非国民通信

ノーモア・コイズミ

好きで選んだワケじゃない

2010-09-21 22:59:18 | 編集雑記・小ネタ

 昨日の補足として、「積極的」あるいは「主体的」な選択と、「消極的」もしくは「やむにやまれぬ」選択の違いを考えてみたいと思います。「自分の都合の良い時間に働けるなどの理由で就業形態を選ぶ者が少なくない」として非正規雇用は自己責任、だから逸失利益は低く見積もるべきだとの論文を発表した裁判官がいたわけですが、こうした想定にはどこまで妥当性があるのでしょうか。逸失利益を低く見積もることが許されるかどうかについては昨日のエントリで述べたところですが、この「選ぶ」という行為が果たしてどこまで本人の責任に帰せられるものなのか、そこもまた問われる余地があるはずです。

 なかなか理想的な就職先は見つからない、元より労働環境が悪く、かつ不況も相まって異常な買い手市場でもある日本においては、就業に当たって諸々の妥協を余儀なくされます。賃金、拘束時間、、勤務シフト、職場環境、休日数、福利厚生、業種に職務内容、職場の規模など、色々と問われるべきものがある中で何もかも条件にあった仕事というのはなかなか存在しないものです。どこかしら、妥協せざるを得ません。そうした中では、雇用形態という面で妥協することを選んだ人だって出てくるわけです。できれば正規雇用の方が望ましいが、どこかしら妥協しないと就職できない、仕方がないから雇用形態の面では妥協する――そういった経緯で非正規雇用として働いている人が多数を占めているのではないでしょうか。

 確かに、それは本人が選んだものだと言えるのかも知れません。ただその選択は消極的なものであって決して主体的なものではない、選びたくて選んだ道ではなく、限られた選択肢の中でやむなく選んだ道です。そうした選択に対して「本人が選んだのだから」と自己責任として切って捨てる、逸失利益の引き下げが認められるとしたら、それ「以外」の選択だって同様に扱われてしまうことになりかねません。正規雇用だからこそ時給に換算すればバイト以下の仕事がごろごろ転がっている、あるいは飲食業を筆頭に異常な超長時間労働によって鬱病や自殺に追い込まれる、過労死する人だって少なくないわけです。しかるに非正規雇用で働くことが本人の選択の結果であるとするのなら、薄給の職場で働くのも超長時間労働が常態化している業界で働くことだって本人の選択の結果ということになってしまう、その結果も甘んじて受け入れよということになってしまいます。

 「自分の都合の良い時間に働けるなどの理由で就業形態を選ぶ者が少なくない」として非正規雇用並びに非正規雇用が押し進める格差の固定を是認するならば、雇用形態以外の要因からもたらされる各種の不利益もまた本人の選択の結果として肯定されてしまうことでしょう。健康で文化的な生活には支障が出るような薄給の仕事だって、「○○の理由で選ぶものが少なくない」と言うことは可能ですし、鬱病や自殺、過労死が頻発する業界だって「○○の理由で選ぶものが少なくない」と言えます。ですがその選択は、本人が真に望んだものだったのでしょうか。できれば正規雇用が望ましいが非正規しかなかったから雇用形態は妥協した、できればマトモな給料の会社で働きたかったが薄給の仕事しかなかったから妥協した、できれば余裕のある仕事に就きたかったが就職できそうなところがそれしかなかったので勤務時間の面で妥協した――これを本人の選択として片付けるようなことは、あってはならないと思います。

 

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コメント (9)
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