日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会(旧東国を歩く会) ~日本各地の古代・中世史探訪~

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4世紀における東日本最大の権力者は甲府盆地にいた!/継体天皇は山梨出身か!?

2018-12-13 23:45:52 | 歴史コラム:古代
 しばらくブログの記事をアップしていませんでした。

 Facebookにはチョコチョコと書いているので無事は確認できると思いますが、先月の26日(月)から本日までクラツーとダスキンで18日間連続稼働だったこともあり、なかなかブログを書く余裕がありませんでした。

 なおかつ今は高尾幕府の移転の準備中で、その作業もこれからさらに忙しくなる状況になっています。

 上述の18日間の内、クラツーのツアーは3日催行し、座学も3日(計8本)やらせていただきました。

 それらについての報告もろくにできていなくて申し訳ありませんが、合計197名の皆様、ご参加ありがとうございました。

 それらのうち、12月1日(土)は山梨県の古代史ツアーをご案内しており、今月の23日も再度ご案内しますが、そこで探訪する甲府市の甲斐銚子塚古墳が気になって仕方がありません。



 ※甲斐銚子塚古墳

 甲斐銚子塚古墳の近くには岡銚子塚古墳もありますが、単に「銚子塚古墳」と呼んだ場合は甲斐銚子塚古墳のことを指します。



 ※岡銚子塚古墳

 今日はその銚子塚古墳について考えたことをチョロッとお伝えします。

 銚子塚古墳は墳丘長169mを誇る大型前方後円墳です。

 通説では4世紀後半に築造されたといわれており、私もツアーや講座ではそのように説明しているのですが、実は内心ではもっと古いのではないかと思っています。

 というのは、銚子塚からは東海系のS字甕という土器が見つかっており、S字甕は3世紀の古墳から見つかることがあるからです。

 ただ、S字甕も変遷があって、銚子塚から見つかったものは新しめのもので、赤塚次郎さんがC類としている、東海地方で松河戸様式が造られている頃のデザインです(Webサイト「S字甕研究室」)。

 そのC類が4世紀後半のものであれば、銚子塚も4世紀後半でいいのですが、比田井克仁さんは松河戸様式を4世紀前半に位置付けています(『関東における古墳出現期の変革』)。

 ただし、土器と実際の年代を対応させる際には、考古学者によって結構な違いが出てしまいますので、比田井さんの説を無条件に受け入れるのはよくないことかもしれませんが、私は銚子塚の築造時期は、4世紀前半で良いのではないかと思っています。

 その理由は、銚子塚古墳は以下の3点において景行天皇の墓といわれている奈良県天理市の渋谷向山古墳(310m)と類似性が確かめられるからです。

 1.墳丘長に占める後円部の割合(比率)がほぼ一緒(誤差の範囲)

 2.同じような場所に造り出し部分が存在する

 3.周溝の平面形が墳丘の相似形(ただし渋谷向山古墳は盾形の可能性もある)

 これらのうち特に大事なのは、1番と2番だと思います。



 ※渋谷向山古墳

 渋谷向山古墳は白石太一郎さんによると4世紀中葉の築造(『古墳からみた倭国の形成と展開』)ですので、4世紀中葉と言った場合は、西暦333年から366年くらいと考えられ、前半と言った場合は西暦301年から350年となるため、微妙な感じがしないでもないですが同時期と考えていいと思います。

 赤塚さんの上述のサイト上の編年を見ると、赤塚さんは銚子塚を4世紀初頭と考えているようで、そうすると渋谷向山よりも古くなってしまいます。

 なので、「そっちがそっちなら!」と意気込んで、渋谷向山古墳が4世紀初頭の築造である証拠を見つけようと思って資料を探してみますが・・・

 天皇陵ということもあって情報が少なすぎます。

 でも、通説では崇神天皇陵といわれている行燈山古墳のあとに渋谷向山古墳が造られた事になっていますが、順番が逆じゃないかという説もあるようです。

 ただし、きちんとした根拠を見つけるには至っていません。

 古墳を調べ始めると、このようにとりとめもない展開になってしまうことが多いのですが、銚子塚が4世紀前半の築造にしろ後半の築造にしろ、どちらの時代にしてもその当時、この被葬者は岐阜県より東側の東日本を代表する勢力であったことは確かです(宮城県名取市の雷神山古墳<168m>の被葬者が唯一銚子塚に匹敵する勢力となります)。

 そしてその銚子塚の被葬者が懇意にしていたのが景行天皇であり、『日本書紀』によると景行はヤマトタケルを東国に派遣してヤマトの与党を増やしたとありますが、ヤマトタケルが実在ではなかったとしても、『日本書紀』に描かれているとおり、東日本の勢力はこの時期に次々とヤマト王権の影響下に入って行ったことが考古学的に証拠立てることができ、『日本書紀』の信ぴょう性が高まるわけです。

 さて、銚子塚の面白い点をさらに2点お話しします。

 先述した東海系のS字甕が出る古墳は、通常は前方後方墳ですが、銚子塚は前方後円墳なので東海系勢力ではなくバリバリのヤマト勢力の墓なわけです。

 銚子塚の近くには山梨県内で唯一発見されている小平沢古墳(こびらさわこふん)という前方後方墳があり、そこからもS字甕が見つかっており、県内の他の遺跡からも東海系土器が見つかっていますので、山梨にも確実に東海系の勢力がやってきたことが分かります。

 銚子塚はその子孫の墓だと思われますが、ヤマトの勢力下に入ったあとも引き続き東海地方と通交があったために、S字甕の新しいヴァージョンを造っていたのでしょう。

 そしてもう一点ですが、銚子塚の形状は剣菱形と言われる前方部が少し尖った形であったことが分かっています。

 剣菱形前方後円墳は、古墳時代後期にいくつか見ることができますがかなりの少数派です。

 関東では、栃木県宇都宮市の塚山古墳(5世紀後半・98m)や埼玉県行田市の埼玉古墳群にある瓦塚古墳(6世紀前半・73m)も剣菱形と言われおり、6世紀最大の前方後円墳(318m)で欽明天皇の墓の可能性がある見瀬(五条野)丸山古墳も剣菱形の可能性があります。



 ※見瀬丸山古墳

 なお、継体天皇の墓とされる今城塚古墳(6世紀前半・190m)もかつては剣菱形だと思われていましたが、調査の結果、そう見えるのは地震による墳丘の盛土の滑落のためだということが分かっています。

 この珍しい形状をしていることも面白いですが、普通は古墳時代後期に出てくる形状なのに、それをいち早く4世紀に採用しているということで、剣菱形のルーツっていったいどこなのか?という話に発展するわけです。

 下手すると、欽明天皇の墓の形状のルーツは甲府の王の墓だった!ということになりかねないのです。

 欽明天皇は継体天皇の息子で、継体天皇は出自が謎で北陸と言われることが多いですが、実は山梨だったりして・・・

 みたいなエグイ話に発展するかもしれません。

 嗚呼、やっぱりとりとめなくなってきました。

 この辺でやめておこうと思いますが、最後にお知らせです。

 今年最後のクラツーの講座が12月17日(月)にあります。

 「古墳の基礎知識と楽しみ方」と「律令国家の基礎知識と遺跡の楽しみ方」という2本の講座です。

 もしご興味がありましたら、以下のクラツーの公式サイトをご覧ください。

 ⇒「古墳の基礎知識と楽しみ方」講座はこちら

 ⇒「律令国家の基礎知識と遺跡の楽しみ方」講座はこちら

 さて、今日は珍しく夜更かししてしまいました。

 もう寝ます。

コメント (3)

【私の日本書紀】初代神武天皇から21代雄略天皇までの流れを簡単に整理してみました【あくまでも仮説】

2018-09-19 18:13:09 | 歴史コラム:古代
 今年の2月14日のバレンタインデーに、街灯の無い夜の下り坂で滑って右足膝の靱帯を痛めました。

 積もった雪が氷となって残っていたのに気づかず、まったくもって不覚でした。

 なかなか治りが悪く、痛みをこらえつつ2泊3日の九州ツアーを4回もこなしたりした挙句、ブロック注射を打ってもらってようやく普通の暮らしができるようになったのですが、あれから半年以上経ち、また痛みがぶり返して、掃除の仕事をするのにも歩くのにもちょっと不自由になってきました。

 しかもそれに加えて、4日ほど前から首から肩にかけてが痛くなり、最初は寝違えたかなと思っていたのですが、痛みがだんだん酷くなってきたので、今日は掃除が休みだったため医者に行こうと思いました。

 ところがです。

 病院は今日から一週間の臨時休診となっていたのです。

 他の医者には行きたくないので、もう一週間我慢します・・・

 ところで、今週の月曜日(9月17日)は、クラツーにて武蔵国分寺跡および東山道武蔵路跡ツアーを催行しました。

 18名様のご参加、ありがとうございました!



 ※ツアー中はほとんど写真を撮っていないので、全然関係ない西武線の電車を掲載

 歩くのにはちょうど良いくらいの気候で、いつもの比較的慌ただしいツアーとは違ってゆっくりと歴史散歩を楽しんでいただくことができたと思います。

 とはいえ、お客様から「先生、歩くの早い!」と2回ほど注意され、反省しております。

 足が痛いのに、歩くのが早くなってしまうようです。

 さて、既述した通り今日はお休みのため、一日集中して歴史をすることができています。

 いつもは掃除に出勤する前の早朝や、掃除の仕事の昼休みや通勤電車の中などの隙間時間を使って歴史作業をしているのですが、こうやって1日時間があるとかなり仕事が捗りますね。

 今週末は奈良の纒向遺跡ほかのツアーに行きますし、来月からは日本書紀の連載講座をクラツーにて始めますので、それらの準備を兼ねて初期ヤマト王権について考察していました。

 日本書紀の講座は、神武天皇から始めて持統天皇までの記述を丹念に読み解きながら、実際の遺跡との整合を確認しつつ、日本の古代史を解明しようと目論む講座です。

 もちろん、私ごときが古代史の解明をすることなど不可能に近いと思いますが、講座を通じて古代史の楽しさを分かちあっていただければと思います。

 ⇒詳細はクラツーのこちらのページをご覧ください

 毎月、土曜日と平日に同じ内容のものをそれぞれ1回ずつやっていく予定ですが、日本書紀に関しては皆様関心が高いようで、発表してすぐに土曜日の回がソールドアウトになってしまいました。

 お申込みくださった皆さま、どうもありがとうございます!

 現在キャンセル待ちになっている日に関しては、もっと広い会場でできないか会社と相談してみます。

 私自身の日本書紀の考察はまだまだ浅いものと自覚していますが、今日は時間があったため自分の考えをまとめてみました。

 非常に雑な考察で、また私の考えとまったく相いれられない方も多いと思いますが、論争を始めると喧嘩になりかねませんので、このブログでは論争はしませんよ。

 したがいまして、コメントやメールをいただいても内容によってはお答えしない場合がありますので、あらかじめご了承ください。

 それと、今日は時間があったため、気づいたら長文になってしまったのでご注意ください。

*     *     *


 1.イントロダクション

 弥生時代末期、まだ鉄鉱石や砂鉄などの原料から鉄器を製造することのできなかった倭人たちは、朝鮮半島南東部から鉄鋌(てってい)という鉄の延べ棒を輸入して、それを加工して鉄製品を作っていました。

 農具でも武器でも鉄で作った物と木や石で造った物では性能に格段の差がありますので、倭人たちは競って鉄鋌の輸入に躍起になっていたと想像できます。

 私はよく、地方の豪族たちがヤマト王権のメンバーシップに加入した理由として、ヤマト王権が鉄の輸入総代理店のような立場にあり、ヤマトと仲間になることによって鉄の入手ができるようになったという説を話しています。

 これは列島各地の豪族がヤマトの影響下に入り、前方後円墳を造った際の説明として使っているのですが、もしこの説が当たっていたとしたら、どうして弥生末期に後進地域だった畿内が、先進地域で、おそらく武力も高かったであろう北部九州を抑えて「鉄鋌の輸入総代理店」になり得たかということが大きな謎となります。

 「鉄鋌の輸入総代理店」説は一つの説ですので、それが当たっているか外れているかは分かりません。

 一応、日本書紀を読むと、奈良盆地に興ったヤマト王権がメキメキと力を付けていき、やがて日本列島を支配するに至った話が書かれています。

 最近では、白石太一郎さんをはじめとして、ヤマト王権を単なる奈良盆地内だけの地方豪族と見るのではなく、瀬戸内東部(吉備や讃岐)から大阪平野、そして奈良盆地までの広域の政治連合と考える研究者が多く、私もこの説に賛同しています。

 その理由は、前方後円墳の原型となったと思われる前方後円型の墳丘墓がこの地域で発生した可能性が高いからであり、かつそれらの「古墳前史」を経て、墳丘墓の決定版とも呼ぶべき箸墓古墳が墳形や埴輪など各地域の要素を結集し、全長280mという異様な大きさをもって登場するからです。

 彼ら広域政治連合が結成された理由は、やはり北部九州の当時の最強勢力(私は邪馬台国連合の後進だと考えています)に対抗するためでしょう。

 弱い者が強い者に勝つためには弱い者同士がチームを結成して協力するのが一番です。

 そのチーム結成の理由が、鉄の入手をスムーズにしたいからというのが、「鉄鋌の輸入総代理店」説に繋がるのですが、その弱小勢力の集まりである「瀬戸内東部・畿内連合」が武力で北部九州連合を打倒したという事実はないと私は考えています。

 奈良盆地を中心とするヤマト王権が次第に領地を東西に拡げていき、北部九州の勢力を含めて列島各地の豪族を制圧して列島統一を成し遂げたという、まるで戦国時代の豊臣秀吉みたいな話が、もしかしたら多くの方々のなかでは自明なこととになっているかもしれません。

 その自明ともいえる歴史は果たして本当でしょうか。

 結論を先に言うと、私はヤマト王権が北部九州を制圧することは「最後までできなかった」と考えています。

 え、最後までできなかったって言うけど、日本は一つにまとまったじゃん!

 と怒り出す方もおられる方もいらっしゃるかもしれませんが、以降、私の考えを述べるのでお時間があればこのまま聴いてください。

 なお、邪馬台国東遷説を支持しているのかと思われるかもしれませんが、結果的には少し似ているところがあるかもしれません。

 では、ヤマト王権が北部九州を制圧して列島を統一したのではなく、違ういきさつで列島が統一されたという仮説を日本書紀をベースにして少しずつお話しします。

 2.欠史八代の歴史

 まずは初代天皇の神武天皇から解き明かしたいですが、神武をめぐる伝承はここでは省き、2代目綏靖(すいぜい)から9代目開化までの「欠史八代」の天皇について探ってみます。

 なお、ここでは便宜上「天皇」と呼びますが、天皇という称号は7世紀後半にできたという説が専らです。

 欠史八代の天皇に関しては初代神武を含めて、実在しなかった天皇だと考える方が多いです。

 そう言われる理由はたくさんありますが、例えば、事跡があまりにも貧弱だというのが一つの根拠で、住んだ宮殿と妃とお墓の名前しか書かれていない天皇がほとんどです。

 しかし私は、その3つが書いてあるのを貧弱だとは思いません。

 もし、欠史八代が架空だとしたら、日本書紀や古事記の作者はその3つを案出したことになりますが、まったくの嘘っぱちを書いたのでしょうか。

 日本書紀が書かれたのは7世紀末から8世紀初頭ですので、欠史八代が実在したとしたら500年とか700年くらい前の人物になり、しかも欠史八代の同時代の文字資料はなかったと思われるので、地域に残る伝承を記紀編纂のスタッフたちが自分たちの足を使って丹念に取材しまくった様子が想像できます。

 日本書紀編纂当時からしてもかなり昔の伝承を拾い集めたわけなので、とくに人の記憶ですぐに忘れられる固有名詞は怪しいかもしれません。

 そのため、宮殿などの固有名詞が書かれていることに不審がる研究者もいますが、世界各地で原始的な生活を今なお続けている民族が口伝で先祖の伝承を残しているケースはありますので、倭人の間でも各地の豪族の一族にそういったことを家業とする人がいたとしても不思議ではありません。

 編纂スタッフはそういった伝承を保持しているプロフェッショナルへのインタヴューも絶対にしているはずです。

 その結果、ようやく形にできたのが日本書紀や古事記でしょう。

 しかも、2代目の綏靖は神武との絡みがあるせいか少し詳しく書かれています。

 以上のことから、記紀に書かれている情報をもとに各天皇の宮殿をプロットしたのが以下の地図です。



 番号は通説上の代数です。

 これを見ると分かる通り、初代神武から8代孝元までは、奈良盆地西南部の葛木(かづらき)地方(現在の御所市周辺)を本拠地にしていたことが分かります。

 なお、当時の天皇は代が変わると宮殿の場所も変えることにしていました。

 そして、地図上にも書いてある通り、神武から4代目懿徳天皇までは妻を磯城(しき)の豪族に求めており、この時代の奈良盆地南部では、カヅラキとシキが二大勢力だったことが推測できます。

 5代目孝昭天皇は尾張連(おわりのむらじ)の祖興津余曾(おきつよそ)の妹を妻として迎え、6代目孝安は自らの姪を妻にしています。

 この尾張連が尾張(愛知県)の豪族かどうかは不詳で、『日本書紀』記載の他説では、磯城県主葉江の娘である渟名城津媛や倭國豊秋狭太媛の娘である大井媛が挙げられているので、尾張のような遠隔地の豪族の娘ではなく、奈良盆地内の豪族の娘を妻としたとここでは考えることにします。

 つづいて、7代目孝霊の妻は十市県主の祖にあたる大目(おおめ)という豪族の娘を迎えており、8代目孝元の妻は穂積臣等の祖内色許男(うつしこお)の妹・内色許売で、穂積臣は物部氏です。

 さて、ここまでは5代目孝昭の妻が奈良盆地内出身だとした場合、妻はすべて奈良盆地内の他の有力豪族か親戚の出身です。

 3.欠史八代の天皇の本名

 以上のような状況が変わるのがつぎの9代目の開化天皇ですが、その前に欠史八代までの天皇の本名を見てみましょう。

 ①神武 ・・・ カムヤマトイワレビコ

 ②綏靖 ・・・ カム「ヌナカワミミ」

 ③安寧 ・・・ シキツヒコ「タマテミ」

 ④懿徳 ・・・ オオヤマトヒコ「スキトモ」

 ⑤孝昭 ・・・ ミマツヒコ「カエシネ」

 ⑥孝安 ・・・ ヤマトタラシヒコ「クニオシヒト」

 ⑦孝霊 ・・・ オオヤマトネコヒコ「フトニ」

 ⑧孝元 ・・・ オオヤマトネコヒコ「クニクル」

 ⑨開化 ・・・ ワカヤマトネコヒコ「オオヒヒ」

 上記の内、「」で囲ったのが本名で、「~ヒコ」は称号のようなものです。

 欠史八代が実在ではないという根拠の一つとして、「オオヤマトヒコ」や「ヤマトタラシヒコ」が後世の称号で、同時代には使われたはずがないということを挙げることがありますが、その通り、同時代では使われていません。

 後世に付けられただけで、きちんと本名がありますから、それを言ったら後世に付けた漢風諡号はどうなるのでしょうか。

 上述のようにきちんと本名があるということが、私が実在だと考える理由の一つです。

 なお、神武だけ本名がないのですが、別名で「サヌ(ノ)」という名が伝わっており、それが本名だと思います。

 4.開化天皇は丹波から来た王か

 それでは話を戻します。

 上の地図を見てわかる通り、開化は同じ奈良盆地内でも北方の現代の奈良市内に宮殿を構えたと伝わっています。

 注目すべきは、開化の妃に丹波大県主由碁理の娘である丹波竹野媛(たにわのたかのひめ)がおり、本来であればその子彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)が跡継ぎであるのに、後から生まれた御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりびこいにえのみこと)が跡を継いでいることです(崇神天皇)。

 この頃はまだ長子相続の制度ができていないので特に不審がることではないと言ってしまえばそれまでですが、崇神の母は物部氏の正統といわれる穂積氏で、こちらも奈良盆地内の有力豪族ですので、仮説として以下のことが考えられます。

 ・開化は丹波出身の豪族で、地元の丹波の豪族から最初の妻を娶った

 ・開化率いる丹波の勢力が奈良盆地へ進出し、神武以来の系統の跡継ぎとなり、新たに奈良盆地を支配する必要から開化は皇后の座には奈良盆地の豪族の娘を据えた

 ・したがって、自動的に崇神が兄を差し置いて開化の跡を継いだ

 以上は、仮説ですので合っているか間違っているか分かりません。

 (もしかしたら、三輪において出雲の神が祀られているのは、このとき丹波の開化勢力を出雲が背後から支援した結果かとも思いましたが、まだ論理立てることはできていません。)

 崇神が本拠地としたのは、三輪山の西側で、今週末にクラツーにてご案内する纒向遺跡が展開している地域です。

 その地で、三輪山の神を信仰の対象として発展し、昔から言われているところのいわゆる「三輪王朝」と呼ぶべき政治体制ができたのでしょう。

 開化が奈良盆地に進出できたり崇神が三輪山麓に本拠地を構えることができたのは、物部氏の活躍(根回し)のお陰かもしれません。

 11代の垂仁と12代の景行の宮殿もこの周辺にあります。

 なお、神武天皇もヒムカからヤマトに入った際、ヒムカ時代の妻は皇后にせず、その子も跡継ぎにはならず、ヤマトに入って娶った妻が皇后になり、その子が2代目綏靖です。

 時代が下って、26代の継体天皇も北陸からやってきてヤマトに入ったときはヤマトの豪族と婚姻政策をもって仲良くなっていますので、上述の内容はこのような歴史的に見ても普遍的な事柄を援用したものです。

 5.北部九州勢力勢のヤマト進出

 この時点ではすでに、ヤマト王権の仲間に加入した証として列島各地の豪族は前方後円墳を造っていました。

 そしてその連合の力をもって、北部九州に勢力を張っている「旧邪馬台国連合」の揺さぶりに出たものと考えます。

 それが景行天皇の九州遠征の記録です。

 そのときの景行の行動ルートを見ると、ついに旧邪馬台国連合の勢力圏には入ることができず、撤退した様子がうかがえます。

 ただし、旧邪馬台国連合と戦いになったという考古学的な証拠はなく、この頃、朝鮮半島との交易で栄えた福岡県福岡市早良区の西新町遺跡からは列島各地の土器に混ざって奈良県の土器も出ていますから、基本的にはヤマトと旧邪馬台国連合は仲良くしていたものと考えます。

 さて、ここから日本書紀の記録の信ぴょう性が怪しくなります。

 というのも、景行以降、

 ・13代成務天皇

 ・14代仲哀天皇

 ・仲哀の皇后神功

 という、むしろ欠史八代よりも実在性の薄い天皇が現れるからです。

 ここで10代目崇神以降の本名を列挙します。

 ⑩崇神 ・・・ ミマキイリヒコ「イニエ」

 ⑪垂仁 ・・・ イクメイリヒコ「イサチ」

 ⑫景行 ・・・ オオタラシヒコ「オシロワケ」

 ⑬成務 ・・・ ワカタラシヒコ

 ⑭仲哀 ・・・ タラシナカツヒコ

 成務天皇と仲哀天皇の名前を見ると本当の名前が含まれていません。

 そのため、実在でない可能性が高いのですが、気になるのは成務天皇の宮殿が滋賀県大津市穴太(琵琶湖の西岸で比叡山の麓)にあったと記されていることです。

 これは後の天智天皇の近江遷都などからも類推できる通り、西からの脅威にさらされた場合、都は近江方面へ退避させることがあるので、成務(が実在しないにせよモデルになった天皇)が西からの脅威にさらされた可能性が高いです。

 では、西からの脅威とは何でしょう。

 仲哀の次の15代目応神天皇は、神功皇后が新羅を攻めるために九州に出征中に出産したという話を考えると、そもそも九州の豪族ではないでしょうか。

 先祖は伊都国の王かもしれませんし、研究者によっては朝鮮半島出身と考える人もいますが、応神の出自について現在のところ断定はできないものの、この時点で「西の脅威」と言ったら、応神の勢力しか思いつきません。

 もしかすると、応神の背後には百済が付いていたかもしれません。

 この応神が半島譲りの騎馬兵力を駆使しつつ東に進出し、成務の王権の後継者となった可能性はないでしょうか。

 北部九州の弥生時代の遺跡からは出て畿内からは出ない3点セットとしての勾玉、鏡、剣が「三種の神器」として天皇家に伝わっていることもこれと関連するかもしれません。

 こういうことを言うと、まるで昔の江上波夫さんの「騎馬民族征服王朝説」と近くなってしまい、「いまさらねえ」と言われそうですが、個人的な課題として、北部九州へ行くと、仲哀や神功皇后、それに武内宿禰の姿がチラチラと見え隠れしますので、彼らを含めてさらに考察を続けます。

 さて、応神は大阪平野に新たな宮殿を造り、そこを本拠地としたほか、奈良盆地にも宮殿を造り旧勢力を支配しました。

 15代応神以降は、超巨大前方後円墳の時代となり、倭国は朝鮮半島でも作戦行動を展開します。

 そして、仁徳、履中、反正、允恭と続き、まさに中国の歴史書に登場する「倭の五王」の時代が展開されるわけです。

 19代允恭の跡は、安康天皇のちょっとした混乱時期があり、ようやく「王の中の王」と呼ぶことのできる雄略天皇が即位し、ここに来て天皇家は他の豪族から隔絶した権力者となります。

 これが5世紀の半ばです。

 雄略の時点では、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣や熊本県和水町(なごみまち)の江田船山古墳出土の銀錯銘大刀に刻されている通り、ヤマト王権の影響は東国から九州にまで及びました。

 ところが、雄略の没後、相続争いなどでヤマト王権は不安定となります。

 中央が不安定になり地方の支配が弛緩してくると、地方の勢力は独立へ動き出します。

 その結果、6世紀前半には北部九州にて筑紫君磐井が台頭してきたと考えています。

 以上のような「ストーリー」が「私の日本書紀」なのですが、講座の開始までもう少し時間がありますので、さらに考察を進めて、分かりやすい講義にしたいと思います。

*     *     *


 西新宿のクラブツーリズムにて10月から日本書紀の講座を開始します。

 神武天皇から始めて、毎月1回のペースで日本書紀を読み解き、日本の国や天皇のルーツを探っていきます。

 2020年は日本書紀リリース1300周年ですので、これを機に一緒に日本書紀を読んでみませんか。

 詳しくは、クラツーの公式ページをご覧ください。


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宮城県登米市の式内社・遠流志別石神社とエミシのリーダー・ウソミナ

2018-07-01 01:58:25 | 歴史コラム:古代
 今日の昼は(おっと、日付が変わって昨日になってしまいましたが)、八王子市田町にある「カキノキテラス」でカレーを食べてきました。

 カキノキテラスはテラス席であればワンちゃんの同伴もOKなのでジジも連れて行きました。



 ワンちゃん用にお水も用意してくれますが、犬の気持ちになれば人間がご飯を食べている間待機しているのは面白くないかもしれませんね。



 ただ、他のワンちゃんもやってくるので、うちのジジのようにあまり外に行かない犬は、たまには他のワンちゃんとコミュニケーションを取るのも刺激になるかもしれません。

 ここのカレーは「欧風」を謳っていることからわかる通り、インドやタイなどのエスニック系のカレーではありませんが、とても手間をかけて彩りよく作られている美味しいカレーですよ。

 私は昨日テレヴィで肉料理を作るのを見た影響で牛肉と野菜のカレー。



 ご飯は300gまで金額が変わらないので、男性でも満足する量だと思います。

 妻は野菜のカレー。



 サイドメニューでオニオンリングとイカリング。



 あー、ビール飲みたい・・・

 だけど車で来ているので飲みませんよ。

 ここのマンゴーラッシーもまた格別。



 デザートにはコーヒーゼリーをいただきましたが、これも美味しかったです。



 お昼から贅沢な食事をいただきました。

 というわけで、次は月曜日に行ってきます!

 ※ただし月曜日は食事のためではありません・・・

 さて、話は全然変わりますが、陸奥国には延喜式内社が100座あり、そのうち栗原郡には7座あります。

 その栗原郡7座のなかには遠流志別石神社(現在は登米市)があるのですが、今日はその神社について少しお話ししようと思います。



 ※多賀城近くの陸奥総社宮社殿





 ※陸奥総社宮に掲げられた陸奥国式内社一覧

 遠流志別石神社に関しては、最初私は「遠流志別」という文字から「オルシワケ」という古代の栗原郡を治めていた「王」の名前を想像しました。

 「ワケ」というのは、古墳時代前期頃(4世紀頃)の列島各地の有力者の称号で、当時はまだ天皇は発生しておらず、ヤマトの王も「ワケ」で地方の王も「ワケ」だったため、オルシワケもそういった地方の王の一人で、彼を祀る神社が遠流志別石神社かと思ったのです。

 でも、考えてみれば、4世紀のころに「ワケ」を名乗ることのできる豪族が宮城県北部の栗原郡にいたというのは時代的にも位置的にも無理じゃないかと思いました。

 そうすると、読み方を「オルシベツ」とすれば、何のことはない、アイヌ語の地名になります(ただし、一般的には「オルシワケ」と読むようで上の陸奥総社宮の一覧にも「オルシワケイシ」神社と振り仮名されています)。

 『続日本紀』を読むと、霊亀元年(715)10月29日、陸奥の蝦夷邑良志別君宇蘇弥奈が、「親族が死んで子孫が数人しかおらず、狄徒に侵略されるおそれがあるので、香河村に郡家を設けて編戸に入れと欲しい」と申請したとの記載があります。

 この邑良志別君宇蘇弥奈という蝦夷の名前を分解すると、「邑良志別君」の「君」は朝廷から賜った姓であり、通常、君の前には地名が付きますので、「邑良志別」は「オラシベツ」、つまり前述の「オルシベツ」のことだろうと考えられます。

 彼の本名は「ウソミナ」です。

 谷川健一氏は、香河村は現在の奥州市で、後に胆沢城が築城される場所の近くであるとし、宮城県登米市の遠流志別石神社は、邑良志別君の祖神を祀る神社だとしています。

 現在はヤマトタケルを祭神としている遠流志別石神社が、元々は邑良志別君の祖神(あるいは本人)を祀る神社だという説には私も同意します。

 ただ、香河村が胆沢にあったという説には頷けません。

 ウソミナはその君姓からしてオラシベツ(「ツ」が取れて「オラシベ」になることもある)という地名がある場所の族長ですので、香河村はオラシベツにあった村ではないでしょうか。

 そしてオラシベツの場所は、現在の遠流志別石神社の周辺ではないかと思うのです。

 715年の時点ではまだ栗原郡とその隣の登米郡は建置されておらず、登米郡の場合は、「登米」の地名の由来となったと考えられる「遠山(とよま)」村は、のちの774年に勃発した「三十八年戦争」の最初の激戦地になっているので、ヤマトからすると要注意な場所だったかもしれません。

 なお、上述の陸奥百座を見てみると、明らかにアイヌ語由来の神社があったり、ヤマト王権が北上するとともに北方へ進出していった鹿島や香取の神が多くあるのが分かります。

 また、福島県域の「ワケ」が付く神社は、前述したように、「ワケ」称号を名乗る古代の王を祀る神社の可能性があるのではないかと思います。

 東北地方の神社は、ヤマト王権や律令国家が北上していった過程を探るうえで重要なヒントを持っていると思っています。

※     ※     ※


 西新宿のクラブツーリズムにて毎月やっている東北地方の歴史講座の次回、7月14日(土)は、アテルイが降伏した後の歴史についてお話しします。

 興味のある方は、クラブツーリズム公式HPを見てみてくださいね。

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エミシのリーダー・アテルイ(阿弖流為)はヤマト人か?それともアイヌか?

2018-06-30 10:23:47 | 歴史コラム:古代
 前回の記事との関連で、今回はアテルイについて少しお話ししようと思います。

 ⇒前回の記事はこちら

 エミシのなかで最も有名な人物といえば、やはりアテルイ(阿弖流為)でしょう。

 アテルイの生年は不明ですが、8世紀後半に生まれたと思われ、現在の岩手県奥州市一帯のエミシのリーダーとして活躍し、当該地域の内国化を目論んだ桓武天皇の派遣した軍隊を打ち破った人物として有名です。



 アテルイが巣伏の戦いで紀古佐美を打ち破った事実は、単なる地方の合戦の一つとしてあまり重要に思われていないように感じますが、日本の歴史において天皇の軍隊を地方の一豪族が打ち破ったということは前代未聞なわけです。

 このことをまず私は強調したいです。

 アテルイは最終的には坂上田村麻呂に降伏し、上洛して死刑に処されるわけですが、彼はいったいヤマト人なのでしょうか、それともアイヌの先祖に当たる続縄文人なのでしょうか。

 アテルイが活躍した胆江地方(胆沢と江刺の総称)では、前回お話しした通り、5世紀の時点でヤマト王権の影響下にて角塚古墳が築造され、近くには中半入遺跡と呼ばれる豪族居館や集落が造られました。

 この角塚古墳の被葬者がそのまま胆江地域を治め続け、アテルイに至ったのであれば話はシンプルなのですが、6世紀の時点でこの地域だけでなく北東北一帯でいったん古墳文化は途絶え、純粋なヤマト人はいなくなってしまいました。

 ただしその後、7世紀にはまたヤマト人の集落が急増していることから、このときに関東地方辺りからやってきて胆江地方に住み着いた人の子孫がアテルイと考えていいと思います(7世紀にどのような歴史背景で関東地方から人びとが移住してきたかに関しては前回の記事をご覧ください)。

 そうなると、エミシのリーダー・アテルイはアイヌとは関係なく、普通の(?)ヤマト人ということになりますが、一般的なケースでは外部から新たな支配者がやってきた場合は、もともとの在地の有力者の婿に入ることが多いので、もしかしたらアテルイも母方の血統では続縄文人といということになるのかもしれません。

 さて、問題はアテルイという名前です。

 当時のヤマト人(律令国家人)の名前と比べても異質な感が否めず、アテルイだけでなく、日本書紀や続日本紀などに登場するエミシたちの名前をアイヌ語由来と考える研究者もいます。

 ここで一つの仮説ですが、7世紀に再度ヤマト人が北東北へ進出した際、もともと当該地域に居住していた続縄文人と血縁関係を結んだ場合は、岳父などの人物からアイヌ語の名前を付けてもらったと考えることはできないでしょうか。

 そのほうが地元の人びとにとっても安心感がありますし、2世以降は引き続きアイヌ語の名前を付けられ、その中からアテルイのようなリーダーが出てきたのではないでしょうか。

 それが5代100年も続けば彼らはすでにヤマト人という感覚はなくなり、律令国家の領域外において自立して生活している人間としてのアイデンティティが確立されていったのでしょう。

 この私の考えと同じようなことを言っている方は管見に触れる範囲ではいませんので、いたとしても大変な少数意見だとは思います。

 一つの考え方としてご承知おきください。

 なぜヤマト人という感覚がなくなったのかというと、彼らが住んでいた地域がヤマトの支配下に置かれることがなかったからです。

 大化改新以後の律令国家は、新たに進出した地域に城柵を造り、支配が安定すると郡を設置して住民を戸籍に登録し、税を取るようになります。

 そうされてしまった地域に住む人々は完全にヤマトの支配下という意識が植えつけられると思いますが、7世紀にアテルイらの先祖が進出した胆江地方は、結局その後も律令国家の支配が及ばない状態が続いてしまいました。

 胆江地方と同じく、国家の先兵として送り込まれたにも関わらず支配が及ばなかった地域に住んでいたヤマトの人々は、代を重ねるにつれ、おのずとヤマト人というよりかは、「律令国家の範囲外に住む独立不羈の北東北人」というアイデンティティが確立されていったのではないかと私は想像しています。

 そして彼らが政治的理由で「蝦夷」と呼ばれ、国家から討伐される対象となってしまったのです。

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 西新宿のクラブツーリズムにて毎月やっている東北地方の歴史講座の次回、7月14日(土)は、アテルイが降伏した後の歴史についてお話しします。

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大化改新以前のヤマトの東北進出

2018-06-30 09:16:49 | 歴史コラム:古代
 日本中、どの地域に行っても歴史があります。

 当たり前のことですが、歴史がない地域はありません。

 意外と地元の人よりも外部の人のほうが詳しいことも多く、外部の人が地元の人に教えてあげることにより地元の人が自分たちの故郷の歴史の面白さに目覚めるということもあります。

 そんなこともあり、私は日本中どこに住んでもその地域を楽しめる自信があるわけですが、東北地方の歴史もまた楽しくて仕方がありません。

 東北地方のなかでも個人的に思い入れがあるのが岩手県・青森県の南部地方ですが、最近は宮城県についても調べることが多くなり、もちろん他の3県にも興味があります。

 そもそも私が20年前に東北地方の歴史を始めたときは戦国時代からだったのですが、その後、古代史をやるようになったきっかけは、「蝦夷(エミシ)」とはいったい何なのか、という疑問が発端でした。

 エミシについての知識がまだ無い頃は、エミシに対して漠然と「異民族」のようなイメージを持っており、私の祖父が青森県の三戸で生まれたこともあり、自分にも何か日本人とは違う血が流れているのではないかと、そういったことに興味を持ったのです。

 エミシに関しては今までツアーや座学でたくさん話してきましたが、私の話し方が不味いこともあり、聴いてくださった方々がきちんと理解してくださっているか心許ないですし、私自身の脳内でもまだ整理しきれていない部分があるので、むしろその方が問題ではないかと思います。

 ですので、時間を見つけては学習したり考察したりしているわけですが、いま非常に関心があるのが、文献史料にはほとんど表れない、大化改新(645年)以前のヤマト人の東北進出についてです。

 大化改新以後は、国家の政策の下で城柵や郡を設置して北方へ版図を延ばしていくことが日本書紀をはじめとした史料に記されているわけですが、それ以前はいったいどのような歴史があるのでしょうか。

 考古学の成果を調べていくと、それよりも前(7世紀前半以前)に、かなりの数のヤマト人が北東北へ進出していることが分かるのです。

 熊谷公男さんの『古代の蝦夷と城柵』ではそういったことが簡潔にまとまっており、大変お勧めする書籍なのですが、今日は該書を参照しながら文献史料にほとんど表れない大化改新以前のヤマト人の北東北進出についてお話ししようと思います。

古代の蝦夷と城柵 (歴史文化ライブラリー)
熊谷 公男
吉川弘文館


 ※ヤマト人という呼び方はなんだか奇妙ですが、「日本人」と呼んだ場合はアイヌと琉球人も入りますし、そもそもまだ日本という国はなかったので、ニュアンスをご理解ください。

*     *     *


 1.前方後円墳の北上

 邪馬台国が奈良にあったのか、北部九州にあったのか、おそらく一生決着しない問題だと思いますが、どこにあったにせよ、3世紀半ばに奈良において今の天皇の系譜上の先祖がヤマト王権を発足させたのは間違いないでしょう。

 そのヤマト王権は地方豪族を影響下(支配下ではありません)に置くために前方後円墳の築造を許可し、それをメンバーシップの証にしたという考え方が現在のところ定説の地位を占めていますが、私もその説には賛同しています。

 3世紀半ばに発足したヤマト王権は、4世紀末には宮城県の仙台平野にまで影響力を及ぼしました。



 ※宮城県名取市の雷神山古墳(墳丘長168mを誇る東北最大の前方後円墳)



 ※仙台市の遠見塚古墳(雷神山古墳との前後関係はまだ確定していない)

 そして遅くとも5世紀初頭にはさらにその北の大崎平野まで影響下に収め、大崎平野を流れる江合(えあい)川流域が太平洋側における前方後円墳の北限地域となりました。



 ※宮城県美里町の保土塚古墳(江合川流域の代表的古墳の一つで現状は円墳だがもともとは前方後円墳だったという説がある)



 ※同じく美里町の京銭塚(きょうせんづか)古墳(墳丘長66mの前方後方墳)

 なお、そこから65㎞も北に行った岩手県奥州市に一基だけポツンと角塚古墳という前方後円墳(帆立貝式と見る人もいます)が築造されていますが、これは例外として考えたいと思います。



 ※胆沢郷土資料館に展示してある角塚古墳のジオラマ

 江合川から角塚古墳の間には現在の宮城県と岩手県との県境の山々が広がっており、宮城県域からその山を越えて最初に到達するのが平泉で、平泉から衣川を越えると、角塚古墳のある胆沢扇状地(8世紀末にアテルイが活躍した地域)に出ます。



 2.続縄文人(アイヌの先祖)の南下

 ところで、話は北海道に飛びます。

 日本列島内のほとんどの地域では縄文時代が終わると弥生時代に移行したわけですが、北海道は稲作ができず、それ以外の理由もあって弥生時代に移行せず、続縄文時代に移行します。

 つまり、大陸からやってきた人びとと交わることもなく、日本列島古来の縄文人がその文化を守っていったわけです。

 北海道の続縄文人たちの中でもいくつかの文化圏があったのですが、ヤマト王権が発足したのと同じ頃から道央部を本拠地とする江別文化を担った人びとが道内に勢力を伸ばしはじめ、やがて東北地方にまで進出します。

 この江別文化を担った続縄文人がアイヌの先祖です。

 アイヌという呼び名は中世以降の呼び名ですので、古墳時代の続縄文人をアイヌと呼ぶのは正確ではなく、あまり聞きなれない言葉だと思いますが、今回はこのまま「続縄文人」と呼びます。

 彼らが使用した後北式土器の分布を調べると、彼らが一時は宮城県まで南下したことが分かります。

 6世紀には北海道に撤退していくのですが、続縄文人が北東北に住んでいた時に付けた地名が、いわゆる「アイヌ語地名」です。

 続縄文人が津軽海峡を渡って北東北に進出した頃、北東北にもともといた縄文人は弥生人化しており、さらに後述する通りヤマト人も北進しており、そのため北東北には後北式土器と弥生式土器が一緒に出土する遺跡が多く存在します。

 なぜ続縄文人が南下したのかは、オホーツク人による圧迫や気候の寒冷化が原因とされていますが、ヤマトと接触することによって鉄器を入手するためだという説もあります。

 北東北にいた弥生人は、続縄文人の南下に押される形で南方へ移動した者もあれば、続縄文人の狩猟採集の生活様式を取り入れてそのまま住み続けたり、続縄文人と同化した人びともいたことでしょう。

 現代の私たち日本人は、米を食べるのが当たり前で、なおかつもっとも美味しい食べ物だと思っていますが、地域によってはわざわざ面倒くさい稲作をしなくても美味しいものがたくさん食べられる地域があるわけです。

 3世紀から6世紀にかけて、古墳文化の及ばなかった北東北では集落遺跡が激減するため、「住居イコール竪穴住居」という考えを頑なに固持している一部の考古学者は、無住の地域が広がったように錯覚するわけですが、決して人が住まなくなったわけではなく、上述の通り続縄文人が南下して各地に展開していたのです。

 というのも、続縄文人は遺構として残ることがほとんどないテントのような平地建物に住んでいたため集落遺跡が見つからないと考える学者もおり、私もその考えに賛同します。

 3.ヤマト人と続縄文人が雑居した北東北

 さて、古墳文化の最北端である角塚古墳が築造された奥州市付近は、当時どのような情勢だったのでしょうか。



 ※日本列島最北の前方後円墳である角塚古墳

 既述した通り角塚古墳は5世紀に築造され、その近くには豪族居館らしきものも見つかっている中半入(なかはんにゅう)遺跡という大規模な集落跡も見つかっています。



 ※中半入遺跡(現在は標柱が1本立っているだけ)

 この角塚古墳の被葬者や中半入遺跡に住んでいた豪族が続縄文人(つまりアイヌの先祖)ということはありません。

 奥州市内にも元々は縄文人が住んでおり、彼らはやがて弥生文化を取り入れて弥生人となり、そしてヤマト王権に参画して、関東地方などの他のヤマトの人びとと何ら変わらない古墳や集落を構築したわけです。

 ただ、周辺には続縄文人も住んでいました。

 宮城県北部から岩手県南部にかけては、4世紀から6世紀までの200年くらいの間は、ヤマト人の村と続縄文人の村がまだら模様に混在する地帯となっていたのです。

 既述した通り、前方後円墳の築造地域は実質的には大崎平野が北限でした。

 大変労力のかかる前方後円墳の築造ができるほどの大きな力を持った勢力(豪族)は、太平洋側では岩手県より北には角塚古墳の被葬者以外に存在しなかったようですが、古墳を築造するまでに至らないまでも、古墳時代人がその文化を担って北方へ進出していた形跡は残っています。

 例えば、宮城県石巻市の新金沼遺跡という集落では、4世紀のころには関東人や東海人が進出して続縄文人との交易センターの様相を呈していましたし(弥生時代末期に関東地方に進出した東海人が古墳時代前期には石巻まで進出しているのは要注目)、律令時代以降の遺跡として有名な宮城県大崎市の名生館遺跡でも、5世紀中葉から6世紀前半にかけて大崎平野の中の拠点集落として機能していたことが分かっています。



 ※名生館官衙遺跡(中世の大崎氏居城時の空堀や土塁は残るが古代官衙の形跡は不明瞭で説明板が設置されている)

 また、大化改新直後に築造された城柵(およびその後の初期陸奥国府)である宮城県仙台市の郡山遺跡でも、第Ⅰ期官衙と呼ばれている城柵を築造するよりも前の6世紀末葉から7世紀中葉の関東の土器が見つかっています。

 こういった関東や東海の人びとの北上は日本書紀などの文献史料には直接は書かれていませんが、どのような歴史的背景を持っていたのでしょうか。

 4.蘇我政権の時代は国造が先兵となり東北へ進出したのか

 上述した通り、ヤマト王権による大化改新以前の北方進出の痕跡はたくさん残っているのですが、私は北方進出の実行部隊は関東地方の国造ではなかったかと考えています。

 例えば、既述した郡山遺跡の第Ⅰ期官衙に先行する竪穴住居から出土した関東系土器は、千葉県の印旛沼周辺で作られた土器に酷似しているのです。

 ということは、その時期は印波国造が印旛沼周辺を治めていた時期に当たるため、印波国造が仙台へ人びとを送り込んだ可能性が考えられるのではないでしょうか。

 当時のヤマト王権のトップは実質的には蘇我氏であり、蘇我政権のもと北方進出は着々と進められていたことが推測でき、印波国造は香取海を前面に控え、船団を操ることのできる氏族であったと想像できるので、その航海術を駆使して太平洋側から北方へ進出する実行部隊となっていたのではないでしょうか。

 そういった重要な任務を帯びていることから、大王でも造れないような巨大な方墳の築造を許され権威付けされたのでしょう。



 ※千葉県栄町にある一辺78mの巨大方墳・龍角寺岩屋古墳(方墳では国内2番目の大きさ)

 さらに想像をたくましくすると、当該地域に宗像大社が集中して見られるのは、北方進出の航海にあたって海人である宗像氏の協力を仰いだからではないでしょうか。

 また、日本書紀にはこういったことは直接的には書かれていませんが、637年の上毛野形名が蝦夷と戦った記述は、現在の群馬県の巨大豪族であった上毛野国造が北方へ進出した形跡だと考えられます。

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 西新宿のクラブツーリズムにて毎月やっている東北地方の歴史講座の次回、7月14日(土)は、アテルイが降伏した後の歴史についてお話しします。

 興味のある方は、クラブツーリズム公式HPを見てみてくださいね。

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古墳と国造

2018-05-30 12:32:41 | 歴史コラム:古代
 今週の土曜日は千葉県の古墳ツアーをご案内するので、私の脳内は千葉の古墳のことで一杯です。

 現在レジュメを作成している最中なのですが、今現在の私の知識で千葉県の古代史についてまとめてみました。

 といっても、分量的にはほんの少しですよ。

 1.関東地方の国造と古墳との関係

 さて、古墳時代は一般的には3世紀半ばから7世紀までとされています。

 その間、400年くらいあるわけですが、もちろん400年間同じような社会がダラーっと続いていたわけではなく、各段階で歴史的な画期が存在し、古墳時代の始まりのころと終わりのころとではだいぶ社会は変化しています。

 古墳時代の最末期にようやく「日本」という国家は誕生したわけですが、それまでの間、奈良や大阪を本拠地とする中央政権(ヤマト王権)が地方の有力者たち(地方政権)を緩く支配、あるいは影響下に置いていました。

 中央による地方の支配は段階を経て進展していったわけですが、古墳時代後期には国造(こくぞう/くにのみやつこ)の設置という画期的な出来事がありました。

 国造とは何か、いつ設置されたのか・・・、などについては研究者によって様々な考え方が提示されています。

 私は「筑紫君磐井の乱」(527~28年)の後に、九州の支配をかなり進めた継体大王によってまずは西日本に置かれ、その目的は朝鮮半島を攻めるための軍事動員を容易にするためという説に賛同しています。

 もちろん賛否はあると思いますが、では、東日本にはいつ設置されたのでしょうか?

 これに関しては、関東地方では前方後円墳の築造が一斉に途絶え、一部の有力者が大型の方墳や円墳を築造し始めた時期(7世紀初頭)という説を支持しています。

 上毛野(群馬県域)においては、前方後円墳が築造されていた時代の最末期には20余りの政治勢力に分かれていたのが、前方後円墳の築造が終わり大型方墳を築くことができたのは総社古墳群の被葬者のみとなっています。

 総社古墳群では、愛宕山古墳(一辺60m)、宝塔山古墳(55m)、蛇穴山古墳(39m)というように相次いで大型方墳が築かれました。



 ※愛宕山古墳の横穴式石室(刳抜式の家形石棺が置かれた石室を見学できる)

 これらの方墳の被葬者が上毛野国造ということになり、総社の勢力は時代が下ると上野国府の誘致にも成功します。

 隣の下毛野(栃木県域の那須地方を除いた地域)の場合は、壬生町の車塚古墳(直径82mの円墳)の被葬者が国造となったと想定され、武蔵(埼玉・東京)の場合は行田市の八幡山古墳(直径80mの円墳)の被葬者が国造となったと想定できます。



 ※車塚古墳(3段築成の巨大円墳で横穴式石室も見学できる)



 ※八幡山古墳(墳丘は削られて無くなっているが「関東の石舞台」と呼ばれる見事な横穴式石室が残っている)

 上毛野や下毛野、そして武蔵はのちの令制国一国にまたがる巨大な国造ということになりますが、常陸や今週末にクラツーのツアーでご案内する下総・上総の場合は小規模な国造が乱立することになります。

 千葉県域の国造を『先代旧事本紀』から拾うと以下のようになります。



 ※『房総の古墳を歩く』を加筆転載

 これらのうち、4つの国造領域にて6世紀に大型前方後円墳が築かれています。

 すなわち、

 ・小櫃川流域の馬来田(まくた)国造領域(のちの望陀郡)には、金玲塚古墳(墳丘長100m)

 ・小糸川流域の須恵国造領域(のちの周淮<すえ>郡)には、三条塚古墳(同122m)

 ・九十九里沿岸の武社(むさ)国造領域(のちの武射郡)には、大堤権現山古墳(117m)





 ・当時広大な入海だった印旛浦(現在の印旛沼)沿岸の印波国造領域には、浅間山古墳(同78m)





 という具合です。

 これら4つの政治勢力は前方後円墳築造が終了した後はこぞって大型方墳や大型円墳を築造します。

 ・馬来田国造領域では、松面(まつめん)古墳(一辺44mの方墳)と鶴巻塚古墳(径44mの円墳)

 ・須恵国造領域では、割見塚古墳(一辺45mの方墳)

 ・武社国造領域では、駄ノ塚古墳(一辺60mの方墳)

 ・印波国造領域では、龍角寺岩屋古墳(一辺82mの方墳)



 ※岩屋古墳は方墳では国内で2番目の大きさだが、この時期だけを見ると国内で最も大きい方墳となる



 これらの古墳の被葬者が各地域の国造と想定されます。

 7世紀初頭というと、推古天皇という女帝が君臨し、若い聖徳太子がそれを補佐した時代とされていますが、私はそれを正直に信じることができず、倭国の舵取りをしていたのは蘇我馬子だと考えています。

 蘇我馬子は東日本に国造を置き、東北地方への進出を政策の重要方針の一つとしていたのではないでしょうか。

 ところで、先日武社国造および印波国造の領域を探訪してきましたが、律令時代の郡衙の跡を2ヶ所見てきました。

 武射郡衙跡である嶋戸東遺跡。





 近くには郡寺と考えられる真行寺(しんぎょうじ)廃寺跡もあり、真行寺は住所として残っています。





 両者とも説明板が残念な状態になっていますね。

 もう一ヶ所、埴生郡衙跡である大畑・向台遺跡群。





 こちらは説明板の設置は見当たりませんでした。

 2.武蔵には2つの国造がいたのか?

 さきほどお話しした中で、武蔵の国造は八幡山古墳の被葬者と想定できるとしました。

 ところが、『先代旧事本紀』によると、武蔵には无邪志国造と胸刺国造が記載されています。

 これについては、両者を同一とする説と別個とする説があり、いまだ決着していません。

 単純に古墳から探ってみると、6世紀末の段階では、のちの武蔵国の範囲には八幡山古墳の被葬者勢力しか国造になれるような強大な勢力はなく、東京都側の多摩川流域にはそれに匹敵する勢力はありません。

 そのため、武蔵国内には一つの国造しかなかったと判断することができます。

 ただし、もう数十年経ち、7世紀の半ばごろになると、多摩川流域では上円下方墳の武蔵府中熊野神社古墳や三鷹市天文台構内古墳が築造され、さらに多摩市には八角墳の稲荷塚古墳も築造され、かなり強力な勢力の成長を見ることができます。

 これら多摩川の勢力は、行田市の勢力を押さえて武蔵国府の誘致に成功しており、律令国家の建設にあたって国造を解体する過程で力を付けてきた勢力だと考えられます。

 多摩川流域の特異な形状の終末期古墳に関しては、クラツーでツアーも企画しますので、また別途考察しようと思います。

 3.なぜ東日本に国造が置かれたのか?

 話を少し戻して、なぜ東日本に国造が置かれたのか、その理由について考えてみます。

 設置の理由としては、西日本に置いたのだから中央政府としては東日本にも置くのは当然だと言われてしまったら身も蓋もありませんが、もう少し突っ込んで考えてみると、西日本での設置理由が朝鮮半島を攻めるための軍事的な政策の一環だとすると、東日本の場合はやはり、対東北地方政策の一環ということがいえると思います。

 岩手県域では、5世紀に角塚古墳が築造され、ヤマト王権の影響力が遥か北まで及んだことがわかりますが、その時代までは宮城県の大崎平野に流れる江合川までが強く影響が及ぶ範囲だと言えます。



 ※国内最北端の前方後円墳・角塚古墳

 一時的にヤマト王権の影響が及んだ岩手県南部ですが、6世紀になると集落数が激減してしまうので、もしかするとヤマト王権の影響下にあった当該地域の豪族の血統はここで絶えてしまったかもしれません。

 6世紀にはアイヌの二度目の南下が行われ、一関市辺りまで南下してきたことが、「ベツ」地名の分布により想定できます。

 アイヌが南下してきたために玉突きのように北東北のヤマト人が南に逃れてしまったのか、反対に気候の寒冷化によってヤマト人が西へ逃れた空白地にアイヌが進出してきたのか、どちらかはわかりませんが、7世紀にはまたヤマト人が北東北へ進出していきます。

 7世紀というのは既述した通り、東日本に国造が設置された時期で、東日本では前方後円墳は一斉に作られなくなり「選ばれた者 = 国造」が大型方墳や大型円墳を造った時代です。

 7世紀の北東北の人口増加は、彼ら東日本の国造たちが主体となって北東北へ進出していった結果ではないでしょうか。

 『日本書紀』では、637年に上毛野君形名が蝦夷と戦った記事が掲載されていますが、これなどはまさしく上毛野国造家が北東北へ進出した記録が『日本書紀』に取り込まれたものと思います。

 こういった東日本の国造たちの北東北進出がベースとなり、7世紀半ばの渟足柵(ぬたりのき)と磐舟柵(いわふねのき)および仙台市太白区の郡山遺跡が築造されたのでしょう。

 東日本の国造勢力が築いた古墳は、例えば既述した上毛野・下毛野・武蔵・下総・上総の古墳を見ると、当時の大王の墓よりも大きいものばかりなのです。

 これは東日本の豪族たちが無許可で大きな古墳を作ったのではなく、東北地方進出に協力してくれる見返りとして大王墓よりも大きな古墳の築造を許したものと考えられます。

 既述した巨大方墳を築いた印波国造ですが、その支配地域には6世紀までは大型古墳が築かれておらず、言ってみれば有力豪族の空白地域でした。

 それが6世紀以降急成長するのです。

 これなども、香取海を中継地点として東北地方に進出する政策を中央政府が打ち出したことと関係があるように思われ、かつ645年の乙巳の変以降の大化改新で活躍したとされる中臣鎌足が常陸出身という説とも絡んできて、なおかつ香取神宮や鹿島神宮の創建の問題も絡みあうのではないかと考えています。

 ただ、今のところはまだ考察が進んでいませんので、進展したらまたご報告します。



 ※香取神宮拝殿

 なお、先日香取神宮を訪れたときに人懐っこい猫ちんと遭遇しましたよ。









最後の前方後円墳 龍角寺浅間山古墳 (シリーズ「遺跡を学ぶ」109)
白井 久美子
新泉社


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【歴史研究のやり方】オリジナルの地図や年表を作ろう

2018-04-28 23:11:45 | 歴史コラム:古代
 本来であれば本日は栃木の古墳ツアーの日でしたが、私の力不足のせいで最少催行人数まであと数名届きませんでした。

 楽しみにしてくださっていた皆さまにはお詫び申し上げます。

 人数が集まらなかった原因はいくつか考えられますが、内容を練り直してリベンジ致しますのでそれまでお待ちください。

 ということで、今日はどこかへ出かけようと思っていたのですが、珍しく10時過ぎまで寝てしまいました。

 ところが、寝坊したことが幸いして、明日新宿の近畿日本ツーリストで行う邪馬台国の入門講座のレジュメを早めに完成させることができたのです。

 もし出掛けた場合は、明日早起きして作ろうと思っていたのですが、ギリギリにならないとやらない癖は良くないですね。

 さて、既述した通り、不催行になってしまった反省も織り込みながら、新しいコースづくりをシコシコと進めております。

 邪馬台国関連のツアーは別の先生が鋭意、面白コースを量産してくださっているようですので、西の方面はその方にお任せするとして、私は東方面をさらに開拓していきますよ(邪馬台国関連のツアーは、ツアー自体は私も引き続きご案内しますのでご安心ください)。

 その東側のツアーですが、関東の古墳ツアーを20本くらいにまで増やそうと思っています。

 そうすると、関東地方の主な古墳はすべて見ることができると思います。

 私の古墳ツアーに参加してくださった方々はご承知かと思いますが、ただ単に古墳を見て「あー、面白かった!」で終わるのでなく、古墳がそこにある歴史的意味をヤマト王権と関東地方との政治的な関わりを交えて考え、古代のロマンに浸っていただきます。

 もちろん、一言に「前方後円墳」とか「横穴式石室」と言っても、地域によって違いがありますので、そういった違いを楽しんでいただいたり、地勢や地形についても楽しんでいただきますよ。

 さらに、東北地方のツアーもガンガン造って行きます。

 私の中では東北の古代史ツアーもきちんとストーリーができあがっていて、それを実際のツアーで皆さまに開陳し、東北の古代史を楽しんでいただく目論みを具現化して行こうと思っています。

 その第一弾というか、入門編ということで、先日ご案内した一泊二日の宮城・岩手のツアーを位置づけています。

 ※なお、6月16日(土)出発分も催行決定になりました!参加表明をしてくださった皆さま、どうもありがとうございます!

 東北の古代史ツアーに関しては、一泊二日ないしは二泊三日で、10本以上のツアーを造ります。

 今企画に取り掛かっているのは福島県のツアーで、一泊二日を3本ご用意しようと思っています。

 かなりマニアックにしますので、どうぞご期待ください。

 というわけで、本日の夕方からはツアーの企画をしていたのですが、これからツアーを大量生産するに当たり、効率化を図ることにしました。

 効率化の第一歩は、自分だけの地図を作ることです。

 こんな感じで、地形地図をベースマップとして、情報を書き込んでいきます。



 字が小さくて読めなくて済みませんが、イメージとしては分かると思います。

 とくに水系は非常に大事なので、水系を把握しつつ探訪箇所を考えています。

 という作業をしていたところ、偶然にも常陸国の複数の郡衙が一直線上に位置することを発見しました。

 例えば、新治-真壁-筑波-河内のライン。



 そしてもう一つは、茨城-行方-鹿嶋のライン。



 郡衙を作ったら偶然一直線に並んじゃった、なんてことは考えられないので、これにはきちんとした理由があるはずです。

 まだ考察はしていませんが、地図を作っているとこういう発見があるから楽しいですね。

 ちなみに、歴史の研究をするうえでは、このようなオリジナルの地図作りをすることに加え、オリジナルの年表を作ると良いです。

 年表を作るのにはMicrosoftのExcelが便利です(同様なフリーの表計算ソフトでもOKです)。

 Excelはビル・ゲイツが歴史マニアが年表を作りやすいように考えて作ったソフトなのです!

 ・・・いや、もしかしたら違うかも。

 なお、年表を作るときは、出典(書名とページ番号)もきちんと書いておくといいです。

 出典が分からなくなると、それを探すのに二度手間になりますからね。

 さらに、中世以降であれば、人名事典と家系図も自分なりのものを作っておくと、後々の作業が大変捗りますよ。

 スキャナーをお持ちであれば、家系図は本に掲載されているのをスキャンしておいたり、また、いろいろな本に掲載されている図版で便利なもの(例えば土器の編年表や古墳の平面図、城の縄張図などなど)をスキャンしておくと便利です(ただし、そういったものは著作権法上の理由で個人的な使用に限ります)。

 ところで、東北地方の古墳について全体像を掴むにはこの本が便利ですよ。

東北古墳探訪―東北六県+新潟県古代日本の文化伝播を再考する
相原 精次,三橋 浩
彩流社


 200ページ近いオールカラーの本で、かなりの労作です。

 こういった本で当たりを付けたら、あとは実際に現地に行って、さらに面白いものを足で探すというのが一番効率の良いやり方でしょう。

 さて、風呂に入って寝ようっと。
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「神社」とは何か

2018-04-01 21:01:58 | 歴史コラム:古代
 来週の日曜日(4月8日)は埼玉県神社庁とクラブツーリズムとの共催で、大宮の氷川神社にて「神社DAY」というお祭りのような行事が行われます。

 そのなかで、3本の講座が行われるのですが、そのうちの「神社と古代史」というお題で私もお話しさせていただきます。



 先週の時点で90名様ほどから参加申し込みをいただいているようで、ノミの心臓の私は今から緊張しています。

 コンテンツについてはこの仕事をいただいてから潜在意識の方に企画を任せておいたのですが、そろそろ顕在意識でも考えないといけないですね。

 というわけで、ネタ探しのためにまずは『「神道」の虚像と実像』(井上寛司/著)の再読を始めたのですが、井上氏によれば神社と律令制は双生児だということで、神社は天武朝以降、つまり7世紀後半に国家により造られたとしています。

 神社と共に神道という言葉もよく出てきますよね。

 孫引きになってカッチョ悪いのですが、該書が引くオスロ大学のマーク・テーウン氏の論によれば、

 ・「神道」の語はもとは中国で用いられていたのが、そのまま古代日本に導入されたもので、その読みも当初は濁音の「ジンドウ」であった。

 ・その意味するところは、「仏教下の神々をさす仏教語」である。

 ・この「神道」が室町期、十四世紀ごろの日本で、清音表記による「シントウ」へと転換したのであって、それは「神」の語の集合名詞から抽象名詞への転換にともなうものであったと考えられる。

 ということらしいです。

 ※詳しくはこちらを読んでください。

「神道」の虚像と実像 (講談社現代新書)
井上寛司
講談社


 私は以前から「神道」という言葉の使い方に対して非常に難しいと感じており、歴史のツアーなどでも「神社信仰」という曖昧な言葉を使っているのですが、神社自体が7世紀後半以降にできたものだとすると、なおさら用語の使い方が難しいなあと思いました。

 しかし、その「神社信仰」の発展も仏教と密接に関わっていたというのは以前から私も感づいており、「神道」がそもそも仏教の用語だとすると、平安時代に本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が定着してしまったのも分かる気がします。

 となると、「神社と古代史」というお題で話すとなると、大宝令が制定された701年以降の話をするのが素直なところだと思いますが、ここはちょっとフェイクになってしまう感があるものの「神社前史」、言いかえると「神社ができるまで」という内容で古墳時代やそれ以前の信仰について話そうかと思っています。

 ところで、「神社」の「神」は神様のことであると皆さん思っていると思いますが、「社」って何でしょうか?

 私は語源が知りたい時は必ず白川静先生の『字通』を引くのですが、該書によると、『説文解字(せつもんかいじ)』(中国で2000年くらい前に書かれた漢字辞典)に「地主なり」とあるそうです。

 つまり産土神、その土地の神様という意味なんですね。

 日本では「神祇」という言葉があり、「神」がアマツカミ(ヤマトが信奉する天皇家の神)で「祇」がクニツカミ(ヤマトに征服された地方の神)という意味で使っていますが、「社」は「祇」と同じ意味でした。

 厳密には違うかもしれませんが、おおよそそういった理解でいいのではないでしょうか。

 また、国家のことを「社稷(しゃしょく)」と言ったりしますが、「社」というのは上述した通り土地の神で、「稷」は五穀の神のことで、国の重要な祭祀、あるいは国家そのもののことを表します。

 その土地の神様を表す漢字が「社会」とか「結社」などという言葉に使われているわけで、それを知ると「我々の社会は」とか言う時に、もう一段階深い思索ができそうです。

 さて、律令制の神社が誕生するまでの「神」の歴史ですが、人間はいつから神様の存在を考えるようになったのでしょうか。

 一般的には、まだ農耕社会になる前から、人間は自然現象に対して畏敬の念をいだいており、太陽、月、星、風、雨、雷といったものに「神」を感じたと考えられていると思います。

 そういった自然の脅威に対して祈りを捧げたわけですが、人間は静かに祈るだけではなく、力で神と向き合おうとしたこともあったと考えています。

 いきなり時代が下って古墳時代の話になりますが、少し前に話題になった「日本のポンペイ」と言われる群馬県渋川市の金井東裏遺跡のことをご存じでしょうか。

 ちょうど昨日のツアーの内容とも地域的にも時代的にもかぶるのですが、群馬県の榛名山は6世紀に2度大きな噴火をして、近隣に大変大きな災害をもたらしました。

 そのうちの2度目の噴火のときに、火砕流に襲われて壊滅した村の遺跡から甲冑を来たままの男性の骨が発見されたのです。

 彼はその地域の首長で、本来であれば大型の前方後円墳に葬られるほどの身分の「王」でした。

 彼はヤマト王権から下賜されたと思われる当時最新鋭の挂甲という鎧に身を固め、完全武装して怒れる山の神に対峙していたのです。

 この遺跡については書きたいことは沢山あるのですが、本記事のテーマにあった話だけをしますと、発掘状況からして、最初噴火が始まり火山灰が降りだした時、彼は鎧兜に身を固め、最強の兵器である愛馬とともにその地へ赴き、高価なお供え物を神に捧げて首長として神の怒りを収めるべく必死に祈ったことが想像できます。

 完全武装しているのは、神に対して祈るだけでなく、自らの武力を誇示して神にそれを認めてもらうという考え方もあったのではないでしょうか。

 首長が領内の民の命を守る義務を持つことは古代も変わりません。

 完全武装して神と対峙し、自らの命と引き換えに地域を守ろうとする強い信念を感じるのは私だけでしょうか。

 という感じで、こういう話も織り交ぜようかなと思っていますが、持ち時間は60分なので、よくよく吟味しないといけませんね。

 ツアーのバスの中でもついつい30分とか45分とかマシンガントークをしてしまうこともあるので、60分はあっという間なのは理解しています。

 ところであなた、リラックスしすぎじゃないの?



 あ、気付いた?




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【保渡田古墳群などなど】5世紀の群馬県

2018-03-30 13:24:04 | 歴史コラム:古代
 明日はクラツーにて群馬の古墳ツアーをご案内してきます。

 明日見る古墳の築造時期は、5世紀から6世紀にかけてですので、その時代の群馬県周辺の古代史を昼休みの45分間で簡単にまとめてみようと思います。

 5世紀前半に築造された太田天神山古墳は墳丘長が210mあり、東日本ではもっとも大きな古墳です。



 ※太田天神山古墳

 私もクラツーでお客様をお連れしたりして、何度も訪れています。

 ツアーでは現地で話すのですが、当該墳は5世紀前半に、群馬県内の各勢力が共同して推戴した地域王の墓だと思っており、その出自に関しては元々の地元の権力者の可能性もあれば、ヤマトから政治的な意図で派遣されてきた将軍(しかも王の血縁者)である可能性もあるのかなと思っています。

 この時代は、倭国は朝鮮半島で高句麗とドンバチしていた時代なので、上毛野の豪族たちは、太田天神山古墳の被葬者に率いられ、朝鮮半島へ出征していたのではないでしょうか。

 考古学的にも上毛野では5世紀前半から半島の遺物が出土し始めているので、それらは上毛野の豪族がヤマトの旗の下、半島へ出張ったことにより手に入れたものでしょう。

 太田天神山古墳には「王者の石棺」と言われる最高ランクの長持型石棺が収められており、それはもう見ることはできないのですが、明日訪れる伊勢崎市のお富士山古墳では同じ形態の石棺を見ることができます。

 東日本では長持型石棺は確実なものは2例しか認められていません。

 お富士山古墳の築造時期は太田天神山古墳と同じころですので、当該墳には当時の上毛野のナンバーツーが収められたのでしょう。

 なお、太田天神山古墳の墳丘デザインは「古市型」と呼ばれ、河内地方の古墳と共通とされるので、ヤマト王権が河内に奥津城を築き始めた以降の政権との結びつきが考えられます。

 ところが、太田天神山古墳の被葬者から見ると孫の代のころ(5世紀末)には、関東地方の状況も変わってきます。

 太田天神山古墳のような広範囲から共立された王墓はなくなり、各地の地域ごとの豪族が力をつけて、ヤマトの大王と直接主従の関係を結ぶようになっていくのです。

 埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した国宝・金錯銘鉄剣に見られるように、各地の王の子弟が中央に上番する仕組みができてきたのです。

 上番した地方豪族の子弟たちは大王と人格的なつながりを持ったはずです。

 稲荷山古墳の被葬者は複数いますが、築造時期からすると、鉄剣を下賜された人物は明日訪れる保渡田古墳群の井出二子山古墳の被葬者と同時期の人で、また井出二子山古墳から出土した鏡と同氾鏡が、これまた明日訪れる観音塚古墳からも出ています。



 ※井出二子山古墳

 ただし、観音塚古墳自体は稲荷山古墳よりもずっとあとの6世紀末の古墳ですので、元々は観音塚古墳が属する八幡古墳群の最初の首長墓である平塚古墳の被葬者がその鏡を保持していた可能性があり、5世紀後半には、稲荷山古墳の被葬者も井出二子山古墳の被葬者もそれぞれが個別にヤマト王権と結びついており、平塚古墳の被葬者は井出二子山古墳の被葬者の影響下で、同じ鏡を所持していたということになります。

 以上が明日のツアーに関連する地域の5世紀の状況です。

 やっぱりこれだけの簡単な文章を書くのにもそれなりの時間がかかってしまいますね。

 とても6世紀まで書けませんでした。

 午後の現場に行かなければならないので、この辺でやめておきます。

 ※本記事は下記書物を参照しました。

東国から読み解く古墳時代 (歴史文化ライブラリー)
若狭 徹
吉川弘文館


 吉川弘文館の歴史文化ライブラリーシリーズは平易な文章で分かりやすい本が多いのでとくに好きなシリーズです。

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邪馬台国ヤマト説を否定する根拠は?

2018-02-20 22:36:58 | 歴史コラム:古代
 以前もチョロッと書いたとおり、邪馬台国の所在地に関しての私の考えは、最初に興味を持った20代半ばのころから20年の間で北九州説とヤマト説の間で揺れ動き、現在は北九州説となっています。

 そう考える理由は、考古学や文献史学などのアカデミズムからの根拠と共にある種の「感情」も加味されているから始末が悪いです。

 どうも、世の中的には邪馬台国はヤマトにあったという方向に落ち着かせたいような雰囲気があるのですが、そういう風潮がイヤなのです。

 ヤマト説を支持する人が多くなるほど、私は北九州説を探求したくなる。

 ようするにひねくれ者なのですね。

 こういったことを先日の北九州のツアーの際にバスの中で話したところ、後ろの方の座席から拍手が聴こえてきて大変うれしかったです。

 まだまだ北九州説を諦めるわけにはいきません。

 今読んでいる本で面白い本があります。

 『歴史文化ライブラリー294 邪馬台国の滅亡 大和王権の征服戦争』(若井敏明/著)

邪馬台国の滅亡―大和王権の征服戦争 (歴史文化ライブラリー 294)
若井 敏明
吉川弘文館


 2010年という比較的最近刊行された本なのに北九州説を唱えている本です。

 私が持っているのは2016年の4刷なので、歴史の本にしてはかなり売れているほうですね。

 該書に書かれている「邪馬台国がヤマトになかった理由」が非常にシンプルで説得力があるものなので、今日はそれだけお伝えします。

 該書は、『日本書紀』に書かれていることを基本的に肯定しているので、その前提を承認できない場合は、該書の意見に従えないかもしれません。

 私の場合も『日本書紀』を非常に重要視するのですが、歴代天皇が神武から代々あの順番で在位したとは考えていません。

 ただし、『日本書紀』に書かれた天皇のモデルとなった人物がいたとは考えており、若井氏と同じく、ヤマトの発展の歴史は、天皇の名前や絶対的な年代などを除いては、基本的には『日本書紀』に記された順番で良いのではないかと思います。

 それを前提として該書の内容をお伝えするので、ここまで読んでご意見の違う方は読まなくても結構です。

 さて、『記紀』(『古事記』と『日本書紀』)によると、ヤマト政権は景行天皇のときと仲哀天皇のときの2度、九州へ遠征しています。

 1度目の景行天皇の時の遠征ルートを見ると、「魏志倭人伝」に登場する玄界灘沿岸の諸国は出て来ず、景行は九州の中南部を横断して帰ってきています。

 つまり、玄界灘沿岸諸国をモノにすることはできなかったのですね。

 もちろん、ヤマト説を取る場合、すでに玄界灘沿岸諸国は邪馬台国連合に入っていたわけですので、当該地域に遠征する必要はないという意見がでると思います。

 ところが、2度目の仲哀天皇のときに服属してきた諸国が玄界灘沿岸の諸国(伊都国や奴国の後裔の可能性が高い豪族たち)であると記されているのです。

 ということは、このタイミングでヤマトは北九州を制圧できたということになりますね。

 仲哀が実在かどうかは別として、百済の記録と整合させると、仲哀天皇の没年は366年か翌年になるので、この頃、ヤマトは北九州の邪馬台国連合(元邪馬台国連合?)を制圧したことがわかるのです。

 昔から、『記紀』に卑弥呼や邪馬台国のことが記されていないのは、中国に従属していた歴史を隠すために(つまり律令国家のメンツを保つために)敢えて記さなかったといわれてきましたが、そもそも卑弥呼とヤマト政権は別物と考えれば記されていなくて当然です。

 また、これは先日、吉野ヶ里遺跡のガイドの方が解説していて、私とまったく同意見だったこととして、中国が果たして日本列島の近畿地方まで把握していたかどうかは分かりません。

 中国は北九州地域のことは知っていても、それより東のことは知らなかったかもしれません。

 知らない間にヤマトの豪族(天皇家の先祖)の力が増大して、上述の景行天皇や仲哀天皇のように西へ攻めて行ったと考えることもできるのではないでしょうか。

 ひとまず、若井氏の非常にシンプルな説をご紹介して、邪馬台国がヤマトになかった可能性が高いということを述べました。

 では具体的には北九州のどこにあったのか?

 それについは今後も探求していきたいと思います。


 ※4月7日(土)に西新宿のクラツーにて邪馬台国北九州説の可能性についてお話します。

 ⇒詳細・お申し込みはこちらまで



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古墳時代から律令時代への地方制度の流れ【別・国造・国司など】

2018-02-08 01:10:34 | 歴史コラム:古代
 今週の土曜日(2月10日)は、西新宿のクラツー本社にて、2本講座をします。

 

 午前中は東北の中世史で午後は「古代の役所」をテーマに話します。

 国府や郡家の遺跡についての解説とそこで働く役人さんたちの仕事内容をメインに話そうと思っていますが、今日はそれに関連したお話を少ししようと思います。

 私の講座やツアーでは国造(くにのみやつこ)という言葉がしょっちゅう登場するのですが、国造とは「大化改新以前に列島各地を治めていた地方の有力者(豪族)」で、ヤマトとの関係は「半独立」という感じで説明してきました。

 ただ、便宜上はそれでもよいのですが、今日はもう少し詳しく、国造から国司への歴史の流れをお話しします。

 主に参考にした書物はこちらです。

国造制の成立と展開 (古代史研究選書)
篠川 賢
吉川弘文館


 1985年の本なので、今の研究水準からすると少し時代遅れなところがある可能性もありますし、著者の篠川氏の独自見解が述べられている箇所もありますが、国造について基本的なことを押さえるのには適した本だと思います。

 まず、4世紀から5世紀にかけて(古墳時代の中期頃)、列島各地の大型前方後円墳を築造できるほどの有力な豪族は、「ワケ(別)」という称号を名乗っていました。

 これはヤマト政権の指導者も地方の首長もみな一緒です。

 力関係的にはヤマト政権の指導者がトップにはいるのですが、それでも地方の首長から隔絶した権力は持っていなかったのです。

 それが通説上の21代雄略天皇の頃には、ヤマト政権の指導者は「大王(おおきみ)」と名乗るようになり、地方の首長との力の差が大きくなってきます。

 雄略は5世後半に活躍した人物です。

 そしてつぎに国造が現れるわけですが、国造の出現時期については5世紀や6世紀という説があります。

 『日本書紀』によると、国造が登場する大事件が東西で発生しますが、西の事件が「筑紫君磐井の乱」で東の事件が「武蔵国造の乱」です。

 「筑紫君磐井の乱」の勃発は通説上の第26代継体天皇の21年(527)で、「武蔵国造の乱」は、通説上の第27代安閑天皇元年(534)の出来事とされ、『日本書紀』では磐井のことを「筑紫国造」としていることから、これらの事件以前にはすでに国造が存在したと考える人が多いようです。

 ところが、上述の篠川氏の研究では、国造はむしろ、磐井の乱の鎮定を契機として、まず西日本でほぼ一斉に設置されたとします。

 そして設置の理由は、朝鮮半島への軍事行動を強化するためであり、軍事的な制度として国造を創出し、それがのちに行政官となったとします。

 東日本での設置は少し遅れ、崇峻天皇の2年(589)に見える、近江臣の東山道への派遣等の時点と考えています。

 東日本での国造の設置が589年だとすると、国造の地位を一族内で争ったという「武蔵国造の乱」の発生時期は、そういった事件があったとしたら6世紀末期以降となり、ちょうど埼玉古墳群の周辺に大型古墳が築造されて、埼玉古墳郡の被葬者一族による武蔵国内での独り勝ち状態が崩れ出したという考古学的な事実と一致して興味深いです。

 なお、国造の下位には稲置(いなぎ)と伴造(とものみやつこ)が置かれ、伴造に関しては古代の政治制度である「部民制」と深く関わってきて、ここでその話をすると話題が拡がり過ぎるので今回は割愛します。

 さて、私は「大化の改新後は律令国家によって国造制度は消滅して「国-郡-里」の行政区画に移行し、701年の大宝律令によってその制度が整った」という説明を今までしてきましたが、これについてもう少し詳しくお話しします。

 まず、645年の乙巳の変のあと、孝徳天皇の時代に評制という制度ができ、郡の前身となる評という行政区画ができました。

 ちなみに、郡も評も「こおり」と読みます。

 評の役所のことを評衙(ひょうが)と呼び、評の長官を評督(こおりのかみ)・評造(こおりのみやつこ)・評司(こおりのつかさ)などと呼びます。

 この時代以降の話は土曜日の講座でも話そうと思っていますが、評衙の遺跡も各地で見つかっており、それが郡衙に発展するケースもあります。

 そしてここからが面白いところなのですが、評という行政区画を列島各地に設置して行っても、国造はいなくならなかったのです。

 つまり、評制を導入する代わりに国造制を廃止したわけではなく、国造の下位にあった稲置や地方の伴造が評へと移行していき、国造はそれら複数の評の上位者として君臨しました。

 『日本書紀』では、天武天皇の12年から14年にかけて(683~85)、国境確定の記事が記されていますが、このときに国造制の廃止が決まり、令制国の国(武蔵とか相模などの60余州)へ移行しました。

 ともすると、大化改新のあと、すぐに全国的に令制国が設置されたと思いがちですが、令制国の設置はこのような段階を踏んで、国造に取って代わって定められたのです。

 令制国の幹部のことを国司と呼びますが、国司が発足したのは大宝律令後でそれ以前は国宰(くにのみこともち)と呼ばれていました。

 国宰制の発足は、篠川氏は天智天皇9年(670)の庚午年籍(こうごねんじゃく)の作成時としています。

 『日本書紀』の大化改新の記事には「国司」という言葉が出てきますが、『日本書紀』は7世紀末期から8世紀初頭の政治意図や政治知識で書かれているため、書かれた当時に制度としてできていた「国司」という言葉を使ってしまったわけです。

 大化改新のときに各地に送り込まれた「国司」というのは同時代には「惣領」と呼ばれていました。

 惣領は評制を全国に及ぼすために、複数の国造を担当範囲として各地へ送り込まれたのです。

 さて、以上話してきたことを時系列にまとめてみると以下の通りとなります。

 ・4世紀~5世紀 各地の有力者は「ワケ」を称号として持つ
 ・5世紀後半 ヤマト政権の指導者が「大王(おおきみ)」として卓越した力を持ち始める
 ・527年以降 磐井の乱を契機として、西日本で国造が設置される(国造の下位には稲置と伴造)
 ・589年以降 東日本で国造が設置される
 ・645年以降 稲置と地方伴造の評への転換が始まり、その政策を推し進めるために惣領が複数の国造領域を管轄範囲として各地へ派遣される
 ・670年 国宰制が発足し国造制と並立する(国造の立場が弱まって行く)
 ・683~85年 国境が確定し国造制の廃止が決まる(「国-評」の行政区画となる)
 ・701年 大宝律令制定後、「国-郡-里」の行政区画が造られ、国宰は国司へ、評司は郡司となる

 以上の通り、7世紀末には国造制は廃止されてしまいましたが、史料上には9世紀半ばまで国造が現れます。

 この国造制廃止後の国造の実態についてはまた後日お話しできればと思います。

 以上の歴史的経緯を実際に国府の遺跡から見てみると、例えば武蔵国府の場合は、簡素な掘立柱建物によって役所らしいものができ上がるのは8世紀前葉なので、国司がまだ国宰と呼ばれていた時代には、役所は設けられていなかったことが分かります。

 史料上で認められる最初の武蔵守(国の長官)は大宝3年(703)の引田朝臣祖父なので、この頃に役所の建物を造り始めたのでしょう。

 武蔵国府の中心建物が立派な基壇の上に建てられた瓦ぶきの荘厳な建物になったのは750年頃です。

 陸奥国府の場合は、郡山遺跡の第Ⅱ期の構築が7世紀末とされ、やはりこれも国境画定後の造作となります。

 というわけで、そろそろ眠くなってきたのであとは土曜日にお話しますので興味がありましたらぜひいらしてください。

 ⇒クラブツーリズムの当該講座のページはこちらです


*     *     *


 あ、でも最後にもう一点。

 4月8日(日)に埼玉県神社庁とクラツーの共催で「神社Day」というイヴェントが催されます。



 場所は大宮の氷川神社です。

 上のチラシには名前が載っていませんが、「神社と古代史」というテーマで私も講演させていただきますので、こちらも興味がありましたらぜひどうぞ。


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千葉県の古墳分布と国造の配置を整理してみました

2018-02-03 21:32:02 | 歴史コラム:古代
 夕方から今年のツアーの企画を考え始めました。

 クラツーのお客様から千葉県方面のツアーをして欲しいとのリクエストをいくつかいただいたので、今年は千葉県方面にも出張ってみようかなと思っています。

 一応、私は千葉県出身なのですが、地元の歴史をきちんと調べることもなく、24歳のときに千葉県を出てしまいました。

 たまに千葉県の歴史の本を読むと自分の生まれ育った地域にも面白い歴史が沢山あったことを知るのですが、私の住んでいる高尾から千葉県は都心を通過して行かなければならないので、心理的に遠いため今まであまり探訪していません。

 なので、知識が薄いのです。

 そのため今日は少し千葉県の古墳について調べてみました。

 メインとなる資料は千葉県内の博物館で入手することができる『房総の古墳を歩く[改訂版]』(芝山町立芝山古墳・はにわ博物館友の会/編)です(Amazonでも古書で手に入るようです)。

 古墳時代後半の地域の代表(有力者)と言ったら国造(くにのみやつこ)という豪族ですが、千葉県は国造が多い地域なのです。

 そして、前方後円墳の数は日本一で、中世城郭も軽く1000箇所を越えて、今なお人口も多いことから分かる通り、古代の昔から人がたくさん住んでいる先進地域でした。

 国造は時代によって増減したと思うので確かなことは言えないのですが、平安時代に書かれた『先代旧事本紀』によれば、千葉県内には9つの国造がいました。

 ちなみに、群馬県内は1つ、栃木県内は2つ、神奈川県内は2つという感じで、千葉県は全国的に見ても国造が密集していた地域なのです。

 そのため私は、平成の大合併で千葉県内の自治体の合併があまり進まなかったのは、古代以来の千葉県の歴史が関連しているのではないかと思っています。

 さて、千葉県の古代史についての知識が薄いため、まずは代表的な古墳の把握と、国造の場所を整理しようと思い、前述の『房総の古墳を歩く[改訂版]』に掲載されている千葉県の古墳マップを拝借して、国造をプロットしてみました。



 見事に古墳密集地域と国造が一致しましたね。

 それでは、この地図を眺めながら気付いたことを何点か述べてみようと思います。

 まず、上海上(かみつうなかみ)国造と下海上(しもつうなかみ)国造という、元々は一つじゃなかったの?と思われる国造がいます。

 もし、両者が一つの勢力だったとすると、国造は6世紀に配置されるものなので、それ以前に千葉県北部の広範囲を版図とする「海上」という勢力があったことが想像できます。

 手元には千葉県の古代史について書かれた資料がほとんどないので、Webで調べてみると、そういう説があるようですね。

 面白いので今後も調べてみようと思います。

 つぎに、千葉国造と長狭(ながさ)国造はその支配地域に目立った古墳がないことが分かりました。

 手元の『先代旧事本紀』を読むと、その2つの国造は載っていません。

 これもWebで調べたことなので無責任な話になってしまいますが、その2つの国造は新しい国造のようなのです。

 古墳時代が終わってから任じられた国造であれば古墳がなくても当然ですね。

 国造は大化改新によって解体が進んだのですが、宗教的権威者として地域に残るケースもありましたし、律令国家が何かしらの政治的な意図を持って国造に任じた可能性もあるのではないでしょうか。

 れこも今後の研究テーマにします。

 そして私の出身地である松戸市周辺の東葛飾郡地域(千葉県北西部)がどの国造の勢力範囲だったかというと、『房総の古墳を歩く[改訂版]』では千葉国造の支配地域としています。

 ところが、そこで生まれ育った私の肌感覚ですと、千葉方面よりかは、川によって繋がっている印波国造と関わりが強かったように思えます。

 東京に引っ越してからのことですが、千葉県の中世城郭について調べているときに、千葉県北西部の地形図をたくさん買ってきて、地形について調べました。

 さらに千葉県の中世史の本を読んでも、中世の頃は利根川流域が「香取の海」という内海になっていて、東葛飾地域の河川も今よりも水量が豊富で、香取の海に接続していたことを知りました。

 つまり、中世のころまでは松戸辺りからでも船に乗れば霞ケ浦まで行くのもそれほど大変なことではなかったと想像できます。

 したがいまして、北西部地方は千葉国造ではなく(そもそも6世紀に千葉国造はいなかった?)、印波国造の支配地域だったと考えられます。

 ところで、印波国造の墓とも言われる岩屋古墳は7世紀に築造され、方墳としては全国で2番目に大きいのですが(一辺が78m)、岩屋古墳が築造された時点では天皇の墓よりも巨大なのです。



 なぜ地方の豪族が天皇の墓をしのぐ大きさの古墳を築くことができたのでしょうか。

 こういったことを考えるのも古代史の楽しみの一つですね。

 なお、千葉県の古代史を楽しむ上ではこの本も参考になるかなと思います。

房総の古代・上海上氏族
古川 庄次
国書刊行会

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【決して怒らないでください】邪馬台国はここにあった!【奈良or北九州?】

2018-01-07 21:03:55 | 歴史コラム:古代
 今日は朝から一日中古墳のことを考えていたら気持が悪くなってしまいました。

 そのため、ジジと遊んだ後は、気分転換に邪馬台国について考えてみました。

 でも、邪馬台国の場所とかを考え出すと、これまた気持が悪くなるんですよね。

 考えても考えても良く分からないのです。

 そのため、脱力して息抜きとして考察してみました。

 「邪馬台国所在地論争」をしだすと絶対に決着しないので、この文章を読んで怒りがこみあげてきたら静かにPCの電源を切ってその場から立ち去ってシャワーでも浴びてください。


 1.邪馬台国はここにあった!

 私は中学生のときから『三国志』に触れ合っているため、気が付けば知らないうちに邪馬台国と長い付き合いになっていました。

 所在地に関しては、奈良だと思ったり北九州だと思ったり、その時々で考えがコロコロ変わり一定しません。

 でも、世の中的には奈良(しかも桜井市の纒向遺跡)に決着したような風潮があり、私はその雰囲気が嫌いなので、現在は北九州説についてまだまだ調べる余地はあると思って頑張っています。

 今日、息抜きに考えたところでは、邪馬台国の場所は福岡市の八女市ということになりました。

 後に、筑紫君磐井が登場する場所です。

 なんでそうなったのかについて、これからお話しします。

 まず、私は「魏志倭人伝」の数値は気にしません。

 邪馬台国の人口が7万人とかはあり得ないでしょう・・・

 ですから、旅程が何里というのはひとまず無視します。

 そして方角ですが、これもヤマト説の人は南と書かれているのを昔の中国の地図を参照して東として考えていますね。

 「魏志倭人伝」を読みつつ、そこに登場する国に比定されている遺跡の場所を見ていくと(一部は推定地ですが)、90度は無理ですが、だいたい20~25度くらい違っています。

 そうすると、投馬国が鳥栖市辺り(鳥栖市柚比町の安永田遺跡とか)で、邪馬台国が八女市の磐井の本拠地となります。

 「やまたいこく」の「やま」は「八女」じゃないでしょうか。

 スミマセン、シンプルすぎる考察ですね。

 邪馬台国がヤマトであるのなら、不弥国の次に出てくるのが投馬国でその次が邪馬台国というのは非常に大ざっぱ過ぎないでしょうか。

 福岡県から奈良市までの間に、もっとたくさん国があっても良いんじゃないでしょうか。

 なので私は末盧国から邪馬台国までをすべて北九州に収めたくなるのです。

 「魏志倭人伝」で邪馬台国以降に出てくる国はすべて出鱈目と考えます。

 当時も妖怪が住む国は日本にはなかったはずです。


 2.『三国志』は当然ながら政治的な書物

 『三国志』を書いた陳寿は、司馬王権に逆らえませんので、司馬王権の祖である司馬懿を顕彰する必要があります。

 これは岡田英弘氏の『倭国』でかなり昔から指摘されていることですが、魏の政権では曹真という魏の王様・曹操の親戚の武将が西域(シルクロード方面)の平定に大変な功績を挙げたため、それに匹敵するレヴェルで東側の平定に司馬懿が活躍したように書く必要がありました。

 実際、司馬懿は遼東半島の制圧をしていますが、それ以上に東海の「強国」である倭をてなづけたように書きたいのです。

 そうなんです。

 政治的には倭は「強国」でないといけないのです。

 ですので、邪馬台国の人口が7万人とか、偉く遠い場所にあるとか、国の数が沢山あるとか(邪馬台国より先にある妖怪が住んでいるような出鱈目な国々)、そういう記述が必要になったわけです。

 こういった『三国志』が書かれた時の政治情勢なども考慮しつつ、私は邪馬台国について考えることにしています。


 3.邪馬台国はこんな国

 邪馬台国は、「女王の都する所」なので、名前に「国」がついていても、巫女である卑弥呼が居住する施設程度に考えていいかもしれません。

 私はよく、「EUの本部」と表現します。

 EUの本部があるベルギーはチョコレートは美味しいと思いますが、ヨーロッパでは決して大きな国ではないですよね。

 卑弥呼もシンボル的な存在としてそこに居れればいいので、人口が7万人とかはいらないのです。




 4.そのときヤマトは?

 「魏志倭人伝」には、倭人はもともと100余国に分かれていて、今は30国が使者を送ってくると書いてあります。

 ここでいう「今」は、陳寿がせっせと『三国志』を編纂しているときのことなのか、三国志のリアルタイムな時代のことなのか、これは大変気になりますが、卑弥呼が祀りあげられて邪馬台国という国があっても、30国がそれぞれ使いを送っていたわけですね。

 ただ、中国からすると外交ルートは一本化したいと思うので、30国がバラバラに外交していたわけではなく、中国の皇帝に会いに行く時はみんなで船団を組んで一緒に行ったのだと思います。

 107年に帥升等(すいしょう「ら」)が徒党を組んで後漢に行ったのと同じ要領です。

 そして、元々100余国が30国に圧縮されたのではなく、相変わらず100くらいの国は日本列島に散在していたのでしょう。

 そのなかの一つに奈良の纒向遺跡の勢力もあったのでしょう。

 私が「魏志倭人伝」を読んでいて一番気になっているのは「大倭」という存在です。

 大倭というのは国々の市を監視している存在です。

 大倭の監視・管理のもと、各国は交易を行っていたわけです。

 私はこの大倭こそがヤマトの勢力で、のちにヤマト政権を造り上げる勢力ではないかと思っているのです。

 つまり系譜上の天皇の先祖です。

 そうなると、交易を監視・管理できる権力ですから、奈良のヤマト勢力は邪馬台国よりも偉い存在になってしまいますね。

 つまり宗教的な世界では邪馬台国にまします卑弥呼が君臨して、政治的な世界ではヤマトの王が君臨していたと考えるわけです。

 ちょうど、中世から近世にかけて、将軍と天皇が並立していたのと同じような感じです。


 5.結論

 結論付けると、3世紀の日本列島には、宗教的な権威として卑弥呼が君臨し、政治的な実力者としてヤマトの王がいたということになり、邪馬台国は八女市にあり、EUの本部のような位置づけだったということになります。

 こうして自分で書いておきながら、かなり突っ込み処が満載だなあと思いますが、この記事は息抜きで書いた物なので、論争はしませんよ。

 そして今日はこんな風に書いていますが、明日は気が変わっているかもしれませんのでどうぞご了承ください。

 というわけで、もし八女市にある磐井が生前に築造した岩戸山古墳や「魏志倭人伝」に出てくる北九州の国々の遺跡をご自身の目で見てみたいと思いましたら、こちらの上段に書かれているツアーをお薦めしたいです。



 「したいです」と消極的に言ったのは、実は2月のこの2本はすでに満席となってしまったからです。

 でも、3月に同様のツアーをやりますので、興味のある方はもうそろそろ発行される「歴史への旅」の最新号をご覧くださいね。
 


邪馬台国の滅亡―大和王権の征服戦争 (歴史文化ライブラリー 294)
若井 敏明
吉川弘文館
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野本将軍塚古墳と比企地方の出現期古墳/武蔵国はもともと一つの地域か?

2018-01-07 15:18:34 | 歴史コラム:古代
 昨日(1月6日)はクラツーでの仕事始めとして、「元祖山手七福神めぐり」のガイドをしてきました。



 4日に下見に行った件はこのブログで何度かに渡ってご報告しています。

 昨日も4日同様、とても良い冬晴れで、風もない穏やかな一日でした。

 そんななか、5名のお客さんと共に歩いてきたわけです。

 このツアーはカタログなどで告知しておらず、私や添乗員のN島さんの講座やツアーに来ていただいた方々にチラシを手配りして告知したものなので(DM発送をしたのかは知りません)、その中から5名もご参加いただけたのは大変ありがたいことだと思っています。

 御朱印は色紙に全6ヶ寺分を書いていただいたのですが、書く人がそれぞれのお寺で何人かいらっしゃいますので、最後にみなさんで筆跡を見比べて楽しみました。



 皆さん、ご参加ありがとうございました。

 今年もきっと良い年になりますよ!

 打ち上げはたかお食堂です。

 次の「歩く日」では、久しぶりにたかお食堂で打ち上げをしますので、皆さんで飲む用に「黒霧島」の一升瓶を入れておきました。



 いつも皆さんに入れていただいて私はタダ酒を飲む一方で大変申し訳ないので、今回は先手を打って補充をしておきましたよ。

 ただし、すでに少し減りましたが・・・

 というわけで、今度の日曜日も楽しみましょう!


 1.野本将軍塚古墳と比企地方の出現期古墳

 さて、次のクラツーのツアーは土曜日(13日)の埼玉古墳群ツアーです。

 そのため、今日から準備に入りました。

 昨年12月3日に同じツアーをやっているためレジュメはすでに完成していますが、あれから1ヶ月経ち、私自身の知識や考察もさらに深まりましたので改訂すべきところは改訂します。

 例えば、このツアーでは東松山市の野本将軍塚古墳を訪れますが、野本将軍塚古墳関係でもう少し説明を詳しくしようと思っています。





 野本将軍塚古墳は墳丘長115mを誇る前方後円墳で、おそらく埼玉県内では4番目の大きさです。



 これだけ立派な古墳ですが、きちんとした調査がされておらず、築造時期に関してはおそらく4世紀後半ではないかと「推定」の域を超えません。

 その時期が正しいとすると、埼玉県内で最初に造られた大型前方後円墳になります。

 埼玉県では埼玉古墳群が突出して高い知名度を誇っており、他の古墳はあまり注目を浴びていないようですが、埼玉古墳群が築造される埼玉(さきたま)という場所は、稲荷山古墳が造られる5世紀後半まで、目立った古墳が造られることのなかった地域です。

 古墳時代の幕開けである3世紀後半の埼玉県域でもっとも早く古墳の築造が集中的に始まった地域は比企地方なのです。

 そのため、埼玉古墳群のツアーでは、古代における比企地方の重要性をお話ししたくて、ちょうど埼玉古墳群に向かう途中にある野本将軍塚古墳に寄るようにしているのです(県内でもう一つ重要な古墳である川越市の山王塚古墳にも寄ります)。

 野本将軍塚古墳は東松山市下野本に所在し、現地に行くと平野の中にポツンと小山のように存在していますが、実は微高地に築造されています。



 比企北丘陵と比企南丘陵の間に挟まれた東松山台地の上にありますね。

 比企北丘陵の先端部分には、中世城郭である松山城や古墳時代終末期の横穴墓である吉見百穴があります。

 ただし、既述した通り野本将軍塚古墳は4世紀の築造で、それよりも古い古墳が高坂(たかさか)8号墳と呼ばれる前方後方墳です。

 高坂8号墳は、残念ながら区画整理のため完全になくなってしまいましたが、非常に興味深いことに三角縁神獣鏡が出土しています。

 私はかねてより、弥生時代後期に東海人が関東各地に進出し、彼らが関東地方の古墳時代の幕開けを担ったことについて大変興味を持っているのですが、『考古学リーダー26 三角縁神獣鏡と3~4世紀の東松山』所収「関東地方への前方後円(方)墳の波及を考える」(北條芳隆著)によると、東松山市内の高坂3番町遺跡で出土した「大廓型壺(おおぐるわがたつぼ)」は、東海地方の中でも駿河湾岸の人びとが造った土器です。

 そして高坂8号墳の前方部は大岳山(御岳山の奥)に向かっており、そのすぐ左奥には富士山が望見できることを踏まえ、この地域の開発者は富士山を神として拝む駿河湾岸地方に出自を持つ人びとと推測しています。

 そうなると面白いのは、比企地方の初の大型古墳である野本将軍塚古墳の主軸が富士山をまったく考慮しない南北方向にあることとの違いです。

 野本将軍塚古墳の被葬者にとってはもはや富士山は信仰の対象ではなかったのでしょうか。

 3世紀後半に駿河湾岸出身者たちが強力な勢力を張った比企地方は、その100年後には別の勢力に取って代わられてしまったのでしょうか。

 これは面白い問題ですね。

 そしてさらに面白いのは、埼玉古墳群で最初に造られた稲荷山古墳の前方部がまっすぐ富士山を向いていることです。

 これは上述の書を読んで初めて知ったのですが、Webの「Yahoo!地図」で見てみると、まったくその通りで鳥肌が立ちました。





 稲荷山古墳の第一主体部には舟形木棺が納められていました。

 第一主体部の被葬者は死後、船に乗って富士山の方向へ帰って行ったのです。

 このことから、北條氏は埼玉古墳群と富士山を信仰していた駿河湾岸地域の勢力との関連を示唆しています。

 ただしそうなると、埼玉古墳群には主軸の向きが稲荷山古墳と違う前方後円墳のグループもありますね。

 稲荷山古墳と主軸の向きが違う将軍山古墳の前方部を引っ張って行くと、大菩薩嶺の横の妙見ノ頭に行きつくので、そうなると妙見信仰との関わりが・・・

 野本将軍塚古墳の南方1.5kmの地点にある反町遺跡からは山梨県産の水晶が出ているけど、甲斐源氏も妙見信仰があったようだ・・・

 などと時代を錯綜させながら支離滅裂な想像はどんどん膨らんできます。

三角縁神獣鏡と3~4世紀の東松山 (考古学リーダー)
東松山市教育委員会
六一書房


 「関東地方への前方後円(方)墳の波及を考える」は学術的な内容ですが、非常にロマンティックでもあり、大変引き込まれました。

 上述のような内容もツアー当日に実際の古墳を見ながらお話ししようと思っています。



 ツアーはまだ定員に余裕がありますので、興味がありましたらぜひご参加くださいね。


 ⇒クラツーの公式ページはこちら


 2.武蔵国はもともと一つの地域か?

 今日はもう一点お話しします。

 私が気になっていることの一つに、なぜ武蔵国の国府が今の東京都府中市に置かれたのか?というのがあります。

 それに関係してくるのが、「武蔵国造の乱」との関連や、『先代旧事本紀』の国造一覧に「无邪志国造」と「胸刺国造」が記されていて、それが同一のものか別個のものかという問題です。

 律令国家は「武蔵国」という行政区画を造りました。

 そのため、武蔵国の領域はもともとまとめるのに親和性の高い、同一地域だったのではないかと考えることもできると思います。

 律令以前の国造時代は、まず秩父地方は別に「知々夫国造」がいたことは確かです。

 問題は秩父地域を除いた範囲です。

 この図は3世紀後半時点での「出現期古墳」を擁する勢力の図です。



 千葉・茨城・栃木に関しては、まだ私の探訪経験が未熟なので、有名な千葉県市原市の神門古墳群のグループのみプロットし、群馬県域に関しては代表的な出現期古墳をプロットしましたが、もしかすると寺山古墳は4世紀代に下るかもしれません。

 この図を見れば分かる通り、武蔵国の範囲では、荏原・橘樹勢力と比企勢力の間は大きな空白地帯になっており、比企勢力はむしろ上野国の諸勢力と近い位置にあります。

 これは一瞥して、両勢力は別個の勢力で、3世紀後半から4世紀にかけて別個の勢力だった地域が、7世紀後半に一つの「武蔵国」としてまとめられたことが分かると思います。

 荏原・橘樹勢力の加瀬白山古墳と比企勢力の高坂8号墳で、それぞれ三角縁神獣鏡が出土しているというのも、ヤマトがお互いを別個の勢力として認知していたことの証ではないでしょうか。

 さらに気になるのは、武蔵国に属する「那珂郡」の位置がかなり北に偏っていることです。

 那珂郡というのは「中郡」の意味で、本来は「上郡」と「下郡」の間に位置するものです。

 それが国の北に偏っているのは、もともと武蔵国の北半分が一つの国であり、その範囲内での「中」であると考えれば決しておかしな位置にはなりません。

 時代が大きく下って、明治維新の廃藩置県の際も、明治政府は例えば青森県のように、わざわざ隣接する仇敵同士をくっつけて一つの自治体にしています。

 そのような事例から類推して、律令国家も元々は別個で文化的にも異なる荏原・橘樹勢力と比企勢力の後継者と思われる埼玉勢力をくっつけて武蔵国を造ったと考えられます。

 そうなると、既述した『先代旧事本紀』の「无邪志国造」と「胸刺国造」はそれぞれ別個の国造で、「むざし」(无邪志)が比企(および埼玉)勢力で胸刺(むなさし)が荏原・橘樹勢力のことと考えることもできますね。

 以上、考察はまだまだ続きますが今日はこの辺で。

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【出羽内陸部最北の前方後円墳は?】出羽国置賜郡(米沢市周辺)の古代史【「置賜」は何と読む?】

2017-09-23 18:11:07 | 歴史コラム:古代
 私の脳内では近世城郭旋風が吹き荒れていることはすでにお伝えしましたが、そんななか、米沢城をアップしたら米沢の古代史について調べたくなりました。

 講座などで東北地方の話をするときはどうしても奥州がメインになってしまい、羽州は薄くなりがちです。

 史料上の制約もあることにはあるのですが、米沢市がある置賜地方に関しては興味があってもまだ自分の脳内では整理が付いていなかったのです。

 なので、非常に簡単ではありますが、置賜地方の古代史をまとめてみました。

 1.置賜の古墳とヤマト政権

 米沢市のホームページに掲載されている「城下町 ぶらり歴史探訪」によると、戸塚山は米沢市大字浅川(市域の北東)にある標高356メートルの独立丘陵で、山頂から山麓に点在する195基の古墳が戸塚山古墳群として昭和61年に市指定史跡となっています。

 古墳群内でもっとも大きな古墳は山頂にある139号墳で、墳丘長54メートル、高さ4.5メートルを測る前方後円墳です。

 139号墳の東側には、帆立貝式古墳が2基(137・138号墳)あるのですが、137号墳(墳丘長24メートル)は昭和57年の発掘調査で竪穴式石室が調査され、組合式の箱形石棺からほぼ完全な人骨が見つかりました。

 この人骨を調べたところ、身長145センチほどの女性で、推定年齢は40~50歳、骨は細く華奢だったそうです。

 137号墳は5世紀の終り頃の築造ですが、この古墳群の面白いところは、前方後方墳も一基含まれていることから、古墳時代前期の4世紀には築造が開始されて、終末期に当たる7世紀頃まで延々と古墳の造営が続いたところです。

 つまり4世紀という早い段階で、米沢市域はヤマトの影響下にあったわけですね。

 さらに、出羽内陸部における前方後円墳の北限を追って行くと、戸塚山古墳群から北に約10.5kmの位置の山形県南陽市長岡に4世紀に築造された稲荷森古墳(墳丘長96メートル)があります。

 墳丘長が96mというのは4世紀の時点ではかなりの大きさで、東北地方の全ての古墳の中でも6位の規模です。

 稲荷森古墳も戸塚山古墳群と同様米沢盆地に所在しており、さらに北限をたどれば、山形県東村山郡山辺町大寺にある坊主窪古墳群の坊主窪1号墳(墳丘長27メートル)が出羽内陸部における最北端の前方後円墳となります。

 ただし、坊主窪1号墳の築造時期は6世紀なので、戸塚山古墳群や稲荷森古墳と同様に考えるのはやめた方が良いと思います。

 そのため、3世紀にヤマトにおいて発足したヤマト政権は、約100年の間に、米沢盆地まで影響力を伝播させたと考えて誤りないでしょう(陸奥側では大崎平野の江合川の流域が実質的な北限です)。



 ※墳丘長168メートルを誇る東北地方最大の前方後円墳・雷神山古墳(宮城県名取市):出羽の古墳の写真は一枚も撮ってないの、ごめんね。

 2.置賜地方と律令国家

 米沢地方は古墳時代の終末期には『日本書紀』にしっかりと登場するようになります。

 現在の米沢市周辺は奈良時代以降、置賜郡という行政区画となっており、明治11年には南置賜郡・西置賜郡・東置賜郡に分かれ、米沢町は南置賜郡に属しました。

 置賜は「おきたま」と読むのが一般的ですが、JR奥羽本線にある置賜駅は「おいたま」と読むことを鉄道マニアなら知っているかもしれません。

 一体、「おきたま」なのか「おいたま」なのかどっちなのでしょう。

 置賜の地名の初見は、『日本書紀』の持統紀3年1月3日の条で、西暦にすると669年に当たりますが、陸奥国優キ雲郡(「キ」は山偏に耆)の城養の蝦夷(きこうのえみし。朝廷に服属した蝦夷)である脂利古(しりこ)の息子・麻呂と鉄折(かなおり)の2名が出家した記事があります。

 優キ雲は、「うきたむ」と読め、これが時間とともに「おきたま」となり、ときには「おいたま」と呼ばれるようになりました。

 実は陸奥国がいつできたのかは判明していないのですが、『続日本記』によれば、出羽国も当初は和銅元年(708)9月28日に越後国から新たに出羽「郡」を作りたいとの言上があり、それを朝廷が許したことにより発足しています。

 そして和銅2年(709)以前には出羽柵が構築されていましたが、古代の東北地方においては、郡は安定地域に置かれる行政区画で、まだ不安定な地域には柵を置いて統治を始めるのです。

 そのため、ここからは私の推測になってしまいますが、このとき発足した出羽郡は庄内平野の中の最上川南岸地方で、出羽柵はまだ支配が不安定な最上川北岸地域に構築されたのではないでしょうか。

 『続日本紀』の和銅2年7月1日の条によると、蝦夷を討つため諸国から兵器を出羽柵に運ばせ、8月25日には征蝦夷将軍の佐伯石湯(さえきのいわゆ)と副将軍の紀諸人(きのもろひと)が征討を終えて都に帰っています。

 このときの征夷が果たして実際に行われていたかどうかは分かりませんが(パフォーマンスだけだったかもしれない)、もし蝦夷が騒動を起こしたための鎮圧をしたのだとしたら、前年に出羽郡を造ったことによる地元民の反発(税を取られるようになり自由を奪われる)や、その頃築造されたと思われる出羽柵に対する反発が騒動に発展した可能性が高いです。

 しかし、『続日本紀』の和銅5年(712)9月23日の条では、出羽郡は晴れて出羽「国」に昇格し、直後の10月1日に陸奥国から置賜郡と最上郡を譲られて体制が整っていることから、最上川流域の現地住民たちの騒動は鎮静化されたのでしょう。

 なお、この時の表記では「置賜郡」となっています。

 ところで、「置賜」の読みがこのようにいくつもあるというのは、もしかするとそもそもの地名がヤマト言葉では無くアイヌの先祖の言葉に由来したものだったからかもしれません。

 同様なケースとして陸奥国では767年に「伊治城」という城が築かれ、「これはり」と呼ばれましたが、その地域が安定した後は「栗原郡」が建置され、「くりはら」と呼ぶようになります。

続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
宇治谷 孟
講談社
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