非国民通信

ノーモア・コイズミ

道徳による偽装

2008-05-10 21:29:37 | 非国民通信社社説

 ネタをまとめかねていたら、こちらgood2ndさんが上手いこと書かれていたので、どうしようかと思いつつ、あまり被らない範囲で書きます。

 例えばそう、電車やバスの中での携帯電話です。電車の中で通話すると周りから嫌な目で見られます。車内での携帯電話利用を巡って殺人に発展したケースすらあります。どうして車内での携帯電話は嫌がられるのでしょうか? 実はこの車内での携帯禁止、日本特有の風習なのだそうで、別の国ではかかってきた電話にはすぐに出るのがマナーだったりもします。ではどうして?

答え:車内での携帯電話は禁止と決められているから。

 この辺は以前にも書いたことですが、とにかくそれが禁止と決められているから、だからダメなのです。ペースメーカー云々の話はこじつけに過ぎませんし、「うるさいから」であれば隣人同士のおしゃべりや車内のアナウンス、走行時の騒音も同様にマナー違反として断罪されなければなりません。しかしそうならないのはなぜか? それは、携帯電話以外の騒音、雑音は禁止されていないからですね。

 ここで他人を咎める大元は、携帯電話が煩いからではなく、もっと別のこと「決められたマナーを守っていないから」と、そこにあるわけです。中には隣人の通話を煩いと感じる人もいるかも知れませんが、だからと言って「煩いから止めろ」とは言いません。「マナーに反している」と咎めるわけです。そして別に煩いとも何とも思っていない人も多いでしょうけれど(他人の電話の声よりも車内放送や騒音の方が遥かに騒々しいわけで)、時にこうした人もまた「マナーに反している」と他人に憤るわけです。煩いとは思っていなくても、です。

 かつて君が代は嫌いだと公言し、新しい国歌でも作って好きな方を歌えばいいと言った人がいました。後に彼は首都の知事になり、公費を投じて君が代が歌われているかどうかを監視し、歌っていない人への処分を繰り返すようになりました。嫌いな歌なのに、歌わないと処分? この理由も簡単、要は「君が代を歌うことに決まっているから」であり、この決まりに従わないことが処分の理由になるわけです。

 本来、自分自身の感覚としては不快に感じないことが、別の要因によって不快に転じることがあります。例えば他人が電車の中で通話している、どうだっていいことです。あるいは他人が(自分の嫌いな歌を)歌っていない、どうでもいいことです。そこに不快に思う要素はありません。ところがそこに「モラル」が介在することで、「マナーに反している!」「決まりを守っていない!」という苛立ちが新たに生み出されるわけです。マナーや公共のルールが君臨しているが故に、我々の社会には憎悪が増大しています。

 白か黒か、何事も二者択一で考える社会では、しばしば本来は対立していないものが対立関係で捉えられ、本来なら両立しうるものが排他的な関係で把握されるものです。日本における代表的なそれはすなわち「私」と「公」です。ここでは「私」と「公」は二者択一の相容れないものであり、一方のプラスは片方のマイナスと考えられています。「公」のためには「私」の犠牲は当然のことだし、「私」が満たされることは「公」を損ねることであり、抑制されるべきことと、そうなっているわけです。

 ですから、公共精神に満ちた日本の道徳家たちは「私」としての欲望を口にしないものです。隣で電話をしている人を煩く思っても、決して「うるさいので静かにしてください」とは言いません。それは「煩い」という私的な感覚に基づく意見であり、その意見を他人に聞き入れさせることは私的な欲望を満たす行為、「公」を重んじる道徳家にとっては恥ずべき行為だからです。もっと「公」に貢献すべく振る舞わなければならない、そのためには「私」ではなく「公」の立場からものを言わなければならない、ゆえに「煩い」という「私」の感覚ではなく「そう決められているから」という他人の定めたルールに基づいて語るわけです。「それはマナー違反だ」と。

 少なくともこの場合は、迂遠な経路を辿っているだけで実質的な意味合いは同じかも知れません。しかしこの「公」の名を借りる行為によって「私」を偽装する不誠実さ、いやらしさを感じないではいられないのです。むしろ自分の立場から、自分の責任で語ることが誠実さであり、正当性を他人に依拠しようとする姿勢、自身の欲望に公共性の衣をかぶせて道徳化する振る舞いこそが卑劣と言われるべきものです。しかし、この卑劣さこそが道徳家達の実践するところでもあり……

 死刑などの刑罰を巡る論議となると、とりわけ鮮明になるでしょうか。単に「自分が気にくわないから」「自分がそうしたいから」と公言した上で「殺してやりたい」「罰したい」と、そう主張する人はある意味で誠実です。賛成はしませんが、致し方ないと許容できます。他人が対象をどう思うか、それについては介入できるものでもありません。一方で実際の動機は「自分が気にくわないから」であるにもかかわらず、やれ被害者の感情が、治安への影響が、法律を犯したのだから云々と、そうした「私以外の何か」に依拠して自身の欲望を偽装し、正義の味方を気取っている人々がいます。こうした人々に、私はいかがわしさを感じないではいられないわけです。

 「公」を重視し、かつそれを「私」と二者択一の関係で捉える社会では、「私」を背後に隠すことが道徳になります。「私」を堂々と前に出すことは「公」を損ねる不道徳な行為であり、たちまちの内に非難に晒されるものです。反対に「私」を背後に隠し、「公」でそれを飾ればそれは道徳的な見解として受け容れられますし、誰もがそうします。そしてこの「公」の衣で正義を装い続けているわけですが、その下にある醜い顔は覆い隠されたまま直視されることは終ぞありませんでした。「公」の衣をまとう道徳家の社会だからこそ、それによって隠蔽された「私」と向き合うことも出来ない、表面を取り繕うだけの誤魔化し、それが今に繋がっているのかも知れません。

 

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