新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

正説 石田三成

2020-09-28 16:56:25 | 新日本意外史 古代から現代まで

              正説 石田三成   

(NHK放映「真田丸」では、石田三成が登場し、好意的に描かれている。しかし徳川体制では
「権現様に敵対したふとどきな奴」という観点から、三成の評判は悪い。だが豊臣家からすれば、裏切ったり、日和見した武将の多い中、最期まで豊家安寧を目指して戦った三成は大忠臣である。
ここでは誤解されている彼の実像に迫る。)
 
石田三成、幼名を佐吉という。
父親は石田藤右衛門(後に改名して石田正継を名乗る)
この正継には三人の息子が居たが、上の二人は早世して一人残った兄が
三成と六歳違いで正澄という。

 この兄は後、三成の取り持ちで秀吉の家臣となり、石田木工頭に任官し堺町奉行になる。

 父親の石田籐右衛門が後妻に迎えた妻との間に生まれたのが三成で、
夫婦の折り合いが悪かったのか、今では原因は定かではないが、幼い(佐吉)三成を置いて
出奔し行方不明となる。(従って、三成の母や本当の父親の名は不明なのである。三成を名門の血筋と書かれている歴史書は信じられない。
しかし、名門だろうが、怪しい血筋だろうが、当時にあっては立派な武将だったことは間違いのない事実である。)
 
従って義理の父籐右衛門は、妻への憎しみからか、三成に愛情が持てず、随分と苛めや虐待をしたらしい。
そして腹違いの兄の正澄も父の尻馬に乗って辛く当たったらしい。

この石田家というのは、現在の滋賀県、琵琶湖近くの石田郷で、石田川の浜崎から今津にかけては
石田の本貫地であり、かっては妙見山に城構えをしていた由緒ある家門である。
三成を名門の出身とする歴史書があるが、前記したように石田家そのものは由緒正しい名門と言えるが、三成自身の出生は疑問符がつく。
しかし、足利期から守護として残っていた今川、島津、武田、毛利氏等と違い、戦国期を通して下克上でのし上がってきた新興大名達の出自は
日本原住民の血脈で、下賎の生まれなのである。
だが彼らこそが旧体制を打破し、信長、秀吉、家康と続く「日本原住民体制」を作った、その努力と活力をこそ認められて然るべきだろう。

 さて、こうした家庭の事情から三成を邪魔として、父の籐右衛門は石田郷近くの延寿院へ三成七歳の時、寺の色小姓として売ってしまうのである。

 おそらく三成は母親に似て色白の美少年だったと想われる。そうでなければ色小姓には売れなかったからである。この当時にあって京の色小屋(男色専門の売春宿)へ売れば、寺よりは高く売れたろうが、
 寺へやっておけば行く末は坊主になるだろう、さすれば、一人出家すれば九族昇天すると謂われ、
家族は極楽浄土へ行けると言う、後生楽を願った思惑もあったと想われる。それは石田家は仏教徒だからである。

この後、近江長浜城主に出世していた木下藤吉郎が佐吉(三成)を見出し、小姓として家臣に召抱える。
また福島市松、加藤虎之助、とその他縁辺の者と一緒に元服をさせ、三成という名も貰う。

 天正八年、播磨へ国替えとなり、羽柴秀吉と名乗りを変えた藤吉郎から、二十歳になった三成は 播磨似東郡の内で300石を与えられる。
 天正十年本能寺の変があり、翌年の四月、賤が岳合戦後、三成は秀吉の側に付きっ切りだったため、
「七本槍」の中に名を連ねていなかったが、加藤孫六、平野権六、片桐助作らと同格の三千石になる。
 この内訳は、近江高島郡百瀬、川上、饗庭三ケ村、近江今津を中心に琵琶湖西の村々で、 石田郷もすっぽりとその三千石の領地に入っている。

 秀吉とすれば天下を取った喜びを分かつため、幼児から手元において我が子同然に扱ってきた、 三成に対しての愛情から、石田家先祖からの地を選んでやったのだろう。
三成にすれば故郷に錦を飾ったことになる。
 そして三成は散々苛め抜かれ、奴隷に売られた父や兄のために、南新、弘川、石田荘の分は、 父と兄の台所入りとして与えている。
 この行為から窺えるのは、三成の心根の優しさと、良質な人間性を現しているとみてとれる。

天正12年7月、秀吉が関白太政大臣に就任すると、お裾分けの大判振る舞いで、 三成は「従五位下冶部少輔」に任官する。
 そして秀吉は新たに五奉行を設け、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長塚正家と石田三成を 加えて、三成には美濃北方五万石を、これまでの三千石に加増され、一躍25歳で五万三千石の 大名となる。
 この後、文禄四年には従来の石高に加えて琵琶湖の周辺、伊香、坂田、浅井をそっくり加増され、 一躍二十一万石になった。
 そして秀吉から「東国、北陸から上洛してくる軍勢の関門じゃ、しっかり守れよ」と海抜300mの佐和山に城も築いてもらった。

 そして籐右衛門は三成の父ということで秀吉に謁見を許され、その場で滋賀一郡三万石を賜り、 名も厳しく「石田隠岐守正継」と改めることになった。
そして兄正澄も父との兼ね合いで加増され、二万五千石になり「堺町奉行」を命ぜられる。
余談になるが、この堺町奉行というのは、現代で言うなら、火薬輸入長官と特殊秘密警察にも当る重大な役目なのである。
豊臣政権の銃砲火薬を一手に堺港から輸入し、さらには秀吉の中国大陸遠征中の 原住民系ササラ衆の反乱防止取締官庁でもあった。
だからこの役目は余人では信用できず、我が子同然の三成の兄に託したのである。
  茶道で有名な千宗易一派を根こそぎ弾圧し、刀狩さえ断行して後顧の憂いを絶っている。石田正澄は秀吉の命令で、宗易の妻、宗恩を蛇攻めで殺している。
   
こうした三成の親兄弟へ対する深い愛、親らしいことは何もしなかった父に対してさえよく気配りし、大名にまでしてやった三成の律儀深さは、戦国時代にあっては特質すべき 美点であって、それが後年、家康と戦う原動力となったものとみられる。

 なにしろ三成は、生前の秀吉の事を親とも想い忠義を尽くし、その死後は豊臣家の 安泰を一心に念願していたのだから、海千山千、すれっからしの狸親父の家康とは人間の質があまりにも違いすぎた。
 さて、この徳川家康を描いた書物は汗牛充棟、現在までに山岡荘八を初め400点を くだらないが三成を書いたものは極少ない。
 何故なら徳川史観が其の儘定着している現在だから「権現様に刃向かった不届きな奴」 という観念から三成を嫌っているから仕方の無いことかもしれない。

 しかし、豊臣から見れば裏切った大名や家臣の多く居る中、只一人孤軍奮闘、無私の心で 豊臣家を護る一念で戦った大忠臣である。
 また三成を文臣派という括りにして、武将としての素質を低く見る読物も多いが、 これはとんでもない間違いである。
 平和な時代なら行政官としての文臣は必要だが、時は戦国時代である。

  武将というのは戦略戦術はもとより、経理や財政、人事庶務などにも精通していることが求められ、三成は朝鮮の役で渡海しなかったので、その武勇は伝わらないが、 国内に在って後方支援、物資調達など、
即ち遠征するための軍需大臣の役を 立派にこなしている優れた武将であった。これは例えるならナチスドイツの軍需大臣シュペアーにも匹敵する手腕を発揮している。
 この後三成は、家康が勝手に入り込んでいた伏見城を、「太閤殿下が築いた城を勝手に横領するとはけしからん、早急に明け渡せ」と強行に要求する。
   しかしこの家康の行動は家康が仕掛けた巧妙な罠なのである。 上杉景勝が先代影虎が開発した佐渡金山を奪い返そうと兵を挙げたので、家康は諸大名を 率いて東へ下向した。
 その留守中の伏見城へ三成が攻め寄せてくるように、留守を預かった家康の家臣 鳥居元忠に「三成から抗議が来るだろうから、強行に反抗せよ」と云い含めての東下だった。
 老獪な家康はその以前から、伏見城を明け渡してもよい口ぶりを、故意に残していったので、
正直な三成は、それにまんまと引っ掛かってしまったのである。

 そして少人数の伏見城は鳥居らの激しい抵抗の末全員討ち死にしたが、何とか落城した。
そしてこれを口実に家康は、鳥居元忠らの弔い合戦ということで、関が原合戦となる。
さて此処で少し上杉景勝の挙兵と三成の関係についての考究をしてみたい。

        <<<上杉景勝>>>
 
 上杉謙信とされている長尾影虎(於虎)の姉の「於亀」から生まれて幼名を喜平次という。
父は長尾政影である。スペインのトレドにある教会図書館の1600年の部には、スペイン語の華文字で「カゲカツは叔母の佐渡金山を奪還せんとして決起した」と書かれている。
 
この文章は当時日本に来ていた宣教師が、本国のフェリッペ王に送った報告書であり、王はスポンサーだったため宣教師が間違いを書くことは考えられない。
 於亀が叔母ということは、於虎、即ち謙信は女だったということである。
 ちなみに謙信とは死後の戒名なのである。影虎は長尾から、関東官領上杉の名乗りを貰ったので今では上杉が通り名になっている。
  日本歴史では、石田三成と上杉景勝が共謀して家康を挟み撃ちをしての謀叛としている。
<日本歴史資史料集大成>の168頁には、 「越後新領主堀秀治の老臣、堀監物より、会津の景勝が異図ありと変状を上訴」と記載がある。
 
この「異図」の意味だが、景勝があたかも天下を狙ったような解釈を現代はしているが、果たして どうだろう。
  秀吉は佐渡金山が欲しくて召し上げてしまい、越後の代わりに会津百万石を与えた。
 そして何故秀吉はこの日本一の金山を欲したかの訳は解明されていないが、要は火薬輸入の決済にスペインやポルトガルに金本位を求められたからである。
 従って景勝は、越後を取り上げられたことが不満で、秀吉の死を待ちかねて、奪還しようと旗揚げしたのが真相と想われる。
何故なら三成と共謀してのことなら、三成は21万石なのに景勝は100万石だから先ず景勝を大将に立てて、江戸攻めをさせ、駿府まで攻略させるのが軍略である。
 だったら家康としても三成を潰す前に、後顧の憂いを断つために、先ずは景勝の成敗をするべきである。
 処が前述の資史料の174頁には「家康は六月十六日に大阪を発し伏見に留まる事一日、十八日に出発し、回り道して鶴岡八幡宮に詣り、七月一日に江戸へ入って下野の栃木小山に陣をたてる」と、実にのんびりした様子が出ている。

 つまりは景勝が勝手に単独で旗揚げしたことを家康は見抜いていて、敢えて会津まで攻め込まず、ただ恰好付けしていたに過ぎないのである。

 三成は秀吉の忠臣だが、景勝は金山を取り上げられたことを怨んでいたのを熟知していたから、 二人が示し合わせ、連携していないと問題にしていなかったである。

というのは、現代でこそ金は高騰していて1グラム6000円もしているが、16世紀の日本では、 秀吉が硝石を外国から輸入の為に鋳たのを天正大判小判として、国内でも流通させようとしたが
結局は京の銀を足利時代から押さえていた蜷川道斎に阻止され失敗している。だから家康は金山などは問題にしていなかった。
 
 後には家康も伏見で金の小判を鋳造したが、江戸幕府を開くに当たっては、箱根以東だけは金本位にし、以西つまり九州の果てまでは銀本位制にすることで蜷川と折り合いをつけている。
さて、秀吉は小早川秀秋の領地であった筑後国・筑前国を石田三成に下賜しようとしたが、三成は辞退している。
この理由は判然としないが、もしこれらの領地があったら五十万石はゆうにあったから、 動員できる兵の数も三成一人でも三万人はできたろう。
そうなれば西軍の大将として指揮も取れたはずで、さすれば豊臣家の運命も変わったと想われる。


   関が原合戦 石田三成 徳川家康 西軍 東軍

「関が原合戦、西軍が負けたのは雨が原因」


現在の通説として、関が原の戦いは徳川家康の東軍が、岐阜の大垣城から出てきた西軍の石田三成らを九月十五日に撃破したとなっている。

 その為に豊臣秀頼は摂津河内和泉で僅か六十万石の大名に成り下がってしまった。
その後大阪夏の陣でも負け、豊臣家は滅亡してしまう。このことは史実としては正しい。

 但し戦略的には、家康は京の蜷川より多額献金を受け、西国大名に与え、裏切りや積極的に戦わなかった事が大きい。
まあ勝負は戦う前から決まっていたといえる。だから後に江戸幕府を開いた家康は蜷川に遠慮し、箱根以東は金本位制、西は九州の果てまで銀本位制と定めたのである。
 このことは学校歴史では教えない。しかし戦は水物。戦術的な西軍の敗戦は「雨」なのである。
 

 現代では、関が原でせっかく美濃大垣城に西軍の兵を入れていた石田三成が、 何故に前日は篠突く大雨だったといわれる悪天候の中、折角城に篭っている兵を連れ出し 徳川方が布陣している関が原へと討って出たのは何故なのかと怪しまれ、
現在様々な諸説が氾濫している。曰く「一気に雌雄を決する為ではなかったか」 「石田三成が若かったから焦った」等など。
 勿論戦術を有利にするためには沛然と降りそそぐ雨の中を厭わず、折角大会戦のため 食料や武器弾薬を集積していた城を出て関が原へ向かったのだということは頷ける。
だが問題は、現在では全く知られていないが『雨』なのである。
 つまり、戦国時代から江戸時代でさえも合戦という行動は雨の日は休みだったのである。
即ち「雨天順延」で、現代の運動会のようなものだった。 後段でこの訳は解き明かすが、ここのところをよく理解しておかなければこの謎は解けない。

当時は今のようにビニールやレザーの無い時代だから、武者達の鎧は金具や糸布を使っていたが、 陣羽織は「紙衣」(かみこという)だったし、武者が背に指す旗指物や馬印さえもが、
 こうぞから作られる紙、即ち和紙だったのである。だから雨に濡れるとべとべとと溶けてしまい目印が判らなくなってしまうのである。
 当時木綿も貴重品で絹布などは高嶺の花。大将ともなれば流石に純綿を使ったが、 一般の武者共は紙製の旗指物だったのである。このことは<兵法雄鑑>や<雑兵物語>に明確に記述されている。
 原文は難解だから次に平文に訳しておく。

「もののふは名こそ惜しむ。よって雨が降りきたれば、折角の己の目印の旗指物も濡れ、印も文字も滲みて見えなくなり、何の為に働き高名をたつるや判らず、よって皆樹陰に入り、雨の晴れるのを待ち、互いに
戦は共に休みになして、左右に別れ去るものぞ」と、明確に書かれている。

 さらに「空を仰ぎ見て、今日は曇りにて雨になるらんと、戦は休みなるべしゆえと朝飯は抜き、しもじゅうて、皆は早く晴れたらええと、腹が臍くくりになりひもじさに皆ぶうぶう言い合う」等とも書かれている。

江戸中期の兵法家大道寺遊山は「落穂集」で有名だが、「武道初心集」も書いていてこれは現代岩波文庫で刊行されているが、その「岩淵夜話」の本の中にも、
 「雨天休戦は武士の相身たがいの為なり」とある。

 また武士たるものは「忠臣は二君に仕えず」などと現代は言うが、これは奉公先の大名が徳川の施政方針のため次々と取り潰され、武士の就職難の江戸時代からの話で、
戦国時代は全く逆で、槍の才蔵と謳われた有名な可児才蔵のごときは、生涯戦場を駆け回り死ぬまでに十余回も主君を変えている。

さて「瀬戸際」という言葉がある。

 この言葉の語源は、関が原合戦で雨中で三成の軍勢に包囲され、 切羽詰った家康が必死猛死に脱出して、合戦の勝敗を逆転させたわけだが、こういう状況の場合に使ったものなのである。

 さて、可児才蔵の如く、戦場で己を大いに宣伝し、今までより扶持、即ち給料を多く出してくれる奉公先が見つかれば、直ちに条件次第で其方へ移る。
これを武士言葉で「鞍替え」という。この言葉は後には武士の多くは源氏系だったから、源氏の女しか遊女になれなかった江戸時代になると、これが転用され、遊女や芸者が借金を多くさせてくれる方へ住み替えることにも
この鞍替えという言葉が使われた。だから、始まりは武家言葉なのである。
  
 さて話を戻すが、戦国期の合戦で、武者達は今日で言う条件のよいところへスカウトされるためには、遠くからでも見分けが付く旗指物は前記したように紙だから、それゆえ雨が降ってきたら濡れ、 使い物にならない訳である。
 だから「これでは鞍替えの機会が無い」と武士は戦わず、したがって戦は休みだったのである。
 現代ではこれは奇異に思われるだろうが、この行動は江戸時代の幕末になっても、慶応二年五月は大降りで上野戦争の際の彰義隊(幕臣の次男三男を募集して作られた武士の部隊)は、

 「今日は雨だから薩摩(官軍)の奴らも攻めて来んだろう」と、上野の山から近くの湯島や神田明神や吉原に女買いに繰り出し、当日は部隊の半数も残っていなかった。
これを見てとった周防人で武士ではなく、医者上がりの大村益次郎は、そんな古い武士の不文律など知りもしないから、「この機会だからやってしまえ」と各藩の官軍に命令を出した。
しかし「こんなに雨が降っているのに、古来武士は雨戦はせぬものぞ」「まさか間違いであろう」となかなか兵が集まらず、止む無く薩摩の西郷隆盛が、
 蓑をつけ草鞋履きで先頭に立って出かけていったぐらいのものなのである。

 維新の志士などという美名を奉られている明治期の薩長の大物は、医者や身分の低い武士ともいえない郷士上がりが多く、正規の武士の習慣も知らず、従って慣習に捕われない発想が逆に功を奏したのであろう。

 つまり、関が原の話に戻るが、「この大雨では明日も戦になるまい、だったらその前に今の内に東軍の退路を絶っておこう」と石田三成が秘かにタブーを破って大垣城を出てきたところを、
桃配り山東軍本陣の徳川家康が、雨の中を濡れぬように、旗も幟も仕舞って迫ってくる石田方を、
物見の者から報告されると、家康はすぐさま大きく合点して包囲に任せた。
そして家康は「この雨では、敵の武者共も紙旗が濡れるゆえ、働いても損だと目覚しい戦いはしないぞ」と、先に開戦命令を出したのである。
 そして渋紙塗り(油塗り)の金色の幟に「五」の字を捺した徳川本体の使番を各陣営へ出し、まさかと思っていた三成の西軍へ不意打ちをして勝ったのである。

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