非国民通信

ノーモア・コイズミ

人が死んだわけじゃない

2007-04-30 14:49:12 | ニュース

またオシム節“悲劇乱用するな”(スポーツニッポン)

 日本代表のオシム監督は横浜FC―清水と柏―名古屋を視察した。“ドーハ組”の指揮官初対決について感想を求められると「W杯に出られなかったことが人生における悲劇とでもいうんですか?人が死んだわけじゃない。悲劇という言葉を簡単に使わないように」とピシャリ。菅沼のゴールについても「柏(の特徴)は個人ではなく集団でのプレー。個人を褒めることで台なしにしたくない」と評価を避けた。

 時に日本人は平和ボケしていると言われることがあるわけですが、その「平和ボケ」がハト派とタカ派のどちらに当てはまるのか疑問に思うことがあります。言うまでもなくイビチャ・オシムはユーゴスラビアの出身、内戦で崩壊したユーゴスラビアの出身であり、当然「平和ボケ」からは全く以て縁遠い人物ですが、そのオシムの立場はタカ派とハト派のどちらに近いでしょうか。

 石原慎太郎は先の都知事選で「選挙は戦争だ」と言いました。『半島を出よ』の著者である村上龍は「サッカーは戦争だ」といった一人です。一方オシムは「サッカーは戦争ではない。政治がスポーツに悪影響を及ぼさないことを、強く願う」と言いました。そしてオシムと同じくユーゴスラビアの内戦を経験したズボニミール・ボバンは「『サッカーは戦争だ』などと言う奴は、本当の戦争を知らないんだ」と言いました。

 そして今回、オシム曰く「W杯に出られなかったことが人生における悲劇とでもいうんですか?人が死んだわけじゃない。悲劇という言葉を簡単に使わないように」と。

 戦争経験者と、物語の中の戦争しか知らない人の間では、「戦争」「悲劇」といった言葉の重みは全く違ったものになるようです。平和な国の人間にとって戦争とは何かチャレンジすべきもの、肯定的な比喩として用いられますが、脅威にさらされている国の人間にとって「戦争」という言葉が意味するものは全く違いました。そして平和な国の人間にとって悲劇とはW杯に出られなかった程度のこと、日常的に使われる言葉ですが、現実の脅威にさらされてきた国の人間にとって「悲劇」とはもっと重いもの、取り返しのつかないものなのでしょう。

 こうしてみると、それが少なからず偏見の混じるものであったとしても、戦争に対して忌避感を抱いている人々の方がオシムの立場に近いように感じられます。少なくとも戦争や悲劇をスポーツなどの競技と同列に位置づける人々とオシムの立場は全く異なっているのです。

 間違いなく、戦争に対して忌避感を持つ人々の方が正しく戦争や悲劇を理解している、戦争をすることを前提に軍拡を叫ぶ輩が信じている戦争は現実からはほど遠い、タカ派が妄想する戦争のヒロイックなイメージなど、平和な時代にだけ許された夢に過ぎません。平和ボケしているからこそ戦争に対して僅かなりとも肯定的なイメージを抱くことが可能になるのであって、真に脅威にさらされている人間が戦争に対して肯定的なイメージを抱くことはないでしょう。戦争や軍隊と言ったものに対して忌避感を抱いている方が、まだしも平和に対する脅威を現実のものとして捉えていると言えるのではないでしょうか。

 

 ←もう泣くな、俺たちは戦争に負けたわけじゃない
                                ~ホセ・ルイス・チラベルト

コメント (7)
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