代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

田原総一郎と猪瀬直樹の「グリーン・ネオリベラリスム」

2009年01月08日 | エコロジカル・ニューディール政策
 前の記事のコメント欄で、バクさんが元日の「朝まで生テレビ」で行われたという以下のような討論の様子を伝えてくださいました。私は、田原総一郎の顔を見るのもイヤなので、もう2年近く朝まで生テレビもサンデープロジェクトも見ておりません。バクさんが紹介した以下のようなやりとりを見ていたとすれば、新年早々さぞかし不快な気持になっていたことでしょう。バクさんのコメントを一部抜粋して紹介いたします。

田原総一郎の暴言

****<バクさんのコメントの引用>*******

オバマが唱えたグリーン・ニューディールはたちまち日本の大きな世論になりはじめているようです。
先日放映されたTV朝日の朝まで生テレビでも取り上げられました。居酒屋チェーン店をを中心に介護、農業へとビジネスを展開するワタミ社長が株式会社が農業に参入できない問題を訴えていました。そして規制緩和で株式会社が農業に参入できれば大きな雇用も生み出され、貧困問題解決の一助ともなる。農産物は輸出もできると強調していました。それにあわせて猪瀬氏が第2次農地改革が必要だと述べ、田原氏が自民党の大村氏になぜできないんだと突っ込んでいました。ワタミ社長は別にしてあの小泉-竹中改革を支持した田原氏や猪瀬氏までが推奨するグリーンニューディール政策には胡散臭さがつきまといとても静観できるものではないと思います。
田原氏はさらに首都圏青年ユニオン書記長の川添氏(農業系大学院中退)に対しても同意を求める質問を投げかけましたが、川添氏は経済効率だけになってしまうのではないかというような疑問を述べるとと田原氏は「あんたは株式会社そのものに反対だから」と断じました。それを見かねた大村氏が川添氏の発言を補完するように「一定のいい条件の場所しか成立しないと彼は言いたいのだ」と発言すると、田原氏が目をむいて大村氏に「あんたのような者とは話したくない」とまで発言しました。

****<引用終わり>***********

 私が田原総一郎の顔も見たくないというのは、全く基本的な知識が欠落したままに展開される彼の数々の暴言を聞くのもイヤですし、討論者からのコメントに論理的に回答できないと大声で恫喝して相手を無理やり黙らせるようなことを平気で行うからです。そうした態度を目にするのが精神衛生上よくないからです。このような、まともな対話を行うこともできない人物に司会業を委ねているテレビ朝日の良識を疑います。
 
 猪瀬直樹や田原総一郎は、今まで彼らが礼賛してきた「構造改革」の中味が弱肉強食の市場原理主義と同義なのだという認識があまねく行き渡り、「構造改革」という言説が使えなくなってきたために、「グリーン」とか「ニューディール」とか「雇用創出」など聞きあたりのよい言説でオブラートに包んで言い繕うことによって、その市場原理主義の策謀を貫徹しようというのでしょう。

 だいたい、ケインズの「ケ」の字も知らないほどに基礎的教養の欠落している田原が、アメリカでニューディールと言われ始め途端に「ニューディール」なんて言い始めること自体、笑っちゃうのです。いままでさんざん市場原理主義をあおってきたくせに。

 私は、日本経済新聞のように確信犯的に新古典派の新聞が構造改革を叫んでも読んでいて腹が立つことはなかったです。ブレることなくリバータリアンなデルタさんの主張を読んでも、「私と考えは違うなあ」とは思っても、首尾一貫しているので逆に好ましく思うくらいです。
 しかしながら、朝日新聞の論説委員や田原などは、基本的な経済学の知識もなく、新古典派が何かも全く分かっていない。米国が仕掛ける戦略の意味を考えることもできず、ただ流されて「構造改革万歳」とか「規制緩和断固支持」とか「ケインズは死んだ」などと全共闘活動家みたいにアジってきたのです。私はその姿にどれだけ憤りを感じたことか分かりません。

 そういう愚かな人々が、アメリカの政策が新古典派からケインズに変わったとたん、今度は「ニューディール」なんて叫び出すのです。呆れて言葉も出ないのです。保身のために時流に迎合することほど醜悪で品位のない姿は他にありません。だから結局は、「ニューディール」の中身なんて何も分かっちゃいないわけです…。

企業の投資は条件不利地域には向かわない

 株式会社の農業経営を認めるにしても、既存の優良農地を買い占めることのないよう、条件不利の中山間地に広がる耕作放棄地のみに限定するという路線を守るべきです。そうした条件不利地を企業が経営するようになれば、ある程度の関税で保護しない限り日本で農業経営などできないことを、彼ら自身が身にしみて分かるでしょう。財界の農産物貿易自由化問題に対する態度も変わるかも知れないので、それはそれで良いのかも知れません。

 一般的に、条件不利地は企業にとって収益性のない土地になりますから、資本制農業はそもそも成立しない場所です。ゆえに農地の企業経営など自由化したところで、まさに川添氏や大村氏がコメントしているように、農地の担い手のいない条件不利地など、そもそも収益性がないので企業経営は成立しません。耕作放棄地が有効に活用されるようになれば雇用の創出にもなりますが、企業の投資は限界耕作地には向かわないのです。

 穀物価格は乱高下します。価格が高いあいだ、条件不利地域でも企業経営が成立するように見えても、価格が下がればすぐに経営破たんし、農業労働者は大量解雇されるだけです。そんな派遣社員のような不安定なプレカリアートたちをこれ以上に増やして何が「雇用対策」でしょう。

 投資対象として採算割れを起こすような耕作放棄地の有効活用と雇用対策となれば残る方法は一つ。国や自治体が公社でもつくって、失職した人々を公務員として迎え、耕作放棄地での農業生産をすることだと思います。もちろん採算が割れる部分には税金を投入して。そのくらいせねば条件不利地域の経営など成立しません。

 採算ベースに乗らない限界地でも農業ができる主体は、商業的利潤を求めない自給主体の家族経営農家か集落営農か、あるいはそうでなければ上流の棚田維持による国土保全活動とでも割り切って、税を投入して国や自治体などの公共団体が実施するしかないのです。もちろん、既存のコミュニティの秩序や地域住民の農業生活を害さない範囲で、耕作放棄地に限定して。

 農水省の農地改革プランは、耳障りのよいように、耕作放棄地や遊休農地の有効活用が唱えられていますが、実際に予想されるのは、条件のよい低地の優良農地の賃借経営権を企業が買い占めることです。
 これは、それこそイギリスで発生したエンクロージャーに匹敵する悪夢です。既存の兼業農家が企業に土地を奪われ、不安定なプレカリアートの大軍となって不安定な労働市場に押し出されるだけです。こうなれば、「雇用創出政策」どころか、「国民総プレカリアート化政策」にすぎません。

 「農地経営を、利潤を求めない家族経営で行うのと、商業的利潤率を要求する企業経営で行うのとで、単位面積当たりでどちらが多く労働力を吸収できると思いますか」と質問すれば、小学生でも回答は分かるでしょう。猪瀬や田原がそれを分からないとしたら、小学校の算数からやり直した方がよいでしょう。
 
グリーン・ネオリベラリズム

 猪瀬や田原は、「グリーン」の名を冠しつつ、財界の利益にのみ奉仕し、さらに大量の報われることのないプレカリアートたちを生み出す農業分野での企業経営の自由化を推し進めようとしています。つまり資本主義による人間破壊、コミュニティ破壊、自然生態系破壊、文化破壊を究極的に推し進めよう、それをオブラートで包むために「グリーン」という言説を冠しているのです。

 マイケル・ゴールドマン著『緑の帝国 ―世界銀行とグリーン・ネオリベラリズム』(京都大学学術出版会)という本があります。ゴールドマンは、1990年代後半からの世界銀行が、表向きは「グリーンな貧困削減」を掲げて、環境重視のポーズを見せてNGOなどを取り込みつつ、その内実は実際にはウォール街の欲する「ネオリベラル」な価値観を貫徹しようとしたことを暴露しました。

 著者はアメリカの社会学者ですが、アメリカでも広く受容されるようになったアントニオ・グラムシのヘゲモニー論を骨格にして、この「グリーン・ネオリベラリズム論」を上梓しました。現在のアメリカではイタリア共産党の指導者だったグラムシの政治学が流行するようになっているのです。アメリカも変わってきました。

 さてゴールドマンは、世界銀行が危機に直面したときに、表向きは環境NGOの「グリーン」な言説を取り込むことによって、その知的ヘゲモニーを確立したと論じています。世銀は「資源の有効活用」といいながら、発展途上国の水道を民営化したり、「地方分権」や「住民参加」といいながら、森林経営部門の市場主義的経営を推し進めたり、結局は市場原理主義的政策を貫徹してきたのです。
 田原や猪瀬の言説も、まさに「グリーン・ネオリベラル」ないし、「グリーン市場原理主義」そのものだといえるでしょう。

 竹中平蔵なども「経済学の使命は失業率を下げること。労働市場を柔軟化すれば失業率は下がる」という言説のオブラートで包みながら、派遣労働の自由化を推進してきました。もうこれ以上騙されるほど日本人は愚かではないということを見せてやらねばなりません。

兼業農家の意義

 バクさんによれば、田原総一郎は、兼業農家に対して「あんなもの」と発言したそうです。田原と猪瀬の狙いは、兼業農家の農地をすべて企業に集中させることなのでしょう。

 私は、人間のライフサイクルとしても、家庭と社会の安定性の観点からも兼業農家あるいは半分農家で半分は別のものという「半農半X」という生き方は理想的だと思います。ちなみに「半農半X」は塩見直紀氏の提起した概念です。『半農半Xという生き方』(ソニー・マガジンズ)などをご参照ください。

 お父さんやお母さんが働いていても、農地はお爺ちゃんやお婆ちゃんが中心に支える。週末はお父さんも農業に従事する。お父さんやお母さんが退職すれば、帰農して農業に従事する。陶淵明の詩を思い出すべきでしょう。「帰りなんいざ。田園まさに荒れなんとす」と。

 兼業農家のみならず、日本の全市民が家庭菜園を持てば、老人のボケ防止につながり、結果として国の医療費はすごく削減できることでしょう。
 私の実家の畑はほんとにわずかばかりしかありませんでしたが、祖父は85歳で亡くなる一か月前までシャキーンと畑仕事をしていたものでした。亡くなる直前まで頭脳明晰、ボケとは無縁で、医者にもほとんどかかりませんでした。畑で倒れてそのまま逝ってしまったのです。

 人間の健康維持、医療費の削減、家庭と社会の安定の観点から、国は「兼業農家」の持つプラスの外部経済効果を認識すべきなのです。

国家が崩壊しても家庭菜園があれば市民生活は滅びない

 ロシア人の6割ほどはダーチャと呼ばれる家庭菜園を持っています。ソ連崩壊後の、IMFが市場原理主義的な構造改革を進めたことによって生じた経済苦境にあっても、なんとかロシア人がギリギリのところで生活を維持できたのは、ほとんどの市民が郊外にダーチャを持っていたからだとも言われています。

 ロシア人は、ソ連時代から週末はダーチャで過ごしつつ自給分の食糧くらいは生産するという、ゆとりのあるライフ・スタイルを持っていました。国家が崩壊する未曽有の苦境の中にあっても、ダーチャがあったことにより家庭生活の崩壊までは回避できたのです。
 兼業あるいは市民農園の持つ、そうした社会と人間生活の安定機能を、猪瀬や田原は全く理解できないようです。

 資本主義は、そうした市民農園のような、市場経済外の自給的部門を容赦なく賃労働部門に包摂しようとします。ソ連でさえ、ダーチャという非社会主義的自給部門を社会主義部門に包摂しなかったのに、日本はすべてを資本主義部門に包摂しようというのです。このような暴挙は決して許してはなりません。

 非資本主義的部門のもつそうした「ゆとり」が、社会の安定性を担保しているのです。それも奪われてしまったら、もはや息もできないような人間疎外が極限に達した「資本原理主義社会」になって、プレカリアートたちによる革命が起こるでしょう。やはり全共闘活動家だった猪瀬直樹は、いまもトロッキストで世界革命を目指していたってわけですね。

 ああ。猪瀬の同郷者として本当に恥ずかしいです。全国の皆様、まことに申し訳ございません。信州人の良心の名にかけて、猪瀬の暴言に対抗していきます。
 
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11 コメント

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まさか引用していただけるとは(笑) (バク)
2009-01-09 14:35:04
ありがとうございました。
引用していただいたのはたぶん初めてです。(専門の方で2,3盗まれた経験はありますが…)

引用されるのがわかっていたらもう少し推敲しておくべきだったなと思っています(^^;)

ところで、勝谷氏も太陽電池を各家庭に配布するという案をテレビで述べていたそうです。猪瀬氏と地下水脈でつながりを想像させます。
http://jp.youtube.com/watch?v=VtC_-BdBQK8
で視聴できます。
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そもそも僕は農業の自由化を考えてるんですが・・・ (ノネ)
2009-01-11 00:25:18
半農半xという考え方はすばらしいです。我が家にも家庭菜園はあって、毎年ゴーヤなどを作って楽しんでいます。
しかし、農業の参入規制の話とは別です。そこをゴッチャにしてます。
家庭菜園を持ったほうがいいよ。というのはわかります。しかし、多くの家庭菜園は市場に流通せずに、家庭内だけで楽しむんでしょ。今回はそんな家庭菜園じゃなくて、市場に乗るような農場の話のはず。
市場に出回る農作物なら効率的になったほうが良くないですか?(企業か兼業農家、どちらがそうかというわけでなく)
兼業農家がお金を度外視して、その外部性のために家庭菜園として農場を使いたいというなら、企業に売らないし。

なんかうまく考えをまとめれてないけど^^;そんなとこです。つまり、家庭菜園と一緒にするなってことかな。
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問題のシーン見ちゃいましたよ。 (ふしぶじゑ(萩原))
2009-01-11 15:38:39
本年もよろしくお願い申し上げます。

田原氏の兼業農家に対する「あんなもの」発言のとこ、たまたまテレビつけたらやってました。

議論をわざと混乱させて、ここぞというところでイノセ氏にしゃべらせる。電波芸者&財界のメッセンジャーの面目躍如なシーンに見るに絶えずチャンネル変えてしまいましたw
発言をさえぎられた湯浅誠氏の苦虫つぶしたような悲しいような表情がなんともいえませんでしたし。

「効率至上主義」「利益至上主義」って一種の唯物主義ですからね。左翼出身者が飛びつくのもむべなるかな。
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Unknown (ななし)
2009-01-11 18:52:15
猪瀬も田原もかつては反日左翼だった口でしょ?
で、今度は新自由主義に鞍替え。
彼らの言説の目的は日本破壊と言う点では一つも変わらんのじゃないかな。
冷戦後、米国の対日方針が日本抑え込みに変わった途端に在日米軍万歳、米国万歳に豹変した事からも分かりますよね。
テリー伊藤なんかもその典型じゃないでしょうか。
返信する
農業における効率とは何か (南(農学部中退))
2009-01-15 11:03:55
 農業における効率についての言説はとてつもなく偏っています。現状の日本で農業の効率を語る場合に考慮されるのは、まさに新古典派的な需要と供給、生産費と販売費だけです。この観点で農業の効率を上げていけば、この記事で指摘されているような労働力の吸収が犠牲になるのはもちろん、金肥、農薬バンバンで、ガソリン使いまくりで、輸送距離は無駄に伸びるという風に、エネルギー効率は低下します。そもそも耕作放棄は実は経済効率を上げる行為です。景観は破壊され、災害のリスクは上りますが、それは短期的には経済に影響を出さない(観光地化される場所はごく一部、災害は忘れたころに「しか」やってこない)ため、これも経済効率の判断に反映されません。
 要するに、単純に効率というときに使われているものさしには気をつけたほうがいいと思います。
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ノネさま ()
2009-01-16 12:49:21
 返信遅れまして誠に申し訳ございませんでした。
 農地は、その地域のコミュニティとともに存続し続けねばならないもので、コミュニティと切り離されて資本に囲い込まれてはいけないというのが、私の基本的な意見です。なんとなれば、生産の持続性と供給の安定性を担保できないからです。
 
>しかし、農業の参入規制の話とは別です。そこをゴッチャにしてます。

 農業への参入規制を自由化して、幅広い市民に家庭菜園がいきわたるような公正な分配が行われると思いますか? 農地の一部資本への独占・集積が行われることは目に見えています。大資本に優良農地が独占されている中南米のプランテーションの光景を思い浮かべてください。
 社会的に公正に家庭菜園をいきわたらせようとすれば、農地の計画的管理はやはり不可欠な要素になります。

>市場に出回る農作物なら効率的になったほうが良くないですか?(企業か兼業農家、どちらがそうかというわけでなく) 

 大規模経営の環境面・労働面での弊害に関しては、南氏も言っているとおりなのと、私も本ブログにかつて書いたことがありますので、以下の記事をご参照ください。
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/bd8b1fb31716191cc3e8ef86df031f94
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/9fbec824049cce3a093b9777a55da2d5

 また、家族経営農業には逆説的ですが、「不効率の効率性」というものがあります。資本的経営は、農業への投資に対する利潤が、他産業と比較しても十分に満足のいく水準に達しなければ、経営を放棄します。
 つまり、いろいろと投資してみて、その過程で、景観も破壊し、既存の農村の社会秩序も壊し、土壌も怖し、地下水も枯渇させたり、汚染したりして、それでも結局十分な収益がなく放棄して去るということが、往々にして発生するのです。
 日本列島など、本当に、農業を完全に自由化してしまえば、列島丸ごと条件不利地域だといっても過言ではありません。日本国内では相対的に競争力のある北海道農業でさえ、オーストラリアと日本のあいだで自由貿易協定が結ばれれば、小麦もトウモロコシも壊滅的打撃を受けるでしょう。本来的に、異なる自然条件にある地域同士を自由競争させてはいけないのです。

 また、頭のいい経営者が、日本で農地経営を軌道にのせたが、六本木族や国外の大金持ちのための特別なニッチを志向する作物生産を行い、貧困層は飢えていくという事態が発生しかねません。

 零細な兼業農家の場合は、半分は自給目的、半分は趣味と割り切ってやっているので、利潤などでなくても、経営を続けるのです。

 農業生産は何よりも、持続的に安定的の生産を継続することが重要です。儲かるか儲からないかで生産する/しないを判断する、資本に経営を全面的にゆだねてはいけないものだと思います。

 しかし、私も、すでに耕作放棄された土地であれば、企業に賃貸するのも可とは思います。何も耕作されていないよりは、耕作した方がよいからです。ただし、その場合でも賃貸であって、所有権そのものを移転させてはいけないと思います。また、とりあえず実験してみればわかると思いますが、例外的な事例以外は、経営は成り立たないでじきに放棄されるでしょう。とりあえず実験してみればよいと思います。さまざまな問題点がすぐに見えてくるでしょうから。

返信する
バクさま、萩原さま、ななし様、南さま ()
2009-01-16 12:50:45
 コメントありがとうございました。新年の挨拶が遅れましたが、本年も何とぞよろしくお願い申し上げます。
返信する
「合理的」の方向性 (デルタ)
2009-01-18 23:56:31
南さんの議論されている方向性に、非常に興味を持っております。
効率……この場合は、収穫を最大化するための「対土地面積の収穫の効率化」を意味されていると思うのですが、そこからの脱却が、私も必要と思うからです。

今日、図書館で今週分の新聞をまとめ読みしてましたら、朝日新聞に上田惇夫さんへのインタビューが載っていました。ドラッガーの本の多くを翻訳した人です。
その中で非常に印象的だったコトバが。
「利潤は事業を継続するために必要な”手段”なのだ(目的ではない)」
経営学の世界でもっとも評価の高い研究者であったドラッガーの慧眼にかかれば、農業も含め日本の今の産業は、利潤最大化(利潤の”目的”化)の思想に侵されて、かえって本来の意味での効率(投入労力に対する収益の比)を落としてくるかもしれませんね。と考えると、利潤を重要視しない農業経営は、次の(明治以降の「農政」を乗り越える)指針になるだろうと思います。

ただ最終消費者が同じひとびとである以上、需要の総量が変ることもありませんし、そこに求められる質も変らないでしょう。

関さんには異論があるかもしれませんが、
>六本木族や国外の大金持ちのための特別なニッチを志向する作物生産を行い、貧困層は飢えていくという事態
は潜在的には、すでに起こり始めているのです。安い輸入農産物のおかげで顕在化してませんが。

>本来的に、異なる自然条件にある地域同士を自由競争させてはいけないのです。

この考え方だと、適地適作を否定することになりませんか。仮に石油消費量するとしても、フードマイレージの評価だけでは不十分で、作付けから小売店への配送までの総計で考える必要があるでしょう。
この総計評価で劣るならば、自家消費以外には、その作物を作ること自体を諦めるほうが自然だと考えます。

返信する
デルタさま ()
2009-01-29 11:43:23
 多忙につき返信できず申し訳ございませんでした。農林水産業に関しては、価値基準を利潤追及から持続性追及へと転換せねば、と私も思います。

>>本来的に、異なる自然条件にある地域同士を自由競争させてはいけないのです。

>この考え方だと、適地適作を否定することになりませんか。

 近代農法の「適地適作」概念にも問題がありそうです。たとえば、アメリカ西部のような年間降水量500ミリといった乾燥地でのトウモロコシ生産。
 乾燥していると病虫害が発生しにくいので、生産コストはすごく安くなります。「有機農業」もしやすい。それで国際競争力は高いのですが、それは地下水の枯渇という時限爆弾を抱えた農業です。
 だから持続性の観点からいえば、「不適地」であり、輸入国は輸入を拒否してもよいと思います。子孫にメーワクをかけるだけなので・・・・。

>自家消費以外には、その作物を作ること自体を諦めるほうが自然だと考えます。

 江戸時代は、江戸という大消費都市と関東圏の近郊農村とのあいだで糞尿を含めた物質循環が理想的に機能していました。物質循環が機能する範囲内では、分業と商品流通はどんどんしてよいと思います。
 
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強いて反対するつもりもないんです (デルタ)
2009-02-04 22:19:35
私の視点から見て、農業従業者の兼業、そして多品種栽培にこそ、経済合理性(リスク平準化)があると考えますので、その点、いわゆる「適地適作」や「大規模化による規模の経済性追求」という近代的合理主義(苦笑)の農業経営には、疑いを持っているのです。。
意外かもしれませんが。

つまり、「経済活動(GDPで計上される世界、とでもいいましょうか)」から、農業が切り離されていく、そんな可能性を追求することが、実は賢いのだろう、とも考えはじめています。

その場合に前提になることは、
 ・需要にあった栽培を行うこと(換金性を意図しない)
 ・地域間リスクの低減の策を考える
ことになるでしょうか。

一方で、今「元気がいい」とされる農家は、これと逆行し、「効率的な」農業を達しています。大規模な稲作専業農家、都市部の園芸農家、いずれも、換金性を意識してその換金性を極大化させることによって、成功しています
(また、農協や農水省の政策を批判する人には、専業稲作農家を優遇するよう主張する人がなんと多いことでしょう!)
このあたりの、常識と戦う必要もありそうですね。

江戸時代の農産についての描像には、私としては異論がありますが、今後調べてみたいと思っているところです。
この理想モデルは、せいぜい17世紀中頃までしか保てていなかったのでないかと、疑念を持っているのです(18世紀に入ると、材木の出荷量が激減し、はげ山が急増したことが知られているように、どこかの時点で、”江戸モデル”は都市民の大量消費を支えきれなくなったのでは……)
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