財政難図書館、不要本に埋まる 寄贈募るが多くは廃棄(朝日新聞)
公立図書館がジレンマに陥っている。財政難のため最近は、貸し出し希望が多いベストセラー本も多数は購入できない。そこで市民から寄贈を募っているが、持ち込まれるのは引っ越しなどで不要になった本が多く、そのまま廃棄されるケースが多いのだ。関係者からは「図書館が本の処分場になっている」との嘆きも聞かれる。
「引き取りは遠慮させてもらうかもしれません」
甲府市の市立図書館の男性職員は、80代の女性宅を訪ねてそう説明した。本棚には、亡き夫の「形見」の本が200冊以上。「もったいなくて捨てられない」と寄贈の申し出を受けたが、引き取ったのは50冊だけだった。「専門的な教育本などが多く、図書館向きでなかった」という。
(中略)
特に集めたいのが、貸し出し希望の多いベストセラー本。経営の効率化が進む図書館では購入図書も厳しく精査され、同じ本は何十冊も買えないからだ。
神奈川県秦野市の市立図書館は「貸し出し予約が集中している本を寄贈いただけると助かります」と昨年12月からホームページで呼びかけている。
財政難や人員不足も深刻な問題には違いないのですが、それ以上に深刻なものを感じますね。図書館がどうあろうとしているか、その姿勢が垣間見える記事です。
学術的な価値の高い書籍でも、出版から時間が経てばたちまち入手困難になるのが世の常です(その期間は短くなる一方だとか)。新刊ではもちろん手に入りませんし、古本屋でも運が良くなければ見つからない、見つかっても目の飛び出るような値段であったりします。ところがチャンスもありまして、それは(不謹慎は承知の上ですが)読書家が死んだときです。
ほとんどの場合、遺された家族は故人の蔵書に価値を見出しません。その残された文献が貴重であればあるほど、です。貴重な資料や稀覯本が、理解のない遺族の手によって惜しげもなく手放される瞬間があるのです。それがブックオフにでも持ち込まれようものなら、研究者の卵たちは大喜び、追い求めていた書籍を二束三文で一括購入する絶好機です。ブックオフでバイトしながら、毎日のように戦利品を獲得してくる先輩もいましたし、私も大学の近くにブックオフが出来てからは、週に一度は掘り出し物を探しに通ったものです。
さて、重要文化財たる故人の蔵書を古本屋に持ち込む人もいれば、図書館に寄贈する人もいます。ところが、専門書類は「図書館向きでない」との理由で引き取りを拒まれるどころか、廃棄されるケースが多々あるとか。ふむ、入手困難な文献を求めて図書館を探しても、目当ての本などまず見つからないわけですが、理由はこれ、貴重な専門書を備えるどころか廃棄していたからでしょうか?
私はつい昨日まで、図書館は二つの方向を向いていると思っていました。一つは地域の「知」の拠り所であること、個人では所有しにくい専門書や資料価値の高い文献を取り揃え、在野の学究心を支えることです。もう一つは、市民サービスとしての機能、要するに無料の貸本屋ですね。この二つの方向でバランスをとりながら進めていくのが図書館運営だと思っていたのです(個人的には前者に徹すべしと主張したいですが)。ところが今日の記事を見て、それが思いこみに過ぎなかったことを知りました。図書館は前者の方向など全く省みていません、何の躊躇いもなく後者、純粋に無料貸本屋としての機能だけを追い求めているのです。無料でベストセラー本を読みたい、そうした住民の需要のためには労苦を惜しまないが、専門書はゴミとしか見ていない、それが図書館の実態のようです。
それはまぁ、住民の希望に応えようとする、その気持ちは尊重します。ですが、それは住民のためになるのでしょうか? 子どもが栄養ある食事を食べようとしない、お菓子ばかりを食べたがったとしましょう、そこで躊躇なく子どもの望み通りにしてやること、それは子どものためでしょうか? 確かに子どもは喜ぶかも知れません。ですが、子どもが喜んでいさえすれば良い親なのでしょうか?
住民を子どもに喩えるのもアレですが、流行りの本をタダで手元に置きたい、そんな望みに答えようとする一方で、子どもの食べたがらない食材=住民の需要に乏しい専門書を廃棄する、その姿勢に何の疑いも抱かないとしたら、あまりにもバランスを欠いているように感じます。それでも目先の歓心を買うことを選び、「市民の目線に立った」運営と居直るつもりでしょうか。
政治も同じです。「国民が望んでいること」と「国民のためになること」は必ずしも一致しません。国民の望み通りの政治が行われたからと言って、それで国民が幸せになるとは限らないわけです。小泉改革がそうでしょう? (刷り込まれたものであるにしても)それは間違いなく、国民の望みでした。しかし、国民の生活は悪化を続けており、その負の遺産は小泉の後継者さえ苦しめる有様です。
子どもにお菓子を与えれば人気者になれるようですが、良い親になれるとは限りません。無料でベストセラー本を貸し出してやれば顧客満足度は上がるかも知れませんが、それで図書館たり得るのかどうか、運営側にも利用者側にも考えてもらいたいところです。まぁ、民尊官卑のこの世の中、「公営施設は黙って民間の要求に従え!」と、それが大勢かも知れませんがね。
「○○図書館に寄贈した」のを自慢したがる名誉会長やらがいたり、
「本当にほしい本」が手に入らない状況は、財政難(順位面で)の中であるようです。
しかし、「専門的な本」が「図書館向きでない」というのは、「図書の専門家」を置いてない図書館なんじゃないかと思ったりします。
人口数十万の「一般市」で、どれだけ「専門家」がいるんだ、というのはあるでしょうが、これだけの情報社会で、県立図書館や大学図書館にも情報交換できるんですから。
「流行本」なんか、「苦労しなくてもそこらじゅうに転がってる本」
「水族館」と「魚屋」を同じレベルで見たんじゃかわいそうだ。
専門知識の持ち主はいくらでも埋もれていると思いますが、問題は人減らしですね。専門家を野党よりも官製ワーキングプア、非常勤職員で運営される領域も増えているわけで、それが本の選定にも影響しそうです。これではなおさら、貸本屋へまっしぐらですが軌道修正はなさそうです。
特に公立図書館というのは、ベストセラーを買いたがって・・・。私がよく使う世田谷区立中央図書館などは、なかなかいい本がそろっていますが、中小都市の図書館ではきついでしょうねえ。図書館にハリー・ポッターの本なんかいくつも置いてどうすると思うんですけどねえ。
でも、私も知識を仕入れるのは図書館の本です。これからも図書館を利用しつくすつもりです。
実際に、ニッチな専門書を求めていたユーザーも広く任期の作品ばかりを求めていたユーザーもかつては割合として同等程度にはいたのでしょう。しかし前者が減った=前者のユーザを維持するコストが増えた からこその自然淘汰というかサービスのシフトなんじゃないですかねえ。
結局のところ、専門書籍を探すにしても、図書館程度のサービスではレンタルにかかる費用が0だといっても時間的なコストを考えれば、本当に必要な人にその本が届くまでの負担ってのはそれなりに大きいはずなんですよ。仕事、学習で使うような書籍の入手に二三週間も掛かってればその分の時間で差をつけられてしまいますからね。
で、その時間的コストを金額に換算すると、アマゾンのプレミヤ古本と大体同じになる、と。
大体そういう仕組みなんじゃないですか。
もっとも、ここで非国民通信さんが主張したいこととして「子供(無知な人々)にいろんな栄養(即効性の低い情報)を与えよ」がありまして、確かにそれは図書館で育まれることもある不思議な文化なんですが、それは今の少年少女にとってすれば有害情報の塊である会話もできるインターネットハンディ端末があるわけで。そういう意味でも地方に点在するレベルの図書館は不要になりつつある、のは事実かもしれません。
まあ、棄てられる本が総てブッコフさんなどのポジティブなループに組み込まれる前提の話、ではありますが。
これから、地方図書館の閉館という流れが次々に起こったとして、大本営(国会図書館)のほうで書誌電子化&開放が起これば、懸念されているような「まぐれで子供が毒書を読書する経験」が発生することを期待できるかもしれないですね。なんにせよ、インターネッツ(という概念はなくても、総てが電子化されるということ)をどうにかして四民に普及させんといかんのですが。
gooはフィルタリングがデフォルトなので、トラックバックもコメントも弾くみたいですね。
しかし、私も専門書の破棄には疑問を持ちますね。別に置いていても、販売業者ではないのだから、損はないと思うのですがね。置き場所がないのでしょうか。それならば、増築をすればよいと思うのですが、そちらの方に予算は出ないのですかね。それにこのような理由で増築を繰り返していてはきりがなくなっていくでしょうし。せめて、捨てるぐらいならば、興味を持つ人に譲っていただきたいです。
専属の司書がいない公立図書館が増えているらしいですね(そんな中で図書の知識をつけようと努力している職員もいるのですが)。図書の回転率が悪いと予算が減らされることもあるらしいし、図書館の世界では本末転倒なことが次々起きつつあるようです。
市民からの要望ばかりに流されると,書架はゴミ箱になってしまいます.文化施設は多数決ではダメなこともあるんだという認識を,関係者がもつことが大切だと思います.
管理人さんはどうなのか分かりませんが、私のような「左」に傾いた人間には耳の痛い話です。
左派政党は昔から今までほぼ一貫して「国民が望んでいること」を唱え続け、それに対して政府与党や保守派の側が「国民が望むことが国民のためになるとは限らない」と主張する光景は、昔はよく見られたものですが、それがいつの間にか今のような事態に。
これもやはり、「国民が望んでいること」が昔に比べて変質してしまった、ということなのでしょうか。だとすればその理由は一体何なのか、興味深いと同時に我々も自己反省すべきなのかな・・・と思います。