非国民通信

ノーモア・コイズミ

人物重視が奪ったもの

2019-04-14 23:11:21 | 社会

大学入学式、スーツ黒一色の謎 減点嫌う社会を反映?(朝日新聞)

 4月から新年度。大学の入学式では、慣れないスーツに身を包んだ新入生が顔をほころばせる。ただなぜか、スーツは「黒一色」だ。

 7日午前、日本武道館(東京都千代田区)であった明治大の入学式は4千人近い1年生が並んだ。圧倒的多数は黒か濃紺のスーツで、薄いグレーのスーツと青色の民族衣装の女子学生が1人ずついた程度だった。

関連、黒のスーツが染めた入学式 ICU学生部長感じた違和感(朝日新聞)

 

 いわゆる就職氷河期が始まる少し前に大学に入った自分の感覚では、入学式にスーツを着てくる人なんて、決して多数派ではなかったように思います。むしろ18歳かそこらのスーツ姿は七五三的な雰囲気を漂わせるものでしかなかったものですが、今は誰もがスーツを着込む、それも専ら黒一色だというのですから驚きです。経済力という面では時計の針が止まったような我が国ですけれど、大学生を取り巻く環境は随分と変わりましたね。

 校名や学部名以外のあらゆる箇所から教養を排除した就活特化・英語特化の大学も、昨今は当たり前になりました。そんな大学であれば、大学入学は就活の第一歩ですからリクルートスーツも必然なのかも知れません。ところが本文で言及されているのは明治大学であり、写真は早稲田大学、関連ニュースとして嘆息の声が聞こえるのは国際基督教大学と、難関大が並びます。これぐらいの大学に入る人にして、この有様というのは率直に驚きです。

 日本私立大学連盟会長にして政府の教育再生実行会議の座長も勤めた鎌田薫早稲田大総長は、アカデミックな教育課程に偏りがちな大学を変革すると称して、職業に結びつく知識や技能を高める実践的なプログラムを大学に設けるとの提言をしていました。国公立大入試の2次試験からペーパー試験を廃し、面接など「人物評価」を重視するとも訴えていましたが、その影響はどれほどのものでしょうか。

参考、人物重視で選考された結果

 就活生、及び新人社員が皆、同じ格好をしているとは数年前から言われるようになったことでもあります。それが今では大学の新入生にまで当てはまるようになってしまったようです。朝日新聞は「減点嫌う社会を反映?」と見出しに掲げますが、いかがでしょう。「社会」もさながら、より具体的には「採用」と名指しした方が良いようにも思います。加えてもう一つ、昨今の(英語以外の)学力軽視、その裏面で張る人物重視が影響しているとも言えます。

 大阪市が維新の支配下に入ると、その職員採用試験からは専門知識を問う問題が廃止され、エントリーシートや面接中心の「人物重視」採用に切り替えられたそうです。結果、採用者の7割が「法律知識不足」を認識しているとの調査結果が出たりもしました。かつては人間性はさておき法律知識に関しては厳しく選別されていたものが、逆に「人物」によって選別されるように変わったのですから、当たり前と言えるでしょう。

 多様性とは、選別しないことによって生まれます。法律知識で人を選別すれば、中には入れ墨を入れているような多様な人が集まりますが、法律知識は誰もが一定水準以上です。逆に人物重視で選別すれば、「人物」面で高得点を獲れる人ばかりが集まるため、入れ墨を入れているような人は弾かれます。しかし一方では、法律の知識に乏しい人も採用されるわけです。法律の知識という面では詳しい人もいれば疎い人もいる、ある種の多様性ができあがるのです。

 大学も然り、ただ単に学力だけで選別されれば、人間性の面では多様性が生まれます。真面目でも不真面目でも、社交的でも内向的でも、従順でも非常識でも、とりあえず「勉強は出来る」という一点で選考していれば、学力「以外」の面では多様な人が集まってくるものです。だからこそ昔の京都大学など奇人変人の集まりとして知られていたわけです――「勉強が出来る」という点では、皆一緒なんでしょうけれど。

 ところが元・京都大学総長の松本紘などは「受験勉強ばかりでなく、高校時代にやっておくべきこと、例えば音楽とか、恋愛始め人間関係の葛藤とか、幅広い経験をしてきた人に入試のバリアを少し下げる。」などと宣言していました。こうなると、いかがでしょう。勉強が出来る人の集まりだったのが、そうでなくなる可能性はあります。勉強の出来る人もいれば、そうでない人もいる、学力の面では、多様性が生まれるに違いありません。

 しかし勉強が出来るけれど「音楽とか、恋愛始め人間関係の葛藤とか」の経験に乏しい人の代わりに入ってくるのは、どんな人なのでしょうか。結局のところ学力試験の代わりに「人物評価」で高得点を獲れるタイプの人が集まるようになれば、奇人変人は多いが「勉強が出来る」という点では皆一緒、という構図が変わります。今度は学力面ではバラバラだけれど「人物評価で高得点」という点で皆一緒になるわけです。

 今時の大学の選抜は、どうなのでしょうね。医学部界隈では試験の点数を見た後に、色々と恣意的な操作があって大いに問題視されたのは記憶に新しいところです。それは明確な性別による線引きがあったから問題視されたと言えますが、客観的な基準などあろうはずもない面接その他による人物評価の場合は、もっと酷い気がします。結局、人物評価の結果として「人間性が高得点」な人が多数派として場の空気を支配するようになっている、結果として入学式すら黒のスーツが当たり前みたいな結果に繋がっているのかも知れません。


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