日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会(旧東国を歩く会) ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

【何のために来た?】弥生時代の渡来人【何を持ちこんだ?】

2018-03-03 11:48:08 | 歴史コラム:原始
 昨年から今年にかけて、お仕事で北九州に何度も行っていますが、やはり現地に行くと部屋に籠って本を読んでいるだけより何倍も理解や考察が深まり、かつ新たな疑問も浮かんできて、さらに歴史の面白さにハマって行きます。

 北九州の弥生時代の遺跡には渡来人の影響、というか遺跡がまるごと渡来人の遺跡ではないか、と考えられるものが現れますが、昔流行った「100万人渡来説」は間違いだったとしても、元々の九州人にとって渡来人の影響は計り知れないものがあったことが理解できます。

 現在でも北九州と韓国南部は日常的に買い物や食事・レジャーで交流があることを知り、国境のなかった大昔においては尚更のことだったと思います。

 今日は渡来人についてお話ししようと思いますが、今日も主として参照する書籍はこちらです。

王権誕生 日本の歴史02 (講談社学術文庫)
寺沢 薫
講談社


 私には2000冊以上の蔵書がありますが、実は弥生時代について書かれた書物は比較的薄くて、最近は仕事の都合で購入を強化しているものの、昔から愛読している寺沢薫氏のこの本が分かりやすく、そして楽しく読める本かなと思っています。

 さて、北九州に頻繁に行くようになって、地元の人たちと話す機会ができたこともあり、一口で北九州と言っても、玄界灘沿岸地方と有明海沿岸地方でかなり違うなあと感じるようになりました。



 ※「Yahoo!地図」を加工して転載

 これはかなり昔、東北地方に頻繁に行っていた時期に、一口に「東北地方」と言っても北と南では全然文化が違うのを知ったときと同じような感覚です。

 外部の人間には地元に行かないと分からないことが多いですね。

 上述の書では、玄界灘沿岸地域と有明海沿岸地域の違いを載せており、それをまとめると以下の通りとなります。

 【玄界灘沿岸地域】

 ・形質は長身で顔が細く華奢な「北九州タイプ」(中国の山東半島・東北部・朝鮮半島起源か)
 ・米は丸く小さい(半島のものに近い)

 【有明海沿岸地域】

 ・形質は顔面がやや横幅が張り彫りが深い「西北九州タイプ」 (山東・半島・中国の長江流域起源か)
 ・米はやや長めで大きい(長江や淮河流域のものに近い)

 北九州タイプの人びとは山口県にもいたので、方位を考えると、朝鮮半島の人たちが玄界灘沿岸へ進出し、中国江南地方の人たちが有明海沿岸に進出したという構図が見えてくるかと思います。

 もちろん正確に言うともっと細かい表現が必要になると思いますが、単純に考えるとこのような形かと思います。

 ではなんで弥生時代に大陸から日本列島に人びとが渡ってきたのでしょうか。

 たまに「ボートピープル」という表現が出てきますが、着の身着のままで流れついたそういった人びともいたとしても、やはり私は組織的な行為が多かったと考えます。

 半島や大陸では戦乱が絶えず起きていました。

 例えば、あなたが半島のどこかの国の王だとします。

 周辺諸国との戦いが続き、形勢がかなり悪くなり、冷静に考えてもこのままだと落城も近いかもしれない・・・

 そろそろ脱出の準備をしなければ・・・

 という場面で、家族・一族や特殊技能者を引き連れ、財宝を携え逃げる場所を考えたときに、すでに交易などで倭国に渡っている自国出身者が基盤を作っていれば、彼らの手引で倭国へ逃げるというのも一つの案として浮上するはずです。

 これは現代人もそうですが、行き当たりばったりでバタバタしてしまう人もいれば、先の先まで考えてあらかじめあらゆる手を打っておく人もいますよね。

 後者のタイプであれば、用意周到に計画だって倭国に渡った可能性もあるのです。

 ですから、威風堂々といったら大げさですが、落ちぶれたとは言え、鳴り物入りで倭国に渡ってきた半島や大陸の王族もいたはずです。

 そして彼らが九州地方の新たな支配層になった可能性は高く、こう言うと感情的に許せない人もいると思いますが、彼らが天皇家の祖になった可能性もあるわけです。

 感情だったり心の問題も大切ですが、まずは冷静に考古学の研究結果を見て科学的な判断をするのがいいかと思います。

 さて、話を戻して、渡来人は稲作以外にも以下のものを日本にもたらしました。

 ・金属器
 ・弥生土器の原型になったといわれる無文土器
 ・支石墓(しせきぼ)
 ・環壕集落と松菊里(ソングンリ)型住居

 これらのうち支石墓は縄文時代晩期に糸島半島・唐津平野・有明海沿岸から天草諸島におよび、弥生前期から中期には福岡平野にもわずかにおよびますが、そこから東へは波及せずに終わります。

 半島でも西南部に集中していることから、その地方と密接な関係があったのでしょう。

 支石墓は支配者層の墓なので、上述したような半島の支配者が日本列島に渡ってきてその集落を統治したのちに葬られたように思えるかもしれませんが、人骨を分析すると、元々の九州の人が葬られていることもある(つまり地元の人が半島の墓制を採用している)ので、その辺をどう考えるか、これも古代史の楽しみだと思います。

 一定地域に分布をとどめてしまった理由も知りたいですね。

 松菊里型住居というのは、平面形が楕円の二本主柱の竪穴住居で、最古の環壕集落である粕屋町江辻遺跡では集落の一角に11軒の松菊里住居が集まっており、一つの環壕のなかに半島南部から渡ってきた人びとの生活エリアがあったことが分かります。

 私は関東の人間なので知らなかったのですが、松菊里型住居は弥生時代中期前半まで西日本各地の弥生遺跡で見られ、その分布から渡来人は前期前半(紀元前3世紀頃)には和歌山県にまで進出していたことが分かっています。

 さて、そろそろお昼ご飯の時間です。

 お腹が空いてきたので今日のお話はここまでとします。


 



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魏志倭人伝に登場する二大強国・伊都国と奴国

2018-03-02 20:44:55 | 歴史コラム:原始
 明日は元々、東国を歩く会の「第16回 歩く日」を予定していたのですが、私の足がこんな状態なので、皆さんには中止のお知らせをして申し訳なく思っています。

 明日も今日に引き続き幕府に引き籠って養生していようと思いますが、明後日の日曜日はお掃除に行ってきます。

 そして来週の金・土・日はまたまた福岡へ行って参ります。

 たまたまかもしれませんが、九州の歴史関係の方々やバスの運転手の皆さん、そして飲食店の従業員の方々などなど、皆さんとてもいい人が多く、九州で仕事をしても不愉快な思いになることがほとんどありません。

 九州に行くとまた楽しい方々に会えるのでとても楽しみです。

 もう何度もお見せして辟易されるかもしれませんが、「歴史への旅」に掲載されているこちらのツアーで九州へ行きます。



 こちらの中段に載っているツアーです。

 ※なお稲用がご案内するツアーに関しては、クラツー公式HP内の稲用検索結果ページをご覧ください(システムの都合上、関係ないツアーも少し表示されます)

 ⇒クラツー公式HP内の稲用検索結果ページ


 さて、このツアーのテーマは、

 ・宗像大社
 ・邪馬台国(魏志倭人伝の国々)
 ・筑紫君磐井の乱

 なのですが、邪馬台国関連のトピックとしては、「魏志倭人伝」に登場する2つの国の故地(遺跡)を訪れます。

 邪馬台国の故地は訪れないのですか?

 と聴かれそうですが、邪馬台国は今のところどこかは分かっていませんからねえ・・・

 奈良に決まっているじゃないか!とカッとなったら、熱いシャワーを浴びたあとに冷たい炭酸水でも飲んで一旦冷静になってください。

 話を戻して2つの国というのは、奴国(なこく)と伊都国(いとこく)です。

 現在発見されている遺跡を見ても両国が非常に重要でかつ強国であったことが分かるのですが、今日はその辺の話を寺沢薫氏の『日本の歴史02 王権誕生』を参照しながらお話ししようと思います。

王権誕生 日本の歴史02 (講談社学術文庫)
寺沢 薫
講談社


 以前、中国の正史である『漢書』や『後漢書』を元にして朝鮮半島の古代史についてブログ内のこちらに簡単に書きました。

 その内容とも一部重複しますが、日本(当時は倭国)が中国と関係を持つようになったのは、中国の漢王朝の第7代皇帝・武帝の頃です。

 武帝の頃の漢王朝は経済も充実し非常に勢いに乗っており、武帝の好戦的な性格も相まって、国外に攻めてどんどん領土拡張を図っていました。

 その過程で、紀元前108年に朝鮮半島を支配していた衛氏朝鮮をやっつけて楽浪・臨屯・真番・玄菟の4郡を置きます。

 これにより倭国の王たちは中国の皇帝へのアクセスが以前より容易になったわけです。

 と言っても、これ以前の倭国には、そもそも「王」と呼べるほどの人物がまだ登場していなかったのですが、偶然にもちょうどこの頃、「王」と呼べる他者を圧倒した力をもった統治者が登場するのです。

 中国では武帝が縦横無尽に権力を振りかざし、日本列島内でも王が登場するというのは、世界史という単位で見ると何かそういう時代性のようなものがあったのか興味深いです。

 日本の時代区分でいうと、弥生時代中期後半ということになり、研究者によっては弥生時代を大きく前後に分けた場合の後半の始まりの時期となり、まさに時代の画期でもあったわけです。

 ツアーで訪ねる、奴国の王墓である須玖岡本遺跡の王墓はこの頃造られ、伊都国で確認されている3つの王墓のうち、最初の王墓である三雲南小路遺跡の王墓もこの頃に築造されます(三雲南小路遺跡の現場にはツアーでは行きません)。

 この当時、北部九州にはたくさんの国(いくつかの集落が連合した組織)がまだドングリの背比べのような感じで、どこかが突出していたわけではありませんでしたが、彼らは漢王朝への接近を開始したのです。

 武帝が朝鮮半島を制覇してから約100年後には漢が滅亡し、新の建国、そして後漢の勃興と中国や朝鮮半島でも混乱時期が長く続き、それを収拾したのが、後漢の名将・祭肜(さいゆう)で、祭肜の活躍については、ブログ内のこちらに書いてあります。

 祭肜の活躍によって再び朝鮮半島の政情は安定し、朝鮮半島の各国(韓や高句麗など)と同じように倭国も後漢王朝へ遣いを送ります。

 それが西暦57年の奴国の遣使です。

 そのとき、後漢王朝の初代皇帝光武帝は使者に金印を授け、それが志賀島で見つかった「漢委奴国王」の金印というのが定説となっていますが、読み方についてはまだ決着していません。

 決着していないというのは、「漢の倭の奴の国王」と読めば、奴国の王ですし、「倭」が「委」と彫られているのを印の作成に用いられる「減筆」という処理ではないとするのなら、「漢のイトの国王」と読むこともできるからです。



 強引なまとめ方をすると、奴国であっても伊都国であっても、どちらでも当時の倭国の情勢を考えればおかしくないと思います。

 というのは、その頃の倭国では奴国と伊都国が2大強国になっていたからです。

 「魏志倭人伝」では、伊都国には世々王がいて、朝鮮半島から派遣されてきた中国の役人が必ず留まるということで、もしかしたら大使館のようなものがあったかもしれず、また諸国を検察し諸国から恐れられる一大率という特別な役人もいる国として記録されています。

 つまり朝鮮半島との窓口として開かれた国で、主として交易によって力を付けたのだと思います。

 卑弥呼が生まれる少し前の西暦107年に「倭国王帥升等」が後漢の安帝に会いに渡海していますが、この帥升は伊都国の王だとする説もあり、時代的にはこの時点で倭国を代表する人物としたら伊都国の王であってもおかしくないです。

 さて、ツアーでは伊都国歴史博物館と、3つの王墓のうち最も新しい時期の平原王墓を訪れます。





 平原王墓はこれがまた特殊でロマンがあるのです。

 何しろ40枚という鏡を木端微塵に打ち砕いて副葬しており、なにか死者に対する残された者の恐れのようなものを感じますし、副葬品には女性が身につける装身具が多いことから、女性が埋葬されていたと考えられています。

 まあ、そう言っても私は必ず現場で「男性でもアクセサリー類が好きな方がいらっしゃいますからね」と微妙な可能性を示唆したりします。

 平原王墓は故原田大六氏は「天照大神(アマテラス)の墓だ!」と言っていますし、古代史を考える上でとても面白い素材ですよ。

 一方奴国は、「魏志倭人伝」での記載はあっさりしていますが、既述した通り、西暦57年には後漢王朝に使いを送っていますし、遺跡の調査結果からは奴国の王都である須玖岡本遺跡は「弥生最大のテクノポリス」と呼ばれる、今風にいえば「工業都市」であったようで、福岡平野で出土する青銅器の鋳型の7割は須玖岡本遺跡から出ています。

 そのため、奴国は祭祀や呪術が国の運営で重要だった当時において、それに使用する青銅器の生産を一手に請け負い、それにより経済的な豊かさを実現していたと考えられるのです。

 ツアーでは奴国の丘歴史博物館と須玖岡本遺跡を見学します。



 では、肝心の邪馬台国はどこなんでしょうか。

 北九州と奈良と、実際に両方を歩いてみながら思索すると楽しいですし、奈良在住の研究者の中にも九州説の可能性を捨てきれない方もいらっしゃいますよ。

 ちなみに「魏志倭人伝」を読みたい場合に手ごろな本はこちらです。

新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝〈1〉 (岩波文庫)
石原道博
岩波書店


 初版は1951年という大変古い本ですが、私が購入した20年くらい前の時点で何と61刷というとんでもなく売れている本です。

 古代史をやる上で物凄く重要な「隋書倭国伝」も収録されています。

 なんたって、「隋書倭国伝」を読むと推古天皇と聖徳太子はいなかったんじゃないの?って思うようになる可能性がありますからね・・・




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今日から「弥生」なので弥生時代の定義についてチョロッと話します

2018-03-01 20:50:10 | 歴史コラム:原始
 クラツーの古代史ツアーにはかなり詳しいお客様も参加しており、マニアックな質問をよくいただきます。

 そういう質問をしてくださる方は、ご自身で興味がある特定の分野をかなり突っ込んで研究されている方が多く、そういう方でも分からないことを質問してくるわけなので、浅学かつ非才の私は答えられないことがあります。

 私は知らないことは知りません、分からないことは分かりませんとハッキリ言いますが、例えば博物館の見学中の場合はすぐに学芸員の方やガイドの方を捕まえてそれについて聞いたり、泊まりのツアーの場合はホテルの部屋に帰った後にWebで調べて翌日お答えして出来る限り問題解決に努めます。

 質問されたことによって自分の興味の幅が拡がることも多いので、ツアーではむしろ私の方がお客様から様々なことを教えていただいていると言えますね。

 そういう意味でもお客様には感謝です。

 そういえば、先日のツアーの最終日、一番最後に訪れた板付(いたづけ)遺跡で、お客様から「ところで、今回のツアーでは登呂遺跡の話が一つも出てこなかったけど、何でなの?」と聴かれました。

 私は「登呂遺跡について知識が無いからです」と普通に答えましたが、確かに登呂(とろ)遺跡というのは弥生時代の遺跡のなかでも一世を風靡した遺跡なんですよね。

 やはり、知らないでいるのは恥ずかしいので、今度時間を作って静岡までひとっ走りして見てこようと思います。

 ところで、考古学では日本列島にホモ・サピエンスが住み始めて以降、古い方から旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代と呼んでいます。

 今日から3月、つまり弥生の始まりなので、今日はこれらのうち、弥生時代の定義についてこちらの本を参照しながらお話ししてみようと思います。

農耕社会の成立〈シリーズ 日本古代史 1〉 (岩波新書)
石川 日出志
岩波書店


 弥生時代というは、そもそもは「弥生式土器」を使用する時代ということで付けられた名称です。

 明治17年(1884)、現在の文京区弥生町向ヶ岡貝塚から採集された1個の壺が、それまで見つかっていた石器時代(今で言う縄文時代)の土器とも古墳から出土する土器とも違う種類の土器であることが明らかになり、さらに両時代の間の時代であることが判明したため、その土器を「弥生式土器」と命名し、その時代を「弥生式土器時代」と呼ぶようになりました。

 その後、戦後間もないころに私が無知な登呂遺跡が発掘され、今まで見つかっていた集落跡と高床倉庫跡以外にも水田跡が見つかり、「弥生時代は水田稲作による農耕の時代」という考え方が広まります。

 登呂遺跡での水田跡の発見は考古学者たちを大きく刺激し、その後、東海から北九州にかけて弥生時代の遺跡の発掘調査が進み、1951年から54年にかけて私たちが訪れた板付遺跡の発掘調査が行われました。



 このとき、板付Ⅰ式という土器が夜臼式(ゆうすしき)という土器と一緒に出てきました。





 ※上の写真は板付遺跡弥生館に展示されている土器です。





 夜臼式土器は、当時は縄文式土器としてはもっとも新しい土器とされていたので、それと一緒に出てきたことにより板付Ⅰ式土器は弥生式土器としては最も古い土器だということが分かったのです。

 ところで皆さんは、「弥生時代は何をもってその開始時期とするか?」と尋ねられたら、「弥生土器が使われ始めたことにより」と答えるより「水田耕作が始まったことにより」と答えるのではないでしょうか。

 おそらく、後者の稲作開始を弥生時代の開始時期という考えが一般的ではないかと思います。

 そうすると、一番古い水田耕作の跡を探していって、古いのが見つかればその都度弥生時代の開始時期が遡って行くことになってしまいますね。

 板付遺跡では1977年から翌年にかけて再び調査が行われたのですが、このときの発掘により弥生時代の定義についてさらに混迷の度が深まってしまいました。

 以前見つかっていた水田跡よりさらに深い、夜臼式土器しか出ない層から灌漑水田跡が見つかってしまったのです。

 つまり、その当時は夜臼式土器は縄文土器とされていたので、稲作は縄文末期から始まっていたと考えていいのか?という新たな問題が出てきてしまったのです。

 これ以降、土器を指標にして縄文時代と弥生時代を区別することは困難として、「弥生式土器」という言葉は使われなくなり、「弥生土器」という言葉が定着しました。

 上の写真の通り、板付では夜臼式土器の時代を弥生時代早期としていますね。

 板付では夜臼式土器が出た時代は昔の定義の縄文時代ではなく、弥生時代としているのです。

 現在の編年の一例を『列島の考古学 弥生時代』(武末純一・森岡秀人・設楽博己/著)から転載します。



列島の考古学 弥生時代
武末 純一;森岡 秀人;設楽 博己
河出書房新社


 ここでも夜臼式土器の時代は「弥生時代早期」としていますね。

 ところで、この図には絶対年代が書いていませんね。

 歴史好きからすると、「板付Ⅰ期というのは、何年から何年だ?」と具体的な年代を知りたくなるものですが、考古学の人たちは意外と拘泥しない方が多いです。

 絶対年代は科学的に土器を分析することにより分かりそうに思えるのですが、そんなに単純ではないようです。

 弥生時代の年代の中で現在とくに論争になっているのが、「弥生時代の開始はいつからか?」という問題で、古くからの考えでは紀元前3世紀頃からとし、現在一般的に支持されているように思える説が紀元前5世紀頃からで、比較的新しい説としては、国立歴史民俗博物館が提出している紀元前10世紀という考えがあったりして、まったく収拾がつかない状況となっています。

 水田跡が見つからなくても土器に稲の痕跡が付着してると、それを年代決定の根拠にしたりするわけですが・・・

 これ以上は言及しません。

 今まで私はツアーの時に弥生時代の絶対年代について話しませんでしたが、やはりもう少し分かりやすく説明する必要があると思ったので、今後は「一つの説として」と断った上で、絶対年代についても説明しようと思っています。

 


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日本人のルーツについて知識を整理してみちゃったの

2015-08-25 21:56:51 | 歴史コラム:原始
 昨日の夜の時点で私の所持金は98円となりましたが、今日は月に1度の「富裕の日」なので、お掃除がお休みだったのにもかかわらず、八王子へ出張ってお金を下ろしてきました。

 そして郵便局からの借金とVISAカードからの借金をいくらか返して私の趣味の一つである「借金返済」の醍醐味を堪能し、大勝軒でつけ麺を食べて帰って来たわけです。

 しかしその前に、今日も5時に起床してしまったので、午前中は「日本人のルーツ」について少し文章を書いて、午後は懸案事項となっていた生命保険と確定拠出年金の問題を片付けました。

 生命保険に関しては少し前から現在のものを見直したいと考えていたため、できるだけコストがかからないように変更し、確定拠出年金に関しては、以前勤めていた会社で社員全員に毎月少しずつ運用資金が配られ、そのときのお金がいくらか残っているので運用を再開しようと決めました。

 その会社を辞めた後、今まで放っておいたのですが、たまに運営管理会社から「もう、いつまで放ってるのよ!好い加減、けじめをつけてよ!」というお手紙が来るので、4月から久し振りに厚生年金に加入したのをきっかけにして、ようやく運用の再開を思い付いたわけです。

 放っておいてもそのお金はもらえないし、また毎年少しずつ管理費用が取られて目減りして行くのでもったいないのです。

 確定拠出年金はその名の通り「年金」ですから、最終的には60歳以降にもらえるようになります。

 私はご存知の通りこのような境遇ですので、老後のことは今からきちんと手を打っておかなければなりません。

 確定拠出年金は掛金と手数料が所得税控除され、当然ながら元本割れするリスクもあるわけですが、以前会社で運用していたときのイメージは「意外と儲かる」というものです。

 だからといって、莫大な儲けがでるというものではなく、他の投資と比べてローリスクで、普通に貯金をするよりかはお得という程度で考えておいた方が無難です。

 まあ、そんな感じで久し振りに何やら大人の社会人みたいなことをやったわけですが、夕方からはまた文章書きの続きをして、とりあえず一段落つきました。

 以下に掲載しますので、日本人のルーツについて興味のある方は読んでみてくださいね。


*   *   *



 自然人類学者で東大の名誉教授だった埴原和郎(1927~2004)が80年代に提唱した「二重構造モデル」は、日本人のルーツについて一時は定説の地位に座っていました。

 二重構造モデルというのは、その概要を簡潔に列挙すると、

 1.旧石器時代に東南アジアから人びとが渡ってきて日本列島(北海道から沖縄まで)の原住民となり、彼らが縄文人となった

 2.弥生時代になると、北東アジアから100万人規模の人びと(弥生人)が渡ってきて、列島内で縄文人と混血が進んだ(東南アジアがルーツの人たちの住んでいる場所に北東アジアがルーツの人たちが入ってきたため「二重」と言っているわけです)

 3.ただし北海道と沖縄は縄文人と弥生人との混血が進まず、現在のアイヌと琉球人は縄文人の要素を強く残している

 というものです。

 この説は非常にシンプルで分かりやすかったこともあり、一世を風靡して定説となったわけですが、この説の定説化の後、DNAによる遺伝子学からの研究が進み、また重要な資料である古人骨の新たな発見や形質学の研究の深化などもあって、この説の一部はほころびを見せています。

 例えば、1の「旧石器時代に東南アジアから」というのと、2の「100万人規模の渡来」というのは、私が調べた範囲では現在では支持を失っているようです。まずは、1の問題からお話ししましょう(ただし、旧石器時代人が我々現代人まで脈々と続いていること自体は正しいです)。

 まずは、古人骨の形質からのアプローチです。『骨が語る日本人の歴史』(片山一道著)によれば、旧石器時代の人骨発見例は全国で20余件しかなく、本州域では静岡県浜松市北区で発見された浜北人が唯一確実な旧石器人骨とされ、あとは沖縄県から出ています。しかし浜北人は一部の骨なので、あまり資料としては役に立たず、沖縄県から発見された骨たちを元に旧石器人を探ることになりますが、そうすると最大の問題点は、沖縄で発見された人骨でもって日本列島人として一般化して良いかという点です。つまり、沖縄の人骨と同じ形質の人びとが本州や北海道に住んでなければ、その資料を元に日本人を語ることはできないわけです。

 沖縄本島で発見された港川人(1万8千年前)は南方からやってきましたが、子孫が北上して九州に入り、縄文人になった可能性はありません。港川人は子孫を残してそれが琉球人に続いているとも限らず、現在の琉球人は、古代末期に本土人が渡ってきて混血が進み、元々の琉球人の特徴を持つ人たちは今ではマイノリティになってしまいました。また、よく言われる話で、「二重構造モデル」でいうところの100万人規模の弥生人の来日によって元々いた縄文人が北と南に追いやられて、それぞれアイヌと琉球人になったとされますが、DNAを調べてもアイヌと琉球人はとてもではないですがそっくりとは言えませんし、外見も全然違います(アイヌは白人と間違えられるような外見をしています)。

 『骨が語る日本人の歴史』によると、港川人の骨を調査した結果、本土域の縄文人には繋がらなかったということです。本土域の縄文人は本土域の旧石器時代人の子孫だと考えると、港川人と同じ頃の本土域には、また違ったルーツを持った旧石器人が住んでいたということになります。

 つまり、古くは民俗学者の柳田國男(1875~1962)が提唱し、今では通説とされている「日本人の先祖は南方からやってきた」という説は間違いということになります。この後述べるように、北東アジアからサハリンを経由して北海道に入ったり、朝鮮半島から九州にやってきた旧石器人が日本人のルーツであり、両者ともルーツはシベリアなのです。我々日本人の最も昔のご先祖様は、シベリアから渡ってきた人たちなのです。

 次に、DNAのY染色体の研究結果を見てみましょう。『DNAでたどる日本人10万年の旅』(崎谷満著)によると、DNAのY染色体はAからRまで18のグループに分かれるのですが、約3万4千年前にシベリアに石刃技法と呼ばれる石器の製造方法を用いながら居住していたP系統の人たちがその地でQ系統とR系統に分かれ、Q系統の一部が日本列島に向いました。これにより、列島内ではナイフ形石器が出現するのですが、ここで大きく東日本と西日本で石器の製作技法に違いが出て、東日本は縦長剥片剥離技術である石刃技法が確立し、西日本では、横長剥片剥離技術が生み出されることになります。これが日本列島内で起きた史上最初の「東西の文化の違い」になります。ちなみにアメリカ先住民にもQ系統は多く見られることから、アメリカ先住民と日本人が比較的近いと考えられそうですが、Q系統が分岐したのは3万年も前ですし、現代の日本人にはQ系統の影響は少ししか残っておらず、アイヌからはまったく確認されていません。


↑東京都板橋区の茂呂遺跡出土のナイフ形石器(明治大学博物館で撮影)

 ちなみに、なぜ東日本と西日本で文化の違いが出たのかというと、前述した通りシベリアからやってきた人びとのルートがサハリン経由で北海道へ入る場合と朝鮮半島経由で九州に入る場合があったためです。そうすると、その一番深いところである関東地方は両者の文化が融合する地点になりますね。

 次に、C3系統の人たちが約2万5千年~2万4千年前に、細石刃という画期的な石器を携えて北海道に渡ってきました。


↑細石刃をはめ込んだ槍の模型(「発掘された日本列島2011」で撮影)

 細石刃というのは、この写真の通り、槍の先に数ミリ×数センチの薄くて鋭利な石器を複数個装着し、石器が損傷・紛失した場合は新品を付け変えて使うという、交換式のカミソリのような発想の石器です。

 この素晴らしい発明品を携えたC3系統の遺伝子は、現代の九州人に少し多く残っており、九州以東もアイヌまで列島内にまんべんなく残っていますが、琉球人には残っていません。これは、九州と琉球の間は後期旧石器時代においては行き来が難しかったことの証左と言えますが、南方由来のC1系統は僅かながら本土域にも残っており、C1系統の人びとは舟を操る技術に長けていたため海を越えて本土域に進出ができたのでしょう。前述した通り、現在の琉球人の多数派先祖は、古代末期に本土から進出した日本人です。

 さて、ここで私は一点、謎が生じてしまいました。『DNAでたどる日本人10万年の旅』では石刃技法の担い手をQ系統とし、細石刃の担い手をC3系統としていますが、実は旧石器の分類ではそれらに先行する「台形様石器群」という旧石器があり、「台形様石器群」を残した最初期の日本列島人について、『DNAでたどる日本人10万年の旅』では何も説明がなく、同書掲載のY染色体の系統図を見ても該当する系統がないのです。これはいったいどういうことでしょうか。

 そうすると面白い仮説が立てられます。台形様石器群を造った人びとは、実はホモ・サピエンスが列島に渡って来る前から住んでいた別のホモ属(例えば北京原人と同じホモ・エレクトスの子孫)ではないか?という説です。そして彼らはその後、ホモ・サピエンスがやってきたあと、ホモ・サピエンスと混血することなく絶滅したので我々の体内にその形跡がないのではないかと考えられるのです。

 2000年に発覚した「前期旧石器捏造事件」以降の現在の定説では、日本列島にはホモ・サピエンス以前の人類は住んでいなかったというのがほとんどの学者の共通認識になっています。

 ところがそんな中で、竹岡俊樹氏の『旧石器時代人の歴史』には非常に刺激的な記述があります。該書によれば、約30万年前にホモ・エレクトス(北京原人やジャワ原人もこの仲間)が日本列島に来て、その子孫であるホモ・ハイデルベルゲンシスへと続き、3万年前にホモ・サピエンスが渡ってきてお互い顔を合わせることとなったとしているのです。

 それでは、30万年前に大陸から列島に人が渡ってきた可能性は考えられるのでしょうか。約2万年前の最寒冷期においても海面が最大120m下がったのにも関わらず、朝鮮海峡や津軽海峡は陸化しませんでした。では他の時代がどうだったのかというと、『倭人への道』では河村善也氏の研究を引用し、列島に大陸の動物が渡ってきた時期は3度想定され、1度目は60~50万年前、2度目は40~30万年前、3度目は7万年前と説明しています。ただし、サハリン経由の流入を考えた場合、間宮海峡の緯度まで人類が到達するのは13万年前以降なので、1度目と2度目は北周りでは人は動物を追いかけて列島に入ってこなかったはずです。中国の周口店では60~50万年前の北京原人化石が発見され、朝鮮半島では全谷里(チョンゴニ)遺跡で35~30万年前の前期旧石器の存在が確認されており、30万年前にはナウマンゾウが列島に渡ってきているのが確認されているので、竹岡俊樹氏が述べたように大陸から人類が日本列島に渡ってきた可能性は高いでしょう。

 その様子は、遺跡から発掘される旧石器からもうかがうことができます。列島各地で発見される旧石器のなかには、ホモ・サピエンスが造ったのではない物が見つかっているからです。また、それとは別に当然ホモ・サピエンスが造った旧石器もあれば、両者の特徴が折衷している旧石器もあり、折衷している旧石器は北と南から入ってきた文化が最終的に交わる場所である関東地方に多いのがまた面白いです。

 さて今日は、冒頭に埴原和郎の「二重構造モデル」を紹介し、その中の論点の一つである「日本人はどこから来たのか?」について述べ、またそれに関連して、ホモ・サピエンス以外の人類が日本列島にいた可能性が高いことを述べました。

 今日は以上になりますが、日本人のルーツについて考えるには、上でも参照している以下の本がお薦めです。

『DNAでたどる日本人10万年の旅 多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?』 崎谷満著 2008年
DNAでたどる日本人10万年の旅―多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?
崎谷 満
昭和堂


『旧石器時代人の歴史 アフリカから日本列島へ』 竹岡俊樹著 2011年
旧石器時代人の歴史 アフリカから日本列島へ (講談社選書メチエ)
竹岡 俊樹
講談社


『倭人への道 人骨の謎を追って』 中橋孝博著 2015年
倭人への道: 人骨の謎を追って (歴史文化ライブラリー)
中橋 孝博
吉川弘文館

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日本にホモ・サピエンス以外の人類はいたか?その2

2013-01-25 20:48:09 | 歴史コラム:原始
 今月は旧石器時代をメインで勉強しているのですが、かなり面白いので来月も引き続き旧石器時代をテーマにしたいと思います。

 旧石器時代に関する本は、2000年に発覚した前期旧石器捏造事件以来、事件に関する本は例外としてそれ以外はあまり出版されていないのですが、そんななかで竹岡俊樹著の『旧石器時代人の歴史』は、非常に面白いです。

旧石器時代人の歴史 アフリカから日本列島へ (講談社選書メチエ)
竹岡 俊樹
講談社


 石器の製造に関する部分の記述はなかなか歯ごたえがあって読み進めるのに苦労しますが、少しずつ理解しながら読んで行くととても面白いです。

 私は本ブログの他のページに日本には4万年前にホモ・サピエンスがやってきて、それ以前の日本に人類がいたかは不明と書いていますが、私が本書でとくに興味を持った点は、ホモ・サピエンスがくる以前、つまり前期あるいは中期旧石器時代に日本に人がいたと推測している点です。

 ホモ・サピエンスの前というと、ホモ・エレクトス(北京原人がその仲間)やホモ・ハイデルベルゲンシスになりますが、そういった人類が日本にもともと住んでいて、ホモ・サピエンスが日本に来たあとも列島内で共存し、旧石器時代の終わり、つい1万数千年前までその状況は続いていたかもしれないのです。

 それがなぜ分かるかというと、発掘される4万年前以降の石器のなかで、ホモ・サピエンスが作った石器とは違う文化系統の石器があるからです。

 しかしもっと驚くことに、大分県大分市の丹生遺跡から出土したチョッパー(初期の石器)は、なんと40万年前の地層から出ているのです。

 ところがこの石器は、ほとんどの研究者から無視されつづけているそうです。

 なぜほとんどの研究者はこの石器を無視するのか?

 その石器を使っていたのはホモ・サピエンスではなく、ホモ・エレクトスかホモ・ハイデルベルゲンシスです。

 それらの石器の存在から、確かに彼らは日本にいたと考えざるを得なくなってきます。

 4万年前に日本にホモ・サピエンスがやってきて、そのときまだ、ホモ・エレクトスやホモ・ハイデルベルゲンシスが住んでいたとすると、彼らはいったいどのような関係を持ったのでしょうか?

 考えるとエキサイティングじゃないですか!

 コミュニケーションはどうやってとったのだろうか?平和に暮らしたのだろうか?結婚はあったのだろうか?

 今後そういうことが分かってくるととても面白いですね。

 私たちにもひょっとすると、ホモ・エレクトスやホモ・ハイデルベルゲンシスの血が流れているかもしれないのです。

 ところで、昨日妻が面白いことを言っていました。

 「蝦夷(エミシ)って、そのハイデルなんとかじゃないの?」

艦隊これくしょん

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渡来系弥生人とはどのような人びとか?

2011-11-23 09:27:10 | 歴史コラム:原始
中国では約7000年前の河姆渡文化に発する稲作の長江文明が栄えており、彼らはオーストロアジア語族でした。

しかし、その長江文明は華北の黄河文明の圧迫により春秋戦国時代の末に崩壊してしまい(呉の滅亡はB.C.473、越の滅亡はB.C.334、楚の滅亡はB.C.223)、長江文明を担った民は四散してしまいました。

北東方面に逃れたグループの一部は倭と呼ばれていたといいます。

その中で朝鮮半島を経由して九州まで逃れてきた人びとがいました。彼らはDNAのY染色体でいうところのO2b系統であったと推測され、いわゆる渡来系弥生人と呼ばれる人たちです(『DNAでたどる日本人10万年の旅』(崎谷満著))。

以前は埴原和郎氏の「弥生人100万人渡来説」が支持されたことがありましたが、現在では渡来系弥生人は少数が数次に渡って来日したと考える研究者が多いです。そして、元々いた縄文人と渡来してきた弥生人は、基本的に平和共存しました。日本という国は、外国で大変な目にあった人たちが逃れ着いた最後の楽園とも言える国であり、心を痛めた者たちが肩を寄り添い合って共存する平和な国でした。その美徳はもちろん今でも残っていると信じたいですね。

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Y染色体と蝦夷(エミシ)

2011-07-15 17:34:44 | 歴史コラム:原始
以前、DNAのY染色体の話をして、旧石器時代はQ系統とC3系統の人びとが日本列島にやってきて後期旧石器時代の文化を作ったことを示しました。

それでは、旧石器時代につづいて、縄文時代になっても大陸から人はやって来ているのでしょうか。

『DNAでたどる日本人10万年の旅』(崎谷満著)によると、縄文時代になってすぐの頃(1万5000年前から1万2000年前)に、D2系統という人びとが日本に渡ってきています。Q系統とC3系統は、サハリン経由と朝鮮半島経由の二つのルートで入ってきたと思われますが、D2系統は朝鮮半島経由のみであったようです。

このD2系統というのはD系統の亜型ですが、D系統はアフリカを出た後、インドから東南アジアへ入り、そこから北上して華北(中国北部)に達したと推定されます。そこからD1、D3は西南方向に向かい、D2は遼東半島から朝鮮半島に進み、九州に渡りました。

D2系統は、日本国内では、青森39%、新潟48%、東京40%、北琉球・沖縄39%など、のきなみ高い集積率が見られ、とくに北海道アイヌには88%も見られます。

なお、中国に残ったD系統は、その後O系統に圧迫されてほとんど滅亡してしまい、朝鮮半島でもほぼ滅亡しています。

さらに、南九州にはルートは不明ながら、C1系統の人びとが貝文文化を運んできました。そして、数は少ないですが、N系統の人びとも縄文時代に日本列島に入ってきています。

ところで、日本語は世界を見渡しても同類のものが琉球語以外に無いそうですが、D2系統の人びとが多く残っているのも日本だけなので、縄文時代にD2系統の人びとによって、日本語の基礎が作られたのかもしれません。

それと、D2系統は、漁撈文化を持っていました。『DNAでたどる日本人10万年の旅』では、日本の伝説上の先住民であるツチグモが漁撈の民と伝わることに触れ、ツチグモはD2系統ではなかったかと推測していますが、私は蝦夷(エミシ)がこの時点での日本人、つまりQ系統とC3系統にD2系統が加わった人びとであると思います。先日もお話したとおり、エミシも海神を祀っていたので、それにより漁撈をしていたことが分かります。

さて、縄文時代の次は弥生時代ですが、弥生時代になると、いよいよ渡来系弥生人の登場となります。弥生時代のY染色体グループについてはまた後日お話したいと思います。

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後期旧石器時代後半の細石刃文化

2011-07-05 21:30:20 | 歴史コラム:原始
後期旧石器時代後半、5つないし6つの文化圏が日本列島に形成された後、約2万5千年~2万4千年前になると、北海道に細石刃という石器が現れます。

細石刃は、大きさが数センチ×1センチくらいで、厚さが1ミリから2ミリの小さな石器です。

こんな小さな石器がどのように使われたかと言うと、細石刃は、木などで槍の柄を作り、その両側面に溝を掘って、そこに並べて差し込んで使われました。

交換式のカミソリのような発想です。

もし刃が欠けても、その欠けた細石刃のみ交換すれば槍としては使用できるということです。

なお、この細石刃を使った槍は、細石刃と柄のセットは国内では見つかっておらず、シベリアなどで発見されています。

この細石刃の文化は、約1万8千年前には本州にも伝わり、やがて全国に広がり、東日本は湧別技法、西日本は矢出川技法という石器製作技法が広がります。

そして、その後の土器の発生により、後期旧石器時代は終わりを告げます。

さて、先日もチラッとお話ししたY染色体ですが、『DNAでたどる日本人10万年の旅』(崎谷満著)によると、Cグループの亜型であるC3系統というのが、ユーラシア大陸東部に広く見られ、とくにシベリアに多く、このC3系統が、細石刃の文化の人びとだといわれています。

シベリアにいた彼らは、サハリン経由で北海道に入るルートと、朝鮮半島を経由して九州、ついで本州に入るルートで日本に入ってきました。

C3系統を持つ人の比率は、北海道アイヌでは13%、九州の人では8%ありますが、細石刃文化があまり深く浸透しなかった本州中部ではそれよりも低いです。

青森では0%なので、サハリン経由で北海道に入って来た人は津軽海峡を超えず、南から北上した人は北東北までは版図を延ばさなかったことが想像できます。

ところで、私が旧石器時代に興味を持ったきっかけは、人類が初めて日本に入って来た時代が旧石器時代、それも確実的には約4万年前以降の後期旧石器時代だとされているからです。

それも調べてみると、Y染色体の上では、Q系統とC3系統の大きく2波があり、しかも、Q系統よりも早く日本に来たと思われる人びともいることが推測できました。

私は日本人のルーツについて探求しているので、引き続き、縄文時代と弥生時代の日本列島への人の流入を調べてみるつもりですが、そういった日本人のルーツ探し以外で、旧石器時代について書かれた書籍を読んでいるうちに、「これは面白い」と思い始めたのが、その時代の名前にもなっている「石器」です。

石器もつい先日までは興味が無かったのですが、最近急に興味が出てきました。

石器は博物館や資料館で実物を見るのが良いと思いますが、本ブログで引用している『列島の考古学 旧石器時代』(堤隆著)や、北海道に偏ってしまいますが、『新北海道の古代1 旧石器・縄文文化』(野村崇・宇田川洋編)などは写真も豊富に載っているので、見ていて楽しいと思います。

今のところ、まだ石器の製作技術までは理解が回らなくて、ただ石器の写真を眺めているのが楽しいというレヴェルですが、石器もいろいろな文化に分けられて、そういった文化はどのようにして発生したのだろうかということにも興味が湧いてきて、旧石器時代がより一層面白くなりました。

今後も、石器というモノはもちろんのこと、文化や宗教・芸術など人間の営みの根源、そして社会生活のルーツを探って行きたいです。

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177万年前にも老人介護はあった?

2011-07-04 18:39:39 | 歴史コラム:原始
現代の我々も、普段は壮健な身体をしていたとしても、病に冒されると、自分で食べ物を得ることが難しくなります。

また老齢になると、やはり自活するのが難しくなります。

そうすると、家族や世間の人たちの助けを借りることになり、人情の温かさに感謝することになります。

このような人間の他者を労わる優しい心がいつ頃生じたかというと、グルジアのドマニシで発見された、177万年前の骨が、当時から人びとが弱者を労わって生きていたことを想像させてくれます。

『ヒトの進化 七〇〇万年史』(河合信和著)によると、発見されたその人は、推定死亡年齢は40歳という当時としては「超高齢」であり、死亡する何年か前からは、歯が全て抜けた状態で生きていたと見られています。

硬い食べ物が多かった当時において、歯が無い状態で生きるということは大変なことです。

柔らかい食べ物といったら、骨髄とか脳とか、植物をすり潰したものなどが考えられますが、かなりの高齢ということなので、自ら狩りに行くことも難しくなっていたでしょう。

ですので、その人は、家族の介護を受けていたと想像できます。

大昔の狩猟採集の時代は、病気になったり年を取ったりして身体の自由が利かなくなった場合は、世間から見離されて見殺しにされるような冷たいイメージがあるかもしれませんが、177万年前という大変な昔から、人は弱者を労わって生きてきたのです。

人間は優しい生き物なんだなあと、上記の事例を見て温かい気持ちになりました。

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後期旧石器時代後半の日本列島内の文化圏

2011-07-03 23:25:59 | 歴史コラム:原始
後期旧石器時代は、2万9千年前の、姶良Tn火山灰(鹿児島県姶良カルデラ)の降灰によって、前半と後半に分かれます。

4万年前に始まる前半は、昨日述べたとおり、最初は台形様石器の文化が列島内を均質的に覆い、ついでナイフ形石器が発生し、東西によって文化の違いが出てきました。

姶良Tn火山灰の降灰後の後期旧石器時代後半は、ひきつづき、ナイフ型石器の文化が隆盛を誇ります。

そして、『列島の考古学 旧石器時代』(堤隆著)によると、この時期は、列島内に大きく分けて5つの文化が発生したといいます。それは以下の通りです。

・北海道 ・・・ 広郷型ナイフ石器
・東北 ・・・ 石刃技法による東山型・杉久保型ナイフ石器
・中部・関東 ・・・ 切出型ナイフ石器
・近畿・中国・四国 ・・・ 瀬戸内技法による国府型ナイフ石器
・九州 ・・・ 剥片尖頭器・三稜尖頭器

一方、『日本の歴史01 縄文の生活誌』(岡村道雄著)では、上記に南西諸島の敲磨器文化圏を加え、日本全国を6つの文化圏に分けていますが、同時代の南西諸島の様相については不明な点が多いということです。

上記の5つないし6つの文化圏は、地勢的にみてもしっくりきますし、現在の日本列島の文化的違いにも通じるものがあり、それがすでに2万数千年前に起きていることに非常に興味を覚えます。

なお、『列島の考古学 旧石器時代』によると、この時期の日本列島の人口は、5千人を超えない程度であったと推定されるそうです。

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最初期の日本人の謎~日本人のルーツ~

2011-07-02 20:20:31 | 歴史コラム:原始
『列島の考古学 旧石器時代』(堤隆著)によると、後期旧石器時代に入った4万年前、日本列島に人が渡ってくると、最初は台形様石器と局部磨製石斧を含む台形様石器群が列島内に展開し、環状ブロック群と呼ばれる大規模な石器分布が遺跡に残されました。

この時期は、石器の地域色が明瞭でなく、列島全体が均質な内容を見せています。

そのつぎに、ナイフ形石器が出現します。ここで大きく東日本と西日本で、ナイフ形石器を作りだす技法に違いが出て、東日本は縦長剥片剥離技術である石刃技法が確立し、西日本では、横長剥片剥離技術が生み出されます。

これが現在にまで伝わる、東西の文化の違いの原点なのかもしれません。

ところで、男性のみに伝わるY染色体は、それを調べることによって、父系の先祖をたどることができ、数万年前にアフリカを出た人類が、どのように世界に拡散していったかを調べることができます。

『DNAでたどる日本人10万年の旅』(崎谷満著)によると、Y染色体はAからRまで18のグループに分かれ、その中のQ系統という人たちが、石刃文化を大陸から持ちこんだ可能性が有るといいます。

Q系統の祖系は、アフリカを出た後の移動経路は不明ですが、約3万4千年前のシベリアにおける石刃技法の担い手と想定され、その地でQ系統に分かれ、一部が日本列島に向いました。

Q系統の人が、石刃技法を大陸から持ちこんだ人たちだとすると、それでは、それより前に当たる、台形様石器を使っていた人たちは、何系統なのでしょうか。

残念ながら、『DNAでたどる日本人10万年の旅』には、Q系統よりも古く日本列島にやってきた可能性がある人たちについては記述がありません。

『旧石器時代の日本列島史』(安蒜政雄著)によると、日本列島最古の住民の足跡は、北海道にとぼしく、九州に著しいといいます。

最初期の日本人について、興味が尽きません。

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後期旧石器時代の日本人骨

2011-07-01 17:09:02 | 歴史コラム:原始
地質時代区分では、現在は完新世と呼ばれ、それは1万年前から始まります。

それでは完新世の前はというと、それは更新世と呼ばれ、期間は約260万年前から1万年前までで、その始まりは、昨日書いたとおり、我々ホモ属の発生とだいたい同じ頃です。

その更新世は、歴史学の用語では何というかというと、旧石器時代と呼ばれ、旧石器時代は、さらに前期、中期、後期と3期に分かれ、前期は200万年前以前より始まり、中期は10数万年前から、後期は、約3万5千年前から始まり、約1万5千年前に旧石器時代は終わって、日本の場合は縄文時代に移行します(『旧石器時代の日本列島史』(安蒜政雄著))。

昨日も書きましたが、日本列島にいつから人が住んでいたかは、各地で発見される石器を調べることによって分かるのですが、それでは石器ではなく、人骨で古いものはあるのでしょうか。

日本列島は土壌が酸性なので、人骨は残りにくく、日本最古といわれる山下町洞人は、沖縄県那覇市で発見されています。

これは約3万2千年前と言われ、7歳児の大腿骨と脛骨がみつかっているものです。

次に古いのは、ピンザアブ人で、これも沖縄県です(宮古島)。時代は約2万5千年前。この人骨も一部分のみの発見ですが、それでは全身の骨がみつかっているもので、最も古いものは何でしょう。

それは港川人と呼ばれ、これも沖縄県です(本島南部の八重瀬町)。約1万8千年前のものといわれ、5~9体分の遺骨の中で、1体はほぼ全身の骨が見つかっています。

以上の3種はどれも沖縄県内での発見ですが、かつては、本州でも旧石器時代人の骨と言われたものがありました。明石原人や、三ヶ日人、聖岳人などです。

しかしそれらはその後の研究の結果、縄文時代の骨だったり、動物の骨だったということが分かっており、唯一浜北人(静岡県浜松市)のみ、後期旧石器時代の人骨であろうといわれています。ただし、浜北人は小さな断片でしかないので、詳細は分かりません。

さて、もっとも残りが良い沖縄県の港川人ですが、どのような容姿をしていたかというと、やや寸詰まりで彫りの深い顔立ちをし、身長は男で153センチメートル、女で144センチメートルほどであったといいます。

鈴木尚氏は、港川人は、中国南部の柳江人と類似していることから、中国南部から沖縄にやってきて、その後の縄文人の先祖になったと考えているそうですが、その一方で、馬場悠男氏は、港川人の骨は柳江人や縄文人とは大きく異なる特徴があると述べています(以上ここまで、『日本人の起源』(中橋孝博著)を参照)。

その港川人ですが、『日本人になった祖先たち』(篠田謙一著)によると、沖縄県では港川人のあと、貝塚時代までの約1万年の間、遺跡がみつかっていません。なので、港川人が今の沖縄の人たちにDNAを残しているかどうかは分からないということです。

港川人は狩猟採集民であったので、その子孫は短期間のうちに、沖縄以外の土地に移って行ったのかもしれません。

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日本にホモ・サピエンス以外の人類はいたか?

2011-06-30 17:52:47 | 歴史コラム:原始
我々現生人類は、ホモ・サピエンスと呼ばれ、生物としては哺乳綱霊長目ヒト科ヒト属(ホモ属)に分類されます。そして、現在生きているヒト属は我々ホモ・サピエンスの一種類だけです。

なので、街に出て我々と似ている人を見て「あの人、ホモ・サピエンスかもしれない」と思ったら、その予想は100%的中するというわけです。

我々の先祖が、チンパンジーとの共通の先祖から分かれた後、最初に二足歩行をした可能性が有るのは700万年前です。サヘラントロプス・チャデンシスと呼ばれ、中央アフリカのチャドで発見されたそれが最初の人類とされます。

420万年前には、アウストラロピテクス属が現れ、350万年前にはアウストラロピテクス・アファレンシスが直立二足歩行をしていたことを示す足跡の化石が東アフリカのタンザニアでみつかっています。

250万年前頃、我々と同じホモ属のホモ・ハビリスがタンザニアに登場しました。ホモ属は登場と同じ頃石器の製作方法を編み出し、本格的に肉食を開始します。人類はそれ以前から死肉をあさったりしていたと思いますが、石器を利用することにより、遺体から肉を削ぎ落すのも楽になり、好物であったと思われる骨髄を食べるために骨を割るのも容易になったことでしょう(なお、石器を作れるということは、槍などの狩猟道具が作れるようになったと想像できますが、狩猟自体の痕跡を示す槍の発見はもっと新しく、40万年前のものです。ただし、木製品は遺物としての残り具合がよくないので、実際はもっと古くから狩猟はしていたかもしれません)。

さて、肉を多く食べるようになった人類は、脳の容量も増加させ、より賢くなりました。

そしてついに180万年前には人類はアフリカを出てアジアやヨーロッパを目指しました。ところが、早くて150万年前、遅くて35万年前には火を自由に扱えるようになった彼らでしたが、世界に散った彼らの子孫は我々の先祖になることなく、絶滅してしまいます。

(以上、『人類進化の700万年』(三井誠著)を参照。)

その絶滅する運命の人類がまだ世界のあちらこちらで生きていた20万~15万年前、我々ホモ・サピエンスが東アフリカで発生して、10万年前ころからアフリカを出て世界に散らばり、日本列島にも4万年ほど前から随時やってきました。しかし、現在の学問では、最初に述べた700万年前のサヘラントロプス・チャデンシスから現在のホモ・サピエンスにつながる系譜はどのようになるか確実なことは分かっていません。

さて、以上のように日本には4万年ほど前から随時ホモ・サピエンスが渡って来たことが分かっていますが、なぜそれが分かるかというと、当時の人骨が残っているわけでは無く、各地で発掘される石器を調べた結果、そうであると推定されているわけです。

ところがです。実は4万年以上前の石器の可能性が有るものも国内では発見されているのです。

例えば、島根県出雲市の砂原遺跡出土の石器は12万年前、岩手県遠野市の金取遺跡出土の石器は9~8万年前のものといわれています。

ただし、両遺跡とも、考古学者の一部が認めているだけであり、もしかすると石器ではなく、自然の石かもしれません。

しかしもし、それらが本当に石器だとすると、その時代、人間が日本に住んでいたということになります。

そして、それらの石器を作り使用していた人は、我々ホモ・サピエンスではないということになります。

島根県や岩手県に住んでいたそれらの人々は我々ホモ・サピエンスと遭遇すること無く絶滅してしまったのでしょうか。

それとも、その後日本に渡って来たホモ・サピエンスと出会い、愛し合い、我々日本人の間にもその血が流れているのでしょうか。

この件に関しては、手に入る資料では詳しいことは分からないので、専門家の先生たちが研究を進展させるのを待つしかありません。

今はただただ、イメージだけが膨らんでいきます。

※この話の続きがこちらのページにあります。

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