日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

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阿曽沼城:栃木県佐野市:2002年2月9日:奥州城壁癖(33)「2002年社員旅行の帰り道」

2013-09-13 21:25:45 | 奥州城壁癖 南部地方の城館跡ルポ
阿曽沼城【探訪第1回目】 「2002年社員旅行の帰り道」 ―――奥州城壁癖復刻版 No.33

 ⇒前回の「奥州城壁癖復刻版 No.32 佐津間城」はこちら。

 本日の天気は上々。

 だがしかし、肝心の自分の体調が思わしくない。

 今日はあまり無理はできないな…。

 私の会社の社員旅行は少し変わっていて、金曜日の夜に宿に入り夜中まで飲み食いして、
 翌土曜日の朝に解散となる。

 私は他の社員よりも早く起き、7時にはホテルを出立した。

 鬼怒川温泉発7時21分の東武特急「きぬ102号」で栃木まで行き、
 そこでJR両毛線に乗り換え、9時前には佐野に到着。

 車内からホームに降り立つと、やはり寒い!

 といっても、勿論東北の比ではないが、私の基準と照らし合わせると、
 やはり寒い部類に分類されよう。

 とりあえず、まずは道路地図を頼りに浅沼八幡宮を目指す。

 ところで、沿道にはやたらと「佐野ラーメン」の文字が目立つ。

 昼飯時はその佐野ラーメンとやらを食してみよう。

 県道67号線を東進し、相生町交差点で右折。

 路地を歩き、東武佐野線の踏切を渡ると、浅沼八幡宮にたどり着いた。

 境内に入ると、早速標柱を発見。


写真1 阿曽沼城跡の標柱

 境内にはそれ以外にも、立派な石造りの碑や、八百年祭記念碑というものもある。


写真2 石造りの碑


写真3 八百年祭記念碑

 八百年祭記念碑は、阿曽沼城築城800周年を記念して、阿曽沼氏ゆかりの方々や
 地元有志の方々によって昭和53年に建てられたものだそうだ。

 阿曽沼氏は下野以外にも、陸奥(岩手県遠野市)や安芸(広島県広島市)などにも所領を持ち、
 子孫が全国にいると思われるが、このイベントの時は全国から縁者がやってきたのだろうか。

 また、かつては城の一部を復元する計画もあったようだが、
 昨今の景気では実現は難しいかもしれない。

 阿曽沼城は、東西約187メートル・南北約235メートルの規模で、
 周りを空堀(水堀か)と土塁で囲った方形の城であった。

 大手は南にあったらしく、今でも土地の区割りからそれらしい匂いが感じ取れる。

 本丸跡と伝わる場所は小字中ノ内といい、現在旧臣上岡氏が住んでいる。

 また、城域内には、阿曽沼氏と縁の深そうな浅沼理容室という店もある。

 浅沼八幡宮は、城域の東北隅(鬼門)にあるが、かつては西南(裏鬼門)にあったという。


写真4 浅沼八幡宮
西側入り口から撮影。社殿の奥には、空堀とホントに微妙な高さの土塁が残存している

 現在見られる遺構は、八幡宮東側の空堀と土塁の跡のみである。


写真5 東側空堀
文献で見られる規模よりも実際は小さい

 唯一残る空堀の大きさだが、『佐野市史 資料編1』には、
 幅は7~8間(約12.6メートル~約14.4メートル)、
 深さは9尺~1丈6尺(2.7メートル~4.8メートル)と書かれているが、
 私が見た感じでは、上幅が約5メートル、底幅が約1.5メートル、深さが約2メートルであった。

 長い時間が経過してしまっているので、埋もれてしまったのだろう。

 また、『佐野市史 資料編1』には、南西側の竹林の中にも
 空堀の跡が認められると書かれているが、あとで確認しに行ったところ、
 現在は竹林自体が存在せず、そちらの遺構はまったく破壊されていた。

 ところで、地形図を見ていて気になったのだが、阿曽沼城の北方300メートル強の場所に、
 比高15メートルほどの丘(引地観音)がある。


写真5 引地観音遠望
南方約300メートル地点より撮影

 阿曽沼城跡を見たあとは、その引地観音の丘に行ってみる。

 丘に登って阿曽沼城方面を眺めてみる。

 その眺めから想像するに、往時はこの丘からは阿曽沼城内が丸見えであった筈である。

 私が目を通した資料には、この丘が軍事的に重要だったということは何も書かれていないが、
 阿曽沼城周辺は全くの平地なので、この丘に物見の砦を築いて、
 絶えず四方を監視していた可能性があるのではないかと思う。

 ちなみに、『安蘇郡案内誌』には、正応2年(1289)、藤原有綱(足利有綱)が
 「城の鬼門にあたるこの小山を平らげ伽羅を御建立…」と書かれており、
 また、「永禄元亀の間兵火に罹りて…」とも書かれている
 (ただし、正応2年に有綱が云々というのは時代的に合わない…)。

 しかし、なんとも気になる丘である。

 さて、そろそろお昼なので、気になっていた佐野ラーメンを食べてみよう。

 適当な食堂に入り(ラーメン専門店ではない)、ラーメンを注文。

 そもそも私は佐野ラーメンというものを知らないため、佐野ラーメンを食べたのか、
 佐野でラーメンを食べたのか、どちらかわからないが、味はそこそこだった。

 このあと私は、市立図書館に行き、夕方5時過ぎまで、
 阿曽沼氏とそれに関連する城館を調べたのであった。

 ちなみに佐野市立図書館は、県道67号線を駅から見て阿曽沼城とは
 反対方向に10分くらい歩いていくと、右手に入口の看板が見える。

 2Fに郷土資料コーナーがあり、棚に読みたい資料が見当たらなくても、
 係の人に尋ねれば裏の書庫から出してくれる。

 コピーは1枚20円で、セルフサービスではない。

 阿曽沼城と下野阿曽沼氏の歴史

 藤原秀郷の末裔、足利有綱は唐沢山城に居していたが、
 南方約5キロの阿曽沼に支城を築き、四男広綱を城主に任じた。

 広綱はその地名を取って阿曽沼を姓とした。

 現在ではイメージを掴みにくいが、往時は安蘇沼という広大な沼があり、
 阿曽沼城は平城ながら、沼地に囲まれた堅固な城であったという。

 現在周辺は完全に住宅地や畑と化している(不思議と田が少ない)。

 初代広綱は、鎌倉幕府立ち上げ時の有力メンバーとして、
 吾妻鏡などにも頻繁に登場するメジャーな武将である。

 その後、『阿曽沼史話』によると、阿曽沼氏から大栗五郎と畳岡七郎という人物が分かれて、
 それぞれ城を築いたという。

 畳岡七郎の居城は、「小野寺領の近く」と書かれているので、
 阿曽沼城から東に約5~6キロの下都賀郡岩舟町の畳岡付近と思われるが、
 大栗五郎が築城した場所は、「岩船町」の「渡良瀬川を隔てて館林をのぞむ場所」
 と書かれており、場所的に矛盾している(岩舟町は、渡良瀬川河畔ではない)。

 もしかすると、阿曽沼城の北約2.5キロに、大栗町という場所があるので、
 そこに築城したのかもしれない。

 私が資料を調べた限りでは、大栗城と畳岡城は、『阿曽沼史話』にしか登場しない。

 阿曽沼氏は下野以外にも陸奥や安芸などに所領を持っていて、
 それぞれ代官を置いて、下野阿曽沼氏がそれらを遠隔統治していたと思われるが、
 建武の頃(1334年頃)には、陸奥や安芸の分家は独立していったようである
 (独立の時期については諸説あり)。

 南北朝時代、下野阿曽沼氏は、南朝に従い戦っていたが、
 北朝側の足利・小山・皆川などに囲まれ、非常に不安定な状態であったと考えられる。

 『阿曽沼氏の歴史に関する若干の問題』によると、「確証はないが、
 阿曽沼の城を棄てた事もしばしばあったと伝えられる」と書かれている。

 北朝側に攻められ、守りきれずに一時的に非難して、
 チャンスを見て奪回を果たすということも、度々あったということだろう。

 文和3年(1354)頃、足利尊氏は鎌倉公方基氏に対して、阿曽沼民部大輔の跡地に関して、
 小山氏政を考慮して善処するようにという命令を発している。

 阿曽沼本貫の地を小山氏政が欲していたらしく、これも南北朝時代の抗争のひとつであろう
 (ちなみに、下野と陸奥の阿曽沼氏は南朝側であるが、
 安芸阿曽沼氏は北朝側について戦ったという)。

 阿曽沼民部大輔の実名は伝わっていない。

 本貫の地の当主であれば、朝綱のことかもしれない。

 戦国時代の文明3年(1471)には、7代目阿曽沼弾正が、
 東方約2キロの鐙塚(あぶつか)にも城を築いた。

 『栃木の城』には、鐙塚に築城したことにより、
 もとの阿曽沼城は廃城となったと書かれているが、
 他の資料には、その後も並立していた風に書かれている。

 弾正は、阿曽沼城に住しながら、下総国古河の足利成氏(1438~1497年)に仕えていたという。

 天文15年(1546)に足利成氏の曾孫晴氏(1508~1560年)が没落したあとは、
 弾正の孫左京太夫は宗家佐野氏に属した。

 その後、玄蕃助、助左衛門尉を経て、助太夫方重に至る。

 方重は、佐野十七騎のひとりで、天正7年(1579)、北条氏直(1562~1591年)が
 唐沢山城を攻めた時に、手兵800を率いて北条の本陣を衝いて、北条軍を混乱せしめた。

 その時、北条方の勇将大畑與十郎は、佐野軍に討たれた。

 天正17年(1589)には、方重は他の佐野家家臣を率いて、
 同じく佐野家家臣の大貫越中を屋形山城に攻め、大貫父子を討ち取った。

 大貫越中は専横が目立ったため、他の家臣達に襲われる羽目になったという。

 下野阿曽沼氏滅亡の際に立って、方重の活躍は光り輝いて見える。

 方重には、助太郎、助五郎、長吉郎、五郎、三郎の5人の男子があったというが、
 阿曽沼城廃城後の行方は知られていない。

 最後に、『栃木縣史』の阿曽沼城の節に書かれている解説のとおりに家系図を記す
 (誤字と思われるものは修正)。

 あくまでも参考である。

 広綱―+―朝綱
    │ 二郎 都賀郡出井を領す
    │
    +―広親───────+―公綱─────+―公郷─────+―広勝(氏綱)
    │ 四郎 出羽守   | 四郎 出羽守 │ 四郎太夫   │ 弥二郎 下野守
    │          │        │        │
    +―景光       +―公光     +―氏光     +―弘綱
      天野伊豆守    │ 牛込丹後と称す  吉川民部と称す│ 佐野宮内と称す
      伊豆国木佐美を領す│                 │
               +―広法              +―広重
                 小四郎 吉川民部の養子となる    梅田五郎と称す

 ※註:阿曽沼氏のルーツに関しては、こちらを参照されたし。
 
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 私は1999年から2005年にかけて、『奥州城壁癖(オウシュウジョウヘキヘキ)』という東北(主に南部地方)と関東(東京周辺)の城館跡を紹介するサイトをやっていました。本コーナーはそれの復刻版です。

 当時は南部地方の城館跡を本格的に紹介しているサイトは『奥州城壁癖』と八戸の藤九郎さん(当時のHNは杉坂さん)のサイトの二つしかありませんでした。

 なお、復刻に当たって誤字の訂正はしていますが、内容はほぼ当時のままなのでおかしなところもあります。どうかご了承ください。

 それと、復刻に際しての補足説明ということで必要な場合は適宜「註」を書いています。

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん








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佐津間城:千葉県鎌ケ谷市:2001年11月23日:奥州城壁癖(32)「下総の城を行く」

2013-09-10 21:16:13 | 奥州城壁癖 南部地方の城館跡ルポ
佐津間城【探訪第1回目】 「下総の城を行く」 ―――奥州城壁癖復刻版 No.32

 ⇒前回の「奥州城壁癖復刻版 No.31 黒沢尻柵」はこちら。

 盛岡出身で千葉在住の大澤さんという方とメールのやり取りをしているうちに、
 下総の城館跡を案内していただけることになった。

 千葉県出身の癖に、ほとんど千葉県内の城館跡を知らない私は、
 勇躍大澤さんのもとに馳せ参じ、その教導のもと、
 下総の素晴らしい城館跡を10箇所近く堪能することができた。

 (ちなみに、大澤さんとはその後も共同で城めぐりをして、
 いろいろ教えていただいているのである。)

*    *    *

 大澤さんとは、東武野田線の新鎌ヶ谷駅で待ち合わせることとなっていた。

 しかし、事もあろうに、いきなり初対面の日から私は遅刻してしまった!

 なんてこったい。

 どういうわけか、三鷹の自宅から千葉方面に出向くと、時間の計算が狂うのだ。

 (千葉方面の友人の家に行くときも、大概時間通りに行かない。
 恐らく、私が江戸川以東の空間に赴くと時空の歪が生じるからだと思われる。)

 さて、いきなり私のお詫びから始った本日の城めぐりだが、
 一発目は私のリクエストで鎌ケ谷市の佐津間城へ。

 実は、松戸市五香六実にかつて住んでいた私は、
 佐津間のあたりは中学生くらいの頃はよくチャリを駆って遊びまわったエリアであった。

 だがしかし!

 当時は全く城跡には興味なし。

 今になってすれば、もっと早く気付いていればなあと思う。

 大澤さんの車に乗り込んだのも束の間、佐津間城にはすぐに到着した。

 そこは、城跡の東側。

 説明板が立っている。


写真1 東側入口

 実は、写真1の右側の雑木林の中に遺構があるのだが、
 この時は気付かずに、階段を上がっていった。

 住宅街を歩きながら、あたりを探ってみる。

 そして、大澤さん曰く、今まで気にはなっていたが行ってみた事がないという路地に、
 折角だからと踏み込んでみた。

 そして、その路地から続く雑木林に入ってみると、
 そこには我々が予想していなかった立派な遺構が存在したのである!


写真2 土塁
本郭の内部の広さは30~40メートル四方ほどで、その周りは土塁で囲まれている

 写真だといつものごとく良く分からないのだが、そこはあきらかに郭跡で、
 周りは高さ1~2メートルくらいの土塁で囲まれていた。

 そして、虎口らしきものも見つけることができた。


写真3 虎口?
本郭南側の虎口跡と思われる

 持参した『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書 1 旧下総国地域』のコピーと
 現場の状況を照らし合わせてみると、どうやら虎口と見て差し支えないという結論に達した。

 そして、その脇は櫓台と見れば見えないこともない。

 ただ、立派な土塁は見ることができたが、『詳細分布調査報告書』に描かれている空堀は、
 すでに埋められてしまったようであり、はっきりとわかるものはなかった。

 しかしまあ、私の子供の頃のプレイエリアにこんな素晴らしい中世城館跡が存在したなんて…。

 結構感動ものである。

 大澤さんもこの発見に嬉しそうに土塁を飛び回っている。


写真4 大宮神社
大宮神社は城域最南端に位置する
このすぐ南側には東西に沢状の窪地が走っている
(その窪地と本郭との比高差は10メートル強)

 さて、佐津間城は、大津川西側段丘上の、
 水面との比高差約10メートル以上の崖縁に築かれた平城である。

 規模は、現在わかっている範囲では、東西約100メートル・南北約320メートルの
 南北に長い城である。

 城の防御に関しては、東側は大津川により守られているので問題は無いと思われる。

 北側と南側は、現在の地形図で見ても、沢状に窪地があり、
 それが往時は大津川に注ぐ水を湛え、天然の水堀ないしは湿地帯であった可能性があるので、
 多少は防御力はあったのかもしれない。

 問題は西側の台地続きの面である。

 地形上は守ってくれるものが無いので、人工的に空堀などで防御していたと思われる。

 ただし、現在その遺構は認められない。

 それにしても、現在わかっている縄張りを見る限りでは、
 あまりにも南北に防衛線が長いので、良い設計とは思えない。

 本郭はこじんまりとしているが、他の郭(外郭に相当する部分?)は広いことから、
 大澤さんは、緊急時は村人を収容していたのではないかと推測していた。

 ところで、地勢面で見逃すことができないのは、河川の存在である。

 『詳細分布調査報告書』にも書かれているとおり、
 手賀沼や印旛沼にそそぐ河川流域の他の城と同様、
 佐津間城においては、大津川が重要な役割を担っていたと思われる。

 場所によっては、陸地の道より、河川のほうが交通上重要であった地域もある。

 ここ佐津間城周辺もそうだったのであろう。

 ちなみに、佐津間城から大津川を下っていくと、
 約1~1.5キロおきに、高柳谷中台城、高柳城、殿山城、
 追花(おっけ)城と続き、手賀沼に到達する。

 すべて、相馬氏または高城氏との関連が考えられる城である。


写真5 東側からの遠景

 なお、佐津間城は鎌ケ谷市内で唯一、城跡として確認されている遺跡だが、
 その来歴ははっきりしていない。

 南北朝時代頃までは相馬氏の居城で、戦国時代は高城氏の城だったのではないか。

 さて、佐津間城で幸先のいいスタートを切った我々は、次は大澤さんのお薦め、
 印旛村(註:平成22年3月23日に印西市と合併し消滅)の師戸城に向かったのである。

 ※註:この探訪の翌週から仕事が激務と化し、まったく趣味の時間が取れなくなったので、
    結局、この大澤さんとの第1回探訪は、佐津間城しかアップしなかった。
    疲労困憊して、ホームページを作る気力すらなくなったのである。
    写真は当然残っているが、それを見ながら今さら文章を書くことは難しい。

 ⇒次回の「奥州城壁癖復刻版 No.33 阿曽沼城」はこちら。

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 私は1999年から2005年にかけて、『奥州城壁癖(オウシュウジョウヘキヘキ)』という東北(主に南部地方)と関東(東京周辺)の城館跡を紹介するサイトをやっていました。本コーナーはそれの復刻版です。

 当時は南部地方の城館跡を本格的に紹介しているサイトは『奥州城壁癖』と八戸の藤九郎さん(当時のHNは杉坂さん)のサイトの二つしかありませんでした。

 なお、復刻に当たって誤字の訂正はしていますが、内容はほぼ当時のままなのでおかしなところもあります。どうかご了承ください。

 それと、復刻に際しての補足説明ということで必要な場合は適宜「註」を書いています。

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん








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黒沢尻柵:岩手県北上市:2001年8月11日:奥州城壁癖(31)「和賀氏・稗貫氏ゆかりの館跡めぐり」

2013-09-06 19:43:05 | 奥州城壁癖 南部地方の城館跡ルポ
黒沢尻柵【探訪第2回目】 「和賀氏・稗貫氏ゆかりの館跡めぐり」 ―――奥州城壁癖復刻版 No.31

 ⇒前回の「奥州城壁癖復刻版 No.30 岩崎城」はこちら。

 ⇒黒沢尻柵の探訪第1回目はこちら。

 『レオのホームページ』で北東北の城館跡を紹介している杉坂さんとの合同城めぐり第2弾!

 前回GWを利用して九戸政実の乱に関係する城館跡をめぐってから約3ヵ月後に
 早々と第2弾を催せることとなった。

 今回のテーマは『和賀稗貫一揆』ということで、
 和賀氏と稗貫氏に関係する以下の城館跡をめぐってきた。

 寺林城 → 小森林館 → 黒沼館 → 関口館 → 八重畑館

  → 花巻城 → 飛勢城 → 岩崎城 → 黒沢尻柵

*    *    *

 岩崎城跡を見て、少し時間が有るのでオマケで立ち寄ったような黒沢尻柵であったが、
 思いのほか杉坂さんは喜んでくれた。

 杉坂さんは、前九年の役に思い入れがあるようなので、
 ここもそれ関連の史跡ということで喜んでくれたのだろう。

 さて、そこから今度は駅西口へまわって諏訪町へ出て、
 義妹に教えてもらった飲み屋に16時過ぎに突入。

 多分、本日最初の客だと思う。

 早速、生を注文。

 これが、美味いのなんのって!

 今日はホントに暑く、しかも早朝から動きっぱなしだったので、
 この日のビールは今年で一番の美味しさだ。

 その後、美味い酒と料理をつまみつつ、しばしご歓談。

 明日、杉坂さんの仕事が朝早い関係で、今日は早めにお開きにしなければならないので、
 2時間ちょっとしか話ができなかったのは残念であった。

 というわけで、杉坂さんとの第2回合同城めぐりも成功裏に終わったのであった。

 さて、次回は何処へ行きましょうか。

 ⇒次回の「奥州城壁癖復刻版 No.32 佐津間城」はこちらです。

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 私は1999年から2005年にかけて、『奥州城壁癖(オウシュウジョウヘキヘキ)』という東北(主に南部地方)と関東(東京周辺)の城館跡を紹介するサイトをやっていました。本コーナーはそれの復刻版です。

 当時は南部地方の城館跡を本格的に紹介しているサイトは『奥州城壁癖』と八戸の藤九郎さん(当時のHNは杉坂さん)のサイトの二つしかありませんでした。

 なお、復刻に当たって誤字の訂正はしていますが、内容はほぼ当時のままなのでおかしなところもあります。どうかご了承ください。

 それと、復刻に際しての補足説明ということで必要な場合は適宜「註」を書いています。

艦隊これくしょん

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岩崎城:岩手県北上市:2001年8月11日:奥州城壁癖(30)「和賀氏・稗貫氏ゆかりの館跡めぐり」

2013-09-03 22:14:05 | 奥州城壁癖 南部地方の城館跡ルポ
岩崎城【探訪第2回目】 「和賀氏・稗貫氏ゆかりの館跡めぐり」 ―――奥州城壁癖復刻版 No.30

 ⇒前回の「奥州城壁癖復刻版 No.29 飛勢城(二子城)」はこちら。

 ⇒岩崎城の探訪第1回目はこちら。

 『レオのホームページ』で北東北の城館跡を紹介している杉坂さんとの合同城めぐり第2弾!

 前回GWを利用して九戸政実の乱に関係する城館跡をめぐってから約3ヵ月後に
 早々と第2弾を催せることとなった。

 今回のテーマは『和賀稗貫一揆』ということで、
 和賀氏と稗貫氏に関係する以下の城館跡をめぐってきた。

 寺林城 → 小森林館 → 黒沼館 → 関口館 → 八重畑館

  → 花巻城 → 飛勢城 → 岩崎城 → 黒沢尻柵

*    *    *

 飛勢城(二子城)の次は、今回の合同城めぐりのラスト(のはずだった)、岩崎城である。

 三の丸にある枡形など、私の知る岩崎城の見所を案内しつつ、
 模擬天守のある本丸へとゆっくりと向かう。


写真1 模擬天守

 岩崎城に来るのは私は2度目だが、前回来た時は公民館の中に入れず、
 今回初めて入ることができた。

 公民館の中には、和賀氏関連や近世のキリシタン関連、
 それに先の大戦のものなどが展示されており、
 特に我々が驚いたのは、柏山明助のものと伝わる兜である。

 もし、本物であれば凄いなあ。

 最上階まで上がると、ここもまた素晴らしい眺めであった。


写真2 模擬天守最上階から北側の眺め


写真3 模擬天守最上階から南側の眺め

 そういえば義父は初日の出をここで拝んだと言っていた。

 公民館の中では、資料の販売も行っているが、
 和賀氏関連の史跡案内のパンフレットを無料でいただけたのはラッキーだった。

 写真も豊富でわかりやすい。

 杉坂さんは、『和賀一族の興亡』シリーズを3冊すべて購入した。

 この本は私もお薦めである。

 (註:北上市立博物館発行の『和賀一族の興亡』シリーズは、
 和賀氏についての最新の研究成果を上手にまとめたナイスな本である。
 3冊目の「総集編」は和賀氏の城館跡について詳細に述べられている。
 現在入手できるかどうかは分からないが、
 もし入手可能であれば3冊セットでゲットすることをお薦めする。)

 ところで、公民館の中に和賀郡に縁のある人の絵が掲げてあったので、
 その中で特に私のホームページと関連のある人を4人紹介しよう
 (写真提供は4枚とも杉坂さん。というのも私のデジカメはこの時フルメモリーだった)。

 和賀主馬忠親


写真4 和賀主馬忠親

 飛勢城(二子城)最後の城主義忠の子。

 和賀氏再興の望みを伊達家に託して旗をあげたが、
 事は思うに任せず、最後は岩崎城に籠城して抵抗。

 しかし南部軍には抗し難く伊達領へ脱出。

 伊達領内にて自刃して果てたという。

 岩崎弥右衛門義彦


写真5 岩崎弥右衛門義彦

 義翁の子で、岩崎氏は代々岩崎城の城主を務めていたという。

 慶長の一揆の際、花巻襲撃が万が一失敗した場合のことを考え、
 伊達領に近い岩崎城に篭って戦えるよう籠城の準備をするとともに、
 伊達家との連絡業務に従事していたという。

 岩崎城籠城戦にて討死。

 子の弥十郎義高は伊達家に、弥左衛門義昌は南部家に仕えたという。

 江釣子民部


写真6 江釣子民部

 江釣子館館主で、岩崎弥右衛門の娘婿。

 のちに高橋民部少輔吉資と称す。

 怪力無双の人物で、沼にはまった和賀忠親の乗馬を、
 素手で掴みあげて沼地から引きずり出し、
 忠親を救ったという伝説が残っている。

 子の周防守吉久は、南部家に仕えたという。

 黒沢尻五郎正任


写真7 黒沢尻五郎正任

 安倍貞任の弟。

 前九年の役では黒沢尻柵に拠った。

 黒沢尻(北上)の隠れた英雄。

 さて、この後我々は、また義父に迎えに来てもらい、北上駅まで送ってもらった。

 予定ではこのあとすぐに飲みに入るはずだったのだが、
 杉坂さんが前九年の役にも興味があるということなので、
 北上駅の東口近くにある、黒沢尻柵跡(安倍館公園)に立ち寄ることにした。

 ⇒次回の「奥州城壁癖復刻版 No.31 黒沢尻柵」はこちらです。

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 私は1999年から2005年にかけて、『奥州城壁癖(オウシュウジョウヘキヘキ)』という東北(主に南部地方)と関東(東京周辺)の城館跡を紹介するサイトをやっていました。本コーナーはそれの復刻版です。

 当時は南部地方の城館跡を本格的に紹介しているサイトは『奥州城壁癖』と八戸の藤九郎さん(当時のHNは杉坂さん)のサイトの二つしかありませんでした。

 なお、復刻に当たって誤字の訂正はしていますが、内容はほぼ当時のままなのでおかしなところもあります。どうかご了承ください。

 それと、復刻に際しての補足説明ということで必要な場合は適宜「註」を書いています。

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん








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飛勢城:岩手県北上市:2001年8月11日:奥州城壁癖(29)「和賀氏・稗貫氏ゆかりの館跡めぐり」

2013-08-31 10:22:48 | 奥州城壁癖 南部地方の城館跡ルポ
飛勢城(二子城)【探訪第4回目】 「和賀氏・稗貫氏ゆかりの館跡めぐり」 ―――奥州城壁癖復刻版 No.29

 ⇒前回の「奥州城壁癖復刻版 No.28 花巻城(鳥谷ヶ崎城)」はこちら。

 ⇒飛勢城(二子城)の探訪第3回目はこちら。

 『レオのホームページ』で北東北の城館跡を紹介している杉坂さんとの合同城めぐり第2弾!

 前回GWを利用して九戸政実の乱に関係する城館跡をめぐってから約3ヵ月後に
 早々と第2弾を催せることとなった。

 今回のテーマは『和賀稗貫一揆』ということで、
 和賀氏と稗貫氏に関係する以下の城館跡をめぐってきた。

 寺林城 → 小森林館 → 黒沼館 → 関口館 → 八重畑館

  → 花巻城 → 飛勢城 → 岩崎城 → 黒沢尻柵

*    *    *

 花巻城(鳥谷ヶ崎城)についで向かうのは、和賀氏の本城・飛勢城(とばせじょう。別名二子城)である。

 花巻から電車で村崎野へ移動。

 村崎野駅からはタクシーに乗車した。

 村崎野駅は駅前に「ムラタク」(村崎野タクシー)があるので、
 飛勢城に行くにはとても便利だ。

 飛勢城へは歩いても行けない距離ではないので、
 時間がある人は徒歩でもいいかもしれない。

 さて、我々は「大門」バス停まで運んでもらって、
 そこから城跡を散策することにした。

 今日は、私もまだ訪れたことのない、
 飛勢城本丸の東側の平時の居館跡などを調べてみようと思う。

 それにしても、今日はすごく暑い。

 八戸から来た杉坂さんは、
 岩手県内でも盛岡より北の方と北上とでは全然気候が違うと、
 この日の暑さに苦笑していた。

 とりあえずは、バス通りを北上して
 和賀氏の平時の居館跡がある北上川べりに向かう。

 この道路はよく車で通っているのだが、歩いて通るのは初めてだ。

 適当なところで西側に入る道に侵入すると、すぐに上り坂になった。

 この道自体が、空堀跡であるという。

 少し歩くと、「御台方屋敷跡」があった。

 ふたりしてカメラを構えて、撮影タイム。

 しかし、私はここではいい写真が撮れなかった。残念。

 そのまま坂を登っていくと、今度は「古館跡」に到着。


写真1 古館跡

 ここが、飛勢城の平時において最もコアな部分である。

 広さは100m弱四方くらいだと思うが、隅には和賀社と白鳥社が鎮座している。

 写真でも分かるとおり、現在ではゲートボール場として機能しているようだ。

 また、ブランコ等も有ったので、公園としての機能も兼ね備えているようだ。

 写真1の奥(北側)の崖下には北上川が流れており、
 東側も現在永明寺のある郭との段差がある。

 南と西の地続きの部分は空堀を用いて防御して、
 平時の居館といっても、防御力はそれなりにあると見受けられた。

 更に歩いていくと、本丸の南側の郭にある八幡神社へと登る入口をみつけた。


写真2 八幡神社・東側登り口

 ここから石段で登っていくのは結構しんどそうだ。

 我々は石段を避けて、そのまま道を南に向かって歩いていった。

 すると、和小路の北側入口に到達した。


写真3 和小路北側入口

 往時、和小路の左右には家臣団屋敷が建ち並び、
 この界隈のメインストリートであったという。

 今でも二百数十メートルに渡る直線の道路となっている。

 歩いていると、沿道に咲く黄色や赤のきれいな花々が多く目に映る。

 杉坂さんと和賀氏の歴史について語り合いながら進んでいくと、南側の入口まで来た。


写真4 和小路南側入口

 ここから先はもう何度も来ているので、お決まりのコースで本丸を目指すことにする。

 飛勢城は、一部の空堀を除いて、
 目に見えてすぐにわかるような遺構はあまり残っていないので、
 特に土塁が好きな我々にとっては少し物足りない気がするが、
 スケールの大きさには感歎させられるものがある。


写真5 空堀跡
この空堀跡はかつて撮影しているが、今日はその日と違って晴れているのでまた撮ってしまった

 (註:郭の下にあった空堀が埋没して一見空堀があったことが
 分からなくなっている例は他の城跡でも散見できる。)

 八幡神社がある郭の下から見上げた写真は撮ったことがなかったので、試しに撮ってみた。


写真6 郭を見上げる

 これで道路が土であれば、中世の城の雰囲気満点なんだけど、
 それを差し引いてもいい感じだ。

 このあと、八幡神社の郭で少し休憩して、更に主郭まで行き展望台に登ってみた。

 いつ来ても、ここからの眺めはいい!

 特に今日は快晴なので、抜群のパフォーマンスだ。

 花巻方面や更木方面を指差して、
 周辺の館や地勢について杉坂さんに解説する私は、地元の人間ではない。

 お客さんがお客さんに解説しているみたいで、何だか妙に可笑しく感じた。

 さて、この眺め、是非にカメラに収めなければと、
 我々はハッスルしてシャッターを切ったのであったが、
 後日撮影した写真を確認したところ、
 何と、設定を間違ってマクロモードで撮影していたではないか!

 海の中で撮ったような写真になっているぞ。

 当然使い物にならん!

 (註:展望台からの風景写真は、探訪第3回目にあるので参照されたし。)

 さてそういうわけで、ひとしきり眺めを堪能した我々は、
 本日最後の目的地(となるはずだった)岩崎城へと向かうことにした。

 飛勢城から岩崎城へは交通の便が非常に悪いので、
 再度義父に車で迎えに来てもらい、運んでもらえるようにお願いした。

 ちなみに、義父は特に城好きという訳ではない(と思う)が、
 この日は、ほとんど我々のメンバーと化していた…。

 ⇒次回の「奥州城壁癖復刻版 No.30 岩崎城」はこちらです。

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 私は1999年から2005年にかけて、『奥州城壁癖(オウシュウジョウヘキヘキ)』という東北(主に南部地方)と関東(東京周辺)の城館跡を紹介するサイトをやっていました。本コーナーはそれの復刻版です。

 当時は南部地方の城館跡を本格的に紹介しているサイトは『奥州城壁癖』と八戸の藤九郎さん(当時のHNは杉坂さん)のサイトの二つしかありませんでした。

 なお、復刻に当たって誤字の訂正はしていますが、内容はほぼ当時のままなのでおかしなところもあります。どうかご了承ください。

 それと、復刻に際しての補足説明ということで必要な場合は適宜「註」を書いています。

艦隊これくしょん

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花巻城:岩手県花巻市:2001年8月11日:奥州城壁癖(28)「和賀氏・稗貫氏ゆかりの館跡めぐり」

2013-08-30 13:49:35 | 奥州城壁癖 南部地方の城館跡ルポ
花巻城(鳥谷ヶ崎城)【探訪第3回目】 「和賀氏・稗貫氏ゆかりの館跡めぐり」 ―――奥州城壁癖復刻版 No.28

 ⇒前回の「奥州城壁癖復刻版 No.27 八重畑館」はこちら。

 『レオのホームページ』で北東北の城館跡を紹介している杉坂さんとの合同城めぐり第2弾!

 前回GWを利用して九戸政実の乱に関係する城館跡をめぐってから約3ヵ月後に
 早々と第2弾を催せることとなった。

 今回のテーマは『和賀稗貫一揆』ということで、
 和賀氏と稗貫氏に関係する以下の城館跡をめぐってきた。

 寺林城 → 小森林館 → 黒沼館 → 関口館 → 八重畑館

  → 花巻城 → 飛勢城 → 岩崎城 → 黒沢尻柵

*    *    *

 八重畑館を出た後、昼食を摂って花巻城を見るために花巻城の近くで
 いったん車から降ろしてもらい義父と別れる。

 義父は、また車が必要になれば駆けつけてくれるとのことだった。

 午前中は義父が車を出してくれたおかげで、だいぶ助かった。

 車を降りたすぐ近くのイトーヨーカドーの中で食事を済ませる。

 (註:本当はマルカンに行きたかったのだが、そうすると午後の花巻城めぐりに不便なので
 ヨーカドーの中で食べた。)

 昼食後は、花巻城見学である。

 ※見学した場所は、ほぼ前回の探訪と同じなので、今回はレポートを割愛させていただきます。

 花巻城の次は、北上の飛勢城(二子城)である。

 ⇒次回の「奥州城壁癖復刻版 No.29 飛勢城(二子城)」はこちらです。

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 私は1999年から2005年にかけて、『奥州城壁癖(オウシュウジョウヘキヘキ)』という東北(主に南部地方)と関東(東京周辺)の城館跡を紹介するサイトをやっていました。本コーナーはそれの復刻版です。

 当時は南部地方の城館跡を本格的に紹介しているサイトは『奥州城壁癖』と八戸の藤九郎さん(当時のHNは杉坂さん)のサイトの二つしかありませんでした。

 なお、復刻に当たって誤字の訂正はしていますが、内容はほぼ当時のままなのでおかしなところもあります。どうかご了承ください。

 それと、復刻に際しての補足説明ということで必要な場合は適宜「註」を書いています。

艦隊これくしょん

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八重畑館:岩手県花巻市:2001年8月11日:奥州城壁癖(27)「和賀氏・稗貫氏ゆかりの館跡めぐり」

2013-08-30 09:11:56 | 奥州城壁癖 南部地方の城館跡ルポ
八重畑館【探訪第1回目】 「和賀氏・稗貫氏ゆかりの館跡めぐり」 ―――奥州城壁癖復刻版 No.27

 ⇒前回の「奥州城壁癖復刻版 No.26 関口館」はこちら。

 『レオのホームページ』で北東北の城館跡を紹介している杉坂さんとの合同城めぐり第2弾!

 前回GWを利用して九戸政実の乱に関係する城館跡をめぐってから約3ヵ月後に
 早々と第2弾を催せることとなった。

 今回のテーマは『和賀稗貫一揆』ということで、
 和賀氏と稗貫氏に関係する以下の城館跡をめぐってきた。

 寺林城 → 小森林館 → 黒沼館 → 関口館 → 八重畑館

  → 花巻城 → 飛勢城 → 岩崎城 → 黒沢尻柵

*    *    *

 関口館を見終えた我々は、今度は南下して、八重畑館を目指した。

 八重畑館は、北上川と二郷川の合流地点の北側段丘上に位置する、連郭式の平城である。

 まずは、現地にあった略図を見て全体のイメージを掴んでいただこう。


写真1 八重幡館(城)絵図
この絵図の規模を信じるのなら、かなり大規模な館跡となる

 西側と南側はそれぞれ二郷川と北上川によって防御されていて、
 東側は沼地に守られいるが、北側には全く自然の防御がないので、
 そちらの方面には、かなりしっかりとした空堀と土塁が必要であったと思う。

 西側からニ郷川を渡って城域に入り、
 絵図でいうところの本丸と旧内館の間の道路を少し上ってみる。


写真2 本丸と旧内館の間・西側より

 すると、すぐ右手に社があり、周りには水田が広がっている。


写真3 写真2の坂を直進して振り返ったところ


写真4 旧内館跡

 我々の目的が田んぼの写真を撮ることでないことは言うまでもない。

 という訳で、肝心の遺構についてだが、土塁に関しては見当たらなかった。

 空堀に関しては、結構大きいものがあった。

 諸本で記述されている、南北に走る、幅・深さ共に約7m、
 全長約98メートルの空堀を確認することができた。


写真5 南北に走る空堀跡

 ただ、館跡を東西に横断する道路の南側のみしか確認できなかったのは残念な結果である。

 かつては郭と郭を結ぶ土橋も残っていたというが、
 この空堀跡以外には、これといった遺構を見出すことはできなかった。


写真6 ニ郷川のせせらぎ

 さて、このあと我々は、昼食を摂って花巻城を見学するため花巻市街へ向かった。

 八重畑氏について

 八重畑氏の始祖は、稗貫氏始祖広重(為重)の子、信濃守光真(重真)といわれており、同じく北上川左岸の雄族である亀ヶ森氏と大迫氏の始祖と兄弟であるといわれている。

 (註:その後の調査で稗貫氏の祖は中条氏であることが分かったので、そうすると八重畑氏の祖についても再検討する必要がある。)

 その信濃守から、永享年間(1429~41)の豊前守までの間の事跡は一切不明であるという。

 豊前守は、稗貫氏第14代広信の代(永享年間)には、執権職にあったと伝えられている。

 『稗貫氏探訪』によると、稗貫出羽守広信は、寛正3年(1462)に沖津という地で討死しており、沖津とは今の静岡県興津ではないかと推測している。

 そうだとすると、広信は領内を留守にすることが多かったのかもしれない。そのため、その間八重畑氏が執権を勤めて領内を統治していたのだろうか。稗貫氏における「執権」というのが、歴代の制度なのか、一時的なものなのかも分かっていない(ちなみに、広信の父三河守広隆は1416年に死去しているので、永享の頃には広信はすでに元服していたと思われる)。

 執権になれるということは、八重畑氏は相当力の強い一族であったのであろう。

 その他の八重畑氏としては、美濃守(天正の頃の館主)、休心(休信・休山とも)、大隅守、独歩斎、豊前守宗昭(家老)、織笠久蔵宗能(豊前の子)などが、各資料に散見できる。

 八重畑独歩斎は、永享7~8(1435~6)年の、稗貫・和賀氏と南部氏との戦の様子を記した『稗貫状』を、文禄3年(1594)に書上げた人物とされている。

 『稗貫状』は、内容に関しては検討を要する箇所があるが、稗貫氏関連の資料が少ない現実を鑑みると、疎かにできない資料だと思う。

 八重畑休心は討たれた?それとも討った?

 和賀稗貫一揆の際の和賀側についた人物として、元稗貫氏家臣の八重畑休心という人物がいる。

 『稗貫氏探訪』の3章では、天正の頃の八重畑館主美濃守の子で、慶長の和賀稗貫一揆の際、岩清水蔵人に討たれたと書かれている。

 しかし、同書の4章では、美濃守の弟で、岩清水蔵人を討ったと書かれている。

 他の史料でも、「討たれた」と書かれていたり、「討った」と書かれていたりして、私は以前から疑問に思っていたのだが、これについて、『いしどりや 歴史と民俗 第11号』所収の『八重畑(幡)氏物語』にて考察が加えられており、結論としては、後者の、

 「美濃守の弟で、岩清水蔵人を討った」

 というのが正しいようである。

 当然ながら、勝った南部氏側の資料には、南部について都合の悪いことはあまり書かれていない。こういったことは歴史全般にいえることなので注意が必要だ。

 ところで、「やえはた」の「はた」の字についてだが、現地案内版によると、正保4年(1647)の郷帳まで「幡」の字を使い、以後は「畑」の字を使っているそうだ。

 また、『八重畑(幡)氏物語』によると、現在八重畑姓の方々は、紫波町・矢幅町・盛岡市・岩手町に散在しているという。稗貫氏滅亡時に北上川を遡って隠遁した一族や、南部家に仕えた人々の子孫であろうか。

 ⇒次回の「奥州城壁癖復刻版 No.28 花巻城(鳥谷ヶ崎城)」はこちらです。

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 私は1999年から2005年にかけて、『奥州城壁癖(オウシュウジョウヘキヘキ)』という東北(主に南部地方)と関東(東京周辺)の城館跡を紹介するサイトをやっていました。本コーナーはそれの復刻版です。

 当時は南部地方の城館跡を本格的に紹介しているサイトは『奥州城壁癖』と八戸の藤九郎さん(当時のHNは杉坂さん)のサイトの二つしかありませんでした。

 なお、復刻に当たって誤字の訂正はしていますが、内容はほぼ当時のままなのでおかしなところもあります。どうかご了承ください。

 それと、復刻に際しての補足説明ということで必要な場合は適宜「註」を書いています。

艦隊これくしょん

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関口館:岩手県花巻市:2001年8月11日:奥州城壁癖(26)「和賀氏・稗貫氏ゆかりの館跡めぐり」

2013-08-29 09:59:34 | 奥州城壁癖 南部地方の城館跡ルポ
関口館【探訪第1回目】 「和賀氏・稗貫氏ゆかりの館跡めぐり」 ―――奥州城壁癖復刻版 No.26

 ⇒前回の「奥州城壁癖復刻版 No.25 黒沼館」はこちら。

 『レオのホームページ』で北東北の城館跡を紹介している杉坂さんとの合同城めぐり第2弾!

 前回GWを利用して九戸政実の乱に関係する城館跡をめぐってから約3ヵ月後に
 早々と第2弾を催せることとなった。

 今回のテーマは『和賀稗貫一揆』ということで、
 和賀氏と稗貫氏に関係する以下の城館跡をめぐってきた。

 寺林城 → 小森林館 → 黒沼館 → 関口館 → 八重畑館

  → 花巻城 → 飛勢城 → 岩崎城 → 黒沢尻柵

*    *    *

 黒沼館の次に向かうのは関口館である。

 黒沼から南に向かい、滝沢川を右岸に渡り、
 江曽を通って北上川に架かる東雲橋を渡り、八重畑に入った。

 ここまで来る間にも、柳館跡や江曽館跡等があるらしいが、
 今日は時間の都合で訪問を見送った。

 八重畑にも八重畑館があるのだが、それは後で行くとして、
 まずはその北方の関口館から訪れることにする。

 『稗貫氏探訪』を頼りに進んでいくと、目的の関口館に到着。


写真1 関口館を北東より見る

 関口館は南側より、南館、関口館(屋敷)、中館、北館と呼ばれる4つの郭から構成されており、
 それぞれ堀(水堀)によって防御されていたようである。

 また、北東には下館と呼ばれる200m強四方の土地があり、
 往時の町場であった可能性があるという。


写真2 中館東側の堀跡

 我々はまず、中館と関口館の間の空堀跡を西側へ進んでいった。

 館跡はほとんどが私有地になっているので、行動はかなり制限される。


写真3 中館を西側より見る

 館跡の西側には北上川が流れており、関口は昔から渡し場があって、
 対岸の黒沼と往来をしていたという。

 私がたまたま東京の吉祥寺の古書店で見つけて購入した
 五万分の一地形図(大正7年発行・花巻と大正5年発行・黒沢尻)によると、
 その当時、花巻・北上地域の北上川に架かる橋は、北から石鳥谷の大正橋、花巻の朝日橋、
 北上の無名の橋(現在の珊瑚橋附近)、江刺の櫻木橋の4つしかない。

 しかし、渡し場は無数に存在し、昔は渡し舟が交通上かなり重要であったことが窺える。

 そして、それらの渡し場の名称はほとんど地図には書かれていないのだが、
 関口は「関口ノ渡」と書かれている。

 それだけに関口の渡しは特に重要であったのであろう。


写真4 中館西側の湿地帯(のあと)

 関口館は、往時の郭の構成がほとんどそのまま残っているところが非常に面白い。

 もっと広範囲に渡って調べてみたいところだが、時間の都合もあるので、
 中館と関口館の近辺を見ただけで、次の目的地、八重畑館に向かうこととした。

 関口氏について

 『源姓和賀系譜』によると、和賀定政の三男定正が関口の地を与えられ領主になったと書かれているが、稗貫領のど真ん中に和賀氏の領主が子に領地を宛がうというのは不自然なので、旧来から関口を治めていた稗貫氏の家臣関口氏の家に婿入りしたか、稗貫氏家臣何某の家に婿入りして、稗貫家から新たに関口の地を与えられて関口と称したと考えるのが自然ではないかと思う。定正の関口入りは、稗貫氏と和賀氏の親密さを現している出来事といえよう。

 『岩手県史』が引く東山小原家蔵『和賀之託文』によると、大永元年(1521)2月20日、糠部の南部安信が南進して斯波郡郡山において和賀定行と戦っており、定行の弟の関口内膳正定正が戦傷死した。

 この戦いは、三戸南部氏が率いる糠部諸氏および岩手郡諸氏と、斯波・稗貫・和賀の連合軍が対峙した戦いだと考えられる。

 『岩手県史』が引く花巻伊藤祐平蔵『安俵小原系図』写本によると、この頃は毎年のように南部と和賀は戦っていたというので、南に勢力を伸ばしたい南部氏と北に版図を拡大したい斯波氏とは激しくせめぎ合っていたのである。

 ⇒次回の「奥州城壁癖復刻版 No.27 八重畑館」はこちらです。

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 私は1999年から2005年にかけて、『奥州城壁癖(オウシュウジョウヘキヘキ)』という東北(主に南部地方)と関東(東京周辺)の城館跡を紹介するサイトをやっていました。本コーナーはそれの復刻版です。

 当時は南部地方の城館跡を本格的に紹介しているサイトは『奥州城壁癖』と八戸の藤九郎さん(当時のHNは杉坂さん)のサイトの二つしかありませんでした。

 なお、復刻に当たって誤字の訂正はしていますが、内容はほぼ当時のままなのでおかしなところもあります。どうかご了承ください。

 それと、復刻に際しての補足説明ということで必要な場合は適宜「註」を書いています。

艦隊これくしょん

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黒沼館:岩手県花巻市:2001年8月11日:奥州城壁癖(25)「和賀氏・稗貫氏ゆかりの館跡めぐり」

2013-08-28 11:38:41 | 奥州城壁癖 南部地方の城館跡ルポ
黒沼館【探訪第1回目】 「和賀氏・稗貫氏ゆかりの館跡めぐり」 ―――奥州城壁癖復刻版 No.25

 ⇒前回の「奥州城壁癖復刻版 No.24 小森林館」はこちら。

 『レオのホームページ』で北東北の城館跡を紹介している杉坂さんとの合同城めぐり第2弾!

 前回GWを利用して九戸政実の乱に関係する城館跡をめぐってから約3ヵ月後に
 早々と第2弾を催せることとなった。

 今回のテーマは『和賀稗貫一揆』ということで、
 和賀氏と稗貫氏に関係する以下の城館跡を巡ってきた。

 寺林城 → 小森林館 → 黒沼館 → 関口館 → 八重畑館

  → 花巻城 → 飛勢城 → 岩崎城 → 黒沢尻柵

*    *    *

 小森林館から滝沢川を渡って黒沼にやってきた。

 黒沼にある黒沼館跡は長楽寺の境内とその周辺ということなので、見つけるのは容易であろう。

 案の定、田んぼの中の道を進んでいくと、長楽寺はすぐに見つけることができた。


写真1 長楽寺

 時期が時期だけにお寺に訪れる人は結構多く、我々はそれに交じって寺の境内をうろついてみる。

 私の腕には『稗貫氏探訪』が抱かれており、見る人が見たら歴史好きな観光客か、
 夏休みの自由研究に訪れた小学生のような大人に見紛うかもしれない。

 そんな外観に拘っている暇もなく、お寺に入ってすぐ東側に、
 諸本に出ている「長さ72メートルの土塁」らしきものを発見した。


写真2 長楽寺の東に残る土塁

 うーん。これですね。

 うなずきあった我々は、土塁のある私有地への侵入を憚って、
 次は境内の北西にあるという空堀跡を探すことにした。

 墓地の横を通り、一応それらしき場所を探索してみたが、空堀跡は見つからなかった。

 杉坂さんが言うとおり、空堀の「跡」なので、よほど注意深く見ないと駄目なのかもしれない。

 さて、このあたり一帯は水田地帯であり、ところどころに浮島のような微高地があり、
 そのなかのひとつに黒沼館が存在している。

 完全なる平城で、規模は東西100メートル・南北400メートルほどといわれている。

 天正年間(1573~92)の城主は、黒沼清太夫という人と伝えられる。

 黒沼修理という人が北信愛(松斎)に仕えているが、清太夫と修理は同一人物かもしれない。

 黒沼館が合戦に巻き込まれたという記録は無い。

 稗貫氏が滅亡した際に、黒沼館がどう機能したのかも皆目知れない。

 このあたり一帯には小森林館をはじめ館跡が多く存在し、みな稗貫氏の家臣の館である。

 しかもそれらが有機的に統合された一大城郭群を形成していたような感がある。

 多くの館が密集しているということは、往時より水田開発の進んだ豊かな地であったのであろう。

 さて、黒沼館はあまり得るものがなかった感があるが、土塁の一端を窺えただけでもよしとしよう。

 車に戻った我々は、次は北上川の対岸にある関口館を目指すことにした。

 次回の「奥州城壁癖復刻版 No.26 関口館」はこちらです。

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 私は1999年から2005年にかけて、『奥州城壁癖(オウシュウジョウヘキヘキ)』という東北(主に南部地方)と関東(東京周辺)の城館跡を紹介するサイトをやっていました。本コーナーはそれの復刻版です。

 当時は南部地方の城館跡を本格的に紹介しているサイトは『奥州城壁癖』と八戸の藤九郎さん(当時のHNは杉坂さん)のサイトの二つしかありませんでした。

 なお、復刻に当たって誤字の訂正はしていますが、内容はほぼ当時のままなのでおかしなところもあります。どうかご了承ください。

 それと、復刻に際しての補足説明ということで必要な場合は適宜「註」を書いています。

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小森林館:岩手県花巻市:2001年8月11日:奥州城壁癖(24)「和賀氏・稗貫氏ゆかりの館跡めぐり」

2013-08-27 12:46:21 | 奥州城壁癖 南部地方の城館跡ルポ
小森林館【探訪第1回目】 「和賀氏・稗貫氏ゆかりの館跡めぐり」 ―――奥州城壁癖復刻版 No.24

 ⇒前回の「奥州城壁癖復刻版 No.23 寺林城」はこちら。

 『レオのホームページ』で北東北の城館跡を紹介している杉坂さんとの合同城めぐり第2弾!

 前回GWを利用して九戸政実の乱に関係する城館跡をめぐってから約3ヵ月後に
 早々と第2弾を催せることとなった。

 今回のテーマは『和賀稗貫一揆』ということで、
 和賀氏と稗貫氏に関係する以下の城館跡をめぐってきた。

 寺林城 → 小森林館 → 黒沼館 → 関口館 → 八重畑館

  → 花巻城 → 飛勢城 → 岩崎城 → 黒沢尻柵

*    *    *

 寺林城を後にした我々は、次は小森林館を調べてみることにした。

 国道4号線と滝沢川がクロスする場所にガソリンスタンドがあるが、
 その裏山が小森林館である。

 それを外から窺ってみるに、鬱蒼と樹木が生い茂り、
 中に踏む込むのは難しいような雰囲気を醸し出している。

 義父がガソリンスタンドの人にお願いして横っちょに車を停めさせていただいた。

 私と杉坂さんはとりあえず駄目元で中に入れそうな箇所を探してみることにする。

 そういえば、小森林館の脇には、「名木 逆さヒバ」なるものがある。

 一応、観光っぽく写真なんか撮ってみたりする。


写真1 名木 逆さヒバ
頂部が切れてしまっているのは写真を撮る時引き切れなかったため

 さて、国道に面した側からは入れそうな箇所は見つからなかったので、
 『稗貫氏探訪』の縄張図を頼りに北側の滝沢川の川べりを歩いて入口を探してみた。

 道なき道を少し歩くと、何となく林の中に道が続いているようなところを発見した。


写真2 入れそうかな?

 とりあえず中に入ってみる。

 『稗貫氏探訪』によると、小森林館は4つの郭から構成されており、
 全体的な規模は南北・東西ともに400メートル以上あるという。

 各郭は、定石どおり土塁と空堀で囲まれていたらしく、
 それらの一部は今でも残っているという。

 我々が見つけた入口は、Ⅰ郭の北から西にかけてめぐる空堀跡のようだ。

 中には何があるのか侵入を試みると、残念、すぐに行き止まりっぽくなってしまった。


写真3 館内部
写真は明るく補正している

 ここからさらに東の方に少し道(空堀?)らしきものがあるので、
 杉坂さんが様子を伺いに突入を試みる。

 臆病な私は待機。

 しかし、杉坂さんはすぐに引き返してきて、奥はすぐに行き止まりになっていたと言う。

 夏場は踏査はきついかも。

 周りを見渡すと、南西の方角に進めそうな感じだったが、
 何となく危険な薫りがしたので引き返すことに決めた。


写真4 館跡から北西方面を見る
写真手前の滝沢川も、往時はもっと水量があり北側の水濠の役割を持っていたと思われる

 元来た道を引き返し車に戻る。

 小森林館が合戦に巻き込まれたという記録は残っていないが、
 館主らしき小森林治部少輔は、永享8年(1436)の十八ヶ城戦と、
 天正18年(1590)の和賀稗貫一揆の鳥谷ヶ崎城攻めにその名を見ることができる。

 館主は代々治部少輔と称していたのだろう。


写真5 滝沢川の橋の上から館跡を望む

 この日出発するときは、このあたりで義父と別れるつもりでいたが、
 もう少し付き合っていただけるということで、
 お言葉に甘えて、車が無いとなかなか不便で行けない方面に向かうことにした。

 次は滝沢川を渡って、黒沼館に行ってみよう。

 ⇒次回の「奥州城壁癖復刻版 No.25 黒沼館」はこちらです。

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 私は1999年から2005年にかけて、『奥州城壁癖(オウシュウジョウヘキヘキ)』という東北(主に南部地方)と関東(東京周辺)の城館跡を紹介するサイトをやっていました。本コーナーはそれの復刻版です。

 当時は南部地方の城館跡を本格的に紹介しているサイトは『奥州城壁癖』と八戸の藤九郎さん(当時のHNは杉坂さん)のサイトの二つしかありませんでした。

 なお、復刻に当たって誤字の訂正はしていますが、内容はほぼ当時のままなのでおかしなところもあります。どうかご了承ください。

 それと、復刻に際しての補足説明ということで必要な場合は適宜「註」を書いています。

艦隊これくしょん

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寺林城:岩手県花巻市:2001年8月11日:奥州城壁癖(23)「和賀氏・稗貫氏ゆかりの館跡めぐり」

2013-08-26 13:13:02 | 奥州城壁癖 南部地方の城館跡ルポ
寺林城【探訪第1回目】 「和賀氏・稗貫氏ゆかりの館跡めぐり」 ―――奥州城壁癖復刻版 No.23

 ⇒前回の「奥州城壁癖復刻版 No.22 黒沢尻柵」はこちら。

 『レオのホームページ』で北東北の城館跡を紹介している杉坂さんとの合同城めぐり第2弾!

 前回GWを利用して、九戸政実の乱に関係する城館跡をめぐってから約3ヵ月後に
 早々と第2弾を催せることとなった。

 今回のテーマは『和賀稗貫一揆』ということで、
 和賀氏と稗貫氏に関係する以下の城館跡をめぐってきた。

 寺林城 → 小森林館 → 黒沼館 → 関口館 → 八重畑館

  → 花巻城 → 飛勢城 → 岩崎城 → 黒沢尻柵

*    *    *

 杉坂さんとは、GWを利用して九戸政実の乱に関係する城館跡をまわったが、
 それから約3ヵ月後に、早々と第2弾を催せることとなった。

 私が夏期休暇を利用して妻の実家の岩手県北上市に帰るのにあわせて、
 杉坂さんが八戸より出張って来てくれたのである。

 一応、今回のテーマは『和賀稗貫一揆』ということで、
 和賀氏と稗貫氏に関係する城館跡をまわる予定である。

 今回は当初電車とバスをメインに使って城めぐりをするプランを立てていたが、
 私の義父が不便な場所へは車で送ってくれるということなり、
 ご好意に甘えて、車に乗っけてもらい北上より待ち合わせ場所の石鳥谷駅へ向かった。

 杉坂さんとの待ち合わせ時間は8時半。

 石鳥谷駅で先に到着して待っていた杉坂さんと合流し、
 早速今日の一発目、寺林城に向かうことにした。

 石鳥谷駅から歩くとなると恐らく30分以上のコースだと思うが車なので楽チン。

 すぐに目的地である光林寺に到着した。

 『和賀一族の興亡(後編)』に載っている光林寺の写真を憶えていたので、
 遠くから見てもすぐにわかった。


写真1 光林寺

 寺林城の縄張図は『稗貫氏探訪』に詳しく載っているので、
 それを参考にして現地を調べてみることにした。

 写真1の門をくぐって進んでいく。

 左手のちょっと高まっているのは土塁跡、右手の水田は水堀跡である。


写真2 光林寺入口

 寺林城は完全なる平城であるので、まわりは水堀を巡らし防御していた。

 築城は鎌倉時代といわれているが、現在の光林寺自体が鎌倉時代の
 武士の居館のような威厳のある佇まいをしている。


写真3 本堂
写っている人物は義父

 遺構調査の前に、光林寺の中を少し散歩してみた。

 お寺の中に立っている光林寺由緒書に拠ると、
 開基は伊予(愛媛県)の国主河野通信の長男通俊の次男・稗貫郡太守河野通重で、
 開山はその嫡子通次だという。

 通次は番役で京都に在番中に従兄弟(註:後述する系図の通り従兄弟ではない)の
 一遍上人と出会い、それに帰依し、上人と共に奥州に帰る途中江刺の聖塚で通信の供養をし、
 寺林に帰ってきたという。

 城主道重夫妻もこのとき入信したという。


写真4 鐘楼

 その後、光林寺は応永9年(1402)、永正8年(1511)、天正18年(1590)と、
 幾度も兵乱に巻き込まれ、そのたびに焼失しては再建の繰り返しだったという。

 ちなみに、その由緒書には寺林城については何も書かれていない。

 さて、光林寺の見学はこの辺で終りにして、
 そろそろ寺林城の遺構の調査に取り掛かかることにしよう。

 縄張図を見ると寺の裏手に土塁や空堀が描かれている。

 とりあえず、寺の西側の墓地の中に入っていき様子を伺い、
 歴代住職の墓のある場所の横手から裏の林に入っていく。

 するとどうだろう、あまりにもはっきりと土塁と空堀跡が残っているではないか!


写真5 土塁と空堀その1


写真6 土塁と空堀その2

 この林の中には、二重の空堀と土塁が明瞭に残っており、必見である。

 そのなかで、杉坂さんと共に考え込んでしまったものがある。

 虎口のような遺構だが、かなり小規模である。

 それは西側を南北に走る二重堀の真中地点に存在する。

 我々はそれを「謎の遺構」と呼んだ。

 気になる人は、是非現場に言って確かめて欲しい。

 寺林城は、永享7年(1435)年の永享の乱において南部・斯波勢に攻略されたといわれ、
 天正18年(1590)年には、奥州仕置にて浅野長政の家臣浅野六兵衛が留め置かれたが、
 一揆勢に攻められて六兵衛は討死したという。

 さて、我々はその後も林の中をうろうろしていたのだが、
 車で待っている義父も待ちくたびれていることだろうし、
 充分堪能したといえる水準に達したので車へ戻ることにした。


写真7 寺林城跡より南東側の眺め
河野氏とそれに続く寺林氏は、当城にて周辺の肥沃な大地を治めていた
そして現在、寺林城跡周辺には見渡す限りの田園風景が展がっている

 いやいや、一発目でいい城跡を見れたので、これは幸先がよいですよ!

 次は、稗貫氏の城館跡でも最大規模を誇る、小森林館に行ってみましょうか!

 寺林城の河野氏と一遍上人との関係

 河野通信は、源義経に協力して平家打倒に功績があり、
 その後北条政子の妹を嫁にしたが、
 承久の乱で後鳥羽上皇に協力、敗北後江刺に流された。

 一遍上人は通信の孫で、全国行脚の一環で奥州にも足を伸ばし、
 江刺郡で祖父通信の墓を探し当てた(北上市稲瀬町水越の聖塚)。

 一遍上人と寺林城主とは親戚であり以下のような系図になる。

 河野     得能
 通信 ―+― 通俊 ―+― ○ 
     |      |
     |      |  稗貫郡太守
     |      +― 通重 ――――― 通次
     |  別府
     +― 通広 ――― 一遍上人

 稗貫郡には中条氏の系が稗貫氏として君臨していたが、
 河野氏も稗貫郡守になったことがあったようだ。

 稗貫郡の河野氏については現在も調査中である。

 ⇒次回の「奥州城壁癖復刻版 No.24 小森林館」はこちらです。

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 私は1999年から2005年にかけて、『奥州城壁癖(オウシュウジョウヘキヘキ)』という東北(主に南部地方)と関東(東京周辺)の城館跡を紹介するサイトをやっていました。本コーナーはそれの復刻版です。

 当時は南部地方の城館跡を本格的に紹介しているサイトは『奥州城壁癖』と八戸の藤九郎さん(当時のHNは杉坂さん)のサイトの二つしかありませんでした。

 なお、復刻に当たって誤字の訂正はしていますが、内容はほぼ当時のままなのでおかしなところもあります。どうかご了承ください。

 それと、復刻に際しての補足説明ということで必要な場合は適宜「註」を書いています。

艦隊これくしょん

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黒沢尻柵(安倍館):岩手県北上市:2001年8月9日:奥州城壁癖(22)「歩いて北上館跡めぐり」

2013-08-25 10:45:36 | 奥州城壁癖 南部地方の城館跡ルポ
黒沢尻柵(安倍館)【探訪第1回目】 「歩いて北上館跡めぐり」 ―――奥州城壁癖復刻版 No.22

 前回の「奥州城壁癖復刻版 No.21 小鳥崎館」はこちら。

 2001年夏、北上市の妻の実家に遊びに行った際、2日間に渡って北上周辺の城館跡をめぐった。

 1日目にめぐった館跡は以下のとおりである。

 才羽場館 → 小鳥崎館 → 黒沢尻柵

*    *    *

 小雨の降る中、小鳥崎館を後にした私は、
 途中みつけた自販機でコーヒーを買って立ったまま3分間休憩。

 おっと、朝飯を食べていないからブラックは駄目だぞ。

 カフェオレにしないと胃に良くないらしい。

 そして、再び北上川沿いを南下し、北上駅東口のすぐ近くにある安倍館公園にやってきた。

 家を出てからもう1時間半くらいは歩いている。

 北上には十数回来ていて、いつもこの公園の横の道を車で通っている。

 しかし今まで一度もこの公園に来たことが無い。

 最近になって、このあたりには古代の柵である安倍氏の黒沢尻柵があり、
 中世にはその後裔と伝わる黒沢尻氏の館があったということ知ったので、
 公園名がそのものズバリなので今回初めて訪れてみた。

 安倍館公園は小さな公園だが、公園内に入ってすぐ、いきなり衝撃的なものを見てしまった。


写真1 空堀跡

 え、空堀?

 このあたりは区画整理されて往時の面影はなくなってしまったというが、
 唯一空堀が残されていると何かの本に書かれていたので、これがその空堀と思われる。

 土橋(公園造成時のものだろう)を渡って階段で一段高い郭にのぼると、
 端っこにひっそりと「黒沢尻柵跡」と書かれた標柱が立っていた。


写真2 標柱

 実は私は前九年の役についてはまだほとんど知識が無いのだが、
 ここに拠った黒沢尻五郎正任は安倍貞任の弟だという。

 (註:北上市には黒沢尻五郎正任に捧げて作られた「五郎がびっくり焼」という
 クルミと小豆餡を使った焼き菓子がありとても美味しいのでお菓子好きにお薦めしたい。)

 黒沢尻柵は、源義家に攻められ落城してしまったそうだが、
 『日本城郭大系』によると、発掘の結果、その当時の遺物は発見されていないという。

 ただ、ここ以外に黒沢尻柵の擬定地は無いそうだ。


写真3 公園全景・北東側より見る
後ろに見える横に長いビルのような建物は新幹線のホーム

 平安以後は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、
 安倍氏の後裔といわれる黒沢尻氏がこの地に住んでいた。

 その頃は、一応は和賀氏の家臣として存在していたらしいが、
 そんなに強固な主従関係ではなかったみたいだ。

 永享7年(1435)、和賀氏一族の須々孫氏が主家と交戦した時には(永享の乱)、
 黒沢尻氏は須々孫氏側について戦ったという記録もある(『北上市史』)。

 その後黒沢尻氏がどうなったかは定かではないが、
 和賀氏滅亡後、江戸時代になるとこの地に南部藩が一大交易センターを建設し、
 南部領で取れた米は黒沢尻を経由して江戸へと運ばれていた。


写真4 館跡の町並みを南から見る
手前の川が南側の防御になっていたと思われる(とするとここは南門にあたる?)

 さて、一応気になる箇所はだいたい歩いてみたのだが、
 その後遺構らしいものは発見できなかった。

 このあたりは完全に市街地化しているので、無理も無いことであろう。


写真5 北上川下流を見る
後ろの独立した山が見えるあたりは江戸時代には伊達領である

 ところで、私が訪れたこの日は北上川の花火大会の日で、
 川沿いではその準備に携わる人々が大勢いた
 (天気の悪い日に撮った北上川の写真を載せても
 綺麗さにかけてしまうが、とりあえず掲載してみる)。


写真6 北上川上流を見る

 ちなみに、この日の花火大会は和賀川に架かるどこかの橋の近くに連れて行ってもらったのだが、
 快適に見ることができた。でも少し肌寒かった。

 さて、そろそろお昼だし、空腹が我慢できなくなってきたので、飯屋でも探してみるかな。

 というわけで、この後私は北上駅西口の焼肉屋で石焼ビビンバを食べて、
 調べ物をするため北上市立中央図書館へと向かったのであった。

 ※註:黒沢尻柵には翌々日に再訪した。

 ⇒次回の「奥州城壁癖復刻版 No.23 寺林城」はこちら。

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 私は1999年から2005年にかけて、『奥州城壁癖(オウシュウジョウヘキヘキ)』という東北(主に南部地方)と関東(東京周辺)の城館跡を紹介するサイトをやっていました。本コーナーはそれの復刻版です。

 当時は南部地方の城館跡を本格的に紹介しているサイトは『奥州城壁癖』と八戸の藤九郎さん(当時のHNは杉坂さん)のサイトの二つしかありませんでした。

 なお、復刻に当たって誤字の訂正はしていますが、内容はほぼ当時のままなのでおかしなところもあります。どうかご了承ください。

 それと、復刻に際しての補足説明ということで必要な場合は適宜「註」を書いています。

艦隊これくしょん

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小鳥崎館:岩手県北上市:2001年8月9日:奥州城壁癖(21)「歩いて北上館跡めぐり」

2013-08-24 09:33:02 | 奥州城壁癖 南部地方の城館跡ルポ
小鳥崎館【探訪第2回目】 「歩いて北上館跡めぐり」 ―――奥州城壁癖復刻版 No.21

 ⇒前回の「奥州城壁癖復刻版復刻版 No.20 才羽場館」はこちら。

 2001年夏、北上市の妻の実家に遊びに行った際、2日間に渡って北上周辺の城館跡をめぐった。

 1日目にめぐった館跡は以下のとおりである。

 才羽場館 → 小鳥崎館 → 黒沢尻柵

*    *    *

 才羽場館跡で何ら得るものの無かった私は、てくてくと小鳥崎を目指して歩く。

 小鳥崎館(正確には小鳥崎館の近所)へ行くのは今日で2回目である。

 今回は遺構を確かめる気は最初から無く、
 前回訪れたときに撮影した場所がちょっと館跡から南にずれていたようなので、
 前回とは違う写真を撮ってみようかなと思い小鳥崎館跡を目指した。

 南を眺めると、西のほうからずっと比高20mくらいの台地が東の方に延びている。

 その台地の東側先端に、中世和賀氏の四天王のひとり、都鳥氏の小鳥崎館があった。

 だんだんと小鳥崎に近づいてきた。

 館の北西500mほどの地点にある大堰川に架かる中曽根橋のあたりから小鳥崎方面を撮ってみる。


写真1 北西500m地点・中曽根橋より小鳥崎館を見る

 そこから森の直下の道ではなく、森を遠くに見れる道から北上川の川沿いの道に出て南進し、
 館の下に辿り着いた。


写真2 小鳥崎館近景

 いつかは遺構を目で確認してみようと思っているのだが今日は素通り。

 草木が枯れた季節でないと、森の中に入っていくのはちょっと難しいと思う。

 ところで、小鳥崎には弘法大師手植えと伝わる、岩手県天然記念物のカヤの木がある。


写真3 大榧(カヤ)の木

 伝説は伝説としても、現実このようなカヤの巨木としては、
 最北限にあるものとして大変珍らしいものだそうだ。

 ところで、小鳥崎館の館主は都鳥氏といわれているが、
 和賀川南岸の鬼柳町に都鳥館跡があるそうなので、
 そっちとこっちとどちらが本拠地だったか私には分からない。

 あと、和賀家臣の中に小鳥崎氏(小鳥崎修理ほか)という者も存在するため、
 もしかすると、都鳥氏の一族が小鳥崎に移住し、
 地名をとって小鳥崎と改名したのかもしれない。

 このあと私は川沿いの道を南下し、
 北上駅東側の安倍館公園(意味ありげな名前!)を目指した。

 ※註:小鳥崎館にはすでに2000年5月に探訪している。
    また、2003年11月にも再訪し、念願の遺構を確認している。

 ⇒次回の「奥州城壁癖復刻版 No.22 黒沢尻柵」はこちら。

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 私は1999年から2005年にかけて、『奥州城壁癖(オウシュウジョウヘキヘキ)』という東北(主に南部地方)と関東(東京周辺)の城館跡を紹介するサイトをやっていました。本コーナーはそれの復刻版です。

 復刻に当たって誤字の訂正はしていますが、内容はほぼ当時のままなのでおかしなところもあります。どうかご了承ください。

 それと、復刻に際しての補足説明ということで必要な場合は適宜「註」を書いています。

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才羽場館:岩手県北上市:2001年8月9日:奥州城壁癖(20)「歩いて北上館跡めぐり」

2013-08-23 09:54:58 | 奥州城壁癖 南部地方の城館跡ルポ
才羽場館【探訪第1回目】 「歩いて北上館跡めぐり」 ―――奥州城壁癖復刻版 No.20

 ⇒前回の「奥州城壁癖復刻版 No.19 櫛引城」はこちら。

 2001年夏、北上市の妻の実家に遊びに行った際、2日間に渡って北上周辺の城館跡をめぐった。

 1日目にめぐった館跡は以下のとおりである。

 才羽場館 → 小鳥崎館 → 黒沢尻柵

*    *    *

 妻の実家に到着した翌日、駄目元で才羽場館(さいのはばだて)を目指した。

 天気が良くないので自転車ではなく徒歩で向かうことにした。

 現在、飛勢城(二子城)の南側は水田地帯が広がっているが、
 往時は広大な湿地帯であったという。

 その湿地帯の所々に陸地があって、現在も中島や岡島などの地名が残っている。

 筒井氏の居館であった才羽場館もそういった陸地にあったと思われ、
 地形図を見て新幹線の高架と大堰川が交差する南側にあったのではないかと見当をつけ、
 もしかすると実際に地形を見れば判るかもしれないという希望的観測のもと、
 あたりをウロウロしてみた。


写真1 館があったと思われる場所にある金毘羅神社

 しかし、周辺を歩いてみてもほとんど起伏が無く、はっきり言って全然判らない。


写真2 館があったと思われる場所にある公園

 さて、場所も確定できないまま推測するに、才羽場館は水濠で囲まれた屋敷のようなもので、
 防御力は低かったと思われる。

 (註:しかし今では、周りが湿地帯であれば意外と防御力は高かったのではないかと思っている。)

 …駄目だこりゃ。

 さっさと諦めた私は、小鳥崎館へと足を進めたのであった。

 (註:館跡の場所は判らなかったが、館には必ず神社があるので、
 もしかすると金毘羅神社があった場所の付近が館跡ではないだろうか。
 館神から一般的な神社に変わるという可能性もあると思うのだが。)

 筒井氏について

 才羽場館の館主は筒井縫殿助と称し、300石を領し、慶長の和賀稗貫一揆の首謀者のひとりであり、飛勢城の最北端にも縫殿助の父内膳の屋敷があったという。慶長の一揆の際には縫殿助が筒井氏の当主であったらしい。また、縫殿助の子に二郎の名が見える。

 『和賀氏一揆集』所収の『和賀薩摩守譜代侍人数を集め花巻江馳集る和賀勢勢揃之事』によると、花巻城に攻め寄せた和賀稗貫勢の中で、唯一縫殿助勢のみ大筒を装備しているのも興味深い。

 花巻城攻めに失敗し、退却する途中に馬場野で踏みとどまって北十左衛門らの追撃隊と一戦を交えたメンバーにも縫殿助の名が見える。

 縫殿助の最期については、『奥羽永慶軍記』によると、岩崎城落城ののち、太田の山中に篭って和賀の旧臣等を糾合し尚も反乱を企てたが、近郷の住民に酷い行いをしたため、南部によって縫殿助の首にかけられた懸賞も手伝ってか、その住民等に攻められ討たれたという。

 これらの逸話から縫殿助の豪胆で直情的なキャラクターが浮かび上がってくるような気がする。

 ところで、筒井氏は才羽場館以外にも清水館(場所不明)に居館した者(筒井喜助か?)もおり、家紋も違うようなので、二系統以上の筒井氏がいた模様である。

 ⇒次回の「奥州城壁癖復刻版 No.21 小鳥崎館」はこちら。

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 私は1999年から2005年にかけて、『奥州城壁癖(オウシュウジョウヘキヘキ)』という東北(主に南部地方)と関東(東京周辺)の城館跡を紹介するサイトをやっていました。本コーナーはそれの復刻版です。

 復刻に当たって誤字の訂正はしていますが、内容はほぼ当時のままなのでおかしなところもあります。どうかご了承ください。

 それと、復刻に際しての補足説明ということで必要な場合は適宜「註」を書いています。

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櫛引城:青森県八戸市:2001年5月4日:奥州城壁癖(19)「九戸政実の乱ゆかりの館跡めぐり」

2013-08-22 09:51:55 | 奥州城壁癖 南部地方の城館跡ルポ
櫛引城【探訪第1回目】 「九戸政実の乱ゆかりの館跡めぐり」 ―――奥州城壁癖復刻版 No.19

 ⇒前回の「奥州城壁癖復刻版 No.18 高橋館」はこちら。

 2001年度GWは、『レオのホームページ』で北東北の城館跡を紹介している杉坂さんと合同で、
 九戸政実の乱に関係する城館跡をめぐってきた。

 当日めぐった城館跡は、以下のとおりである。

 円子館 → 小軽米館 → 上館 → 軽米城 → 晴山館

  → 根城 → 法師岡館 → 苫米地館 → 高橋館 → 櫛引城

*    *    *

 櫛引城は以前から気になっていた城なので、今回是非とも行ってみたいと思っていたが、
 スケジュールを勘案してみると時間的にキツいということで半ば諦めていた。

 しかし、高橋館を見終えた後、若干時間があるということで、
 杉坂さんのご好意でちょっとだけ櫛引城に寄ることができた。

 櫛引城は九戸政実の乱の頃は櫛引清長が城主であり、
 2000石あるいは3000石を領していたという。

 櫛引清長は、このあたりではかなりメジャーな武将で、
 百戦錬磨の老獪な勇将として活躍した痕跡が認められる。

 (註:櫛引清長の戦いについては、
 こちら(苫米地館攻撃)こちら(法師岡合戦)を、
 また櫛引氏のルーツに関してはこちらを参照されたし。)

 時間の都合上、本郭跡のみの調査となってしまった。

 頂には神社が建っているが、その神社までの登り道はお世辞にも整備されているとは言い難い。

 遺構も明確なものはなく、空堀のように見えるものや人工的な平場もあったりするが決定打に欠ける
 (後で『青森県の中世城館』を見て、一応我々が見たものは土塁や空堀の跡であることがわかった)。


写真1 本郭跡から北側を見る

 この城には、「怨霊伝説」なるものが伝わっているが
 (怖くてテキストを打ち込めないので、『レオのホームページ』を参照されたし)、
 その事件のあった西側の断崖は、実際見てみるとかなりの急崖で、
 往時の武装した兵士がそこを登るのはまず不可能であり、
 実際に櫛引城が落城したときは攻め手は弱点である北側から攻めたという
 (ちなみにその崖は言い様のない不気味さが漂っていたので写真撮影は控えた)。

 (註:『レオのホームページ』は現在は無い。)

 そういった伝説もあるせいか、全体的にあまり雰囲気のいい城跡ではない。

 しかし、櫛引氏には非常に興味があるので今後また訪れる可能性は高い。

 ※註:櫛引城には2003年4月に再訪した。

*    *    *

 さて、以上で今回の合同城めぐりは終了となった。

 このあと八戸食品センターによっていただき、そこでお土産をゲット。

 再び車に乗り込み、八戸城跡の横を通って私はホテルへ送っていただき、
 杉坂さんは車を置きに自宅へ。

 そしてその後再び集合して、今日一日の最後の楽しみである
 打ち上げをやるために街へと繰り出した。

 一番の候補に上がっていた店が目玉の料理が欠品だったのでやめて次の店へ。

 しかし、第二候補は臨時休業。

 ショックを隠し切れない我々であったが、流石は地元の杉坂さん、夜の町もよく知っている。

 地元の人しか知らないような、路地裏の小料理屋さんへと案内してくれたのであった。

 まずは、ビール。

 この一杯の為に、今日一日よく頑張った!!

 と思うのは、仕事の後だけでなく、城めぐりの後もまた同様である。

 お通しで馬刺しが出てきたのには驚いたが、さすが糠部、馬の産地。

 その後、地元で取れた魚やタラの芽の天ぷらなどをつまみに、
 今日の感想や南部地方の歴史の話など、顎と咽は過労気味である。

 ところで、食べることも趣味のひとつである私が最も衝撃を受けたのは、イカの天ぷらである!

 たかがイカ天なぞと見くびることなかれ。

 思い出に残るイカ天を食べることが出来て恐悦至極に存知奉ります。

 (註:私は高級料理屋に行ったことが無いから分からないだけかもしれないが、
 このお店の天ぷらは本当に美味しかった。)

 このあと2次会まで行って解散となったが、本当にこの日は充実していたと、
 今テキストを打ち込みながら振り返って思う。

 さてさて杉坂さん、今日は早朝から夕方までずっと車の運転お疲れ様でした。

 そしていろいろと教えてくださり、ありがとうございました。

 是非第2弾もやりましょう!!

 ⇒次回の「奥州城壁癖復刻版 No.20 才羽場館」はこちらです。

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 私は1999年から2005年にかけて、『奥州城壁癖(オウシュウジョウヘキヘキ)』という東北(主に南部地方)と関東(東京周辺)の城館跡を紹介するサイトをやっていました。本コーナーはそれの復刻版です。

 この2001年GWの城館跡めぐりは、私が1996年の暮れに会津鶴ヶ城を訪れ城に興味を持って以来の本格的な城館跡めぐりの第一歩です。しかし本格的と言っても、まだ見方が甘く、写真もあまり良いものが撮れていません。山に入ったり藪を漕いだりするのを嫌がったりもしています。しかしこの後徐々に改善されて行くことになります。

 八戸在住の杉坂さんとはこの後何度か城館跡めぐりをすることになりますが、この2001年GWはその第一回目ということになります。この日以来、杉坂さんとは累計で20日くらい城館跡めぐりをしています。

 なお、復刻に当たって誤字の訂正はしていますが、内容はほぼ当時のままなのでおかしなところもあります。どうかご了承ください。

 それと、復刻に際しての補足説明ということで必要な場合は適宜「註」を書いています。

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