代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

大河ドラマ風林火山:上田原古戦場と砥石城の史跡ガイド

2007年07月10日 | 歴史
※この記事は、このブログの本来の趣旨と関係がありません。NHKの大河ドラマ風林火山を見ていない方々には全く興味がない情報と思われます。興味のない方、スキップをお願いします。

 NHK大河ドラマ「風林火山」関連の話題を一席。来週からしばらくの間、私の故郷の上田周辺が主な舞台になるようなので、上田周辺の風林火山関連の史跡案内をさせていただきます。武田晴信が、北信濃の智将・村上義清と激突するのですが、1548年の上田原の合戦と1550年の砥石城攻めの二度との戦いでいずれも惨敗するのです。武田信玄の生涯において、「敗北」はこの二度きりでした。信玄敗北の二つの史跡はいずれも上田市内にありますので、地元の方が作成したサイトを紹介しつつ、案内させていただきます(目的は観光客誘致??)。

今年の大河ドラマについて

 今年の大河ドラマ、脚本もいいですし、時代考証もすごくしっかりしていてます。役者にお金をかけるよりも(失礼!)、歴史を再現するための細部にお金をかけている感じで好感がもてます。

 ドラマの時代考証を担当している柴辻俊六氏は甲斐出身の著名な武田研究者で、同時に真田研究者でもあります。私も昔、柴辻氏の著作をいくつか読んで非常に感銘を受けたものでした。その柴辻氏が時代考証を行っているのですから、「さすが」と唸っています。
 まず何が感涙ものかというと、「葛尾城」「林城」「砥石城」といった山城が登場する際、実際に現場の城跡で撮影した映像を、若干のCG処理を施すだけで使用していることです。ここまで熱心に、当時の歴史的風景を再現しようと試みたドラマははじめてではないでしょうか。

 たとえば山本勘助が仕官先を求めて放浪していた際、信州真田郷で真田幸隆とはじめて遭遇するシーンがありました。その際、勘助と幸隆は真田本城(松尾新城)から、真田の宿敵・村上義清の前線基地である砥石城(戸石城)を眺めたのです。
 勘助は砥石城の威容を見て、「見事な山城でござるな~」と唸り、幸隆は「難攻不落じゃ」と答えます。あのシーン、地元の人間には感涙ものでした。なぜって、真田本城から砥石城を眺めると、実際にあのように見えるからです。スタッフが真田本城まで出かけ、砥石城を撮影した映像を使っているようなのです。 

 中学生の頃、自転車に乗って汗だくで山道を登りながら真田本城に行き、神川を隔てた対岸にある砥石城を眺め、「砥石城を攻略する前の真田幸隆は、この城からどのように作戦を練っていたのだろう」などと思いを馳せていたものでした。ドラマで、あそこまで正確な情景描写をしてもらうと、うれしくなってしまいます。

上田原古戦場
 
 さて地元の歴史愛好者の方が作った「上田・小県の城」というすばらしいサイトを紹介しながら、上田原古戦場や砥石城などを案内させていただきます上田原の古戦場に関しては、このページをご参照ください。古戦場の雰囲気が分かるかと存じます。

 上田原合戦の古戦場に行きますと、武田方の武将・板垣信方の墓、村上方の武将・雨宮刑部や屋代源五の墓、さらに武田方か村上方か分からない無名戦士の墓などが田んぼや畑の中に散在しており、激しかった合戦の様子を今に伝えています。合戦からすでに450年以上が経ちますが、時代が移り変わっても、地元の人々は武田方と村上方とを分け隔てることなく、戦死者の墓として守ってきました。
 ちなみに千葉真一さん演じる板垣信方の墓に行くと、今でも必ず煙草が供えられています。板垣信方は無類の煙草好きだったと伝えられており、地元の人が誰となく供え続けているようです。

「信玄の砥石崩れ」は何故おこったのか?
  
 武田信玄が二度目の大敗北を喫したのは「砥石崩れ」と呼ばれる合戦でした。砥石城(戸石城)に関しては、このページの内容が充実していてすごくいいです。
 私がはじめてこの城を訪れたのは、小学校3年生の遠足でした。砥石城とは、米山城、本城、枡形城、戸石城の四つの城郭郡からなる複合山城です。小学生の足では、市内から麓まで辿り着くのにまずヘトヘトで、登山しても米山城まででした。私が四つの城跡をすべて踏破したのは中学生になってからでしたっけ。
 
 米山城は砥石城の出城なのですが、米山城について地元には次のような伝承が伝わっています。以下に書くことは文献的な典拠はなく、あくまで口頭で語り伝えられてきた伝承ですので、権威ある歴史書には記述されていない話しです。しかし、意外に地元の口頭伝承に事実はあるのかも知れません。

 1550年の武田晴信の砥石城攻めの際、武田方は城の水の手を切って、城兵たちを渇水に追い込もうとしました。喉がかわいた城兵が篭城に耐え切れなくなって、城から打って出るのを期待したのでしょう。
 砥石城内は、兵糧米は豊富にあったものの、水の手を切られたために実際に水不足に陥って苦しんでいました。そのとき、智将・村上義清は、武田方からよく見える米山城(当時は小宮山城と呼ばれていた)の馬場に馬をつないで、馬の背に兵糧米をかけさせたというのです。

 遠くからその様子を見た武田信玄は驚きました。城内には水がないどころか、馬を洗うほど豊富に水があるではありませんか! コメを水と見間違えた武田軍は、狼狽します。城内に水が豊富にある以上、このまま城を囲んで持久戦に持ち込んでも意味はないと判断し、あせって攻めかかります。
 ところが城兵と葛尾城からの援軍のあいだに挟み撃ちに合い、先方の横田備中守が戦死、二番手の小山田信有が重症を負う(その傷がもとで後に死亡)など、1000名ほどが討ち死にするという大敗北を喫したのです。
 
 後に砥石城は、武田方の武将・真田幸隆の計略で落城するのですが、その際、小宮山城のコメ倉は炎上し、大量の兵糧米が土に埋もれました。何故、米山城と呼ばれているかお分かりでしょうか。
 今でも米山城跡の土を掘ると、450年前の落城の際に埋もれた炭化米が出土するのです。私は実際に土を掘って炭化米を見つけたことがあります。興味のある方、米山城を掘ってみてください。(しかし近隣の人が登山客を喜ばせようと焼米をひそかに埋めているのだという説もあり、この炭化米の真偽は地元の人間のあいだでも大きな謎となっています)

 出土した炭化米の本物の写真は、このページをご覧ください。掘ると今でも出てきます。

 馬の背にコメをかけ、遠くから見ると本当に水に見えるかどうかに関しては、このページの写真をご覧ください。面白いでしょう。 

 ちなみに砥石城は、幸隆の子の昌幸の代になっても上田城の重要な支城として機能し続けました。1600年の関ヶ原の合戦の折に、徳川秀忠軍3万8000が上田城に襲来した際には、かの真田幸村(本名・信繁)が囮部隊を率いて砥石城に籠っています。

大村上連珠砦郡の謎

 村上義清がいかなる智将であったかを物語る史跡は、上田地方に豊富に残されています。文献情報など十分になくとも、史跡が、彼の能力の高さを雄弁に物語っているのです。
 砥石城に武田側が攻めかかった折、雲が涌いたように村上の本城である葛尾城からの援軍が登場し、武田軍を驚かせました。砥石城と葛尾城のあいだの連絡はどのように取っていたのでしょうか。

 砥石城(上田市)と葛尾城(坂城町)のあいだには、東太郎山、太郎山、虚空蔵山、大峰山という四つの大きな山塊があり、それらの山の対極に双方の城が位置しているので、完全に死角となって、直接ノロシで連絡を取り合うことができません。
 そこで村上義清は、東太郎山から太郎山、虚空蔵山の三つの山々の尾根づたいに、「大村上連珠砦郡」と呼ばれる、全部で14城ほどからなる山城(ノロシ台として使用)のネットワークを整備するのです。太郎山と虚空蔵山が巨大な要塞になった感であり、まさに圧巻です。
 このページをご覧になってください。上田・小県の城というサイトの山城ページは、個々の山城をすべて解説してあって、脱帽します。
 これらの山城は、村上義清が武田晴信の侵攻に備えて、本拠・葛尾城と、前線基地の砥石城との連絡を緊密にするために苦労して構築したものと思われます。ノロシというものは、ある種の光通信ですから、葛尾城と砥石城のあいだでは、馬で往復するまでもなく瞬時に情報のやり取りを行うことができたのです。これだけ入念な準備があったのですから、さしもの武田晴信も、砥石城で大敗北を喫したのもうなづけると言えるでしょう。

 ちなみに、私が友人とともに中学生の時に行った夏休みの自主研究は、これらの村上連珠砦郡の一つ一つにのぼり、現場で測量も行って城郭の復元図を作成するというものでした。

 
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2 コメント

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Unknown (みーぽん)
2007-07-10 14:55:58
TVは見てませんが、わたしは東京で生まれ育ちましたが、実は戦時中わたしの母は祖母に連れられて生まれたばかりの弟と昭和21年まで上田に疎開していました。
農家の蚕小屋に住まわされ、夜中も蚕のガサゴソ言う音で寝苦しかったのを覚えているそうです。
そういうわけで、小学生のとき祖母に連れられて、真田城址をハイキングして、鎖につかまりつつ必死に登り、下りてから旅館でヤマメの塩焼きを食べておいしかったことは忘れられません。どこのルートなのかもはやわかりませんけれど。

みーぽん様 (関)
2007-07-10 21:47:09
 コメントありがとうございました!

 何と、けっこう我が家のストーリーと似ています。
 私の母も東京生まれの東京育ちなのですが、空襲が激しくなってから祖母の実家のある北御牧村(上田の近く)に疎開してきてました。
 東京の家は、東京大空襲で灰燼となり、母の父(私の祖父)も敗戦直前の1944年11月に徴兵されて満州に送られ、そのままシベリアに抑留されて、飢えと寒さで亡くなりました。それで、東京に身寄りがなくなったので、母はそのまま祖母の実家のある信州に移り住んだのでした。

>農家の蚕小屋に住まわされ、夜中も蚕のガサゴソ言
>う音で寝苦しかったのを覚えているそうです。

 上田は蚕都です。幕末の貿易統計を見ると、横浜港から輸出される生糸は上田藩産のものが最大量を誇っていたのです。
 父の実家も、私が小さい頃まで養蚕をやっていました。生糸貿易の自由化で、あれよあれよという間に養蚕は壊滅しましたが・・・。  
 
>小学生のとき祖母に連れられて、真田城址をハイキ
>ングして

 「真田城」と呼ばれるものは二つあります。一つは角間渓谷の入り口にある松尾古城で、もう一つはもう少し開けたところにある松尾新城です(こっちは平山城)。
 しかし、私の記憶では松尾古城にも鎖を伝うほどの難所はありませんでした。
 もしかしたら、みーぽんさんが登ったのは、松尾古城のさらに奥にある、角間渓谷の上流の鬼ケ城かもしれません。これは鎖で登らねばならない断崖絶壁です。地元では、ここで猿飛佐助が修行したと伝えられており、「猿飛岩」という名所もあります。
 上田市真田町の下記ホームページ
をご参照ください。これじゃないですか?
http://www.city.ueda.nagano.jp/sanada/archive/bunkazai/kakuma.html 

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