非国民通信

ノーモア・コイズミ

考えを変えるとき

2021-07-04 22:16:17 | 編集雑記・小ネタ

 先週の話とも絡みますが、人が考えを変えるのはどういう時なのでしょう。差別主義者やエセ科学の信奉者が、自らを否定せず寄り添ってくれる政治家や○○コミュニケーションの専門家に勇気づけられ、自説を一層深く信じていくような場面はいくらでもあります。しかし、今まで自分が信じていたものを投げ捨てる場面というのは極めて少ない印象です。

 自分のことを振り返ってみるならば、2011年の3月まで私は原発に否定的でした。その時点までは「なんとなく」反原発派の語る危険論に流されていたわけです。一方で原発事故が発生し混乱が深まっていく中で、反原発派の主張はあまりにもおかしいのでは?と疑問に抱き、それを検証していく中で虚妄の原発脅威論を捨て去るに至りました。

 自分を変える機会となったのは、「関心」と言えるでしょうか。原発にさしたる関心のなかった頃は、反原発派の説く内容を吟味することはなく、なんとはなしに受け入れていたと言えます。これは実のところ危険な振る舞いであったと自らを恥じるばかりです。昨今のワクチンの副作用に関する言説にも然り、「なんとなく」周りに主張する危険論に流されている人は少なくないのかも知れません。

 ただ自分が原発事故を目の当たりにして否応なしに関心を持つようになった一方で、同様に関心を持ちながらも非科学的な言論の方へと傾倒していった人もいます。関心を持てば考え方も変わるかと言えば、それはまた別の話のようです。ワクチン反対派もまた関心自体は一定以上にあると考えられますので、これは重要ではないのかも知れません。

 そもそも、根本的なところでは誰も変わりはしないとも言えます。私自身であれば単にその時点で最も効率的なものを支持したいだけで、今ならば原発を選びますけれど、仮に人類が天候を自在に操れるようになったなら風力発電の推進に賛成するところです。この場合、効率を優先するという点では何も考えは変わっていません。

 逆に原発が一つ安全基準をクリアすれば新たな基準を設けるなど、自在に基準が変わる人もいます。ただ物事の是非を判断する基準は変わっても、原発は絶対に認めないという点では結論が決して動かなかったりもするわけです。この場合もまた、変わるものがあるように見えて実は微動だにしない「変わらない」ものもあることがわかります。

 利益を追求する人間は、その利益を得るためのプロセスを変えることには躊躇がありませんし、勝利を追い求める人間もまた勝つために何をやるかという過程では変化を厭わないことでしょう。しかし、そういう人であればこそ利益なり勝利なりという芯の部分では当然ながら譲渡を拒むわけです。

 一方では、よりプリミティブなところに信念を持っている人もまた少なくありません。利益よりも従業員を支配することに重きを置く人であれば、むしろ利益を損ねる選択をすることもあるわけです。自らの理想のためであれば利益や勝利すら度外視してしまう、そうした柔軟性も見せますが――従業員や部員をコントロールすることには執着する等々。

 あるいは勝利ではなく自らの安打数を最大化することに至上の価値を置く選手がいて、四球を選ぶよりもボール球すら当てにいくとしましょう。そんな選手でも安打数を増やすためであれば、足の上げ方を変えたりバットの構え方を変えたり、「変える」こと自体は珍しくありません。しかし、チームの勝利よりも自らの安打数を優先する考え方を変えるかと言えば、それはまた別だったりします。

 コロコロと髪型やファッションを変える人も、その実は「流行を追う」という点では一貫して変わらない生き方をしているのかも知れません。あるいは過去と現在とで全く別の主張を繰り広げている人も、よくよく見ると単に特定政党の主張を擁護しているだけ、政府与党の逆張りをしているだけであったり等々、その点では変化などなかったりするわけです。

 結局、人には「変われる」部分と「変われない」部分があるのでしょう。異性が好きな人もいれば、同性が好きな人もいますし、年増が好きな人もいれば子供が好きな人もいます。人はそう簡単には変わらない部分がある、人は容易には変えられないのだと言うことを前提にして物事を進めていくしかないのかも知れません。

 もっとも、差別主義やエセ科学への信奉は糞のようなものだと私は思っています。誰でも脱糞はするわけですが、それを人前に出す人は当然ながら白眼視されることでしょう。脱糞は個人の自由であり国家による制約を受けるべきものではありませんが、それはトイレの中だけの話です。口から糞を垂れ流す人もまた同じではないでしょうか?

 ワクチン忌避は、感染症の拡大経路として公衆衛生にとっての脅威であり続けます。それは個人の自由ではなく、他人を脅かすものとして扱われねばなりません。口から糞を垂れ流す人を収監すべきとまでは言いませんけれど、そうした振る舞いを「表」に出すことを許容しない毅然たる姿勢は、我々の社会全体に求められるように思います。

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