ターンアラウンドコンサルティングオフィス 代表 保倉久雄

経営を今一度再生いたし申し候にいたすべく心願にて候。坂本龍馬は今も生きている、私達の心の中で。

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環境変化不適応の企業の行く末67

2013年08月07日 00時10分58秒 | ターンアラウンドマネージャー
夏休みが終えるやすぐに下宿に戻っていた。どっちが実家なのかわからなくなっていた。その頃は下宿がことのほか居心地が良かった。隣には下宿先のご主人の弟さんご夫婦が居住されており、昌幸君という小さな子どもさんがおり、良い遊び相手になってくれていた。神庫は人一倍寂しがり屋であった事が子ども相手に時間を過していたのであろう。日曜日になると下宿のおばさんの市場への買い物に通学で使っていた自転車を引きながらお付き合いも良くしていた。相変わらず良く勉強はしていた。大学入試模擬試験が行われた日、数学の試験の後仲間と答え合わせを行っていた。神庫の答えに仲間が同意してくれていたが仲間の一人青池君が突然神庫の左頬を殴りつけていた。血が出たが次は英語の試験、そのまま試験を受け帰りに医者に行き縫ってもらった。



青池君は自分の答えが違っていたことに憤り、その怒りを神庫にぶつけてきたに過ぎないのだ。考えてみればみな受験がだんだん近づいてきたことへの焦りと不安がそういう行為を呼んだのである。その青池君が卒業後、冬山登山で滑落死してしまった。呆気ない人生であった。模擬試験では希望大学を記入すると希望学生が何名いて、当の受験生がそのうち何位だったか知らせてくれる。神庫は早稲田大学理工学部と記入した。結果が返ってきた。総受験生32000名中1800位という結果。早稲田の理工では希望者数3600名中1800位。つまり神庫の成績よりも上位の受験生の大半が早稲田の理工を希望していたのである。この結果は神庫を考えさせていた。このままの成績では受験しても無理である。募集人員は1200名とあったため、1800位では合格圏外なのである。合格可能性も10~20%と、最早見込みなしの範囲であった。



迷わず神庫は受験校の変更を決めた。昔から変化対応は早かった。部屋の壁に早稲田大学理工学部絶対合格というスローガンを模造紙に書いて張り付けていた神庫にしてみればつらい決断だったと思う。試験結果から合格県内の大学をセレクトしてみた。明治、法政、中央、青山学院等は、合格県内の可能性ありと出ていた。早稲田と慶応は別格であった。悔しかったが落ちてしまえば意味はない。浪人してまで入りたいとは思ってはいたが、我侭過ぎるとも思う。
結局第一志望を中央大学に変更し第二志望を日本大学にした。受験の申し込みはだめもとでこれら二校に早稲田を加え三校を受験することに決定した。




クラスメートも皆真剣であった。話題は受験の話一色となっている。神庫の親友若井君は新潟大学、小林君は小樽商科大学、古川君は慶応大学と明確な大学のゲート目掛けてアタックを開始し始めていた。神庫の彼女にも早稲田受験を勧めた。大学で一緒に通おうと説得していたことを思い出す。彼女も早稲田には玉砕し、明治学院大学英文科へと進んでいった。何故か大学受験から彼女とは疎遠になり、今も続いている。神庫は中央大学理工学部工業化学科に進学することになった。なぜ化学なのか、化学が好きなだけが答えである。中学生時代化学部に在籍していた。担任の教師の許可書があれば薬局で硫酸が購入可能であった。貯めていた小遣いで試験管、アルコールランプ、試験管立てを買い集め、買ってきた硫酸を試験管に入れた亜鉛の破片に注ぎ、発生した水素に点火し、爆発させるという遊びを自宅の部屋で遊んでいた。そのくらい化学が好きであったのである。



神庫は料理も好きである。何か料理と化学には相通じるものがあると思っている。ある物質とある液体を化合するとある化合物ができる。時折触媒なるものを加えると反応が促進され新たな化合物が生成される。触媒は調味料に匹敵するものであると論じて止まない。化学反応が特に好きな現象であった。中学生のとき東京工業大学の化学科の大学生鈴木さんが家庭教師になってくれた。化学好きな神庫に鈴木さんは東工大1年のときに使っていた科学の教科書をプレゼントしてくれたのである。何よりうれしいプレゼントであった。中学生には理解できなかった内容の教科書を読むだけで満足感が味わえたという経験がある。おかげでズボンは硫酸による脱水作用でぼろぼろになっていき、母親から怒こられる羽目になっていくという悪循環であった。




家にあるお酢のビンにはCH3COOHのラベルを貼り付けていたりした。元素の周期律表は見るだけでも大好きであった。当然誰もが化学の大学を選択するのだろうとは思っていたようであった。神庫は国語も好きだし、歴史も好きである。ならば国立大学を目指せばと思うのだが早稲田一辺倒の青春を過してきたせいか、国立へという選択肢は持てなかった。入学した大学は折しも学生運動華やかし時であり、神庫も学生運動に走ることになっていった。



当時のセクトは三派全学連、民青勢が力を有していた。民青は日本共産党の学生組織であり、その武力は目を見張るものがあった。中央大学は社学同が強く赤いヘルメットが構内で目立っていた。同級生の大半は関心を示さなかったし、神庫に軽蔑の視線を投げかけていた。理工系の学生の政治に関するノンポリ度はかなり高く、所謂無関心派が圧倒的であった。学内で運動がピークに達したのは学費値上げ阻止闘争の時であった。神庫は学内に泊り込み熱心に運動に参加していった。就職試験のことを考えたら自粛したほうが良いというアドバイスをくれた級友は多かったが、皆論争は避けた。今、冷静に考えてみると、当時に携帯電話があったら、風俗があったら、経済的にもと豊かであったら、学生運動はおそらくあんなには燃え上がらなかったのではないかと思えるのである。欲求の捌け口がもっと多様化していれば、安易で危険がないほうを選択したはずである。神庫はまだ童貞のままであった。




就職解禁日が近づいている。今のような厳格なものではなかったが、大体4年生の春先に早いものは内定を受けていた時代である。今よりもかなり緩い時代であった。この頃から普段は滅多に行かない就職課の求人企業の掲示板に足を運ぶようになって行った。求人が掲示され始めた最初に掲示された企業の中に化学系総合商社岩谷産業があった。産業用各種ガス、家庭用プロパンガスの大手で有名な企業である。すぐに応募した。理工学部からは神庫だけの応募であり、他学部からは何名かいたようである。理工学部で商社を希望するという思考がなかったのかもしれないが、神庫は3年生の頃から教授たちから商社向きだと言われていた。



岩谷産業の入社試験である。筆記が終わり残るは集団面接である。「青春とはどういう意味かを論じてください」が与えられたテーマであった。神庫は即挙手し、「青春に年齢は関係ないと思います。心の持ち方しだいで青春にもそうでないものにもなっていくと思います」と答えた。最初に挙手した積極性、論点が良かった点が評価されたのであろうその後暫く経ってから内定が来た。就職試験終了後気があった受験生と新宿の喫茶店に繰り出した。隣のボックスには3人の女性が陣取っていた。こちらの話に興味を持ったのか同席を要求してきた。神庫の前に座ったのは中年の婦人であった。別れ際に、「今度二人で会いましょう」と言われ約束した。同じ喫茶店で会い、即ホテルに連れて行かれた。何せ神庫はまだチェリーだったのだからリードされても致し方ない。入浴もせず部屋に通されるや婦人は激しくキスをしてきた。堪らなく刺激的だったことを覚えている。




ご婦人からいろんなことを教えてもらいそのように婦人にしてあげてみた。聞くところに寄ればご主人は当時日商岩井の社員で、女子社員と不倫中だと言う。だからご婦人も負けずに浮気をするのだといきまいていた。長い講義と実技演習を終えたときはもうへとへとであった。婦人が準備してきたコンドームの残りを次回用にと手渡された。大事に定期券入れの中に仕舞った。神庫は帰りの小田急線の中でも婦人との絡み合いが浮かんできて、もうこんな体験は懲り懲りだと決めた。トラウマセックスだったようである。顔は今でもよく覚えているが小顔のコケティッシュな人だった。それ以来ご婦人との再会はなかった。




岩谷産業株式会社東京本社生活営業部に配属された。動機の新入社員は、笹田君、岩崎君、上村君、片山君と神庫の5名であった。新人の最初の研修はダイキン工業のルームエアコンの飛び込み販売であった。商品カタログを山ほど抱え、目に入ってきた企業住宅を一軒一軒訪問して回るのである。待ってました頂くよという反応など起こるわけはないと知りつつも、今度こそはと発奮させる姿は子供っぽくて可愛らしい物であったろう。暫くこのような研修が続いた後ダイキン工業での商品説明の研修会が1週間実施された。久しぶりの缶詰教育であった。
研修明け後新入社員の赴任先が発表された。神庫は神奈川営業所であった。横浜の関内で降りて徒歩で通勤した。ここは生産営業部も入室しており、生活営業部はいわば間借り状態であった。神奈川営業所は長くはなかった。次の赴任先は甲信営業所であり長野県東筑摩郡豊科町に営業所があり、その二階での寝泊りと言う状況であった。謝意印の集金した金額、手形、小切手が鞄に詰め込まれいつまでも放置されていたと言う前代未聞の事件、甲信事件が起きたばかりであり社員の一新で神庫が転勤してきたと言う経緯がある。




今の神庫であれば、この事件の真相は横領目的ではなかったと判断できる。模倣犯の域である。自分の存在を認めてもらいたいために重要な資金管理を混乱させたのであろう。手形小切手の知識がなかったのも不思議である。管理不行き届きであるが誰一人として処分はされずに有耶無耶の内に終わった事件である。なんとも摩訶不思議な幼稚な事件が一部上場の商社で発生したのである。管理責任が問われなかったこと自体が解せなかった。今でも印象に残っている上司がいる。自分大切で部下の成功は上司の成功、上司の失敗は部下の責任を地で行く上司についた時である。神庫は岩谷産業との決別を決めた。取扱商品に恵まれているから経営破たんにはならないであろうが、人材面で問題が多すぎる。内部分裂が多く発生し、収拾がつかなくなったときが命取りになるのかもしれない。兎に角神庫は岩谷産業を去っていった。




「神庫先生、近いうちに龍馬談義を再開しましょう」港曙銀行の吉田頭取からそんなことを考えていたとき電話が入った。長谷寺の境内には観光客が楽しそうな笑顔を浮かべ、思い思いの時間を過している。「吉田頭取、先日は希望が丘店の佐々木さんにお世話になりました。ありがとうございました」「先生も、人間だったと少し安心しています。気を落とさず、当行のお願いを聞いていただきたくお時間をいただけないでしょうか?」「お役に立てるのでしたら何なりと」「ではご都合の良い日にお会いしましょう。後でご都合をご連絡ください」「今決めてしまいましょう。明後日の午後4時はいかがですか?」「良いでしょう。では私の部屋で打ち合わせをさせていただき、その後は龍馬談義と言うことで」「楽しみにしています。失礼します」




岩谷産業をやめた時には神庫には生まれたばかりの長女がいた。路頭に迷わすわけには行かない。当時はまだあまり知られていなかった、電子計算機の計算センターに入社した。ここの経営陣を尊敬することはできなかった。つぶれる日も近いと肌で感じた。けっきょくM&Aで吸収されて行った。紆余曲折を繰り返し当時長野で経営コンサルタントをしていたM先生の鞄持を始めた。このM先生、早稲田大学文学部卒であった。クライアントへの同行も増えていき、かなりのものが盗めると期待していたが、盗めたのは講演の話術、テクニック程度であった。計数は全く苦手のようであった。経営分析を実施した形跡は確認できなかった。クライアントへの診断報告にはお得意の精神論が散りばめられた。このような経営コンサルタントは教育関連の業務に専任すべきと三行半を下し、何社かのクライアントを引き継いだ。




コンサルタントの資格試験はないが、当時中小企業診断士にスポットが当たっていた。神庫もすぐに通信教育に申し込みをし、受講を開始してみた。






















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