日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会(旧東国を歩く会) ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

【追記】滝山城の大手口/邪馬台国と古墳の関係【4月7日(土)に邪馬台国講座をやります】

2018-03-30 22:43:01 | 歴史の謎
 滝山城の話題の続きですが、前回の記事では大手口は鍛冶谷戸か専国谷戸じゃないかということを話しました。

 そう思う理由ですが、まず、城には出入り口が複数あります。

 もちろん城は防御施設ですので出入り口は極力少ない方がいいですが、とくに滝山城のような大名の居城レヴェルの拠点城郭は、利便性を考慮して出入り口がいくつかあっても良いと思います。

 ですので、現在の搦手口も天野坂も出入り口で良いと思います。

 そのなかで、鍛冶谷戸か専国谷戸方面だと思う理由は以下の通りです。

 大名級の居城には各地から大事なお客さんが来る可能性がありますよね。

 そういった、氏照からすると権力を見せつけたい相手には、鍛冶谷戸か専国谷戸から入ってきてもらうと、とても威圧感やゴージャス感を与えることができるのです。

 これは実際に現地を歩くと分かると思います。

 もし攻め手が二の丸南直下までダイレクトに行けたとしてもそこからの比高差はかなりあるので、簡単に曲輪の上に這い上がることはできません。

 そういった戦いの場面ではなく、賓客が来た場合は、大馬出へ上る道がメインルートだったと考えます。

 一方、現在大手口扱いをされることが多い天野坂は、私は勝手口だと思っています。

 今も昔も、大事なお客様は玄関から入る。

 つまり大手口から迎え入れますが、例えば近隣住民が城の保全のために入ったり、各種納入業者が入るときは天野坂を使ったものと考えます。

 このように城には複数の出入り口があり、用途によって使い分けており、鍛冶谷戸か専国谷戸が大手で、天野坂は勝手口というのが現在の私の考えです。

 さてもう一つ、次は邪馬台国と古墳の話です。

 古墳の墳丘デザインにはいろいろなものがありますよね。

 その理由として、現在はぶりをきかせている説が、古墳の墳丘デザインにはヤマト王権が決めた序列が反映しているという考えです。

 つまり、ヤマトにもっとも親しい地方豪族は前方後円墳の築造をヤマトから許され、その次が前方後方墳で、ついで円墳、方墳という序列があったという考えです。

 私はこの考えは採用しませんが、この考え方は「邪馬台国奈良説」と強く結びついているように感じます。

 邪馬台国奈良説を強く主張する白石太一郎先生は、邪馬台国連合が前方後円墳を築造し、東海にあった狗奴国に属していた豪族たち(とその後裔)が前方後方墳を造ったとしていますが、これは邪馬台国が奈良にあり、それがヤマト王権につながったというのが前提条件になっています。

 もしこの前提条件が崩れたらどうなるのでしょうか。

 私はいったん、邪馬台国とヤマト王権を切り離して考えることにしています。

 邪馬台国の場所がどこにあったとしても、考古学的に言えることは、ヤマトの巨大古墳の相似形の古墳が列島各地に散在しているという事実からして、ヤマトから設計図をもった技術者が地方に派遣されて古墳を造ったというのは事実ではないかと考えています。

 しかし、そのなかで前方後円墳と前方後方墳をヤマトがランク分けをしたという上述の説はやはり私に対しては説得力がないのです。

 これを深く考えるには、前方後円墳と前方後方墳のそもそものルーツを調べる必要があり、単純に墳丘のデザインだけを見ると、日本にこういった墳墓が登場するよりも前に北東アジアで見ることができます。

 それらが日本に渡ってきたかどうかは不明だとしても、確かなことは国内最古の前方後円墳がヤマトに出現して、それが全国に広がったという事実はなく、列島各地で同時多発的に前方後円形の墳墓が現れ、むしろ北九州のものが最も古い可能性があります。

 そうするとやはり、朝鮮半島から来たかな・・・、となるわけですが、これ以上は確実なことは言えません。

 そろそろ午後の現場に行くのでひとまずここまでをまとめると、邪馬台国奈良説がもし間違いだったとすると、その後の古墳時代の定説のいくつかも誤りであることが分かってしまうのです。

 あまりにも邪馬台国奈良説を自明のこととしてその後の日本の歴史を組み立てる学者の方々が多すぎます。

 学者の方々はそれでご飯を食べていますので、いろいろと事情がおありでしょうが、私たちはそういったシガラミがない分、自由に考えることができて幸せですね。

 なお、4月7日(土)に、西新宿のクラツー本社で邪馬台国北九州説の可能性について講義をしますが、今予約状況を見たら「キャンセル待ち」になっていました。

 ご応募いただいたみなさん、どうもありがとうございます。

 ※3月30日追記

 前回この記事を書いたときは定員に達してしまっていたのですが、その後教室を替えてくださりさらにご参加可能になりました。

 興味のある方はクラツーのこちらのページをご覧ください。



 ※写真はイメージでも何でもありません
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金印に刻された「漢委奴国」は、「奴国」かそれとも「伊都国」か?そして邪馬台国の場所は・・・

2017-07-29 12:27:22 | 歴史の謎
 7月8日と9日にご案内したクラブツーリズム主催の福岡・佐賀古代史ツアーでは、探訪の最後に福岡市博物館を見学しました。

 福岡市博物館には国宝である「金印」が展示されています。



 ※稲用章撮影

 このような「国宝の中の国宝」と言っても良い逸品が国に持って行かれずに出土地に近い地元で展示されていることに私は感動しましたし、地元の方々にとっても誇れることだと思います。

 日本の古代史を調べる上で、まだ国内の文字史料が現れるより前は中国の文献史料と発掘調査の結果が素材となりますが、中国の正史『後漢書』によると、西暦57年に「倭奴国」の王が後漢王朝の都洛陽に遣いを送り、光武帝から印綬を賜ったとあります。



 ※『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』(石原道博/編訳)に傍点を付け転載

新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝〈1〉 (岩波文庫)
石原道博/編訳
岩波書店


 この『後漢書』に記載された印綬(金印とは書かれていないが王へ賜う印は金を使う)が江戸時代に志賀島で発見された金印であるとされているわけです。

 金印の印面はこのようになっています。



 ※『福岡市博物館 常設展示 公式ガイドブック』より転載

 「漢委奴国王」とありますね。

 これは上の図にも書かれている通り、「漢の倭の奴の国王」と読むのが定説の座をしめています。

 「倭」が印では「委」という字になっているのは減筆といわれる印を造るときにたまに行われる処置だということです。

 奴国(なこく)という国は、「魏志倭人伝」にも登場する国で、福岡県春日市の須玖岡本遺跡が本拠地と目されており、その奴国の王が光武帝から金印を賜ったというわけですね。

 ところが、金印の読み方に関しては上述した定説以外にも、金印発見直後の江戸時代以来の説として、「委奴」を「イト」と読み、「漢のイト国の王」、すなわち伊都国の王と解釈する説もあるのです。

 ツアー当日にお配りした私が作成したレジュメには定説の方を紹介しておいたのですが、参加者の方から「”イト説”もありますよね?」と指摘をいただきました。

 クラツーのお客さんは結構マニアックな方もいらっしゃいますので、こういう指摘を受けると私も刺激を受けるのでその後考察を深めてみました。

 ちなみに、ツアー当日福岡市博物館の職員の方が金印について解説してくださったときは、きちんと「イト説」も紹介しており、さすがだなあと思いました。

 では、金印を光武帝から賜ったのは奴国の王でしょうか、それとも伊都国の王でしょうか。

 それを考えてみましょう。

 「魏志倭人伝」を読むと伊都国は他の国と比べて特別な印象を受けます。

 というのも、まず「世々王がいた」と書かれているところです。

 奴国にも王はいたはずですが、奴国の項にはそう書かれていません。

 また、伊都国には朝鮮半島の帯方郡から来る使節が滞在する施設があり、さらに「一大率」と呼ばれる、魏王朝でいうところの「刺史」(州知事のようなもの)に該当するような広域を統べる特別官が滞在している点もプレミアム感があります。

 伊都国は九州における外洋との窓口となっており、個人的には現在の博多に似たような往時の繁栄の様を想像してしまうのです。

 遺跡を見ても、伊都国では王墓が三雲南小路王墓→井原鑓溝王墓→平原王墓と連綿と造られたのに対し、奴国王の王墓(須玖岡本遺跡)は副葬品を見ると伊都国王と充分に渡り合えますが、時代的には弥生時代中期後半(紀元前1世紀後半)になり、その前後の王墓が不明確なので、権力が長年に渡ってどの程度持続していたのか判断が難しいです。

 このため、「魏志倭人伝」の内容や現在見つかっている王墓を見る限りでは、倭国を代表する勢力としては伊都国王の方に分があり、現在の私は今では定説の座から降ろされている「イト国」と読む方を支持したいと思います。

 平原王墓の被葬者は誰か

 それともう一点、『後漢書』によれば金印拝受から50年後の107年には「倭国王帥升等」が生口(奴隷)160人を献じて後漢第6代皇帝・安帝に拝謁を願ったとあります。

 人名は帥升(すいしょう)しか出てきませんが「等」とあることから、帥升を代表者として倭国の王たちが連れだって洛陽まで行ったわけです(文面からすると王たち本人が行ったようです)。

 この帥升はどの国の王か。

 寺沢薫氏は『王権誕生』の中で伊都国の王としていますが、私も同じ考えです。

王権誕生 日本の歴史02 (講談社学術文庫)
寺沢 薫
講談社


 理由は上で述べた通り、「魏志倭人伝」の記述および王墓の遺跡によって伊都国王が倭国の代表者として相応しいと思うからです。

 さらに想像を逞しくさせると、伊都国にある平原王墓1号墳の被葬者は帥升の子孫(孫辺りか?)ではないかと思うのです。



 ※稲用章撮影

 平原王墓1号墳はちょっと特殊な墓で、集落から仰ぎ見られる場所にはなく、まるで人目をはばかるように築造されています。

 もちろん墓域に入ってしまえば普通に目立ちますが、雰囲気的には墓に眠る王の霊が集落で生活している民や子孫を見下して加護する効果は望めないように見えるのです。

 なおかつ、40枚もの驚くべき多量の銅鏡が粉砕された形で副葬されており、どうもこの被葬者は後継者からするとあまり気持ちの良い存在ではなかったのではないかと思えます。

 なお、1号墳の副葬品には武器類があまりなく、勾玉や管玉・耳璫(耳飾り)などの装身具が多いことから被葬者は女性であると考えられているようですが、果たしてそう言い切れるでしょうか。

 1号墳の築造時期は2世紀の終わり頃ですが、「魏志倭人伝」を読むとちょうどその頃、倭国内では男の王が立ち国中がもめたためシャーマンである卑弥呼が共立されたとあるので、もめたときの王(帥升の子孫)を処刑して1号墳に葬ったのではないかと思うのです。

 あれれ、この話しの流れだと、卑弥呼が都した邪馬台国は北九州にあったという流れになってしまいそうですね!

 後になってまた変心するかもしれませんが、奈良の空気と福岡・佐賀の空気を実際に吸った感じを比べると、「肌感覚」として私は北九州説を支持したいと思うようになりました。

 さて、図らずも私が邪馬台国北九州論者であることが露呈してしまいましたが、このチラシの左側のツアーによってまた考えが変わるかもしれません。



 すでに催行は決定していますので、申し込んだのに行けなかったという悲しい事態にはなりませんのでご安心ください。

 ※後日註

 奈良のツアーと総社古墳群&大室古墳群のツアーは満席となりました。

 みなさん、どうもありがとうございます!

 大塚歳勝土遺跡&秋葉山古墳群ツアーの方はまだ少々空席があります。

 詳しくは、下記リンクからどうぞ。


 ⇒クラブツーリズムの公式サイト


 それと、上記以外の8月以降に行われる私の講座やツアーについてはホームページ「日本史大戦略」のこちらのページにまとめてありますので、興味のある方は宜しくお願い致します。

 最後に一言。

 どうも邪馬台国とヤマト王権を接続させたいと思う気持ちが強いと、邪馬台国が奈良にあったと考えたり、邪馬台国が東に遷ってヤマト王権になったと考えたくなるように思えます。

 中国の魏王朝が日本列島全部をくまなく知っていたという保証はなく、魏が把握していたのは九州地方だけであり、ヤマトの勢力のことは知らなかったと考えても良いのではないでしょうか。

 九州で邪馬台国と狗奴国がドンパチやっていたちょうどその頃、ヤマトの勢力が纒向遺跡で見られるように力を付けてきてヤマト王権を確立した、という流れのように邪馬台国とヤマト王権を別個のものとして考えても良いのではないかと私は思います。

 ただし、神武の東征の話やそれ以前にヤマトに来たというニギハヤヒの伝承、それに応神天皇が筑紫で生まれたという話などから、北九州の勢力がヤマトに入った事実はあったのではないかと考えています。


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歴史の謎を調べていたら自らの不覚を悟る結果となりました

2015-09-07 23:00:34 | 歴史の謎
 本当に歴史は分からないことだらけで、考えれば考えるほど、調べれば調べるほど、謎は深まります。

 さっきも夕飯を食べようと思って下に降りたら、テレヴィの「ぶっちゃけ寺」で織田信長の死の謎をやっていましたが、本当に謎だらけです。

 ですから私は掃除を集中してやっている間以外は、歴史について考えていることが多いです。

 しかも意識的に考えている時間以外にも、潜在意識にも課題を投げて解決を依頼しているので、多分私の脳内では24時間歴史についての考察が続いているのだと思います。

 ちなみに、潜在意識をバカにすると損しますよ。

 潜在意識を上手く利用できるようになると、仕事でも勉強でも、色々なことの効率が格段にアップします。

 潜在意識についてここで詳しく説明することはしませんが、言い出したついでに一冊だけ極めつけにお薦めの本をご紹介します。

潜在意識が答えを知っている!
マクスウェル・マルツ
きこ書房


 さて今日は、前回の記事を書いた後、飛鳥時代を調べていました。

 飛鳥時代というのは、飛鳥(奈良県)に大王(おおきみ。当初はまだ天皇<すめらみこと>とは呼ばれていない)の宮殿があった西暦592年から710年までを指します。

 その間のもっとも有名な人と言えば、ズバリ聖徳太子ですね。

 私なんかは、聖徳太子というと一万円札と五千円札を同時期に独占した「金・銀独占選手」として記憶に残っており、また「ギャグマンガ日和」ではジャージを着て小野妹子と隋に行き、煬帝(正体はタコタコ星人)に塩をかけて殺害し、中国人民を救った人物として印象深いです。

タコタコ星人(ギャグマンガ日和)


 ※ちなみに娘がまだチビチビの頃、一緒に「ギャグマンガ日和」を見ていてタコタコ星人が出てきたら娘は恐ろしさの余り目をギュッとつむったのですが、その表情が今でも忘れられません

 聖徳太子は、その後「太子信仰」が流行ったこともあり、日本国民にとっては超スーパースターなわけですが、『日本書紀』で書かれている太子の事績が本当に厩戸皇子(聖徳太子の本名)がやったことかどうかは分からないのです。

 ちなみに「太子信仰」は「たいししんこう」ですが、弘法大師空海の信仰は「だいししんこう」ですよ。

 不思議なのは、以前もこのブログでも書いていますが、聖徳太子は推古天皇という女帝を補佐して政治を摂ったということになっているのに、その肝心の推古天皇自体の存在が怪しいのです。

 倭(当時はまだ日本とは称していない)は600年に初めて遣隋使を送っています。

 この事実自体、『日本書紀』では意図的に無視して書いていないのですが、中国の歴史書である『隋書』によると、倭の遣いの話では、倭の王には妻がいて、後宮には6~700人の女性がいると言っています。

 600年というと、推古天皇の治世のはずなのですが、なぜ倭からの使者は倭の王のことを男だと言ったのでしょうか。

 これには、隋に対して女性が王だと恥ずかしいので(決して男尊女卑ではなく当時の観念です)男にしたということも考えられますが、いずれ返礼の使者が倭にやってきたらバレちゃいますね。

 実際、2回目にあたる607年の遣隋使(代表小野妹子)が帰国する際に一緒に倭に来た隋の裴世清は倭の王に謁見しているのですが、特になんとも言っていないので会ったのは男の王のはずです。

 裴世清に対して国を挙げて偽装工作をしたと考えるのは無理でしょう。

 そう考えると、やはりこの時期の倭の大王は男だったと考える方が無難です。

 この時期は蘇我氏の力が大きかったので、大山誠一氏は、585年に敏達が死んだ後は蘇我馬子が大王になり、ついで舒明、蘇我蝦夷、蘇我入鹿と大王位が続いたと推測しています。

 天皇は万世一系だと信じている人はこれを聴くと気分が悪くなると思いますが、そもそも、そもそもですよ、大王が一つの家で世襲するものだと言う考えが当時有ったかどうかは分からないのです。

 飛鳥の朝廷は畿内の有力な豪族たちが持ち回りで代表者、つまり「大王」を出していたと考える余地は残っているはずです。

 実際、蘇我氏の時代より少し遡りますが、実在する大王級の巨大前方後円墳の場所と築造年代を調べると、『日本書紀』に記されている歴代大王と整合性が取れず、複数の勢力で持ち回りで大王をやっていたと考える方が素直なのです。

 それが、『日本書紀』が編さんされた8世紀初頭の時点では、政治的な理由で天皇家は万世一系にする必要があったので、過去の歴史を改竄したと考えられるわけです。

 私は飛鳥時代に蘇我氏が果たした役割は大きいと思っています。

 ただ、その蘇我氏がなぜそれだけの権力を得られるようになったかは謎です。

 蘇我氏の出自は渡来系と考える人もいますが、当時は渡来系の人だらけなので、それを特別視する必要はありません。

 しかも『隋書』には日本列島内に中国人の国があるとも書かれており、飛鳥の朝廷はまだまだ列島全体の支配には遠い状況にあるのです。

 以前は埴原和郎氏の「弥生人100万人渡来説」が通説でしたが、それはあり得ない話で、私はむしろ古墳時代の方が渡来人は多かったのではないかと思います。

 そういう人たちの協力で日本の国造りは進められました。

 蘇我氏で実在が確実視されるのは、645年の乙巳の変(大化改新)で殺された入鹿の曾祖父に当たる稲目ですが、この人物が急激に出世したのはちょうど継体大王が没したあとの「不明瞭な時代」においてです。

 継体が没した後は、『日本書紀』では、安閑、宣化、欽明と兄弟で相続したことになっているのですが、この辺もどうも事実がはっきりせず、結果的に欽明が少し長く在位し、欽明のもとで稲目は大変な力を持つわけです。

 しかし、欽明が在世中の6世紀中葉については、『日本書紀』では朝鮮半島のことばっかり書いていて、国内がどうだったかはあまり書かれていません。

 そして前述した大山氏の説だと、欽明のあとは敏達が継ぎ、その次はついに稲目の息子の馬子が大王の位に就いたわけです。

 さて、話がとりとめなくなってきたので今日はこの辺でやめておきますが、最後に一点。

 私は史跡めぐりをすると現地で遭遇した人に声を掛けるのですが、今年のGWに群馬探訪をしたときに、前橋八幡山古墳で一人の男性と知り合いました。

 その方は都内の某有名大学の教授だったのですが、今日、飛鳥時代を調べていて大山誠一編の『聖徳太子の真実』を読んでいたら、何と!その先生の論文が収められているではありませんか!

聖徳太子の真実 (平凡社ライブラリー)
大山誠一編
平凡社


 これは不覚だった・・・

 その本はGWよりも前に読んでいたのにもかかわらず、前橋八幡山古墳の墳丘の上でまったく思い出しませんでした。

 でも何かとても嬉しかったので、さっきその先生にメールしちゃいました。

 こういう偶然って面白いなあ。

 さて、明日は7時開始です。

 田田のお陰で少しは疲労が抜けたかな?
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アイヌ語地名は全国に分布するのか?そしてアイヌとエミシの関係は?

2013-02-02 11:03:51 | 歴史の謎
 北東北にアイヌ語地名があることと、マタギ言葉とアイヌ語が近いということは、アイヌの先祖が北東北にいたということの証しになります。実際、江戸時代の津軽藩にはアイヌがいました。

 そのアイヌ語地名は、北海道と北東北以外にもあるのでしょうか?

 本州でのアイヌ語地名の分布範囲は北東北だけで、南東北にも少しあるみたいですが、関東以西でアイヌ語地名と言われているものは、私はすべてこじつけであると考えています。

 北海道や北東北で多く見られる「~ナイ」や「~ベッ」が濃密に分布する地域がアイヌ語地名の分布範囲で、関東以西にそういう地域が見られないことから、関東以西にアイヌ語地名はないと考えるのです。

 全国にアイヌ語地名が分布するという説は、明治時代にバチェラーらが唱えた説で、すでに古い学説となっており、現在のアイヌ語研究者の多くはその説を取っていないそうです(『蝦夷の古代史』)。しかし、Webで調べてもその説を信じる方が多いようなので、なぜか民間には多く流布されてしまっているようです。

 北東北に多くのアイヌ語地名を残した人びとは、古代の蝦夷(エミシ)でしょう。

 古代においても、エミシは日本語をしゃべらず、「夷語」を話したと記されています。

 北東北に多くのアイヌ語地名を残した人びとが古代の蝦夷であるのなら、古代の蝦夷は中世のアイヌ、そして現在のアイヌに発展したと考えてよいのでしょうか?

 私は別のページで「たまに、アイヌはエミシの子孫だという意見も見られますが、私はエミシの子孫は律令国家人(日本人)と同化してしまったので、エミシからアイヌになったとは思っていません」と述べましたが、北東北のアイヌ語地名の存在を考慮すると、考えが変わりました。

 現在私は、古代の蝦夷(エミシ)は律令国家人(主に関東からの移住者)と混血をして現在の東北人になった人びとと、律令国家人と混血せずに中世の蝦夷(エゾ)=アイヌ、そして現在のアイヌに発展した人びとに分かれたのではないかと考えています。

 上でも出てきましたが、エミシとアイヌとの関係を考える上で、以下の書籍が参考になります。

蝦夷の古代史 (平凡社新書 (071))
工藤 雅樹
平凡社

 こちらに『蝦夷の古代史』の詳細なレビューを書いておきました。

 さらに詳しく、続きをこちらに書きました。


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利根川と荒川の歴史について少し調べてみました

2013-01-30 21:34:51 | 歴史の謎
 東京には多摩川や荒川といった大河川が流れており、江戸時代以前は利根川も流れていました。

 その利根川ですが、江戸時代の初めに現在の流路になるまで、どのような変遷を辿っていたのか、また昔の利根川と切っても切れない仲である荒川との関係はどうだったのか、そういったことを知りたくて、Webで調べてみました。

 そうしたところ、株式会社クボタが発行していた「アーバンクボタ」という本で昔の利根川について分かりやすく書いてある記事を見つけました。

 アーバンクボタ 19号

 それによると、関東平野ができたのと同じ頃の約10万年前、利根川は生まれ、約6万年前は、現在の荒川と同じような流路に落ち着きました。

 当時の荒川は、利根川の支流でした。

 当時利根川が流れていた場所は荒川低地と呼ばれる場所で、大宮台地の西側です。大宮台地の東側は中川低地と呼ばれます。

 それが縄文時代にあたる4000年前ごろに、台地を飛び越して中川低地(の北の加須低地)に流路が延びて、中川低地を南流するようになります。

 そのころの気候は温暖だったので、水量が増え多量の土砂が堆積されはじめ、河床が埋もれて高くなる一方で、加須低地は「造盆地運動」(これについはまだ私は説明できません)をして相対的に低くなりました。そのため流れが加須低地の方に行ってしまったというわけです。

 それから時間が経って、中世の頃は現在の大落古利根川の流路を利根川は流れており、一方の荒川も現在の元荒川の流路を流れていました。両方とも中川低地ですね。

 その中川低地を流れていた荒川が、再度大宮台地の西側の荒川低地を流れるようになったのは、江戸時代になって利根川が銚子方面に付け替えられた「利根川の東遷」と同じころです。

 荒川は熊谷市久下で和田吉野川の河道に付け替えられて、入間川に接続するようになりました。こうして、現在の利根川と荒川が誕生します(北区にある荒川の岩淵水門より下流の荒川放水路は昭和初期の完成です)。

 つまり先日お伝えした板橋区の赤塚城の北側を流れる荒川は、赤塚城が機能していた中世のころは入間川と呼ばれていたのです。そして入間川の下流が隅田川です。

 以上、利根川と荒川の歴史を述べてみましたが、図がないと分かりにくいかもしれませんね。

 上記の「アーバンクボタ 19号」の「先史時代の利根川水系とその変遷」は、図も載っていて分かりやすいので、興味のある方は読んでみてください(「アーバンクボタ」は他にも興味深い記事が沢山掲載されていてお勧めです)。

 東京は国内一の河川集中地域なので、他にもまだたくさん川の謎が潜んでいます。

 これからももっと東京の川について調べてみようと思います。

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん








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中大兄皇子(天智天皇)による古人大兄皇子殺害(『歴史上の人物の不自然な死に方の謎』第3回)

2012-07-15 19:12:15 | 歴史の謎
 『日本書紀』によれば、舒明天皇13年(641)に舒明天皇が崩御したあと、舒明の姪であり皇后である皇極が皇位を継ぎました。しかし実はこのとき、天皇(ただしこの当時はまだ天皇という呼称はなく大王と呼ばれていました)の候補として以下の3人がいました。

・舒明の子である古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)
・山背大兄王(やましろのおおえのおう)
・軽皇子(かるのみこ。後の孝徳天皇)

 しかし、人びとの思惑が交錯して3人のうちに誰に決めることもできなかったので、皇極天皇の即位となったといいます。

 また、彼らに次いで、これも舒明の子である中大兄皇子(なかのおおえのみこ。後の天智天皇)も天皇になれる可能性を持っていました。

蘇我馬子―――――+―蝦夷――――入鹿
         |
         +―法提郎女
            |
            +――――古人大兄皇子
            |
           34|
押坂彦人大兄皇子―+―舒明
         |  |
         |  |    38
         |  +――――中大兄皇子(天智)
         |  |
         |  |    40
         |  +――――天武
         |  |
         |  +―――――+
         |        |
         |       35| 37
         +―茅渟王―+―皇極・斉明
               |
               | 36
               +―軽皇子(孝徳)

 ただし、前回お話しした大山誠一氏の述べる「蘇我王朝」説によると、舒明の次に天皇になったのは、蘇我蝦夷です。蘇我蝦夷が天皇になったのか、皇極が天皇になったのか実際のところは不明ですが、ここでは通説通り皇極が天皇になったこととして話を進めます。

 さて、皇極は中継ぎの天皇と考えられていたので、いずれまた皇位の継承をめぐって上述の3名を含めた争いが発生すると考えられます。

 上述の3名の中で、蘇我氏がバックアップしていたのは、蝦夷の甥にあたる古人大兄皇子です。蘇我氏のとって古人大兄を時期天皇にするためには、他の二人が邪魔です。

 そこで、蘇我入鹿は実力行使に出ました。皇極2年(643)11月1日、山背大兄王の斑鳩宮(いかるがのみや)を攻撃したのです。

 山背大兄は聖徳太子の子といわれている人物です。山背大兄は防戦しましたが防ぎきれず生駒山に逃れ、結局斑鳩寺に戻ってきて自殺してしまいます。

 そして入鹿は、古人大兄の立太子を進めますが、ここで大事件が勃発します。いわゆる「大化改新(たいかのかいしん)」の始まりである「乙巳(いっし)の変」です。645年6月12日、蘇我入鹿が暗殺され翌日父の蝦夷も自殺し、蘇我本宗家は滅亡してしまいました。このとき、蘇我氏と血縁であり、蘇我氏によって後援されていた古人大兄は、自分の宮に逃れ閉居し、やがて法興寺で剃髪し、僧形となり吉野山に隠れました。

 乙巳の変の首謀者は、上述の皇位を争った3人の次点で天皇になれそうな人物、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)です。中大兄は、3人の内の一人の山背大兄が蘇我氏によって殺されたので、早晩、自分も狙われる可能性があると思ったことがこのクーデターに踏み切った理由の一つかも知れません。

 クーデターの結果、皇極は退位し、弟の孝徳が即位しました。そして中大兄は皇太子となり孝徳をお飾りにして自らの政治を始めます。

 さて、ここで浮いてしまったのが、かつて皇位を争った古人大兄です。こういう人物を放っておくと非常に危ない・・・。中大兄はそう思ったのでしょう。

 策謀は密かに進められました。

 そして9月12日、策謀が表面化しました。古人大兄を首謀者とする謀反人の一味と称する吉備笠臣垂(きびのかさのおみしだる)が、自首してきたのです。

 中大兄は即、兵を吉野へ放ち、古人大兄を謀反の容疑で殺害しました。

 古人大兄の主張は一切無視され、身柄の確保だけではなく、いきなり殺されたのです。

 かつて皇位を争った古人大兄は、後ろ盾であった蘇我本宗家が滅亡した後、やはり目障りな存在として消されてしまいました。

 仮に古人大兄に天皇になる野望がなかったとしても、そういう本人の気持ちと周りの利害関係はかみ合いません。

 一時でも最高権力者に近づいてしまった者は、もう後戻りはできないのです。

 なお、自首した垂は、賞として功田20町を給されており、これがこの事件が陰謀だったことを物語っています。

 さて、これで皇太子中大兄を邪魔する者が一人消えました。

 しかしまだ邪魔者はいます。

 中大兄の粛清は今始まったばかりです。

艦隊これくしょん

艦隊これくしょん







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蘇我馬子の崇峻天皇暗殺(『歴史上の人物の不自然な死に方の謎』第2回)

2012-07-12 08:50:41 | 歴史の謎
 『日本書紀』によると、第32代崇峻(すしゅん)天皇は、592年に大臣の蘇我馬子(そがのうまこ)に暗殺されたといいます。

 天皇が家臣に暗殺されたのです。

 これは大変な異常事態ではないでしょうか。

 崇峻の死後は、異母姉である推古が跡を継ぎましたが、蘇我氏の権力は落ちるどころかさらに高まりました。

 なぜ蘇我馬子は天皇を殺しておきながら、周りから非難もされずに、さらに権力を向上させることができたのでしょうか。

 これを解くには私たちの脳内で大きなパラダイムの変化を必要とします。

 天皇家は万世一系、初代神武天皇から今上天皇まで途切れることなく綿々と続いてきたという考えを捨てなければならないのです。

 『天孫降臨の夢』(大山誠一著)によると、何と崇峻は天皇ではなかったといいます。

 一応ここで、その時代の天皇の系図を示します。

29    30               34
欽明―+―敏達―――押坂彦人大兄皇子―――舒明
   |
   | 31
   +―用明―――厩戸皇子(聖徳太子)
   |
   | 33
   +―推古
   |
   | 32
   +―崇峻

 上記系図でも分かる通り、崇峻天皇は聖徳太子の叔父にあたります。

 今まで便宜上「天皇」と言ってきましたが、実はこの当時はまだ「天皇」という称号はなく、「大王(おおきみ)」と呼ばれていました。なので、以降は大王と書きますが、それでは崇峻が大王でないとしたら、誰が大王だったのでしょうか。

 『天孫降臨の夢』の中で大山氏は、この当時の大王は蘇我馬子だったと述べています。

 大山氏は、敏達の死後は、蘇我馬子が大王になり、ついで舒明、蘇我蝦夷、蘇我入鹿と大王位が続いたと推測しています。

 つまり、天皇家の家系と蘇我氏が交替で大王をやっていたわけです。

 大山氏の『天孫降臨の夢』では、他に「聖徳太子はいなかった」、「日本書紀の天孫降臨神話や万世一系の天皇家を作ったのは藤原不比等だ」など、刺激的な論考が含まれています。

 そういったテーマに関心がある方や、「蘇我王朝」なんて本当にあったの?「蘇我王朝」って何なの?と疑問に思った方は是非読んでみることをお勧めします。

 上記の家系図の用明、崇峻、推古は幻の天皇です。

 通説では女帝である推古の時代に隋の使者が来ましたが、中国の記録によればそのときの日本の王は「男」だったといいます。

 それもそのはずです。

 推古なんていう女帝は存在しておらず、大王は蘇我馬子だったのですから。

 私は心情的には万世一系の天皇家を信じたいですが、大山氏の論考を読んでしまうと、考え方を変えざるを得ません。大山氏の論は学会では認められていないみたいですが、おそらく学者の偉い先生方も内心では「多分そうだろうなあ」と思っているのではないでしょうか。ただ、今までの自分の研究と齟齬をきたすので、公的に賛同できないだけだと思います。

 なんだか今日は本の紹介のような記事になってしまいましたが、崇峻を蘇我馬子が殺したという件は、大王馬子が家臣の崇峻を殺したとなると、インパクトも小さくなるのではないでしょうか。

艦隊これくしょん

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継体天皇と太子・皇子の不自然な死に方(『歴史上の人物の不自然な死に方の謎』第1回)

2012-07-08 10:20:37 | 歴史の謎
 歴史の本を読んでいると、よく登場人物の不自然な死に方に出くわすことがあります。というのは、例えばある人物の政敵となっている人物が、ある人物にとってグッドタイミングで死んでくれたことにより、ある人物は大きな政治的な飛躍を果たすなどです。公式の発表では「病死」とされていますが、本当に自然な病死なのでしょうか。あとは、罪を問われて死ぬ人物も多いのですが、果たしてそれらのなかに冤罪は含まれてはいないのでしょうか。

 私はそのような疑問の残る不自然な死に方の例を歴史文献から集めてみることにしました。不自然な死に方の裏にはとてもつもない陰謀が隠れているかもしれません。不自然な死に方の謎を私と一緒に追いかけてみませんか。

 さてそういうわけで、それではどの時代まで遡って見てみるかですが、あまり昔にまで遡ると現実感が無くなるので、現在の天皇家の系譜の祖ともいうべき第26代継体天皇から見てみることにしましょう。

 継体天皇は、『日本書紀』によれば、450年に生まれ、531年に崩じています。継体の子は目子媛(めのこひめ)との間に、安閑天皇・宣化天皇が、手白香皇女(たしらかのひめみこ)との間に欽明天皇がいました。

目子媛
 |
 | 27
 +―安閑
 | 
 | 28
 +―宣化
 |
26|
継体
 |
 | 29
 +―欽明
 |
手白香皇女

 そして『日本書紀』によると、継体の没後は安閑が継ぎ、安閑の没後は宣化が継ぎ、宣化の没後は欽明が継ぐというように、兄弟で順番に継いでいったことになっています。

 しかし『日本書紀』や『上宮聖徳法王帝説』によれば、継体が崩じて安閑が即位するまでに2年の空位があったり、継体の死の翌年に欽明が即位した形跡があります。

 このことから、安閑・宣化の朝廷と欽明の朝廷が並び立ったのではないかと、戦前の喜田貞吉氏、そして戦後の林屋辰三郎氏が述べています。

 この「二朝並立論」は、高校の教科書相当の本である山川出版社の『改訂版 詳説 日本史研究』にも記されており、現在では定説にようになってしまいましたが、懐疑的な意見も多いようです。「二朝並立論」には自説に都合が良いところを取って付けたような恣意的なことろがあるのと、考古学的には二朝並立を思わせる遺物が一切出ていないということもあり、否定派は納得できないようです。

 さて、二朝並立が有ったか無かったかは、次の「不自然な死に方」といえる話を読むと先が見えてきます。

 それは何かというと、朝鮮半島の歴史書『百済本記』には、辛亥年(531)のこととして、「日本天皇及太子皇子俱崩薨」と書かれているのです。日本の天皇と太子と皇子がともに亡くなったということです。

 これは異常な事態ではないでしょうか。

 これが何を示しているかというと、これは継体天皇と、太子安閑、皇子宣化が欽明天皇によるクーデターで次々に殺されたことを表しているのかもしれません。八木荘司氏によると「俱に」というのは「まったく同時に」という意味ではなく、「次々に」という意味だそうなので、決起した欽明によって暫時数年間の間に継体・安閑・宣化が掃討されたということかもしれません(継体の崩御に合わせて決起したのなら、掃討されたのは安閑と宣化)。その間短い期間でしたが、二朝並立はあったのでしょう。

 欽明天皇を補佐したのは、蘇我稲目(そがのいなめ)です。

 蘇我稲目は、『日本書紀』によると宣化天皇の時代に大臣になったとされていますが、上記のように継体・安閑・宣化が次々と死んでいるとしたら、稲目は二朝並立時に、最初宣化天皇の側近として仕えていたのを、欽明側に寝返って、しかも欽明朝では重用されていることから、その功績はかなり大きかったものと思われます。

 その後、それまで目立たなかった蘇我氏は一転して隆盛を極めますが、それには、欽明のクーデター事件がベースになっていたのかもしれません。もしかしたら、欽明を推し立てた首謀者は蘇我稲目だったのかもしれません。

 「不自然な死に方」である「日本天皇及太子皇子俱崩薨」には、蘇我氏の野望が隠れているのかもしれないのです。

 実はこの事件は、色々な人が色々な意見を言っています。ご参考としましては、下記の書籍をご覧いただければと思います。

 ■参考書籍

謎の大王継体天皇 (文春新書)
水谷 千秋
文藝春秋


古代天皇はなぜ殺されたのか (角川文庫)
八木 荘司
角川書店


日本の歴史〈1〉神話から歴史へ (中公文庫)
井上 光貞
中央公論新社


古代国家の解体
林屋 辰三郎
東京大学出版会


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天武天皇の正体は?

2012-05-03 14:44:52 | 歴史の謎
 古代において天皇位をめぐるもっと大きな内乱であった「壬申の乱」(672)の勝利者として有名な第40代天皇の天武は、古来より謎が多い天皇とされています。

 まず、当時の各代の天皇のなかで異例なこととして、生年が分かりません。天智天皇の弟ということになっていますが、天智天皇の何歳年下なのか分からないのです。

 なので、昔から天武天皇の年齢の研究はいろいろな人がやっていますが、定説というものはありません。

 また、天智天皇の娘を4人も妻にしているのも異常です。

 つきつめて考えると、そもそも天武天皇は天智天皇の弟(舒明天皇と皇極(斉明)天皇の子)なのか?もしかすると、違うのではないかと考えられます。

 では、天武天皇の正体はいったい誰なんでしょうか?

 7世紀の後半から8世紀の初めにかけて、藤原氏を覇権に導いたのは藤原鎌足の子・不比等(ふひと)ですが、不比等には貞慧(定恵。じょうえ)という兄がいました。

 貞慧は、皇極天皇2年(643)に生まれ、11歳のときに遣唐使として唐に渡り、天智称制4年(666)に帰国直後病死したといわれています。24歳でした。

 しかしこの貞慧がどうも怪しい。

 本当は貞慧は帰国後、死なずに活動していたのではないでしょうか。

 貞慧帰国後の大事件といったら、壬申の乱(672)です。

 もし貞慧が生きていたとしたら、30歳です。

 ちょうどいい年齢ではないでしょうか。

 天武天皇になるとしたらです。

 そう、貞慧は生きながらえて、天武天皇になっていたのではないかと私は思ったのです。

 私以外にも貞慧が天武だと思った人がいるかWebで調べてみたところ、他にもいるようですが、決定的な証拠を提示している人はいないようです。

 不比等は、万世一系の天皇家による日本国統治という構想を考えて『日本書紀』で具現化しましたが、その不比等の兄が天武天皇だったとしたら・・・。

 しかしここでもう一段階あります。貞慧は、実は不比等と肉の兄弟でない可能性が高いのです。

 というのは、『多武峰略記』によると、貞慧の母は最初孝徳天皇の妃でしたが、妊娠した状態で鎌足に譲られたというのです。

 つまり、不比等の兄・貞慧の本当の父親は孝徳天皇だった・・・。

30                   34
敏達――押坂彦人大兄皇子―+――――――舒明
             |       |
             |       |    38    39
             |       +――――天智―――大友皇子(弘文)
             |       |
             |       |    40
             |       +――――天武(通説)
             |       |
             |      35| 37
             +茅渟王―+―皇極・斉明
                  |
                  | 36     40
                  +―孝徳――――天武(貞慧。本説)

 天智天皇は、中大兄皇子として実権を握っていた時代(653)に、孝徳天皇の反対を押し切って、皇極や皇后・百官を率いて難波の宮から大和の飛鳥に戻ってしまいました。

 取り残された孝徳は、難波にて天智を怨んだまま崩じています。

 貞慧が天武だとすると、実の父の仇ともいえる天智の跡をついだ弘文天皇(大友皇子)を殺し、天皇位を奪還したというのが壬申の乱の筋書きになります。

 天武が壬申の乱を起こして天皇位を奪うことができた理由については色々考えられますが、「天武=貞慧=孝徳の子」の線でいくと納得できることもあるのではないでしょうか。

 「天武=貞慧=孝徳の子」という事実がなぜ後世に伝わらなかったかについては、また今後考察してみたいと思います。




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平将門は本当に桓武天皇の子孫か?

2011-09-17 22:53:23 | 歴史の謎
平将門(たいらのまさかど)は、本ブログの『エミシの群像』コーナーでもお馴染みの桓武天皇の子孫といわれています。系図にすると以下の通りです。

桓武天皇---葛原親王---高見王---高望王---良持(良将)---将門

しかし、上記の人びとを順番に追って行くと、何かおかしな匂いがしてきます。

葛原親王は、正史である『日本文徳天皇実録』によると、最終的には大宰帥に任じられているので、実在の人物であることは確かでしょう。

ところで、家系図というものは、ほとんどの歴史学者は信用しないものなのですが、その中で室町時代に作られた『尊卑分脈』は比較的信用できるとされています。

『尊卑分脈』によると、葛原親王には、高見王と高棟王の二人の子がいて、高棟王は、やはり正史である『日本三代実録』に現れます。

しかし、高見王の方は正史に現れず、『尊卑分脈』には「無位」と記されています。

次の高望王は、平朝臣の氏姓を授けられ臣籍に下ったといわれていますが、この人物も『尊卑分脈』に記されるのみです。

『尊卑分脈』によると、高望王は上総介とされ、後世の歴史家は、高望王は上総に下向したと考えています。

そして、『将門記』によると、高望王の子は良持で、良持は陸奥鎮守府将軍であったと記されていますが、良持は『将門記』と『尊卑分脈』以外の史料(『将門記』は軍記物に近い書物ですが、一定の史料価値があるものとされています)には現れません。

以上見てくると、高望王が弱い感じがします。

寛平元年(889)、平朝臣の氏姓を授けられて臣籍に下った者が5名いて、高望王がその中の一人だと推定する人もいますが、史料上で認めることはできず確証はありません。

つまり、調べてみると、将門が桓武天皇の子孫であるということは、史料上では確認できないのです(系図である『尊卑分脈』は除きます)。

しかし、将門が生きた時代に「貴種」といわれる天皇の後裔が関東地方で地元の有力者に歓迎され婿入りするケースが多かったことや、将門とその親戚縁者が下総方面で勢力を張っていたのは事実です。

将門を調べようと思い、まずは以上のような疑いが生じました。

あまり疑り深いのは社会生活を生きにくくさせますが、歴史を調べる上では重要なことです。

将門は本当に桓武天皇の子孫なのか?

今後も気にかけていきたいと思います。




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継体天皇はスーパースターか?

2011-08-17 19:27:11 | 歴史の謎
武烈天皇が崩じた後、武烈の近親の皇族男子が死に絶えてしまったということで、継体天皇は、応神天皇の5世の子孫というかなり遠い親戚でしたが、天皇に迎え入れられました。

というのが正史が述べるところです。

ところが、継体の出自に関しては、本当に応神の子孫かどうか分からないのが事実で、実は地方の有力な豪族の出身で、天皇家を簒奪したという説を唱える人も多いようです。

そうすると、今上天皇につながる天皇家の祖と位置付けられるわけです。

そんなスーパースターを予感させられる継体ですが、冷静になってその経歴を見てみると、興味深い事実が分かります。

まず、天皇になったのが遅い。

『日本書紀』では、58歳ということになっています。

当時の感覚からすると、もう寿命という時期になって天皇になっているということです。

本当に、このような高齢者に自分たちの未来をかける家臣や氏族が結集していたのでしょうか。

それから在位中の25年間ですが、何をしたかというと、以下の2点だけです。

・百済に朝鮮の領土(任那四県)を割譲した

・北九州の磐井の反乱を平定した

一つ目は、非常に不名誉な事績です。

二つ目は、地方の統御もままならなかったことを示しています。

ようするに、58歳で天皇家を乗っ取ったのは良かったですが、朝鮮にまでは手がまわらず、列島内の地方豪族を抑えるので精一杯、あたふたしている間に一生を終えたということです。

もちろん、人間の一生をこんなに軽く表現することは可哀想ですし、実際には様々なドラマがあったのだと思いますが、政治的な内容に括ってしまうと以上のようなことになってしまいます。

事実上の天皇家の先祖にしては、あまりにも寂しい事績なので、これはどういうことかというと、『日本書紀』を作った、当時の天皇家と権力者藤原氏から、継体は軽く見られていたということです。

そうなると、私が最近気にかけている、天智や天武、持統などの謎に関わってくるということです。

ところで、『古事記』では、継体の享年は43歳ということになっています。

意外とこれが事実で、継体は「本当に何もしなかった」天皇かもしれませんよ。

天皇でもなかったりして・・・。

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アラハバキは蝦夷(エミシ)の神か?

2011-07-13 17:50:10 | 歴史の謎
 十数年前から北東北の歴史に興味を持ち色々調べている過程で、古代の東北にアラハバキという神の信仰があったということを、薄々知り始めていました。

 数年前、そのアラハバキについて、『東日流外三郡誌』に詳しく書いてあることを知り、「これは!」と思って飛びついたのですが、その後、『東日流外三郡誌』は昭和の時代に書かれた壮大なフィクションであることが分かり、そこに書かれたアラハバキについての記述も空想上のものであると知り、ガッカリしてしまいました(なお、『東日流外三郡誌』が史料ではなく物語であることは、原田実著『幻想の荒覇吐秘史』に詳しいです)。

 しかし、『東日流外三郡誌』はインチキですが、アラハバキ信仰は本当にあったのかもしれないと思い、近江雅和著『隠された古代 -アラハバキ神の謎-』を読みました。

 すると、埼玉県さいたま市大宮区の氷川神社(武蔵国の一の宮で官幣大社)とアラハバキとの関係が江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』に書かれていることが分かりました。

 『新編武蔵風土記稿』足立郡之十九大宮領の氷川神社の中に、摂社門客人社という項目があり、それを見ると、「古は荒脛巾神社と号せし」とあります。それによると、氷川内記が神職のときに、門客人社と改め、手摩乳・脚摩乳二座を配したといいます。

 『白鳥伝説』(谷川健一著)によると、門客人神というのは、もともと地主神でしたが、その土地を奪われ、後から来た神と主客の立場を転倒させてしまったものであるといいます。

 また、上記の氷川神社以外にも、武蔵近辺にはアラハバキ関連の神社があり、アラハバキは東北の神というより、もっと広い範囲に分布し、ヤマト朝廷が東国に進出することによって、その地位を奪われた神であるようです。

 谷川氏は『白鳥伝説』で「アラハバキの神とは何か」と、アラハバキについて簡潔にまとめています。

 一、もともと土地の精霊であり、地主神であったものが、後来の神にその地位をうばわれ、主客を転倒させられて客人神扱いを受けたものである。

 二、もともとサエの神である。外来の邪霊を撃退するために置かれた門神である。

 三、客人神としての性格と門神としての性格の合わさったものが門客人神である。主神となった後来の神のために、侵入する邪霊を撃退する役目をもつ神である。

 多賀城の傍にも「荒ハバキ神社」があり、宮城県大崎市岩出山町にも「荒鎺(あらはばき)権現」があり、秋田県の旧雄勝郡大沢村(横手市雄物川町大沢か羽後町大沢だと思いますが、ご存知の方がいればご教示ください)にも、「阿良波々岐権現」があるといいます。

 とりあえず今のところは、アラハバキは、もともとエミシの神であったものが、「夷をもって夷を制す」の言葉通り、対エミシの神としてヤマト朝廷に祀られるようになったものと考えておくと、スッキリするかもしれません。

 『日本書紀』によると、斉明天皇5年(659)、阿倍臣は北方に遠征して、肉入籠(ししりこ)に至ると、問莬(という)の蝦夷胆鹿嶋(いかしま)と莬穂名(うほな)が、後方羊蹄(しりへし)を政所(政庁)として欲しいと願ったので、胆鹿嶋らの言葉に従って郡領を置きましたが、谷川氏は後方羊蹄の場所を、青森市の茶屋町から西南に入ったシリベシの林とし、そこには源義経の片脛巾を祀る荒脚巻(あらはばき)明神があり、義経の話は後世の付会とし、ここも政所を蝦夷からの攻撃から護る神として、アラハバキを祀ったものと考えています。

 谷川氏の説は概略以上なのですが、その一方で近江雅和氏は『隠された古代 -アラハバキ神の謎-』のなかで、アラハバキは朝鮮半島の新羅から渡ってきたスサノオの一団が祀っていた神だとしています。

 おや、エミシと違うのですか?

 こちらもまたお時間があれば後日ご紹介したいと思います。

※エミシについては、2015年夏以降に最新の研究成果をこちらに掲載していきます。







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胡四王神社と蝦夷(エミシ)の海神

2011-07-12 17:04:46 | 歴史の謎
もう10年くらい前ですが、北上の義父に花巻に連れて行ってもらったときに、胡四王神社(こしのうじんじゃ)に行ったのですが、それ以来、これもまた心の片隅に「胡四王神社って何だろう?」という思いが生じていました。

その後、「こしのう」とは、「越王」(こしおう)のことだと分かり、越とは現在では越前・越中・越後と、北陸方面を指しますが、古代は東北地方の日本海側までを「越の国」といったことが分かりました。

何で、「越」の「王」なんだろうか、昔、北日本の日本海側に王国があったのだろうかと、ロマンを感じていますが、『白鳥伝説』(谷川健一著)を読んでいたら、胡四王神社についての記述も出てきました。

そこでは「古四王」という字で表現されており、それ以外にも色々な表記が有るようで、その古四王神社は、新潟、山形、秋田、岩手、宮城、福島(そして例外的に、島根、京都)に存在し、その中でも新潟県の阿賀野川流域以北から東北地方日本海側に集中しているということです。

そこはまさしく蝦夷(エミシ)の土地です。

大化3年(647)には、その阿賀野川の北側に渟足柵(ぬたりのき。比定地は新潟市沼垂)が作られ、翌大化4年には、磐船柵(いわふねのき。比定地は村上市岩船)が作られ、朝廷の対蝦夷戦略の尖兵を担うことになるのですが、それと同じ大化4年に、阿倍大臣(阿倍倉梯麻呂)が聖徳太子が建立した四天王寺の五重塔に四体の仏像を迎え入れました。

その四体の仏像とは、須弥山(古代インドの宗教観念上の山)の中腹にいて東西南北を司る四天王のことを指すそうで、四天王とは、持国天(東)、広目天(西)、増長天(南)、多聞天(北)のことです。

谷川氏は、その四天王を渟足柵と磐船柵の内部に祀ったのではないかと推測しています。

斉明天皇4年(658)、阿陪臣が蝦夷を討った際、齶田浦(秋田湾)の蝦夷恩荷(おが)が降伏してきましたが、そのときの恩荷の文言に「秋田浦の神」が登場します。

谷川氏は、四天王信仰と「秋田浦の神」が習合したものが古四王神社ではないかと推測しています。

しかし、どうもまだ釈然としません。

斉明天皇5年(659)、阿倍臣が再度軍船180艘を率いて蝦夷を討った際、飽田(秋田)郡・渟代郡の蝦夷241人とその捕虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその捕虜4人、胆振鉏(いぶりさえ)の蝦夷20人を一箇所に集めて饗応しましたが、そのとき、船一隻と、五色に染め分けた絹を奉じて、その土地の神を祀りました。これも「秋田浦の神」と同系統の神でしょう。

エミシというと、あまり海とイメージが繋がり辛いですが、海辺のエミシは「海神」を祀っていたのです。

谷川氏の推測でいうと、四天王と海神が習合されたということになりますが、現在のところこれ以上の詳しいことは分かりません。

今日も謎が謎を呼ぶ結果となってしまいましたねえ。

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静岡県に蝦夷(エミシ)はいたか?

2011-07-10 16:18:40 | 歴史の謎
さて、谷川健一氏著の『白鳥伝説』下巻ですが、冒頭から興味深い話が展開されます。

ヤマトタケルが東征した際に、『日本書紀』では駿河(静岡県)で火攻めにあっていて、そのときの敵対勢力は単に「賊」と表現されていますが、谷川氏は、その賊とは蝦夷(エミシ)のことであると推測しています。

というのは、本居宣長の『古事記伝』が引く『駿河国風土記』という本に、浮嶋原と阿倍市にいた「東夷」が火を放ったという文章があるからです。

谷川氏は、その東夷とは蝦夷のことであり、地名の阿倍は、奥州の安倍氏と関係があるのではないかと考え、さらに東海地方が物部氏と関連が深いので、安倍氏と物部氏の関連にまで探りを入れてきます。

駿河国府の官人(役人)の中に、伊奈利臣という氏族がいるのですが、『静岡市史』は、それは『日本書紀』に見える、越の度島の蝦夷、伊奈理武志と関連すると見て、駿河の伊奈利臣は蝦夷であったのではないかと推測しているそうです。

そういったことから、谷川氏は、駿河国の安倍郡に蝦夷がいたことがほぼ推察できるとしています。

このように、駿河の国にエミシが盤踞していたという説は、谷川氏の推測の積み重ねに過ぎないわけですが、エミシの実態が、旧石器・縄文時代から続く原日本人の末裔で、弥生時代の文化を受け入れなかった人びとであるのならば、それが静岡県にいても全然不思議ではないです。

これで、東海地方にアイヌ語地名が残っていれば面白いのですが・・・(かなり昔、何かの本で、アイヌ語地名は名古屋あたりまで分布しているということを読んだことが有ったのですが、出典は忘れてしまいました。もし東海地方のアイヌ語地名についてご存知の方がおられましたらご教示ください)。

それと、当該地方の古墳の存在が気になりますが、当該地方にもいくつか前方後円墳があり、静岡市葵区の谷津山古墳群は、前方後円墳2基、円墳2基からなり、1号墳は、全長110メートルで4世紀の築造と言われています(『Oh! 古墳探訪』参照)。

また、静岡市清水区の三池平古墳は全長65メートルで5世紀前半の築造だそうです。

上記サイト掲載の現地説明板の写真によると、谷津山古墳群の1号墳は、蘆原国造(いおはらくにのみやっこ)の墓だと想定されるようですが、蘆原国造は、『先代旧事本紀』によると、吉備武彦(きびたけひこ)の児(子)意加部彦命(おかべひこのみこと)です。

吉備武彦はヤマトタケルの東征に活躍した人物なので、それに子の意加部彦命も従っていたかもしれません。おそらくその時の功により、意加部彦命は蘆原の国造に封じられたのでしょう。

静岡に住んでいた、旧石器・縄文時代から続く原日本人の末裔で、弥生時代の文化を受け入れなかった人びと(それが谷川氏がいう蝦夷)は、ヤマトタケルの征伐を受けて降伏し、その後当該地方には吉備武彦系統が入って来て、降伏した人びと(蝦夷)の中で従順かつ有力な者は、在地の役人に取り立てられたということだと思います。

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『白鳥伝説』(谷川健一著)その1

2011-07-09 23:28:21 | 歴史の謎
私の妻は岩手県北上市の出身なので、私は何度も北上に遊びに行っている関連で、十数年前からその周辺の歴史をチマチマと調べています。

その過程で、中世の頃に和賀郡(北上市とその周辺)を治めていた和賀氏には白鳥に対する信仰があり、白鳥は絶対に食べないという話を読みました(白鳥神社も存在します)。

その話を知ったときから、心の片隅に「白鳥信仰って何だろう」という謎が生じていたのですが、最近、谷川健一氏が昭和の頃に『白鳥伝説』という本を書いていることを知り、古本で注文してみました。

届いた本を早速読んでいるところなのですが、驚いたことに該書は、「蝦夷(エミシ)探求の書」ということなのです。

白鳥伝説とエミシが繋がるの?

いつものように、好奇心が鎌首をもたげてきました。

読み進めてみると、ヒノモト(日下、日本)の考察に関連して、日高見(ヒダカミ)という地名について述べられています。

この日高見(国)は、常陸の国(茨城県)にあったという説と、岩手県の北上川流域にあったという説があるのですが、該書では、松村武雄氏の説の、ヒダカミ=ヒノカミ(日ノ上)説を推し、初めは天孫(天皇家の先祖)が降臨した日向(宮崎県)から見て東方にあたる大和の国(奈良県)をほめたたえて、大倭日高見国と称したのが、やがて東の常陸国を意味するようになり、さらに移動して、北上川流域の呼称となったといいます。

『白鳥伝説』という本は、Amazon.co.jpで見るといくつかの版がありますが、私が買ったのは上下巻に分かれている集英社文庫の本です。

その上巻は、物部氏の先祖といわれるニギハヤヒの話と、邪馬台国の東遷(著者は九州説・東遷説を取っている)の話が続いて、「それとエミシや白鳥伝説のどこが関係があるのかな?」と不安にさせられますが、上巻の最後の方で、物部氏は白鳥を神としていたのではないかと、推測が出されます。

しかし残念ながらそれについての詳しい論述は無く、下巻へ続きます。

下巻では、本のタイトルと内容は合致するのかなあ・・・。

白鳥伝説 (上) (集英社文庫)
谷川 健一
集英社
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