先日は子供の運動能力が低下云々という報道を取り上げまして、学力調査の場合と違って運動能力調査は国際比較が出てこないのはどうしてだろうな、という話を書きました。日本では体力の高低は大いに気にされるものですが、ヨソの国は違うのか、なぜ他国との学力調査結果の優劣に一喜一憂するのに運動能力調査の結果を別の国と比べようとするメディアが皆無なのか、その辺が私には気になったわけです。
スポーツ選手になるのか、あるいは肉体労働者になるのか、それとも狩猟採集の生活を送るのか、そういう人生設計であるならば体力の高低は死活問題かも知れませんが、もう少し体よりも頭を使って働くことを将来的に期待されるような社会では、日本ほどには体力・運動能力調査の結果を気に留めたりはしないはず――そんな風にも書きました。そういうところもあるのではないでしょうか。次世代には、より知的になって欲しい、頭を使う仕事について欲しいと願う社会と、単純に安価で従順な労働力ばかりを求め続ける進歩のない社会とでは、「体力・運動能力」のニーズは大いに異なってくるものですから。
四半世紀ほど前まで、日本の大学進学率は至って低いものでした。それがバブル崩壊もあって就職難が始まったのと歩調を合わせるように大学へと進む人の割合は急上昇へと転じたわけですが、そうは言っても現在でも進学率は5割程度と、まだまだ低いと考えられるべきでしょうか。一方で、この大学進学率の上昇を喜ばないどころか悪玉視する人も少なくありません。挙げ句の果てには近年の就職難の原因を大学進学率の上昇にあると強弁するトンデモさんも、コンサルタントの類を中心に跋扈しているのですから失笑ものです。
低収入でも子供を産み、育てられる「発想の転換」(J-CAST)
しかし終戦直後などは、日本人はもっと貧乏で、子供だって5人も6人もいました。それでも、子供は育てられます。というか育ちます。生き物ですから、食べ物さえあれば育ちます。
現在でもある種のカップルは、すぐに結婚して子供をたくさんつくります。それは、彼らの頭の中にはこのようなアンカリングポイントが存在しないからです。
年収350万円のひとが子供を持つには、発想の転換が必要です。塾や習い事もなし、大学はいかないか、ネットでタダのもので学ぶ。大企業に入ることは諦める。単に子供が育てばよい。それで満足する。それでも子供を持つことの喜びは計り知れないでしょう。
これは第一に、テロの首謀者としての問題意識を抱くには、相当の教養が必要だということを認識する必要がある。つまり、貧困者が貧困を自覚し、構造的暴力を受ける者がそれを自覚するのは、相当教養がないとできないのである。
(中略)
第三の教育がテロを生みだす理由は、教育はプライドを育てるということである。大学や大学院を出て、パン工場のライン労働者になりたい人間は稀有だということだ。
何でも中東では日本式教育の評価が高いそうで、アラブ首長国連邦などでは日本人学校への現地人受け入れを始めたなんてニュースもありました(参考、日本式教育は中東向き?)。いったい何が、かの絶対君主制の国で評価されたのでしょうね。そして上に引用した二つは、まぁ真っ当なメディアからの引用ではありませんが、日本ではある種の典型的な考え方でもあると言えます。要するに日本では、人々が知恵を付けることを歓迎しない、そういう発想が根強いわけです。
国内に高等教育を受けた人が増えて国民の知的水準が向上すること、これを好ましいことと考える国もあれば、そうではない国もあるのでしょう。そして日本は、後者寄りであると言わざるを得ません。非民主的な政治体制を持つ国で日本式の教育が高く評価されるのはむしろ反省材料と考えられるべきですが、どうしたものでしょうか。とかく日本では知的労働者ではなく低賃金労働者の需要ばかりが強く、世界経済から取り残される日本の産業界の要望に政治の世界が媚を売る、そんな有様に教育を巡る言論もまた少なからず毒されているような気がしますね。
教育はテロリストを産むらしいですけど、では、あなたは発展途上国に行ったら人殺しでもしてくるとでも?
この方のダメダメなのは、自分だけは例外、弾が飛んで来ない安全地帯にいるという勘違いでしょう。
あと、他人をバカにし過ぎ。
教育があろうがなかろうが、人間には理性も感情もあって、他人の人格を見抜く力があるということになぜ気付けないのか。
言っちゃ悪いが、こりゃ頭の程度を疑われても文句言えないですよ。
そう、人々が「知恵」をつければ「自由」を欲するようになることを権力は恐れているのです。J-CASTやアゴラの記事など、権力イデオローグの本音が露呈しているといってよい。自らの現状を問うことなく、「奴隷のままでハッピー」という価値観に縛られた人間が多数を占めているのが「理想」の社会なのでしょう。江戸時代の士農工商による「天下泰平」、南北戦争以前のアメリカにおける黒人奴隷制の上に成り立った、「古き良き南部」はまさにそれだったのです。日本の「教育」は奴隷根性を叩きこむための「調教」と言ってよいでしょう。
タイトルと「てんとう虫コミックス」の巻を忘れましたが、
「ドラえもん」で裏山に行くようになったのび太を
嗜める画を思い出しました。
藤子F不二雄先生がこの作品で伝えたかったことを
この文を書いた人は一生分からないと見なせます。
同じ口で「医師不足」だとか「人材不足」を嘆かないで
頂きたいですね。
教育の質も量も向上させないで「できない者はそのままでいい」で逃げて、経済的にも足かせをはめているわけで。
というのを見た時は、正に!と思いましたね
頭が良い人が反知性主義者に近い存在だということもありますからね
何かを真面目に考えるだけでダサいと言われてしまったり、論理的な人や知的な人を見ては「理屈っぽい頭の硬そうな奴」と嫌悪したりという風習は、少なくとも日本では昔からかなり根付いていたと思われます
まあ、完全に考える事を辞めてしまった人は精神的には楽でしょうし、ひょっとすると(本人にとっては)結構幸せだったりするのかもしれませんね
そうでないとするなら、一酸化二水素みたいなギャグをかましているんでしょうな。
まぁ、この手の唯我独尊の論理は珍しくないですから。他人を「教育を受ける価値がない」ものと見なしたがる、そういう論者は経済誌だったりコンサルタントの類には本当に多いです。
>不平湯さん
日本の公教育では学校行事ばかりで勉強軽視のところも多いですからね。そういう知性や教養ではなく規律やお仕着せの道徳を重視する日本式は、ある種の国では好評なのでしょう。
>デュオ・マックスウェルさん
人材不足を託つ声も、結局のところは「(自分に都合の良い)人材が不足している」と我儘を言っているだけみたいなのが多いですよね。優秀な人材を育成するには投資が必要なのですが、下から人が育ってくるのを厭うようでは……
>オオサンショウウオさん
なんと言っても文系よりも体育会系が重んじられる社会ですから、まぁそういうことにもなるのでしょう。「知」が不足していると言うよりも、「知」が嫌悪されていることこそが問題のような気もします。
>SPQRさん
要するに「下」と(自分が思っている)人が自分たちと肩を並べるようなところまで上がってくるのが嫌なのだと思います。だから、発展途上国での教育水準が向上することに自然と反発してしまうのでしょう。大学進学率の上昇に否定的な人々の考えも、それと同じことです。
で、みなさんのコメントを見ていますと「下から上がってくるのが嫌なのではないか?」というような見解を示される方が多いように見受けられます。
そこから「日本の順位が下だということは自分のプライドが傷つく」ということかな、と思ったのですがどんなものでしょうか。
そこは自分が「下」と思っている人に上に行かれるのを嫌がる心理も強いですし、勉強はあくまで子供のものと、大人の教養とは完全に切り離されて考えられている部分も多いのではないでしょうかね。
近年では東京などの都会から地方への移住を推奨する論調がよく見られますが、果たして移住した人たちが都会にいたときと同じ位の収入を得ているのかは甚だ疑問ですね。また、地方への移住を推奨する論客(藻谷浩介氏など)のとっての「地方」とは、地方中核都市ではなく公共交通機関の貧弱な(鉄道の通っていない)山村集落などを指していますが、これもどうかと思いますね。
彼らは「地方ではお金がそれ程無くても食べていける」と言っていますが、ではワーキングプア同然の低収入でも人情が厚く資源が豊富ならばそれで満足なんでしょうか?あと、若いときに移住した「新住民」が高齢者になったときには公共交通機関に頼る必要がありますが、それも考慮しているのかは疑問です。
私なんかは頻繁に求職活動を行っておりますが、東京都地方の求人は雲泥の差があるんですよね。賃金を質と呼んで良いのなら、質量共に東京の圧勝で地方に移住する余地はないな、と感じました。それでも地方の安い賃金水準で人を働かせたいと、そういう需要はあると言うことなのでしょう。