S源寺さん
 ・オーメンさん
 ・大森さん
 ・金子さん
 ・小林さん

 の9名。

 皆さん、ご参加ありがとうございました!

 本日はそのときの様子を簡単にご報告します。

*     *     *


 本日の集合駅は、東武東上線の柳瀬川駅です。

 埼玉県の志木市と富士見市を歩きますよ。

 一応、こんな感じに候補地をプロットしてみましたが、すべて探訪することは無理であることは最初から分かっています。



 最低限、

 ・柏の城跡
 ・志木市立郷土資料館
 ・水子貝塚
 ・難波田城跡

 は探訪するつもりです。

 ところでこの周辺は16年前に友人と歩いていますが、ただその時は友人が車に乗せて連れて行ってくれたので細やかには見ていません。

 今回はじっくりと歩きますので、いつものように予想していない面白いものが見つかる事でしょう。

 9時ジャスト、全員集合しました。

 それでは、柳瀬川駅の東口からスタートしますよ。

 まずは柳瀬川の土手に上がります。



 柳瀬川は新河岸川の支流ですが、今日は新河岸川についても詳しく見ていきたいと思っています。

 少し土手を歩いたあと、住宅地の中を進んでいくと、前方の地形が少し高くなっているのが分かりました。



 台地の上に柏の城があったわけです。

 16年前の記憶を頼りに、長勝院というお寺があった場所へやってきました。

 あー、ここだ。





 柏の城についての説明板もありますよ。



 柏の城の城主はここに書いてある通り大石氏です。

 関東の戦国時代は1455年に「古河公方足利成氏 vs 関東管領山内上杉房顕」という構図で始まったのですが(「享徳の乱」)、山内上杉氏の宿老として活躍したのが大石氏です。

 大石氏についての研究は、昔から「木曾大石系図」という家系図を元に進められてきたのですが、近年ではその家系図の信ぴょう性の低さに気づいた何名かの研究者がきちんとした史料(古文書など)を元に実証的な研究を続けてきました。

 そういった成果は、黒田基樹氏の編著により『論集 戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』(岩田書院・2010年)としてまとめられており、それによると大石氏は主として「遠江守家」、「石見守家」、「駿河守家」の3つの系統があり、その中で「遠江守家」が本家筋にあたります。



 ※『論集 戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』(黒田基樹/編)より転載

 その遠江守家の定重のときに本城だったのがここ柏の城です。

 遠江守家は、戦国時代後半に北条氏照が養子に入ったことにより後北条氏に取り込まれました。

 石見守家と駿河守家は、文明8年(1476)に勃発した「長尾景春の乱」の際には景春に与同したのですが、乱後は山内上杉家に帰参しました。

 その折に下総国葛西城に拠った石見守家は、天文7年(1538)に北条氏綱によって葛西城を落とされた後は岩槻城の岩付太田氏を頼ったようで、永禄4年(1561)に史料上に現れた以降の動向は不明となります(上の系図で3代続いている岩見守の最後)。

 もう一方の駿河守家は、黒田氏の推測によると、憲重が遠江守家の道俊の養子となり、名を綱周と改め(「綱」は北条氏綱からの偏諱)たとしています。

 なお、前回の「歩く日」で訪れたあきる野市の二宮城(二宮神社)に居していたのは石見守家の道伯ですね。

 では、志木第3小の南側道路へ移動してみましょう。

 こちらには標柱もありますね。



 さらには説明板。



 ここに書いありますが、聖護院の門跡である道興は武蔵へやってきて「大石信濃守といへる武士の館」に泊まっています。

 その館がどこなのかは長年にわたって論争がされており、決着はついていません。

 八王子市の高月城と考える人が多いのですが、黒田氏はここ柏の城としています。

 柏の城には定重が住していましたが、次の道俊の代になると、本城を八王子市の椚田城(初沢城)へ移します。

 下の図は大石氏の最盛期の支配地域を示したものですが、この図を見ればわかる通り、大石の支配範囲が南へ伸びたことによって、柏の城の位置では不都合だということもあったのでしょう。



 ※『論集 戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』(黒田基樹/編)より転載

 上の系図と照らし合わせると、道俊が椚田城へ拠点を移した後、道俊の弟の信濃守が柏の城を引き継ぎ、そこへ道興がやってきたということになります。

 また、上の説明板には何名かの大石家の名前が見えますが、上述の系図と合致しませんね。

 これはさきにお話しした通り、「木曾大石系図」を研究の基本史料としていた頃の名残です。

 大石氏自体が後北条氏とともに滅亡してしまった一族ですので、その歴史を調べるのはなかなか難しく、かつ関連する滝山城や高月城などの歴史も不明な点が満載ですので、大石の研究はそれら関連城郭の研究と共に、今後さらなる活発化が必要となっています。

 さきほどお話しした、黒田氏の本が本当の意味でのスタート地点ではないかと思っています。

論集戦国大名と国衆 1 武蔵大石氏
黒田 基樹
岩田書院


 さて、先日この辺りを下見してくれたオーメンさんによると、他の箇所にも説明板はあるということなので、そちらへ行って見ましょう。

 おー、この説明板は私は知らなかった。



 きちんと発掘しているんですね。

 というか、平成25年に設置したものなので16年前に見ていなくて当然ですね。

 周辺を見ていた池上さんが、不思議な建物を指摘しました。



 仰る通り、社殿ではないのに屋根が流れ造りになっていますね。

 立派な松も横にあるし・・・



 何だろうと皆で話していると、近所の方らしきご婦人が通りかかったので、この地域のことについてお尋ねしてみます。

 この地域の発掘では銅印が見つかり、近くの郷土資料館にあるはずだということです。

 ただ、そこは平日しかオープンしていないそうで、そもそも私はそんな施設があることを知りませんでした。

 残念、今日は日曜日!

 皆さん、歯噛みして悔しがります。

 詳しいことが分からないので何とも言えませんが、銅印ということで、もしかすると古代か?

 いや、中世だとすると大石氏が使っていた物か?

 興味ありますねえ。

 ※あとで志木市のHPを見てみたところ、銅印としては県内唯一の出土例で、9世紀の終わりから10世紀の始め頃の住居跡から出土した「冨」と刻された個人所有の私印ですが、持ち主は一般人ではなく役人か有力者と考えられるそうです。

 さきほどの長勝院については、私は明治の廃仏毀釈で廃寺になったのかなと思っていたのですが、昭和の時代までお寺はあったそうです。

 ただその方の記憶では、最後の方は廃屋になっていて、子供たちの遊び場になっていたそうです。

 また、現在の志木第3小の校舎は昔は志木中学校の校舎として使われており、なんと、3階建ての校舎をそのまま100mほど移動させてしまったそうです。

 最近では弘前城の天守閣を引いた話がありましたが、あんなでかい校舎も引けるんですね。

 いろいろと熱心に教えてくだり、とてもありがたい。

 こういう偶然出会った地元の方の話をじっくり聴きながら歩くのもこの会の特徴です。

 私たちはあまり時間は気にしません。

 いやー、楽しかった。

 その方とお別れし、もう一度大堀があった方へ向かいます。

 説明板の図をもう一度見てみます。



 ※このあと訪れた郷土資料館にも柏の城についてのパネル展示がありましたのでご紹介します。





 歩いていると、皆さんが怪しい地形に着目しました。



 さすが皆さん、よくこれに気づきましたね!

 先ほどの説明板に堀跡が見つかったと書いてありましたが、これがその形跡である可能性が高いです。

 ※あとで郷土資料館の方に聴いてみたところ、推測通り堀の名残だということでした。

 こちらには細長い敷地の小さな公園がありますが、「城ふれあい公園」という名前がいいですね。



 「〇×城」とかではなく、単に「城」というのが面白いですが、そういえば先ほどの方がこの辺りの地域の呼び名として「城(しろ)」と言っていたので、「城」というのはこの辺の小字なのでしょう。

 発掘調査が行われたあたりは老人ホームの敷地内となっており、さすがに敷地内に入るのは憚られるので遠くから観察してみますが、駐車場の横に少しだけ杜が残っており、社のようなものも見えます。



 木はかなり立派ですね。

 開発せずにここだけわざと残してあるような風情ですが、もしわざと残しているのであれば理由を知りたいですね。

 ※帰宅後、城の図面などと突き合わせてみると、上の写真の杜は土塁跡ではないかと思いました。

 16年前に来た時もこの辺を歩いていますが、今日はより詳しく見ることができて楽しいです。

 ただ、歩いてみて疑問点もいろいろと浮かんできたので、時間があれば調べてみたいと思います。

 ⇒この続きはこちら


論集戦国大名と国衆 1 武蔵大石氏
黒田 基樹
岩田書院





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