日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

土地・祖霊・稲に対する信仰は仏教の登場によりどう変化したか

2018-04-03 12:58:28 | 民俗コラム
 昼休みのちょっとした時間を利用して、今思いついたことをチョロッとお話しします。



 大雑把に言って、関東地方の場合は古墳時代の前半(3世紀半ばから5世紀)は古墳の石室は竪穴式で、6~7世紀は横穴式となります。

 前方後円墳では、竪穴式石室の場合、被葬者は後円部の中央下に葬られることが多いため、お祭りをするときは前方部正面からその後ろに見える後円部を仰ぎ見たのではないかと思います。

 それが横穴式石室になると、石室の入り口がくびれ部分に設けられることが多いので、そうすると祭祀を行う場所も造出部分に移ってきたのではないかと思います。

 ところで、古墳で行われる祭祀というのはどういった目的で行われたものなのでしょうか。

 昨日お話しした通り、吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓の墓前でも祖霊に対する祭祀が行われていました。

 その伝統は古墳時代になっても引き継がれたはずで、古墳の前での祭祀というのは祖霊に対するものであったと思われます。

 そして前方後円墳に葬られている人の多くは地域の首長ですから、祖霊にプラスして土地の神様という意味付けもできるはずです。

 昨日お話しした、稲作農耕民の3つのカミのうち、祖霊と土地のカミがここに出てきました。

 では、もう一つの稲魂を古墳に祀るということはあったのでしょうか。

 今までそういった目で古墳を見てこなかったため、私の記憶には残っていないだけかもしれませんが、古墳からはそういった形跡は見つからないような気がします。

 ということは、稲魂は集落や田の近くに祀られていたのかもしれません。

 ところが、稲魂はその名の通り稲の魂なわけですが、民俗学的には昔から田んぼを守ってくれる神様は祖霊です。

 では、稲魂というのはいったい何なんでしょうか。

 稲魂というと稲荷神社の祭神であるウカノミタマを思い浮かべると思いますが、稲荷神社とウカノミタマが結びついたは結構最近ことで、室町時代からのようです。

 いまのところ稲魂に関しては私も調査ができていないので保留するとして、面白いのは現在の神社では自分たちの先祖を崇拝することはしませんよね。

 現在では先祖崇拝の場は神社ではなくお寺です。

 一般的にはお寺には仏様が祀られていますが、私たちの先祖の「カミ」を祈る場はお寺なんですよね。

 そうなると、仏様とか神様とか、より一層話が複雑になってきます。

 古墳時代に話を戻して、土地の霊(首長霊)や祖霊に対する祭祀は6世紀になっても引き続き古墳で行われていたわけですが、6世紀には日本列島に正式に仏教が入ってきます。

 いわゆる「仏教公伝」なわけですが、もちろんそれ以前にもローカルには仏教は日本に入ってきたと思います。

 7世紀には関東地方にも寺院が作られ始めますが、例えば群馬県の総社古墳群では古墳を築造しつつ、同時期に寺院も造っているのです。

 仏教が進出してきたことにより、祖霊信仰は仏教に持っていかれてしまったように思えますが、そもそも神社ができたのは7世紀後半ですので、神社には当初から祖霊崇拝の役割はなかったものと思われます。

 そうだとすると、弥生時代から日本人が「カミ」としていた、土地の神・祖霊・稲魂のうち、祖霊に対する信仰を神社は引き継がなかったことになり、仏教寺院は日本に登場した当初から祖霊を祀る役割を持っていたものと想像できます。

 なんかあまり練られていない歯切れの悪いお話しになってしまいましたが、そろそろ午後の現場に行ってきます!

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日本人は何に「カミ」を感じるか

2018-04-02 22:12:09 | 民俗コラム
 昨日の話しの続きのようになってしまいますが、今日もお掃除を終えて帰宅後、日曜日の講座のコンテンツ作りをしています。

 私は漢字が好きで(ただし、決して詳しくはなく漢字検定は受けたこともありません)、漢字が気になるとすぐに白川先生の本で調べてしまいます。



 ※ジジも愛読している白川静先生の著書(軽く2万円越えの『字通』は20代半ばのサラリーマン時代にボーナスで買ったのが役に立っています)

 今日は「土」という字の語源を調べようと思い、『字通』を見てみたところ、やはり思った通りで、本来は「土」というのは地面にあるあの土のことではなく、土地の神様の意味でした。

 現在では神社のある森のことを「杜」という字で表しますが、「森」は単に木が沢山生えている様子を想像できる一方で、「杜」は土地の神様と、いわゆる「神木」がセットになっている字だということが分かりますね。

 私は「ルーツ・マニア」で、プリミティヴなものが好きなのですが、もちろん神社のルーツにも大変興味があります。

 ただ、神社のルーツの場合は、昨日の話しのように律令国家の発生までしか遡れません。

 それでは、神社が出現する7世紀より前の日本人の信仰はどのようなものだったのでしょうか。

 ところで、昨日は「神社」の「社」という字の意味をお話ししましたが、「神」という字の本来の意味を調べてみましょう。

 『字通』によると、神の「申」の部分は電光が屈折して走る形で、神意の現れとしています。

 やはり「神」という字は地面のカミ(神祇の「祇」)ではなく天帝のイメージでしょうか。

 ここまで話してくると、「神」という漢字の使い方にも注意が必要になってきたと思えてきたので、わざとカタカナで「カミ」と表記することにしますが、『カミの誕生 原始宗教』(岩田慶治/著)によると、諸外国では稲作農耕で生活する人びと(私たち日本人の場合は弥生時代以降)のカミには3種類あります。

 1.土地のカミ

 2.先祖のカミ

 3.稲のカミ(稲魂)

 日本人の場合は、上述の3つを合一して考えているそうです。

 確かにそうですね。

カミの誕生―原始宗教 (講談社学術文庫)
岩田 慶治
講談社


 さて、日本人の先祖は・・・といっても単純な話ではないのですが、私たちの先祖に繋がる一派は、弥生時代に大陸から稲作の技術や青銅器の製造技術などを携えて九州へ上陸しました。

 その故地である中国では、彼らが日本列島に上陸する前からすでに祖霊を「カミ」として祀っていたのです。

 中国では、いわゆる「漢字」という統一された文字が創られるより前のプリミティヴな文字が刻まれた考古遺物がたくさん見つかっています。

 例えば、青銅器に刻まれた文字を「金文」というのですが、紀元前11世紀から8世紀の間の西周という国があった時代に造られた「大克鼎(だいこくてい)」という3本足の青銅製の器(上海博物館蔵)には290文字が刻まれており、それには祖霊をカミとして祀っていた様子が刻されています。

 西周が衰退すると春秋時代となり、やがて戦国時代というように時代は流れていくのですが、私はその間の紀元前473年に滅びた呉や紀元前334年に滅びた越の人びとが日本列島へ渡ってきた可能性にロマンを感じます。

 もちろん中国大陸だけでなく、朝鮮半島でも多くの動乱があったので、大陸の各所から日本列島へ人びとが来たと思いますが、大陸から来た人びとが上述の3種のカミの概念を日本に持ち込んだことは想像に難くありません。

 ではそれを実際の遺跡で確認することはできないでしょうか。

 弥生時代の遺跡を見ると、吉野ヶ里遺跡では祖霊崇拝があったことが分かります。

 吉野ヶ里遺跡では「北墳丘墓」と呼ばれる大型の墳丘墓が見つかっており、「王」と呼べるような身分の14人の甕棺が埋葬されていました。

 この北墳丘墓の前面には1本の柱の跡が検出されており、現在はこのように復元されています。



 この柱のさらに前面には祠堂の跡と推定されている拝殿のような建物が復元されており、さらにこれらは吉野ヶ里のムラのもっともコアな建物である北内郭の主祭殿から見ると、主祭殿の南北の軸の延長線上に、祠堂・柱・北墳丘墓の南北の軸が綺麗に並んでいるという特徴を持っています。

 さらにもう一つ付け加えると、主祭殿から北墳丘墓とは反対方向に線を引っ張って行くと雲仙岳にぶつかります。

 古代人は方位には非常に敏感だったのです。

 さて、北墳丘墓の築造時期は弥生時代中期前半で、墳丘墓の東側の土壙には中期中ごろから後期後半までの300年に渡って捨てられ続けた祭祀用土器が見つかっていることから、その間、祖霊に対する祭りが継続して行われていたことが分かります。

 つまり、弥生時代中期前半(実年代については諸説ありますが、遅く見積もっても紀元前100年代頃)には、私たちの先祖は祖霊崇拝を始めていたことが分かるわけですね。

 こういった祖霊崇拝が縄文時代まで遡るかは分かりませんが、弥生時代には稲作も日本に入ってきていますから、上述の3つの「カミ」のうち、弥生時代には祖霊と稲魂をカミとしていたと考えていいと思います。

 では、もうひとつの土地のカミについてはいつから信仰が始まったのでしょうか。

 現代の私たちが土地に対してカミを感じる瞬間とはどんなときでしょうか。

 私たちの場合は産土神というのに比較的馴染みがあって、それは私たちが誕生した地域の神様で、引越しを繰り返したとしても一生、産土神との縁は切れないと考える人もいます。

 日本人が想う所の土地の神というのは亡くなった地域の王ではないでしょうか。

 上述の北墳丘墓に葬られた王たちは、ムラの上層部の人たちからすると祖霊となり、地域の住民からすると土地の神ということになったのではないでしょうか。

 日本人は今でもそうですが、偉業を成し遂げた人が亡くなると神として祀る習慣がありますよね。

 若い人たちが特殊な才能の持ち主のことを「神だ!」と言ったりするのも2000年以上の伝統の上に成り立っているかもしれず、また、若い人たちが性的で偏執的な事件を引き起こした犯罪者に対しても「神だ!」と言ったりするのは、もしかすると平安時代以降の怨霊信仰の名残かも知れません。

 話を戻して、日本人は実在した人物を死後に神として祀るのが好きなので、そうなるとやはり偉大な王は神様となる資格は充分にあると思います。

 弥生時代が終わり古墳時代になると、墳丘墓(この時代には古墳)は異様なほどに巨大化して、それはまさに地域住民が現実に偉大な「カミ」を感じる装置としての機能も果たしていたと考えれらます。

 というわけで、そろそろ夕飯なので今日はこの辺で。

 【追伸】

 実は私は信仰とか神話とか、そういったこともだいぶ前から興味があって、少しずつ本を読み続けています。



 もともと小学生の頃は「オカルト少年」でしたので、ちょっとアンダーグラウンドな「呪い」とかそういったことにも興味がありますが、現在は誰のことも呪っていませんのでご安心ください^^

 【追伸 その2】

 ちょっと先になりますが、6月9日(土)に西新宿のクラツー本社において「日本神話と神社の歴史 ~古代・中世を中心として~」という講座をします。

 興味のある方はどうぞこちらからご応募ください。

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神社はお願い事をするところではない

2011-10-20 20:48:58 | 民俗コラム
「東京の古代中世を行く」コーナーを見て、「この人はなんでこんなに神社ばかり行っているのだろうか?」「何をお願いしているのだろうか?」と思われた方もいるかもしれません。

神社巡りをして何をお願いしているのか?

そう思うのも不思議ではないですが、その発想は誤りです。

というのは、神社はお願い事をする場所ではないからです。

日本の現代の風習では、神社の神様に対しては、商売繁盛だったり、無病息災だったり、こちら側から目的を持ってお願いをしますが、私はそれに違和感を覚えます。

神様はこちらから個別のお願いをしなくても、その存在を尊重すれば、全体的なバランスのとれた社会にしてくれると思うのです。

ところで、幸せは個人主義だけではだめです。個人の幸せを願いながら、同時に世界の幸せを願わないといけません。トンネルを両側から掘るイメージです。

神社に行かなくても、普段から個人の幸せと世界の幸せを願うことは可能です。

そういうわけで、私は神社の神様に個人的なお願いはしていません。

ただ神様が健やかに気持ち良くあって欲しいと念じているだけです。




御城コレクション

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人を神に祀る風習とはどういうものか?

2011-10-18 22:11:23 | 民俗コラム
日本人は縄文の昔、いや、もしかすると旧石器時代からかもしれませんが、自然の物、例えば太陽、月、星、雲、風、雨、雷などに対し人智の及ばない超越的な存在、すなわち神の存在を想像していました。

そういう自然の物に対しては現代においても畏敬の念を感じますので、古代人の気持ちも良く分かります。

私はそういった信仰にも大変興味が有るのですが、それと並んで最近ずっと気になっているのは、死んだ人間を神とする風習です。

柳田國男は、『人を神に祀る風習』で、以下のように述べています。

「遺念余念というものが、死後においてもなお想像せられ、従ってしばしばタタリと称する方式をもって、怒りや喜びの強い情を表示し得た人が、このあらたかな神として祀られることになるのであった」

おそらくこれは古代末期から中世・近世の事象が想定されており、良くないことが起きた時に、神がかりになった人が「誰彼の霊のせいだから祀れ」と言い出したのが発端だと思われます。

私が今、非常に興味を持っているのは、柳田國男が想定している時代よりももっと昔の話です。

例えば、ヤマトタケル。

この人物は多くの研究者は架空の人物だと言っていますが、架空説を唱える人でも、過去の複数の人びとの実績をまとめた人物であるとする場合があります。

ヤマトタケルは実在か架空かの問題はここでは触れませんが、現実に存在するのは、「ヤマトタケルの高徳を慕って祀った」という各地に残る神社の伝承です。

現在のところ私が知る範囲では(東京23区内に限定してしまいますが)、ヤマトタケルの「祟り」を鎮めるために祀ったという話は無いです。

みんな、後世になって「あの方は良い方だったなあ」という「思い出」で祀っているというイメージを受けます。

でも、そういうホンワカした感傷で神に祀るということは、実際にあるのでしょうか。

そこのところが分からない。

今のところ、そういう伝承のある神社に対しては、いつの時代にヤマトタケルを祀ったのか調査できていないので今後調査を進めていきます。

いつ、どういった理由でヤマトタケルを祀ったのか、本当のところを知りたい。

ところで、神社に祀られる神様も、時代によってブームがあります。

そういう世相を反映して、もっというなら体制側に迎合して祀られることになったとしたら、ヤマトタケルの場合は大化改新(645年)以後のヤマト朝廷の東北進出の時代です。

ヤマトタケルは蝦夷(エミシ)を征討しましたが、大化改新以後のヤマト朝廷が東北に侵攻した時期にヤマトタケルは東北侵攻のシンボルとして祀られたかもしれないです。

対エミシ政策以外に考えられるのは、天候不順や天災などを契機とした場合ですが、ヤマトタケルの性格は災害から地域を守ることに関してあまりふさわしくないように感じます。

さて、今回は話がヤマトタケルだけになってしまいましたが、個別事例だけでなく、一般論として初期の神社で「人を神に祀る風習」とはどのようなものだったのかについても、もっと詳しく調べてみようと思います。





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民俗学の定義に当てはまらないとすると、一体それは何と呼べばよいか?

2011-10-14 20:21:41 | 民俗コラム
『図解雑学 こんなに面白い民俗学』によると、民俗学の研究対象となりうる時代は明治から昭和にかけてであるといいます。どんなに古くても中世末頃までと見なすそうです。

しかしこの定義には疑問があります。

というのは、現在の私がライフワークとしている古い時代(古代・中世)の「伝承」を追いかける行為は、民俗学でないとすると、一体何なのかと思うからです。

それは、歴史学でないことは確かです。

なぜならば、歴史学というものは「伝承」を切り捨てるからです。

「史料」にないものは信じないという姿勢です。

そういう歴史学の姿勢に疑問を感じた私は、歴史学に「伝承」を加味し、それを「歴史学と民俗学の中間」と称しているのですが、上述のとおり、古代・中世の「伝承」を追いかけることが民俗学でないとすると、一体何という学問になるのか、分からなくなります。

もちろん、学問に「定義」などは必要ではなく、もっと本質的なことを考える必要があるとも考えられますが、他人に対して自分の学問の内容を簡潔に伝えるにあたり、民俗学という言葉が使えなくなると、代わりに何と称すればよいのでしょうか。

一般的ではないかもしれませんが、「神社伝承学」という言葉もあります。でも私の場合は、神社以外にも、地域に残る「言い伝え」を掘り起こしていきたいと思っています。

本当のことを言うと、歴史をやっていると良く分かることで、「歴史学」と「伝承を調べること」は、あまり相性が良くないのです。くっつきが悪い。

そこを敢えて私はやっているというわけです。

しかし考え方を変えると、私は歴史学でも民俗学でもない、新たな学問をやっているのかもしれません。

私と同様な考え(歴史学に伝承をプラスする)を持っている人は大勢いると思います。

真実の追求も大事だと思いますが、私はもっと「心」の問題を大事にしたいと思います。

人びとが古代・中世以来、先祖代々育んできた「心」。

それを大切にするのが重要なのではないでしょうか。




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東京の神はどこに降臨するのか?

2011-10-13 20:18:20 | 民俗コラム
日本の民俗学がいうところによると、神社ができるもっと前から、日本人は自分の住む土地から見える秀麗な山に神が降りるとし、それを崇めてきました。

山に降りた神は、春の田植えには里、そして田へとやってきて地域を見守り、秋の収穫の後にはまた山へ帰っていくと考えられています。

この「山」、「里」、「田」という日本の原風景ともいってよい景色ですが、これについて私は非常に違和感を覚えます。

というのは、私の生まれ育った千葉県北西部は、関東平野の中にあり、山といえば、晴れた日に北方の遠くに見える筑波山か、これまた西の超遠くに小さく見える富士山しかないのです。

生活の場から仰ぎ見られる神奈備と呼ばれるような身近な山は存在しません。

私が今研究している東京23区もそれに近い状況です。

そのような神が降りてくる山が無い地域の人びとは、古代、いったいどのような宗教観念を持っていたのでしょうか。

私は東京23区内の場合は、「山」ではなく、「川」に神が降りてきたのではないかと思っています。また、東京湾の沿岸部は東京湾に神は降り立ったのだと思います。

そう思って、東京23区と川の神に関する資料を探し始めました。

民俗学の方面で、もしそのようなテーマについて書かれた本をご存知の方がいればご教示ください。

東京の川に関しては以前から非常に興味があります。

山が無いのだから、神は川や海や池(23区のあちこちに池はまだ残っている)に降臨したに違いありません。

また、海に関しては、地方によっては神は海の彼方からやってくるという伝承が残っていますが、東京湾の場合は、反対側(東京からすると千葉側)が見えてしまっているので、水平線の彼方からやってくるというイメージではないと思います。

東京の神について、もっと知りたいです。



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東京23区内の古代・中世に創建された神社にはどのような伝承があるか?

2011-10-08 21:21:58 | 民俗コラム
今日も武州は良い秋晴れでした。

そんな出かけたくなる日よりの下、部屋の中でシコシコと神社の調査をしていました。

先日、古代・中世に創建された東京23区の神社は約350と言いましたが、『東京都神社名鑑』その他を参考にして数え直した結果、338社ありました。

338社のなかには、どのようなルーツのある神社が含まれているかというと、ヤマトタケルの伝承を持っている神社と平将門の乱に関係している神社がそれぞれ16社ずつありました。

もちろん上記資料で調べられる範囲なので、実際はもう少し多いかもしれません。

あと、源氏(源頼信・頼義・義家・頼朝、足利尊氏、新田義貞、世田谷吉良氏など)に関連がある神社と八幡神社の合計は、91社に上りました。

91社というのは相当多いように思えます。

八幡神社は全てが源氏に関連するかどうかは分かりませんが、かなりの確率で源氏が関わっているようです。

いかに源氏の影響が東京23区に及んでいたかが分かりますね。

それと、中世の東京といえば太田道灌ですが、道灌の関連している(勧請したとか再建したとか)神社は、42社ありました。

聞いたところによると、道灌に結びつける神社の中には、後世になってから話を結びつけた神社もあるとのことですが、それでもやはり42社というのは道灌がスーパースターであったことの証左となります。

他にも、良文流平氏の豊島・葛西・江戸氏関連の神社や、中世流行った熊野神社、江戸にやたらと多い稲荷神社、23区北部に多い氷川神社など、様々な神社があります。

さて、そういうわけで、本日までの調査結果をもとに、今後参拝する神社を決めていこうと思います。

今後はただ単に参拝するだけでなく、「プラスアルファ」をしてみようと思っています。

「プラスアルファ」の内容とは何か?

やがてそれが明らかになる時が来ますので、それまでお待ちください。





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座敷童子とニアミス

2011-09-13 21:07:08 | 民俗コラム
2004年のGW、糠部地方(岩手県北部・青森県東部)の城館跡の調査に行った時のことです。岩手県二戸市の旅館「R荘」に一泊しました。

テレヴィでもやっているところを見たことがあるのですが、R荘の「槐(えんじゅ)の間」は、座敷童子が出現することがあり、もし座敷童子と会えた場合は、出世すること間違いなしといわれています。

原敬も総理大臣になる前に槐の間で座敷童子に出会っているといわれています。

槐の間は、そのような経緯から2~3年先まで予約が一杯で、私が泊ったのは別の部屋でした。

さて、広間で夕食を終えて自室に戻ろうとした私は、旅館の人に「槐の間を見てみますか?」と声をかけられました。

槐の間の客がまだ食事中だということで、その隙に見せてもらえるとのことです。

是非見たいと思った私は、急いで自室に戻ってカメラをとってきて、槐の間に入れさせてもらいました。

そこではテレヴィで見たとおり、泊り客が座敷童子のために置いていったオモチャ(ぬいぐるみ)がずらーっと並んでいました。



テレヴィで見た時は、夜中に誰も触っていないのに、音の出るオモチャのスイッチが入り音が鳴り出したり、オーブと呼ばれる発光体が画面に映ったりしていました。

「ふーん、この部屋か」と眺めていた、その時です。

触ってもいないのに、いきなりオモチャが鳴り出しました。

「おーっ、テレヴィと一緒だ!」

宿の人は、「今遊びに来てますよ。お客さんよかったですね」と言いました。

私は宿の人がリモコンで操作しているのではないかと疑ったりもしましたが、もしかしたら何かが写るかもしれないと思い、写真や動画を撮ってみました。しかし、何も写っていませんでした。

あまり長居もできないので部屋を出て自室へ戻ります。

座敷童子は一人ではなく、どの部屋にでも遊びに来る可能性があるということなので、自室でも写真を何枚か撮ってみましたが、やはり何も写りません。

夜中にやってくるかな?とも思ったのですが、消灯後は疲労のためすぐにグッスリ眠りにつき、結局座敷童子との遭遇はありませんでした。

というわけで、座敷童子とニアミスした私ですが、あれから7年、まったく出世していません。

出世しないどころか、会社からは追放されてしまいました。

そして驚いたことに、その後「R荘」は火事で全焼したということです。





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中尊寺の月見坂に霊はいるか?

2011-09-11 18:55:45 | 民俗コラム
デジカメで撮った写真のデータを見ると、その日は2003年4月28日、娘は3歳でした。

GWに妻の実家の岩手県北上市に帰省していた我々家族は、義父に平泉に連れて行ってもらいました。

そのとき、中尊寺に向かう時だと思いますが、娘がぐずって歩きたがらなくなり、重たいのを義父がおんぶしてくれました。

そして確か帰る時でしたが、月見坂を歩いているときに、異変が発生しました。

娘の「ぐずり」がひどくなり、泣きわめき始めたのです。

そして、泣きながら、手に持った紙(パンフレットか何かでしたが)をブンブン振り回して、「切らせて~、切らせて~」と泣き叫びました。

私が義父に背負われた娘に近づくと、娘は手に持った紙の断面で私の首の後ろを叩き、刀で首を切り落とす動作をしました。

それから続いて、妻と母の首を切り落とす動作をし、それが済むと落ち着いたみたいで安心した表情になり泣きやみました。

3歳の娘が刀で首を切る動作を行ったのはなぜでしょうか。

もちろん演技とは考えられません。

私は娘に一時的に平泉の合戦で討ち死にした武士の霊が憑りついたのではないかと思っています。

友人にこの話をしたところ、月見坂は心霊スポットらしいです。

中尊寺の月見坂は不思議な空間でした。




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日光戦場ヶ原

2011-08-07 20:17:53 | 民俗コラム
先月、小6の娘が修学旅行で日光に行ってきましたが、私も小6のとき、やはり修学旅行で日光に行きました。

そのとき、戦場ヶ原で休憩をしたのですが、日本史を勉強し始めた当時の私は「何で戦場ヶ原というのだろうか?古戦場だったのかな?」と思い、それ以来心の片隅にずっと疑問を感じていたのですが、それが最近『日本の神々(11)』の群馬の赤城神社の項を読んでいたら、戦場ヶ原について出てきました。長いですが引用します。

昔、二荒山と赤城山の神が、中禅寺湖を下野国のものだ、上野国のものだと言い合い、ついに戦いになってしまった。はじめは赤城の神側が優勢であったが、二荒の神は鹿島の神の助言によって小野猿麻呂という弓の名人の加勢を得、反撃に転じた。二荒の神は蛇の姿になり、赤城の神はムカデに姿を変えて戦ったが、赤城の神は猿麻呂に左目を射抜かれて、ほうほうのていで逃げ帰った。この戦場が今の日光中禅寺湖畔の戦場ヶ原であり、赤城の神が負った手傷をいやした湯が老神温泉であるという。

そうだったのか!

ひとつ謎が解けて良かったです。

しかし上記の話はまたまた色々な謎を内包しています。

下野(栃木県)と上野(群馬県)は同族のはずです。

それが女性を巡って戦ったのでしょうか。

下野に鹿島の神が助言しているのも気になります。

鹿島の神は、天皇家(の先祖)に忠実な武神タケミカヅチです。

これは何かあるに違いない・・・。




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ややこしい大物主(オオモノヌシ)・大己貴(オオナムチ)・大国主(オオクニヌシ)

2011-07-25 20:45:11 | 民俗コラム
古代史の本を読んでいると、いろいろな神様が出てきますが、そのなかで、

・大物主(オオモノヌシ)
・大己貴(オオナムチ)
・大国主(オオクニヌシ)

は名前が似ていて混乱します。

本を読んでいて混乱しないためにも、少し整理してみたいと思います。

『日本書紀』(神代 上)によると、大己貴神はスサノオの子です。そして、ある書ではスサノオの6代あとが大国主神、また別の書ではスサノオの6代あとが大己貴命だといい、さらに別の書では、大国主神は大物主神とも国作大己貴命とも言っています。

ある説では、三柱は同一神ということなのですね。

その説を採ってしまえば疑問が解決なわけですが、そうとも言ってはいられません。

さらに『日本書紀』(神代 上)の続きを見ます。

大己貴神が国を作り終わると、不思議な光が海の中からやってきて、それが大己貴の「幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)」で、日本国(やまとのくに)の三諸山に住み、大三輪の神となったといいます。

大三輪(の神)とは、奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)のことですが、大神神社のホームページによると、祭神は、大物主大神、配祀が大己貴神と少彦名神で、大己貴神は大国主神と同じ神であるといいます。

ここで、

大己貴(オオナムチ)=大国主(オオクニヌシ)

となりました。

『日本書紀』(神代 下)では、大己貴神は、葦原中国の主で、ある書では、大己貴神が国を譲って退去した後、大物主神と事代主神が天孫に帰順したといいます。

大国主(=大己貴)も大物主も、天皇家の先祖が天下を取る前に栄えた勢力ということになります。

大国主(=大己貴)は、島根県出雲市の出雲大社の祭神です。

ここまでは一般的な話で、エグイ話になると以下の通りです。

『消された大王 饒速日』(神一行著)によると、福井県小浜市の弥和(みわ)神社の祭神は大歳彦明神で、それはスサノオの子オオトシであるとし、大物主はオオトシであると同時にニギハヤヒであるとします。

つまり、ニギハヤヒはスサノオの子ということです。

大物主=オオトシ=ニギハヤヒ

という説はもう少し調べてみようと思います。





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アラハバキは土着の神か?外来の神か?

2011-07-24 18:47:32 | 民俗コラム
『隠された古代 -アラハバキ神の謎-』(近江雅和著)では、アラハバキはスサノオが祀っていた神で、スサノオは辰韓(のちの新羅)出身の「韓鍛冶」の一団の首領としています。

スサノオの一団は、当時まだ開発がされていなかった出雲西部に入植し、高志(越)のヤマタノオロチの襲来を退け、出雲東部の首長の娘クシナダ姫を娶り、つづいて出雲東部を乗っ取り、出雲を平定したといいます。

近江氏は、埼玉県さいたま市大宮の氷川神社の摂社門客人社がかつて「荒脛巾神社」と言われたことから、出雲大社の門客人社もアラハバキだと思っているようですが、同じ「門客人社」でも、「門客人」というのは一般的な名詞かもしれません。つまり表現は同じ「門客人社」であっても、中身は違う可能性が有ります。

近江氏は、アラハバキはスサノオが朝鮮半島から持ってきた神なので、その時期は弥生時代だとしていますが、私はどうもアラハバキは縄文時代からの日本古来の神であるような気がしてなりません。しかも、出雲や西国とは関係なく、関東・東北地方の神だと思います。

大宮の氷川神社は出雲大社からの分かれだという話と、武蔵の国造(国の支配者層)が出雲国造と同族の可能性が有るという話は気になりますが、むしろ、大宮には大昔からアラハバキを主祭とする神社の原型のようなものがあって、そこにヤマト朝廷が東国に進出するに当たって、重臣だった出雲系の人びとによって氷川神社が形成され、アラハバキは端に追いやられてしまったと考えるのはいかがでしょうか。

今後もアラハバキの動向には注視していこうと思います。




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山本勘助と一つ目小僧

2011-07-21 21:24:31 | 民俗コラム
歴代のNHK大河ドラマのなかで、私が一番好きなのは、2007年度の「風林火山」です。

「風林火山」の主役は、戦国時代の甲州武田家の軍師・山本勘助で、勘助は片目が見えず、くわえて片足が不自由だったにも関わらず、信玄の軍師として縦横の活躍をしたといわれています。

さて、私は柳田國男の『一目小僧その他』所収「一目小僧」を読み始めたのですが、日本の各地で残っている一つ目小僧の伝説では、一つ目小僧は足も一本であったという話が多いそうです。

それを読みながら私は、一つ目で、一本足、これはまさしく山本勘助がそうではないかと、ハッとしました。

そして、そのまま読み続けていると、やはり柳田も山本勘助に着目していました。

しかし、残念ながら少々触れるにとどまっています。

柳田の推測では、全国に残る、一つ目、一本足の「お化け」の伝説の元は、神への生贄の儀式の名残で、来年度の祭りで神と交信をする役が決定した村人を、あらかじめ片目をつぶし、片足を折っておいたことが由来ではないかといいます。

その件と山本勘助がどういう関係にあるのか?

それとも、両者は関係ないのか?

今日もまた謎がひとつ増えてしまいました。

ところで、私の近所の八王子城の落城伝説のひとつに、こういう話があります。

城を守る武将に景信という人がいて、落城の際逃げるときに藤蔓にひっかかり転倒、川に落ちて死亡しました。

景信はそのとき片目を怪我していましたが、それ以来、その川のヤマメはすべて片目になりました。

柳田によるとこれに類似した話は日本全国にあるそうです。

この伝説についても今後は留意していこうと思います。




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民俗学にも片足突っ込んでしまった

2011-07-19 18:27:30 | 民俗コラム
柳田國男著『石神問答』を読み終えても、石神あるいはシャグジに対する謎は深まるばかりで、それどころか、より一層、民俗学の面白さの深みにはまってしまったという感じです。

今日は午前中出かけたので、そのついでに午後は図書館に寄って読書をしていたのですが、『新多摩石仏散歩』(多摩石仏の会著)によると、東京都三鷹市にある真福寺というお寺に「釈宮氏(シャクジン)」と呼ぶ板碑型の石碑があるそうです。

真福寺は、十数年前私が住んでいたアパートの大家さんの菩提寺だったにも関わらず、その石碑は私は未見でした。

というか、十数年前はそういった石碑に興味が無かった・・・。

石碑といえば、『道祖神を考える』(石川博司著)によれば、私の住む多摩地方には、1300基の庚申塔があるそうです。

庚申塔も今までノーマークでした。

そういった石神・石仏もそうですが、各所に残る「塚」にも興味が出てきて、気をつけると、塚はそこらじゅうにあることが分かりました。

「塚」といえば、先日から話題にしている「十三塚」ですが、我が家の比較的近所にもある(あった?)そうで、『武蔵野の民話と伝説』(原田重久著)によれば、東京都稲城市大丸の十三塚は、鎌倉幕府が滅亡する時の分倍河原合戦で、新田氏に敗れた北条氏の武士を葬った塚だそうです。

そこを発掘した人は発掘直後急死したので、祟りにあったと言われています。

あと、「一つ目小僧」も気になりだしたら、東京の武蔵野地域にも一つ目小僧の伝説が残っているということを知りました(『武蔵野の民話と伝説』)。

もともとは歴史学が好きで、それに考古学、宗教学、神話学、人類学と、いろいろな学問を少しずつ加味してきて、それに新たに民俗学が加わった形です。

それだけ手広くやって、結果はいつ出るんでしょうかねえ。




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斬り殺された13人の武士を葬った十三塚

2011-07-17 20:28:32 | 民俗コラム
柳田國男の『石神問答』を読み進めていくと、「石神」と「シャグジ」が別の物であると述べられていました。

石神は、『延喜式』の時代(10世紀初頭)の記録に既に見られるといい、多くは「イシカミ」、「イワガミ」と呼び全国にありますが、サグジ(シャグジ)と混同しているようだといいます。関東では「シャグジン」と呼ぶ場合があります。

サグジ(シャグジ)は、東国にあり、西国や奥羽ではみつからないといいます。駿河等では杓子が転じてオシャモジとなりますが、オシャモジとシャグジと同神であるといいます。

さて、柳田は『石神問答』で、シャグジなどとともに「十三塚」にこだわります。

十三塚は、文字通り、13個の塚が並んでいるものですが、一つが大きくてあとの12個が小さい場合や、13個無くても十三塚と呼ぶことがあります。

伝承としては、戦国時代に討ち死にした武士を葬ったという類の話が多いようで、私も数年前に北東北の城館跡を巡った時に「十三塚」という地名に遭遇しています。

岩手県久慈市の宇部館跡がある場所の字は「十三塚」といい、その由来は、天正19年(1591)の九戸政実の乱の際に、政実弟の久慈備前守政則の家臣13人が乱入し、切り伏せられたのを葬ったことによるということでした(『岩手県中世城館跡分布調査報告書』)。

私が該地を訪れた時は、十三塚には興味がなかったので、塚を探すことはしませんでした。今となっては、せっかく行ったのにもったいないことをしたと思います。

柳田は『石神問答』とは別に『十三塚』という文章も書いています。一時は柳田があまりにも「十三塚、十三塚」というので、「十三塚男」、「十三翁」と考古学方面から言われたらしいです。




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