日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会(旧東国を歩く会) ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

九戸城の戦い:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第40回

2013-08-10 14:00:47 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 『浅野家文書』の天正19年(1591)9月14日付けの浅野長吉から長束正家に宛てた書状に拠ると、九戸城は9月2日より攻められ、九戸政実や櫛引清長らが妻子をともなって降伏してきたと書かれています。戦いの詳細は記されておらず、何日間にわたってどのような戦いが行われたかは不明です。しかし江戸時代に書かれた記録類には、九戸城で激戦が繰り広げられたと伝わっています。江戸時代に書かれた記録類を総合すると、九戸城の戦いは以下のようになります。

 まず、九戸城に籠城した面々は、

 ・九戸政実
 ・同実親(政実弟)
 ・櫛引清長
 ・同清政(清政弟)
 ・七戸家国
 ・久慈政則(政実弟)
 ・同主水
 ・円子右馬丞元綱
 ・大里修理
 ・大湯四郎左衛門
 ・美濃部貞継
 ・坂本仲満
 ・同新吉
 ・畠山師泰
 ・島守(森)安芸
 ・同主膳
 ・姉帯与次郎
 ・中野造酒正(政)行(政実弟)
 ・花崎弥十郎
 ・上野右衛門
 ・工藤右馬助業綱
 ・同新十郎
 ・晴山治部
 ・高家(屋)将監
 ・円子金十郎
 ・蛇口弥助
 ・晴山玄蕃
 ・長門伝左衛門
 ・同正兵衛
 ・堀野彦兵衛
 ・江刺家一熈斉
 ・野田左衛門
 ・伊保内美濃正(政)常(政実弟)
 ・山根彦右衛門
 ・宮野弥三郎
 ・二戸一休斉
 ・軽米兵右衛門
 ・山崎作十郎
 ・奥寺右馬丞
 ・夏井久膳
 ・大野弥五郎
 ・同彦太郎
 ・三日市越前
 ・三上斉太郎
 ・車門小左衛門
 ・諏訪新右衛門
 ・小神弥七郎
 ・二子喜右衛門
 ・種市伝左衛門
 ・大森左馬
 ・泉山兵部
 ・鳥谷部孫助
 ・小田代民部
 ・南館玄蕃
 ・横浜左衛門尉
 ・野辺地久兵衛
 ・天間館源左衛門
 ・和田覚左衛門
 ・大浦主殿助
 ・新館兵部
 ・花松左近
 ・有戸喜右衛門
 ・戸伊良監物
 ・簗田甚兵衛

 ら5千名でした。このうち何名かは、既述した通り老ヶ館や浪打峠の防衛に回り戻ってきており、搦め手側の防衛に回った者もいます。

 上方勢が九戸城の前に布陣すると七戸家国が手勢を率いて突撃しました。それを見た櫛引清政も家国を援護します。家国と清政は散々敵を打ち破り城に引き揚げました。

 上方勢に遅れて信直も四戸から九戸城を目指しました。信直に率いられた面々は、嫡子利直を始めとし、

 ・北彦八郎
 ・東中務
 ・桜庭安房
 ・大光寺彦三郎
 ・大湯彦六
 ・毛馬内権助
 ・同三左衛門
 ・又重弥五郎
 ・武田平内
 ・田中彦左衛門
 ・上野九右衛門
 ・下田治太夫
 ・伊藤左兵衛
 ・内堀伊豆
 ・松井勘解由
 ・武田兵部
 ・志田小太郎
 ・奥瀬与七郎
 ・苫米地弥七郎
 ・内野喜右衛門
 ・坂牛軍内
 ・小笠原弥惣
 ・一条治平
 ・佐藤彦太郎
 ・福士伝左衛門
 ・石川勝弥
 ・桐田伝吉
 ・吉田門助
 ・加藤利右衛門
 ・近内孫兵衛
 ・梅内左近
 ・相内弥十郎
 ・原半三郎
 ・中山孫二郎
 ・原内三十郎
 ・遠山助四郎
 ・上田伊左衛門
 ・高橋与市郎
 ・宮守主水
 ・泉川清左衛門
 ・中山喜右衛門
 ・沢里十兵衛
 ・石井弥右衛門
 ・同与五郎
 ・板垣金三郎
 ・赤石伝兵衛
 ・堀内治部
 ・唐式部
 ・豊川又左衛門
 ・福田喜四郎
 ・苅屋孫九郎
 ・大釜彦二郎
 ・川口与十郎
 ・田代治兵衛
 ・野辺地庄内
 ・荒田五郎次郎
 ・桐田小太郎
 ・勝又藤八
 ・熊谷藤五郎
 ・鳥嶋弥三郎
 ・桐内弥左衛門
 ・吉岡半左衛門
 ・舟越与兵衛
 ・佐々木弥兵衛
 ・中村門助
 ・小向才二郎
 ・太田小十郎
 ・目時左馬
 ・工藤権太夫
 ・岡部弥平太
 ・清水又三郎
 ・浅石治左衛門
 ・熊井善九郎
 ・才越喜左衛門
 ・山梨治部兵衛
 ・有戸宇兵衛
 ・小繋善九郎
 ・米田新助
 ・相米治兵衛

 です。

 信直勢が長瀬に到着すると、九戸側からは政実弟の伊保内正常が攻撃してきました。舌戦が展開されたあと翌日本格的な合戦が始まり、戦いは混戦となり、正常は佐藤彦五郎に組付かれ、彦五郎の弟伊五郎が兄を助け、ついに正常は捕縛されてしまい九戸勢は城に向かって退散しました。

 そして信直勢も九戸城に向かって布陣を完了し、上方勢や出羽勢とともに攻城を開始します。


 しかし、またしても七戸家国率いる突撃隊の攻撃に浮足立ち、くわえて籠城側が水濠にもみ殻を浮かべて平地と見せかけた場所に突入して多くを討たれるなど、上方勢は九戸城を攻めあぐねました。

 九戸城が堅固なことに頭を痛めた上方勢は、井伊直政が防備が甘くなっていた城の東北の水濠を破壊するために攻撃をしかけました。城内からは円子右馬丞元綱が100人程の兵を率いて撃退と補修に向かいましたが、直政勢に鉄砲で攻撃され、補修することができませんでした。

 しかしそれでもまだ九戸城は落ちません。

 城中からは、

 ・上野左衛門助
 ・堀野刑部
 ・佐藤外記
 ・円子金吾
 ・斉藤又兵衛
 ・長内庄兵衛
 ・同伝左衛門
 ・同弥兵衛
 ・横浜左兵衛
 ・種市伝右衛門
 ・岩崎作十郎
 ・夏井弥蔵

 といった手練の者どもが突撃し、さらに上方勢を混乱させました。

 厭戦気分の漂ってきた上方勢は、城兵を挑発するために傘を一本高く差し出し、「これに弾を当ててみよ」という態度を示しました。それに対し、工藤右馬助業綱は鉄砲の名人だったので、見事に命中させて敵味方の絶賛を浴びます。『九戸陣の研究』によると、工藤成綱が高屋将監ともに伊達家から救援に入ったと言いますが、この成綱は業綱のことと考えられます。業綱はその腕を買われて、鉄砲隊の隊長として九戸城に入ったのでしょう。このように九戸政実の背後には伊達政宗の影が見え隠れしています。

 そして城攻めが長引くことに強い懸念を抱いた上方勢はついに卑怯な策略に出ました。

 政実の帰依していた長興寺(岩手県九戸村)の薩天和尚を騙して使者として城内に送り込み、政実たちを降伏させようとしたのです。

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん







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姉帯城の戦い:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第39回

2013-07-31 12:06:34 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 沼宮内(岩手県岩手町)まで進軍した上方軍はさらに北を目指し、中山峠を越えていよいよ九戸政実の領内である糠部郡(ぬかのぶぐん)に侵入しました。そして政実麾下の姉帯城(岩手県一戸町)を攻撃し、ここに上方軍と九戸勢との戦いの火ぶたが切って落とされました。


姉帯城遠景

 天正19年(1591)9月14日付けの浅野長吉から徳川家康に宛てた書状によれば、8月30日に上方勢は「あねたい城」(姉帯城)と「弥そり城」(根反館。同じく一戸町)を1日で落城させています。書状の上からは、いともあっさりと落城したような印象を受けますが、地元ではかなりの激戦が繰り広げられたと伝わっています。

 姉帯城主姉帯氏の系譜には二つの説があります。

 一つ目は九戸の一族とするもので、江戸時代に書かれた軍記物である『九戸軍談記』では、姉帯城主姉帯兼興の弟兼信が戦陣で名乗りを上げた時に、「ゆふき惣大将小笠原美濃守正安が子孫左近将監正実が一類」と名乗っています。また、『南部藩参考諸家系図』によれば、兼興・兼信という兄弟がいて、その父兼実は九戸連康の子としています。しかしこれに関しては後述する兼興・兼信の年齢からすると世代が合わず、兼実は、実は政実の弟ではないだろうかと私は考えています(以下、九戸一族とした場合の仮説系図)。

九戸信仲 ―+― 政実
      |
      |  姉帯
      +― 兼実 ―+― 兼興
             |
             |
             +― 兼信

 『九戸軍談記』が述べる戦いの様子では、まず初日に姉帯城に向かって進軍中の蒲生勢の曽根内匠が兼信の伏兵に攻撃され痛撃をくらいます。そして翌日の姉帯城攻めでは、内匠は昨日の借りを返そうとしましたが、ここでも討ち負けます。城のすぐ近くでは、今度は兼興が伏兵となりましたが、そちらは蒲生勢に見破られ、兼興は城に引き返し、上方軍の総攻撃が始まりました。


姉帯城東郭東側空堀

 姉帯勢は、兼興の妻小瀧の前も戦いに加わり、兼信は城外に突出して上方勢を掻き乱し戻ってきます。しかし多勢に無勢で、ついに兼興夫妻と兼信は、城内に乱入した上方勢と散々切りあった挙句、辞世の句を残し切腹しました。兼興25歳、小瀧の前21歳、兼信23歳でした。兼興の従弟(実際は叔父か)の松山平太左衛門道長も後を追いました。


姉帯城近くの県道にある看板

 姉帯氏の系譜に関しての二つ目の説は、南部氏の一族とするもので、『奥南旧指録』には以下のとおり書かれています。

南部与次郎助政 ―+― 左衛門尉信時
         |
         |
         +― (数代不明) ―+― 大学兼貞
                    |
                    |
                    +― 某 ―+― 与次郎兼政
                          |
                          |
                          +― 五郎兼信

 助政は、通説では南部家第16代となっています。

 『奥南旧指録』によると、姉帯氏の内部でも南部信直につくか九戸政実につくか揉めており、当主の兼政は政実派、弟の兼信と伯父の兼貞は信直派でした。しかし意見の一致がなる前に上方軍が近づき、兼政が九戸城に籠ったので、兼信も伯父の兼貞も潔く討ち死にして志を後日に顕さんとして、戦うことに決めます。同志には姉帯城近隣の樋口与五右衛門・月館左京・岩館彦兵衛・野田久兵衛・小治屋(小鳥屋)摂津・吉田門助・高館播州・中里弾正・一戸毘沙門堂の別当西法院らが加わりました。

 群がる敵の大軍を相手にして、兼信と兼貞そして同志の諸将は奮闘しましたが、衆寡敵せず討たれてしまいました。

 以上が姉帯氏の系譜と姉帯城の戦いの様子で、さらに姉帯城の北方にある根曽利館(根反館)の根曽利弥左衛門も姉帯城を救援するために出陣しましたが、敵の大軍と出会い驚いて館に戻りました。根反館も攻められて落城します。

 なお、姉帯城は東西の二郭なる堅固な山城で、私は二度探訪したことがあるのですが、最初に義父に連れて行ってもらったときは、東郭と西郭の間の空堀のところでクマに遭遇しました。幸いクマの方から逃げて行って私は助かりましたが、そのときは全身から血が引ける思いをしました。

 さて、姉帯城と根反館を落として気勢を上げた上方勢はさらに北上します。

 政実が九戸城防衛の一の木戸と定めた老ヶ館は、上方勢が別将を背面の山に登らせ鉄砲を撃ち攻撃したので、防衛側は館を保つことができずに九戸城に撤退しました。

 また、政実が二の木戸と定めた浪打峠は、上方勢に加わっていた中野修理(政実の弟)が迂回路を献策したことにより、肩すかしをくらい、こちらも九戸城に撤退せざるを得なくなりました。

 そしていよいよ、上方勢は政実の本城・九戸城に襲い掛かります。

 なお、以前九戸村の古舘保男さんに聞いたところでは、糠部に侵入した上方勢は、支隊を瀬月内川方面に向かわせ、現在の九戸村域の諸館を攻略させたはずだということでした。

 確かに軍隊が行軍するときは支隊を別ルートから進軍させるのはセオリーですので、その説は当たっていると思います。

 次回の記事はこちらです。

艦隊これくしょん

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九戸勢の防衛体制:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第38回

2013-07-28 13:51:23 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 南部信直は4月13日に嫡男利直を救援の使いとして上方に向かわせ、5月28日に上洛した利直は翌日秀吉に謁見しました。しかし、豊臣政権による九戸討伐のことは、4月23日の時点ですでに決まっていました。利直はきっと安堵して、即刻その旨を父に書き送ったに違いありません。

 その後豊臣政権は出陣の体制を整え、総大将は秀吉の甥の秀次が務め、第一陣として浅野長吉が責任者となり、蒲生氏郷、堀尾吉晴、それに徳川家からは井伊直政が加わり、総勢5万5千が北上し、途中奪回されていた二子城の和賀氏と鳥谷ヶ崎城の稗貫氏を蹴散らし、沼宮内を経由して九戸城を目指し糠部に侵攻してきました。いわゆる奥州の再仕置です。

 上方軍迫るの報を受けた九戸政実は、老ヶ館(岩手県一戸町西法寺)を一の木戸、浪打峠を二の木戸として防衛することにし、北側の搦め手側にも防衛部隊を発しました。

 老ヶ館には、館主岩館慶長の加勢として、

 ・一戸太郎左衛門
 ・小森弥左衛門
 ・西法寺左衛門助
 ・太田与五左衛門
 ・花崎弥三郎

 に500騎を率いさせ向かわせました。

 また浪打峠には、政実弟の中野造酒丞政行に円子右馬丞元綱を添えて、

 ・月館右京
 ・岩館彦兵衛
 ・中里清左衛門
 ・野田靱負
 ・吉田新兵衛
 ・高館播磨
 ・坂元九右衛門
 ・盛田安芸
 ・花崎弥十郎
 ・上野十郎右衛門
 ・高屋将監
 ・晴山治部
 ・円子金吾
 ・蛇口弥助
 ・長内弥左衛門
 ・堀野彦兵衛
 ・工藤新十郎
 ・江刺家才藤
 ・野田権右衛門
 ・坂元新吉
 ・山根彦内
 ・宮野弥三郎
 ・大野弥五郎
 ・三日市越中
 ・小間坂小左衛門
 ・車門小左衛門
 ・小袖弥七郎
 ・二子喜右衛門
 ・大野彦太郎
 ・種市伝右衛門
 ・大守左馬助
 ・長内庄兵衛
 ・鳥谷孫作
 ・田子民部
 ・諏訪新右衛門
 ・南館甚吉
 ・横浜左兵衛
 ・名久井勘兵衛
 ・野辺地久兵衛
 ・和田覚右衛門
 ・天間館源左衛門
 ・新井館兵部
 ・花松左近
 ・有戸喜右衛門
 ・葛巻多中
 ・戸来喜右衛門
 ・筑田甚兵衛

 を、兵2000とともに向かわせました。

 さらに搦め手側の防衛部隊は、政実の弟伊保内美濃守政常と久慈備前直治を大将として、

 ・大沢帯刀
 ・堀野刑部
 ・佐藤外記
 ・上野民部
 ・中村七左衛門
 ・西野勘助
 ・古館小市郎
 ・仲平九郎
 ・坂元式部
 ・池田五郎左衛門
 ・夏井久膳
 ・同弥八郎
 ・戸田監物
 ・山内伊三郎
 ・軽米宇左衛門
 ・鳥谷孫左衛門
 ・名久井尾助
 ・野瀬又左衛門
 ・中村私藤次
 ・新谷孫左衛門
 ・椛木平七
 ・桐嶋筑後
 ・同左近
 ・福田権兵衛
 ・安倍千代松
 ・上斗米民部
 ・橘伝内
 ・小泉又四郎
 ・野田市助
 ・種市孫右衛門
 ・母袋子孫平次
 ・岩泉又三郎
 ・桐内山三郎
 ・新井里平馬

 ら、1000名という陣容です。

 対する信直は3月の政実側の一斉攻撃の後、一戸月館に陣し、中野修理に命じて志和・岩手郡の味方を募りました。しかし、政実が浪打に兵を出すと、吉田兵部と福田掃部が政実側につき、それにより信直は四戸に陣を移します。

 浄法寺氏や阿曽沼氏も政実に味方する構えを見せましたが、上方軍が下向すると、志和・岩手の諸氏や阿曽沼氏は信直の味方につきます。そのほか出羽の小野寺義通や秋田実季、仁賀保勝利、津軽の津軽為信、蝦夷ヶ島の松前志摩守も九戸城攻撃のために出陣しました。

 次回の記事はこちらです。

艦隊これくしょん

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葛巻・階上の戦い:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第37回

2013-07-07 11:34:55 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 『南部藩参考諸家系図』によると、葛巻城(岩手県葛巻町)の葛巻政祐の妻は九戸政実の女でした。当然、政実は政祐とその父信祐を誘いましたが、政祐は妻を離縁し、南部信直側につきました。政実はそれを怒り、葛巻城を攻撃します。

 葛巻には、八幡館(現在の八幡神社の場所)、鏡沢館(現在の宝積寺境内一体)、それと葛巻館(鏡沢館の東側)がありその総称として葛幕城と呼んでいます。


八幡館中腹から北東側の眺望

 葛巻城の戦いは、政祐の弟直茂がその驍勇をもって活躍し、九戸勢を撤退させることができました。

 葛巻勢は久慈勢と戦ったという言い伝えもあり、葛巻町から久慈市(旧山形村)に少し入ったところに合戦場という地名があり、そこが葛巻勢と久慈勢が戦った場所と伝わっています。

合戦場一里塚

 久慈勢は、道仏館(青森県階上町道仏)を攻撃したとも伝わっており、道仏館は久慈備前政則(九戸政実弟)と櫛引清長らに攻められたといいます。この戦いも館主赤松民部吉時の奮戦により九戸勢は撃退されました。赤松民部吉時は『階上町史』によると政実の妹の婿です。

 道仏館は現在館神社が祀られている場所が唯一の郭ですが、全体を二重の空堀で囲んでおり、北側の部分は四重にもなっています。南側は道仏川が流れており水堀の役目を果たしています。道仏館は単郭式であっても険阻な地形をうまく利用して作られた堅固な館です。


道仏館空堀

 ※葛巻氏に関しては以下の書籍に系図が掲載されています。

南部藩参考諸家系図 第2巻
星川正甫,前沢隆重
国書刊行会


 次回の記事はこちらです。

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八戸政栄の攻勢:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第36回

2013-04-21 17:34:14 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 九戸勢の攻勢に対して、信直は再仕置軍の到着まで身動きが取れなくなりましたが、信直にとって比較的動きが自由な味方がいました。根城の八戸政栄です。

 八戸政栄は、島守館の館主島守安芸が九戸城に入城すると、その留守を狙って島守館を攻撃しました。島守氏は四戸氏の一族で、安芸は四戸太郎左衛門と称しました。

 八戸氏の本当の狙いは櫛引城でしたが、まずは支城の島守館を落としてから本城の櫛引城を攻める手筈でした。

 『九戸陣の研究』によると、天正19年5月5日(7日説もあり)早朝、八戸勢は隊を二つに分けて侵攻を開始します。

 本隊は、直栄を総大将に、沢田・中館・三上を先鋒にし、侍大将は中館勝之助でした。

 根城で隊伍を整えると、笹子・十文字・頃巻沢と進軍します。支隊は、筆頭家老の新田小十郎政盛を大将として新田を出発、是川を通り島守を目指しました。

 本隊が上頃巻沢に着いた頃、支隊は江花沢に到着します。大将直栄は、政盛率いる支隊を島守館攻撃に向かわせ、自身は高山にて戦況を見守ることにしました(『九戸陣の研究』には書かれていませんが、この時、頃巻沢館は本隊によって落城させられたのかもしれません)。

 島守館は青森県八戸市南郷区(旧南郷村)島守にあり、東南側を湿地で護られ、残りの一部は三重の空堀で防御された大きく分けると二郭からなる館です。

 政盛勢は、島守館の大手門を攻撃。留守の部隊は混乱し、長く支えることはできず、政盛勢が大手を破り本郭に突入すると、守備部隊は自ら城に火をかけ搦手から逃走しました。脱出した守備部隊は、虚空蔵山の北側の中の沢、馬場に出てから、羽黒、椛木方面に逃走したといいます。そして、彼らの多くは、現在の南部町(旧福地村)の麦沢に落ち着きました。現在でも麦沢の人の大半は島守姓を名乗っています。

 『南部諸城の研究』によると、島守館攻撃に先立って、八戸勢と新田勢は高山を落としました。高山は島守館の北西にあるほぼ独立した山で、現在は高山神社があります。

 島守を落とし士気を高めた八戸勢は、続けさまに櫛引城を落城させました。

 なお既述した通り、この戦いより以前に、島守館は種市勢の来攻を受け、矢戦をしたことがあったといいます。

 それに引き続き、5月7日、政栄は法師岡館(青森県南部町(旧福地村)法師岡)も攻めました。法師岡館は馬淵側の右岸に位置し、北側は川に面して断崖を呈し、東側は急崖で谷底は一部水田で、かつては水堀であったと推定されます。西および南側には三重の堀がめぐらされており、館南端から西南約800メートルの谷頭から水を引き入れて、水堀にしていたといわれています。

 法師岡館が攻められたとき、館主小笠原兵部(一説には櫛引清長の弟清政)は九戸城に籠城中でした。八戸政栄は、中野館の中野氏に協力を仰ぎ攻めたて、法師岡館を落としたといいますが、中野館は九戸側勢力のはずなので、この点は不審です。

 『南部諸城の研究』によると、その時館主不在ながらも、城主の奥方を中心として団結し、3日間の攻撃に耐えたといいます。

 攻城の愚を悟った攻撃側は、館主の兵部が討死したという流言を流し、防衛側の戦意を挫き、落城に至らせたといいます。最終的に力で攻めきったのか、籠城側が降伏したのかは不明ですが、近所に城主夫人供養の石碑と伝わるものがあるので、力で落城させられ、奥方は自害した模様です。


法師岡館(青森県南部町(旧福地村)法師岡)


 次回の記事はこちらです。

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小説・七戸家国の戦い(四):戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:番外編

2013-04-02 22:03:59 | 戦国南部興亡記
 翌天正十九年(一五九一)。家国が雪深い七戸城で春の訪れを待ち侘びていると、敬愛する九戸実親の兄政実からの使者がやって来た。使者の口上によると、来る三月十三日に、三戸側の拠点を一斉に攻撃するので、家国にも又重城を攻撃して欲しいとの依頼であった。

 去年の負け戦以来、家中の目は何となく冷たい。皆が陰口を叩いている。いや、実際には陰口を言う者は少ないのだが、家国は皆が悪口を囁いていると思っていた。現在のこの追い詰められた状況を打破するには、ここで大きな勝ちを収めなければならない。家国は去年の雪辱を晴らすため、又重城攻撃の依頼を受諾した。

 約束の日、家国は二千の軍勢を率いて出陣した。その一方で、弟慶高の挙動が何とも気になったので、留守には叔父の慶道を置いた。叔父が残ってくれていれば問題はないだろう。

 家国は馬に揺られているうちに、弟のことを忘れていた。そして、生き死にを賭けた戦場に向かうときに味わえる、痺れるような緊張感を楽しんでいた。

「この感じだ!」

 家国は馬上で何度も叫んだ。



 七戸勢出陣を知った奥入瀬川流域の諸将は、各々自分の館に立て籠もった。

 七戸勢が奥入瀬川を渡ってさらに南下し、目標は又重城だという情報が流れると、奥入瀬川流域の諸将は一安心した。しかし、ひとりだけそうは行かない武将がいた。切田館主の切田兵庫である。七戸勢が切田館の前面に現れたのである。

「そういえば一昨年の合戦で、伝法寺館を取り損なったのは気田兵庫のせいだったな」

 家国は側近の野辺地久兵衛に声をかけた。

「御意にござる」

「又重城を攻める前に、兵庫めを懲らしめてやるとするか」

「それは面白うござりますなあ」

 二千の兵に攻められた切田館はひとたまりもなく陥落した。いくら兵庫が勇猛であっても百五十の兵で守りきることは難しい。兵庫は、どこへともなく行方を晦ました。

 切田館はあっという間に陥落したが、それでも又重城にとってはいい時間稼ぎになった。その間に、五戸川流域の木村伊勢秀茂・戸来治部保秀・中市吉左衛門常之・石沢左近などが手勢を率いて又重城に入ることができた。浅水の南家からの援軍も迎え入れられた。南家は去年の戦で下田の直政を歩行不能にされて怒り心頭に発している。又重城に籠る兵は千を超えた。

 家国は五戸川を渡河し、背後から又重城を襲った。又重城は北側の五戸川方面の守りは堅いが、南側の台地続きの部分は弱いはずだ。

 先鋒の横浜慶房の部隊が城に取り掛かった。しかし城兵の凄まじい反撃にあい、慶房は手勢を引かせた。

 続いて、主郭南門を攻撃しに行った天間館源左衛門の軍勢もすぐに勢いが失せた。その西側で堀を越えようとしている野辺地久兵衛も立ち往生している。

「どうも今日の我が勢には粘りがない…」

 いくら攻めても勝てる気がしてこない。家国はどうしていいか解らなくなった。今日は軍師に比すべき叔父の慶道も側にはいない。ついに、家国は虎の子と称する旗本の槍隊を突撃させた。しかし、これも効果が無かった。

 家国が逡巡していると、城門が大きく開け放たれ、複数の騎馬武者が突出してきた。

「又重弥五郎秀俊、推参!」

 七戸勢組し易しとみた城主又重秀俊が、自ら槍を振るって城外に押し出して来たのだった。

 秀俊が槍を旋回させると、手向かった足軽三人が一度に薙ぎ倒された。

 それを見た戸来保秀、次いで中市常之・木村秀茂・石沢左近も又重殿に遅れじと、城から駆け出てきた。

 七戸勢は追い立てられ、戸来まで退いた。しかし退勢を挽回することはできず、七戸城に向けて逃げ去った。

 家国が北に向かって馬を走らせていると、散り散りになっていた慶房や源左衛門などが集まってきた。皆、一様に憔悴しきっている。一団はひたすら北を目指し、ようやく七戸城の城門の前までたどり着いた。

「御屋形様のご帰還である。ご開門!」

 久兵衛が叫んだ。

 すると、城塁の上に慶高がスーッと姿を現した。

 「兄上、まだ気づいておらなんだか!七戸城は三戸の信直様に付くことに相成り申した。お命は取らぬ故、早々に立ち去りなされ!」

 それは今まで聴いたことの無い、大地を揺るがすような大きな弟の声であった。

 良く見ると、弟の横には叔父の慶道が高手小手に縛られ首をうな垂れていた。

「嗚呼、万事休す!」

 家国は天を仰ぎ見ると、ついに観念した。

 しかし、まだ命だけは永らえていることを認識すると、周りに居る諸将に諮った。

「この先、どうするべきか…」

「かくなる上は、九戸殿を頼りましょうぞ」

 久兵衛が答えた。

 慶房は、主従の関係を絶って暇乞いすることを考え、源左衛門に目配せをした。

 源左衛門は首を横に振った。そして、

「久兵衛殿に賛成でござる」

 と、静かに言った。

 慶房は舌打ちしたが、家国の余りにも惨めな境遇が、急に不憫に思えてくるとともに、今まで主の家国に対して心から協力してこなかった自分の姿に気が付き、情けない気持ちにとらわれた。

「それがしもお供つかまつる」

 慶房が充血した目をしばだたせながら言った。

 家国は、皆の顔を眺めているうちに、何かが吹っ切れたような清々しい気持ちになった。それは今まで感じたことの無い不思議な感覚だった。

 そして、家臣たちは気づいていた。今回の戦で家国が一度も怒りを発しなかったことを。

 南に向かって駒を進める主従は、いま初めての一体感を味わっていた。

(了)

艦隊これくしょん

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小説・七戸家国の戦い(三):戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:番外編

2013-03-28 19:09:37 | 戦国南部興亡記
 翌天正十八年春、雪が融けるのを待って、三戸の南部信直は七戸家国討伐の軍勢を催した。去年の合戦で自分の縄張りを荒らされたことに対する報復である。

 大将は八戸薩摩守政栄、副将に新田左馬助政盛。総勢二千の兵力で根城を進発した。五戸川を渡ると、近隣の又重弥五郎秀俊・戸来治部保秀・中市吉左衛門常之・木村伊勢秀茂が各々百から二百の手勢を率いて合流した。さらに前年激戦を繰り広げた伝法寺館に入ると、南河内守直政が手勢三百を率いて馳せ来たった。直政は南家当主盛義の叔父にあたり、今は下田を任されている。そのほか周辺の諸将を加え、総勢四千の兵力に膨れ上がった三戸勢は、奥入瀬川の手前で八戸政栄が率いる歩兵中心の三千五百の本隊と南直政の率いる騎兵からなる五百の支隊に分かれた。

 直政は下田に入部してから騎馬隊の統率に磨きをかけてきた。直政の率いる支隊は騎馬の強みを発揮し高速に移動し、本隊が奥入瀬川を渡河し隊列を整えている頃には既に洞内に到達していた。直政は先年の法師岡の合戦で討ち死にした甥たちと気性が似ている。性急に勝ちを求め突進する性質である。

 敵方の三千ほどの大軍が奥入瀬川を渡河したとの知らせを受けた七戸城では、慶高をはじめ籠城戦を主張する家臣も多かったが、家国は、天間館源左衛門や野辺地久兵衛らを率いて、すぐに出撃できる限界数の千の兵力で出陣した。

「兵は神速を尊ぶものだ。それに合戦は兵の多寡で決まるものではない!」

 そう息巻いて出撃する家国を見送った慶高は、

「合戦はまず数を集めることが肝要ですよ」

 と薄笑いを浮かべていた。



 七戸勢の物見が直政の軍勢を探知し、行軍中の家国に報告した。

「なに、数は四・五百人ほどだと。最初の報告と違うな。源左衛門はどう見る?」

「恐らく、後方に大軍が控えているかと。手出しをするのは危のうござる」

「久兵衛は?」

「後ろに大軍が居ようと居まいと関係あるまい。まずは目の前のそいつを叩き潰すだけだ!」

 久兵衛の意見に、家国は笑みを浮かべて大きく頷いた。

「そうだ!戦とはそういうものだ。まずはそいつらを蹴散らせ!」

 家国の号令の下、七戸勢は前進した。

 三戸勢の本隊と直政の隊が大きく離れてしまったことが、この時点では七戸勢に幸いした。倍の敵を受けた直政の軍勢は瞬く間に包囲されてしまった。直政は次々に襲い掛かる七戸の兵士を衝き、あるいは叩いた。そして、一心地ついた瞬間、

「うっ…」

 右足に激しい痛みを感じた。見ると太股から血が噴き出している。

 しかし、直政は武勇の誉れ高い男。足の付け根を素早く手拭で縛ると、馬の腹を股でしっかりと締め付け、再び槍を振るい始めた。

 だが、いくら剛毅な直政でも、血が無くなれば動いてはいられない。意識が朦朧となり、馬から落ちかけた。

 するとそのとき、南の方向からこちらに向かってくる一軍が視界に入った。左二巴の旗を靡かせたその一団は直政を取り囲んで激しく攻め立てている天間館源左衛門部隊の側面にぶつかった。

「河内守殿、あとは俺にまかされよ」

 直政軍包囲さるの報を受けた政栄が、又重秀俊の部隊を先行させて対処させたのである。秀俊も猛将として近隣に名が知れ渡っていた。

 又重秀俊の軍勢が合戦の輪になだれ込んで四半刻ほど経つと、八戸政栄率いる本隊が現れた。形勢は三戸側に一気に傾いた。ある瞬間を境に七戸の軍勢は家国の気合を持ってしても如何とも制御し難くなり、壊走を始めた。

(まずい、死ぬる…)

 家国は思った。そして、

(そういえば、こんな気持ちは去年も感じたことがあったな…)

 と去年の伝法寺館での負け戦を思い出して、少し自嘲したが、その直後に途轍もない怒りが込み上げてきた。そして、もうそのあとの事は憶えていなかった。




 家国は目覚めると布団の上に寝かされていることを知った。側には弟の慶高が座って、顔を覗き込んでいる。

「兄上を死なすと、寝覚めが悪いと思ったんでね…」

 慶高はそういうと、背中を丸めてスッーと滑るように消えていった。

 見回すと側には家臣たちの顔もある。

「源左衛門、これはどういうことか?」

「我が勢が総崩れとなったとき、慶高様の軍勢が現れました。七戸近辺の諸将を従え、二千の兵で以って押し出してきたとの由にござります。そして、八戸殿の本陣に使者を送ったかと思うと、八戸殿の兵は撤退して行きました。そのお陰で我々は命を救われたのでござります」

「なにっ、慶高が!くそっ…」

 家国は余りの悔しさと怒りのために暫く身悶えたかと思うと、またも深い眠りに落ちていった。

(続く)

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小説・七戸家国の戦い(二):戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:番外編

2013-03-24 19:46:34 | 戦国南部興亡記
 洞内館、羽立館と立て続けに二つの館を陥落させた七戸勢であったが、羽立館攻撃の際に受けた痛手は大きかった。しかしそれでもまだ家国は疲れた様子を見せない。

「次は伝右衛門めの本城、伝法寺館を落とすぞ」

「御屋形様、もう陽がだいぶ傾いておりまする。今日のところは城に戻りましょうぞ」

 一族の横浜慶房が家臣の意を代表して押しとどめた。

「愚か者!この程度で俺の気が済むと思うてか。諸君らにはもうひと働きしてもらう!」

 家国は怒鳴ると、興奮冷めやらぬ面持ちで、近習に引かせた馬に跨った。



 七戸勢は後藤川を渡河し、伝法寺館の東側に接近した。

 物見櫓からそれを望見していた伝右衛門らは、七戸勢のしつこさに辟易したが、目を西に転ずると、菱に井桁の旗を靡かせた一隊が近づいてくるのが見えた。味方の切田兵庫の軍勢である。しかし、そのまま館に向かってくると思ったその一隊は、あろうことか林の中に隠れてしまった。

「米田殿。そこもとの婿殿の軍勢が現れたが、どうも動きが怪しいぞ」

「兵庫め、まさか七戸に与同するのでは…?」

 米田義勝は顔面蒼白となった。

 それからすぐに七戸勢の攻撃が始まった。伝法寺館も羽立館同様、周りを湿地帯に囲まれており、非常に攻撃がしにくい。それでも、七戸勢は粘り強く攻め立てた。

 暫くして一番南側を受け持っていた野辺地久兵衛の軍勢が深田に足をとられ立ち往生した。もがけばもがくほど足が沈んでいく。ようやくにして久兵衛の馬が深田から這い上がると、不意にあたりに木霊する轟音が鳴り響いた。その瞬間、久兵衛の側近が仰け反って馬から落ちた。

「今、変な方向から鉄砲の音がしなかったか?」

 家国が慶道に質すと、慶道も不安そうな表情を浮かべた。

 そこに、慌てふためいた兵が転がり込んできた。

「南方側面より敵襲!旗は菱に井桁!」

 続いて、野辺地久兵衛が馬を駆って現れた。

「御屋形様、面目ござらぬ!我が手勢は制御不能になり申した。天間館殿も危ない」

 物見櫓から我が婿切田兵庫の凄まじい斬り込みを望見した米田義勝は小躍りした。

「流石は俺が見込んだ婿だ。伝法寺殿、兵庫に続きましょうぞ!」

 その直後、城門が開け放たれ、手勢を率いた伝法寺伝右衛門と米田義勝が一斉に七戸勢に飛び掛った。

 合戦というのは一度勢いがつくと押された側がそれを巻き返すのは難しくなる。戦いの流れは完全に伝法寺側に傾いた。

 陽が沈む頃、兵たちの生きた姿は合戦場からまったく消え去っていた。



 家国が七戸城に還ると、弟の慶高が出迎えた。

「兄上、この度は大勝おめでとうござります」

 この皮肉屋の弟は病弱であったため、家中での存在感はほとんど無い。だが、家国の戦闘的な性格を危惧している家臣や、信直に密かに意を通じている家臣も若干であったがいて、彼らは慶高のもとに静かに集まりつつあった。

「ふん、馬も満足に操れぬくせに」

 そう言い放つと家国は湯殿に向かって大股に歩いて行った。

 (続く)

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小説・七戸家国の戦い(一):戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:番外編

2013-03-20 20:55:46 | 戦国南部興亡記
 今回から「中世南部興亡記・戦国時代編-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-」の番外編として、七戸家国を主人公にした小説を4回に分けて掲載します(他の記事も挟むので毎日連続というわけではないです)。

 総字数は多分6000字くらいだと思います。

 超短編小説ですね。

 この小説は「文月深円」というHNで公開しているものです。

 宜しかったら読んでみてください。

*    *    *


 天正十七年(一五八九)、七戸城主七戸直国が三十路も半ばで病死したあと、十八歳でその跡を継いだ彦三郎家国は、父の喪が明けるとすぐに軍勢を催し、七戸城の南方にある洞内館に攻め掛かった。洞内館は一刻も経たないうちに落城した。七戸家中の者たちは、家国の雄姿を見て十代とは思えない見事な武者ぶりだと感嘆し、七戸家の未来は明るいと思った。

 家国は攻め取った館の中を歩きながら、すぐ後ろを歩いている叔父の慶道にチラッと目をやった。

「親父は信直に諱まで貰っておった」

 家国は憎々しげに言い放った。慶道は何も答えずに、ただ笑みを浮かべただけだったが、その笑みはすぐに消えた。家国は急に思い出したように怒りを露にすることがある。慶道は普段からその点が少し気になっていた。

 家国の父直国は天正元年(一五七二)に若くして家督を継ぐと、ちょうど同じ頃南部家惣領の座についた三戸城主信直に接近し、「直」の字まで授かっていた。三戸城にご機嫌を伺いに行くことも多く、家国も幼い頃から何度か三戸城に連れて行かれた。

 家国は長ずるに従い、父が傾倒する信直の器量に疑問を持つようになった。信直の弾んだ所が無い鈍重な動きは臆病の証拠だと思ったし、勿体ぶるように言葉を選んで喋るのを聞くと、頭の回転が遅い奴だと思った。それに比べると、やはり三戸城内で何度か見かけた九戸実親は、容貌猛々しく、明るく快活であった。神事の際に見せた馬と弓の腕前には心から驚嘆し憧れた。

「実親殿こそ武士の鑑である」

 家国は常々そう言っていた。そして、何かしら口実をみつけては実親に会いに行き、まとわりつくようになった。そんな家国を実親も可愛がって、よく弓や馬の相手などをしてやった。

 甥の家国に目が無い慶道は、その様子を見て直国が生存している間から密かに七戸家中を工作し、九戸派を増やすことに専念していた。だからこうして、家督を継いですぐに軍勢を動かし、三戸側の城を攻撃することができたのである。

 さて、洞内館でしばしの休息をとった七戸勢は、次の目標、伝法寺の羽立館を目指した。羽立館は周りが沼地で囲まれ、洞内館と比べると遥かに強固な館であるが、八戸方面へ抜ける奥州街道を押さえるためにはどうしても奪っておきたい。

 七戸勢は奥入瀬川を渡ると、館の東側に陣取った。合戦開始の合図である鏑矢が放たれた後、天間館源左衛門・野辺地久兵衛・横浜左衛門尉慶房らが一番乗りの功名を目指し、堀を渡り土塁に取り付いて行く。

 北郡最強と謳われた七戸勢の猛攻の前に、館主津村伝右衛門は恐怖した。それでも伝右衛門は自らを奮い立たせ、援兵の米田義勝らと協力し、必死に七戸勢を押し返した。

「伝右衛門め、中々しぶといな。かくなる上は虎の子の登場だ」

 羽立館の城兵の戦いぶりを本陣から見ていた家国は、旗本部隊の投入を決めた。家国が自ら選んだ三十名の槍の手練達である。

 旗本部隊が斬り込むと形勢は一気に動いた。伝右衛門らは西の郭に追い詰められた。

「津村殿、ここは一旦伝法寺館へ退きましょうぞ。さすれば我が婿の援軍が到着するまで持ち堪えられまする」

「おう米田殿…。悔しいが、致し方あるまい…」

 後藤川に何艘かの舟が浮かべられた。伝右衛門らはそれに飛び移ると、生い茂る葦の中を漕ぎ進み、対岸の伝法寺館へと逃れていった。

 (続く)

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九戸政実の乱!九戸政実の三館同時攻撃:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第35回

2013-03-19 23:24:11 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 和賀稗貫勢の居城奪回を知った政実も天正19年(1591)の雪解けを待って、3月13日、信直方の拠点数ヵ所を一斉に攻撃しました。

 一つ目は、櫛引清長と一戸図書光方による苫米地館の攻撃です。

 櫛引氏は馬淵川右岸に強い勢力を持っていましたが、左岸の敵対勢力を攻める際の拠点を持っていませんでした。そこで、左岸攻撃の足がかりとして、苫米地館攻略を企図したのです。櫛引氏は、これより先、北信愛の拠る剣吉館を攻撃していますが、落城には至っていません。

 『九戸陣の研究』によると、館主苫米地因幡は用心深い人物で、櫛引氏に対して常日頃から警戒しており、一日市・烏沢・法師岡・杉沢等の村落に隠密を入れ、かつ日々巡回の兵を出してその動静を報告させていたといいます。

 因幡は、夜襲当日の夕方、櫛引城に兵が集まっているという報告を受け、高橋館の高橋駿河とともに準備万端整えて、櫛引勢が来るのを待ち構えていました。

 苫米地館は、南側を馬淵川で護られ、残りの三方を湿地で囲まれている単郭の館です。



苫米地館(青森県三戸郡南部町:旧福地村)

 櫛引・一戸勢は総勢500人で出陣。午後9時頃には馬淵川を渡り、烏沢のあたりで戦闘隊形を整え、赤々と炬火を照らしながら堂々と進撃してきました。

 一方の苫米地勢は農兵合わせて200人余りでしたが、北側大手門の脇で待ち構え、不意打ちのつもりで攻めてきた櫛引・一戸勢に対し、逆に攻勢に出たので、反対に櫛引・一戸勢の方が不意を喰らってしまいました。そして、櫛引・一戸勢は、死者50~60人を残して高橋方面に逃走しました。

 『南部諸城の研究』では、その時苫米地館は辛くも落城を免れた状況で、苫米地勢が積極攻勢に出た話は後世の作り話としています。櫛引・一戸勢が退却した理由は、攻略に手間取っている間に、剣吉館の北氏や浅水城の南氏が苫米地館救援に来るのを恐れたからであるといいます。ただし、苫米地因幡の奮闘は評価しています。

 ついで九戸党の二つ目の攻撃作戦は、櫛引清長と同様九戸与党であった七戸家国の伝法寺羽立館と伝法寺館の攻撃です。

 七戸氏は八戸政光が七戸を領してからずっと七戸を治め家国に至りました。

 『南部藩参考諸家系図』によると、家国の祖父慶国が「家督の後、天正元年十月死」、父直国が「信直公に仕て諱字を賜ふ」とあるので、家国は当時まだかなり若かったと考えられます(ただし、『祐清私記』では、根拠は不明ですが九戸城で降伏したとき(天正19年)の年齢を43歳としています)。

 その若い家国は七戸から南下して、伝法寺(津村)伝右衛門の拠る伝法寺羽立館を襲いました。



伝法寺羽立館(青森県十和田市)

 伝法寺羽立館は平地上の館で4つの郭からなり、まわりを湿地帯で護られていましたが、七戸勢の猛攻により館は陥落、伝右衛門は伝法寺館に逃れました。

 伝法寺館の方も平地の館ですが、南西部が地続きであるほかは、湿地や谷で護られ、堅固な館です。伝右衛門は寡兵でしたがよく戦い、家国を撃退させました。

 そして九戸党の三つめ作戦は、晴山治部少輔・坂本雅楽頭による一戸城の攻撃です。

 一戸城は、南部一族一戸氏の居城であり、現在も国道4号線沿いにいくつかの郭跡を見ることができます。



一戸城(岩手県一戸町)

 一戸城の一戸氏は、兵部大輔政連のとき、天正9年(1581)7月18日の夜、弟の一戸信濃政包(平館館主)によって、子の出羽とともに斬り殺されて断絶してしまいました。この政連斬殺事件は、裏で政実が絡んでいると考えられ、その後一戸氏一族の図書が九戸氏傘下となっており、政連を斬った政包も九戸派として大いに働き、天正19年には、平館方面(岩手県八幡平市:旧西根町)近隣の信直派の城館を攻略し、猛威を振るいました。

 一戸城はその後、政実の陰謀とは裏腹に信直が接収しており、晴山らが攻撃した際には、北信愛の子秀愛と浅野重吉(足沢館から移っていた)が籠っており、防戦に努めました。

 晴山らは結局、一戸城を落とすことはできませんでした。合戦後、信直は東中務少輔朝政と浄法寺帯刀重安を守将としましたが、重安が政実に内応し、結局城は九戸側勢力となります。

 そしてさらにもう一つ、又重城も政実に攻撃されたという言い伝えが残っています。



又重城(青森県三戸郡五戸町:旧倉石村)

 ただ、又重城を政実自身が攻撃するのは地理的に見て難しいと思われるので、おそらく七戸家国が攻撃したと考えられます。そうすると、伝法寺館攻撃と又重城攻撃の日付は当然重ならない事になり、どちらかが3月13日で、どちらかが別の日となるでしょう。又重城も城主木村伊勢秀清(又重満五郎)の奮戦で、九戸勢を撃退しています。

 以上見てきた通り、3月13日の九戸勢の一斉攻撃の結果は失敗に終わりましたが、信直に大きな恐怖心を与えました。信直はまさに戦慄したと考えられます。信直は自力で政実に抗しきれないことを悟り、浅野長吉に取りすがり、仕置軍の再下向を願いました。

 次回の記事はこちらです。

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南部信直の反撃:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第34回

2013-02-26 19:08:49 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 九戸側の挑発に対して、信直も黙っておられず、『南部史要』によると、年が明けた天正19年(1591)正月17日、桜庭光綱とその子綱英を先鋒とし、東重政・石亀直徳・楢山義隆・石井直道・大湯昌光・奥瀬定吉・下田勝政らを率い、別働隊として嫡男利直に南康義と七戸直勝をつけて、大挙して九戸城を攻撃しました。しかし、これは幾分儀式的な雰囲気がある感じがして、信直にとっては自分に味方してくれる者がどれだけいるか試す意味での出陣であったように思われます。当然、九戸城はびくともせず、信直は力攻めをせずに、あっさりと引き揚げています。


九戸城

 なお、上記の『南部史要』に登場する名前は、『南部藩参考諸家系図』と一致しないことがあり、桜庭光綱は『南部藩参考諸家系図』の光康のことと考えられ、同じく綱英は直綱(直英)のことと考えられます。ただし、光康はこのときかなり高齢であると推測できます。それと、南康義は、『南部藩参考諸家系図』によると、前回の法師岡の合戦で述べた盛義・康政兄弟の父で、すでに家督は直義(盛義の弟)が継いでいるので、合戦には出ていないかもしれません。あるいはすでに故人であった可能性もあります。合戦に出たのは、直義ではないでしょうか。また、石亀直徳・楢山義隆・下田勝政・七戸直勝は南部一族で、楢山義隆は『南部藩参考諸家系図』の義治、下田勝政は直政のことだとも思われますが、直政は七戸家国との戦いで負傷し歩行不可能になっていたので、その子の直勝のことかもしれません。七戸直勝は南康義の弟で七戸を領しました。七戸家国とは別個の七戸における信直与党でしょう。

 次回の記事はこちらです。

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法師岡の合戦:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第33回

2013-02-19 23:18:16 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 『南氏の研究』によると、天正18年9月18日(他にも同年6月20日、同年秋、翌年2月18日、20日の説がある)の夜半、櫛引勢は南氏の浅水城を攻撃しました。合戦が天正18年9月18日だとすると、会津まで下向してきた豊臣秀吉は既に京に帰っており、稗貫郡(花巻市)まで来た浅野長吉もちょうど南に引き返す頃となります。

 南勢は櫛引勢が攻めてくることをあらかじめ察知しており、櫛引勢が浅水に近づくと、逆に櫛引勢を攻撃、櫛引勢は不意を喰らって敗走、浅水田の沢道を退却しました。

 南家第三代当主盛義は弟康政(秀氏)とともに、勝ちに乗じて櫛引勢を追撃しましたが、剣吉館の北愛一との連絡に一刻(2時間)ほど掛かってしまい、その間櫛引勢に積極的に迫ることができませんでした。そのため、櫛引勢は余裕を持って福田付近で馬淵川を渡り、法師岡(青森県南部町(旧福地村)法師岡)付近の高地で南勢を迎撃する策を練りました。

 盛義・康政兄弟は、とりあえず南勢のみで馬淵川を渡り、法師岡付近まで追ってきましたが、北愛一の兵はなかなか来ません。そうしているうちに、櫛引勢の小部隊が南勢に向かって攻撃を仕掛けるべく前進してきたので、南勢はそれに対して反撃に出ました。櫛引勢は大して戦わず敗走したので、「櫛引勢弱し」と見た南勢は勢いに乗り追撃します。すると、突然敗走したはずの櫛引勢が反転し、それと同時に、月山神社付近の森に隠れていた櫛引勢の大部隊が南勢の背後から挟撃に出てきました。

 背後から現れた櫛引勢には弟の康政があたりましたが、南勢の動揺は隠しきれず、康政は倍する櫛引勢と果敢に戦い激戦の中で討ち死にしました。

 盛義は、遠くに弟の軍勢が討ち果たされているのを知っても、如何ともなしがたく自陣での戦いに努めました。康政を屠った櫛引勢は、今度は盛義勢に襲い掛かります。

 三方向から囲まれた盛義は、康政の討死から一刻後、月山祠付近の原野で討死し、士卒の大半もこれに殉じました。

 北愛一が合戦場に到着したのは、南兄弟が討死し、櫛引勢が引き揚げたあとでした。愛一は大いに愧じ、櫛引勢を追いましたが及びませんでした。なお、『九戸陣の研究』によると、この時北愛一とともに苫米地館の苫米地因幡が救援に駆けつけたといいます。

 愛一が遅れたのは、愛一の祖父(信愛の父)致愛と、南盛義の祖父長義がかつて領地争いを起こし、それ以来両家の仲が険悪であったので、意図的にやったという説があります。しかし、とっくに両家は婚姻も結んでおり(信愛の妻は南長義の娘)、その説は信じられません。愛一は、戦下手と評価されている武将です。

 なお、討ち死にした南盛義は、既述した通り浅水南氏第三代の当主であり、当主とその弟が同時に死んだことは、南氏のみならず、南氏を頼りにしている三戸の南部信直にとっても、かなり衝撃を与えた事件であったことが想像できます。それだけに、九戸側にとって櫛引清長の功績は非常に大きいといえます。

 南氏は、盛義のあと次弟の直義が継いでます。

 この法師岡の戦いは、既述した通り発生日にはいくつかの説がありますが、いずれにせよ、豊臣政権の惣無事令に抵触することには変わりありません。櫛引氏も信直の敵方として、当時の文書にも九戸氏と並び称されているので、櫛引氏は九戸氏と合体し、反豊臣的な動きを露骨にしていたと考えられます。


法師岡の古戦場跡


 次回の記事はこちらです。

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九戸政実の決起:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第32回

2013-02-12 19:57:23 | 戦国南部興亡記
 前回の記事はこちらです。

 私は以前述べたように、九戸氏は小笠原氏の子孫であるという説を支持しますが、そうすると室町時代の九戸氏と南部氏は糠部郡を二分する別個の勢力ということになります。糠部郡はあまりにも広大であったので、ひとつの郡主にまとまることが難しく、九戸と南部はその地位をめぐって長年対立したり、ときには同盟を結ぶなどして、お隣同士で何とかやってきたと考えられます。しかし信直は(正確にはその軍師である北信愛の考案だと思われますが)、九戸氏を南部氏の分家に設定させ、糠部郡内での争いを分家が本家に反旗を翻した戦いということにして豊臣政権に申請し、糠部郡の郡主の地位を得ました。

 そもそももし九戸氏の祖が南部家初代光行の子だとしても、それから三百数十年も経っていたら、現実的にはもう他人ではないでしょうか。

 秀吉が信直の訴えを聞いたわけは、もはや九戸氏が南部氏の分家であるとか、分家が本家に謀反を起こしたとか、そういうこととは関係ないとしか思えません。

 秀吉と信直の間には、何か高度に政治的な取引があったに違いません。

 それは何か。残念ながらそれはこの記事を執筆中にはまだ突き止めるができていないので、今後の研究の課題にしたいと思いますが、九戸家は小田原に参陣していないので、南部家の分家であろうが無かろうが、改易される運命にあったことは確かです。

 さて、『八戸家伝記』によれば、天正9年(1581)7月に、政実とその弟実親が逆意を企てているとの噂が流れました。「逆意」というのも江戸時代に根付いた、九戸が南部の分家であるという考えを現しているので、事実は「逆意」ではありません。

 八戸氏は九戸氏とは血縁的にも近しい関係で、この頃は八戸家内でも九戸氏に加担する一派がいて、治義の三男入道守頓がその筆頭格でした。そのため、八戸家当主の政栄は、守頓を九戸に密通したという罪で捕らえ、田名部に送り幽閉し、翌年2月10日に殺害してしまいました。守頓の死は公には病死とされています。

 また、『源氏南部八戸家系』によれば、政実が「謀反」を企てたのは、天正18年(1590)2月であるといいますが、『八戸家伝記』には、上記の「守頓事件」の後、天正19年(1591)2月初めに政実が実際の軍事行動に出たというように記されています。

 状況的に見ると、和賀稗貫勢がそれぞれ二子城と鳥谷ヶ崎城で年を越して、まだ再仕置軍が攻め上ってくる前の天正19年2月というのが時期的に見てちょうどいいですが、『源氏南部八戸家系』によれば、このとき政実は金田一(岩手県二戸市金田一)を放火し、九戸城に籠り、2月24日には、八戸政栄が九戸の党である櫛引氏の八幡村をまず放火し、ついで付近の僧坊を焼きました。つづいて7月には、政栄は島森城(島守館・青森県八戸市南郷区(旧南郷村)島守)を攻め、敗れたとされています。島守館は館主島守安芸が九戸城に籠ったあとの天正19年5月に落城したと伝わっているので、『源氏南部八戸家系』がいう天正19年7月の攻撃は、それ以前のことを誤って伝えたものと考えられます。


島守館


 政栄が島守館を最初に攻撃したのは、信直に豊臣政権から「自分仕置」が許されてからの後のことだと考えられるので、天正18年の初冬か、翌年の雪解け以降でしょう。なお、その戦いに先立って、島守館は種市勢の攻撃も受けているといいます。

 政実が豊臣政権と通交した記録は残っていません。あるいは、盟友としていた伊達政宗もぎりぎりまで豊臣の傘下になることを拒んだので、その政宗からの情報で、政実も反豊臣的行動を取ったのかもしれません。しかし、政実とは違い、政宗は結果的には豊臣政権に加わり、その後の繁栄の礎を築いています。

 なお、政実らの動きは、この翌年には「九戸一揆」と呼ばれていました(『伊達家文書』天正19年比定8月15日付け「簗田詮泰書状」)。

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艦隊これくしょん

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九戸氏のルーツ:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第31回

2013-02-08 21:43:59 | 戦国南部興亡記
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 一般に多く流布している家系図によると、九戸氏の先祖は南部家初代光行の五男行連であるといわれています。しかし私は後述する通りこれは誤りと考えており、そういった家系図は、江戸時代中期以降に南部家によって作られた架空の家系図がもとになっていると考えます。

 南部藩に伝わる最古の系図とされる『寛永系図』が編纂された時点(寛永18年(1641))では、系図上に行連の名はありません。したがって、行連の名を生みだし、九戸家を南部家の分家として公式に認定してしまうのは、それよりも後のことです。九戸家が南部家の分家であるという系図を南部氏が捏造した理由は、主な家臣をみな南部氏と同祖にし、家中に一体感を出して結束を固め、忠誠心を高めるためであったと考えられます。九戸行連が系図上に登場した後の文政元年(1818)には、政実の弟康実の系統の中野家は南部を称することが許されています。

 なお、永禄6年(1563)に書かれた室町幕府の『諸役人附光源院殿御代当参衆並足軽以下覚書』という史料(幕府家臣の一覧)に、九戸氏は南部氏と別個に書かれているので、室町幕府は九戸と南部を別の勢力として認めていたという意見がありますが、例えば北条氏は氏康・氏政父子が並んで書かれているので、それをもって九戸と南部が別個の勢力であったという証拠にはなりません。

 しかし、地元の九戸では、政実は小笠原氏の子孫であるという説が根強く残っており、それが真実だとすると、やはり九戸氏は南部氏の一族ではありません。ただし、南部氏の祖光行と小笠原氏の祖長清は兄弟です(長清が兄)。

 九戸氏は果たして本当に小笠原氏なのでしょうか。

 江戸時代に書かれた『九戸軍談記』という書物で、九戸城の戦いの前哨戦である姉帯城の戦いの際に、政実同族の姉帯兼信が戦場で名乗りをあげたときの台詞は以下の通りです。

 「ゆふき惣大将小笠原美濃守正安が子孫左近将監正実が一類姉帯大学兼興が舎弟五郎兼信と申す者なり!」

 「ゆふき」というのは結城のことで、小笠原美濃守正安とは、小笠原政康のことです。

 何故「結城惣大将」なのかというと、この意味は、元弘3年(正慶2年・1333)12月18日に九戸は結城親朝に与えられたので、九戸氏はその結城氏の子孫だと考えることもできますが、私は「永享12年(1440)の結城合戦に信濃国守護(惣大将格)として出陣した小笠原政康」という意味ではないかと考えています。

 『九戸軍談記』は軍記物ではありますが、上記の台詞から、江戸時代になっても九戸家が南部家の子孫ではなく、小笠原家の子孫であることが、民間に知識として残っていたことを表わしていると考えられます。政実が小笠原氏の子孫だというのは信憑性が高いのではないでしょうか。小笠原家では嘉吉2年(1442)に政康が死ぬと、その跡目を巡って内紛が起きているので、このとき政康の子のだれか(庶子であり系図に残っていない人物)が九戸に移ってきたと考えられます。

 既述した通り、もとをたどると南部家の祖光行と小笠原家の祖長清は兄弟です。平安時代末から鎌倉時代初期の甲斐国(山梨県)の武将加賀美(加々美)遠光の子らです。もし九戸家が小笠原家の子孫だとすると、南部・小笠原ら兄弟の子孫どうしが、お互い糠部地方にやってきて、永い期間に渡り勢力争いを演じていて、その総決算が「九戸政実の乱」ということになります。

 『南部藩参考諸家系図』によると、九戸氏が本拠地の九戸郡(九戸村)から現在の二戸市の九戸城(別名白鳥城)に移ったのは、政実の4代前の光政の時と言われますが確証はありません。

 簗部善次郎氏は著書『二戸郡九戸郡 古城館趾考』の中で、一戸実相寺(当時は金田一にあった)の古文書をもとに、九戸氏は明応年間(1492~1501)には金田一を領しており、実相寺の檀家の領域により、九戸城の場所を含め現在の二戸市の一部に九戸氏が進出していたことが分かると述べています。そして享禄3年(1530)の頃にはすでに九戸城を築城していたと推測しています。

 そうすると、九戸城へ移ったのは政実の父信仲の時かもしれません。

 九戸城は、二戸市福岡の馬淵川右岸にあり、その規模は南部信直の居城であった三戸城をしのぎます。この遺跡をひとつ取って見ても、往時の九戸氏の強大な勢力を想像するに余りあります。


九戸城跡

 九戸氏は本来の地元である現在の九戸村域にも多数の館跡を残しており、大名館あるいは熊野館がその居館と伝わり、伊保内館は政実の弟伊保内正常の居館と言われています。


大名館跡



熊野館跡登り口



伊保内館跡土塁


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九戸政実:戦国南部興亡記-青森県東部~岩手県中南部の戦国時代-:第30回

2013-02-07 14:50:51 | 戦国南部興亡記
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