転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



清志郎さん“ラストライブ”に4万人超ファン(sponichi)
『前日の雷雨から一転した“雨あがりの空”の下、司会者の「忌野清志郎の“青山ロックンロールショー”にお越しいただきありがとうございます」のあいさつで開始。その声にファンが「ウォーッ!」「キヨシローッ」と叫ぶ姿は、まるで清志郎さんのラストライブ。読経も線香も賛美歌もない。黒白でなく、紅白の幕が祭壇を囲んだ。』『午後10時50分、最後に献花したのは都内の主婦(47)。この時点で約200人が居残り、別れを惜しむように「アンコール!」と声をからした。そして関係者と「雨あがりの夜空に」をフルコーラスで合唱し「ボス、愛してます!」と夜空に向かって叫び合った。』『ファンの列に最も感激していたのは、景子夫人(53)、長男の竜平さん(20)、長女の百世さん(17)。自宅に一度帰ったものの「こんなに多くの方が集まってくれて。できる限りお礼を言いたい」と閉門直前に再び訪れ、目を潤ませた。』

昨日の午後から、私はずっとネットで実況カキコミを読んでいた。
青山で並んでいる人たち、これから向かう人たち、お留守番組、
そして夕方からは、「お別れ」を終えて帰ってきた人たち、
皆が、mixiの清志郎コミュの青山実況スレに書き込み、
「青山ロックンロール・ショー」の一部始終を共有したのだ。

また『行けない人は、清志郎へのメッセージを書き込みしてくれたら、
自分が出かけるとき、プリントアウトして現地に持参します』
という内容のスレを立てて下さった方もあり、
スレ主が出発した後は、別の人たちが引き継いでメッセンジャーとなり、
全くの善意から、見知らぬ人たちの思いを一手に引き受け、
清志郎に届けて下さったりもした。

葬儀所周囲では、ほとんどの人が4時間、5時間待ちは当然で、
晴天の暑い陽射しの中、少しも進まない列にひたすら並んだ。
当初、公式発表では弔問受付は6時終了予定となっていて、
並んでいる人たちが現地係員に確認したところ、
「警察から指導が入ったので6時半までで列をつくるのは終わり」
という情報が判明し、途中で書き込まれた。
しかしその後、間に合わなくても門の外からでも清志郎を送る、
と言って、仕事のあと電車に乗ったり高速を飛ばしたりして、
無理を承知で青山に向かう人たちが後を絶たず、
「6時半で打ち切るという話は、なくなった」
という現地情報が新たにUPされた。

徹夜で並んだ人たちを含めて、乃木坂からと、青山一丁目からと、
列は二手に分かれて続いており、青山墓地出口で合流していたが、
青山一丁目から並んだほうが流れが格段にスムーズで、
結果論になるのだが待ち時間にはかなり不公平さがあったようだった。
終盤は、乃木坂からの列を優先して通すように対処が工夫された。
しかしこのような規模の行列の案内や進行など、スタッフも警備員も、
ほとんど経験がなかっただろうから、不可抗力という面は大きかったと思う。
葬儀所受付で「大変長い間お待たせして申し訳ありませんでした」
と対応したスタッフが、泣いていて鼻の頭が真っ赤で、
思いを共有できたことで慰められたという書き込みもあった。

これから並ぶと終電に間に合わなくなる、という現地係員の判断で、
最終的に夜10時半頃、葬儀所の門が閉められることになった。
それ以降にも駆けつけた人たちに対しては、
清志郎へのメッセージをスタッフが受け取り、
遺影のポストカードが渡されるという形式になったということだった。

解散前に、皆は葬儀所の前で『雨上がりの夜空に』を合唱したそうだ。
なんとも、始めから終わりまで、ド派手で、盛大で、
前代未聞のロックン・ロール・ショーだった。
巨大な遺影になり、弔辞を読まれ褒め称えられる立場になるなんて、
清志郎は、ちょっと気恥ずかしかったかもしれないけれど・・・。
でもきっと清志郎は、皆が悲しんだことも、この日を誇りに思ったことも、
このロック・ショーで最高に感動したことも興奮したことも、
「上から下まで全部、わかっていてくれる」と私は思った。
何より、「葬儀」の日まで、こんなビンビンに盛り上がっちゃうなんて、
「世界中の人に自慢したいよ」と、昨日は誰もが思ったに違いない。

****************

昨夜は奇しくも満月だった。
晴れた夜だったから、それがなおさらはっきりと見えた。
清志郎の詞には、「お月様」がしばしば登場していて、
彼が、夜に月を見上げて様々な思いを書き留めた、
ということが想像できるのだが、
そうであればこそ、ラスト・ショーを最後まで見守る満月は、
いかにも清志郎に似つかわしいもののように感じられた。
実況スレのファンが、皆、清志郎の詞を引用して言った。
今宵は「ジンライムのようなお月様」だと。

夜半、実況スレがほぼ終息したあと、
ベランダに出て、その満月を見ようと、空を見上げたとき、
私は、昔から大好きだったナンバーを、ふと思い出していた。
それは、RCサクセションの、ごく初期の曲『夜の散歩をしないかね』。
同じ、お月様が登場する詞でも、『雨上がりの夜空に』などとは
全く違う存在なのだが、清志郎のR&Bの原点といえる曲で、
歌い手としてのソウルフルな魅力が最大限に発揮された、
清志郎ならではの一曲だと、私は以前からずっと思っている。
昨日、夜更けて、宴が終わり、それでも月だけが、
天からただひとり静かに、私たちを見下ろしているようだった。

きれいな月だよ 出ておいでよ 清志郎


夜の散歩をしないかね(YouTube)

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A中学高校の体育大会があり、朝から出かけた。
娘の応援をするためではない。
私にそんな気力は本来ないし、
だいたい娘だって応援に値するようなアスリートではない。
こいつは玉入れと騎馬戦にしか出ないというヤル気の無さだ。
だのに私は、本当に健気なことに、開会式前から会場入りした。
PTA役員の仕事として、ジュース販売をしなければならなかったのだ。
これは例年、前年度中2・高1で役員をした保護者が
新年度の体育大会のときに、やることになっている仕事だ。

私は午前中8:50~12:20の担当だった。
晴天で気持ちが良いのは大変結構だと思ったのだが、
晴れ過ぎて、途中から暑くてたまらなくなった。
まさに、『っついぜベイベー』な気分だった。
そんな、気温の上昇しまくる午前中、
生徒らのカバンは、生徒席テントの外に山積みにされていた。
カバンの中には間違いなく昼用のお弁当が入っていた筈なのだが、
朝から4時間以上照らされ続けたお弁当って、大丈夫なんだろうか。
でも今まで、A中高の体育大会で誰かが腹をこわした、
という話は聞いたことがないし、人間って案外、
何食っても大丈夫なんだなぁ、と変なことに感心した。

役員仲間は、いつもの、本当に仲良しで楽しい面々なので、
仕事そのものは相変わらず大笑いで進行した。
働きながらも、ときどき、自分の娘の出番になると見に行ったり、
娘らのほうからテントを覗きに来たり、賑やかでもあった。
暑いせいか、午前中いちばん売れたのはキ○ン・レモンだった。
カフェオレ系はハケなかったが、ミルクティはよく出た。
競技がひとつ終わるたびに生徒さんたちがドっと押しかけてきて、
私たちはバザーほどではないがやはりてんてこ舞いさせられた。
「商売繁盛ですねえ」
と校長先生まで陣中見舞いに来て下さった。

女子校なので、応援団の演舞などは見られないし、
「男子が女装する」たぐいの出し物もないが、
そのぶん、応援合戦は綺麗なチアガールたちで可愛らしかった。
中に『近代女性五種』という意味不明な題の種目があり、
何かと思って眺めていたら、つまり普通の障害物競走で、
何がどう近代なのか、完全な謎だった。
「私たちの頃から、この題なのよね~」
「変える勇気、とうとう無かったんと違う?」
と役員仲間でA中高卒業生のお母さんたちが笑っていた。

追記:オリンピックの『近代五種競技』のもじりだと、
あとで気づいた。『近代女性』で区切るのではなかったのだ。

***********

私が清志郎ファンであることを知っていて下さる役員さんからは、
「きょう、東京、行くの?早く帰らせてあげないとと思って」
と本当に思いやりあふれる言葉をかけていただいた。
ありがとうございました<(_ _)>。
公式発表では、弔問は午後6時までとなっていたので、
私は迷った末に断念したのだが、
午後、ジュース販売の仕事を終えて、帰宅してネットを読んだら、
青山葬儀所界隈は、私が予想した以上に凄いことになっていた。

青山葬儀所へと伸びる列を辿ってみると、青山墓地を横切り、
根津美術館前で折り返し、乃木坂駅向かいで西麻布方向へ伸び、
外苑東通りと西通りの合流するあたりでまた折り返し、
乃木坂手前の公園内でも何重もの列になっている、
と某掲示板に書いてあった。
つまり乃木坂駅を出たらもう、すぐに行列なのだ。
もうひとつ、青山一丁目からも列が出来ていて、
乃木坂方面の列と青山墓地出口で合流して一本になっているそうだ。

会場には清志郎の歌声が流れ、ヒトハタウサギのバルーンが飾られ、
清志郎の遺影と同じ写真のカードが配布されているとのことだ。
『行列は半端ではないが、待つだけだったらなんでもない』
『暑いのと足が痛いのと。でも清志郎の闘病に較べたら!』
という内容の実況カキコミもあった。
更に、『これから水をたくさん買ってから行きます。
困っている人いたら声かけて下さい。僕の服装は○○です』
『幼児を連れた女性に、ほかの人が日傘を譲っているのが見えた』
『苦情を言う人もいたが、警備員もスタッフもとても優しい』
等々、こんなシンドい過酷な行列の中で、
清志郎のLove&Peaceそのままの行動をしている人たちも
たくさんいるということがわかった。
広島の空の下から、清志郎に、皆に、エールを送ります。
熱いぜベイベー!

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5月8日(金)19:54~20:54 テレビ朝日ミュージックステーション
『忌野清志郎さん永遠に名曲の数々を振り返る』

5月8日(金)21:10~22:45 NHK-FM ミュージックライン
『忌野清志郎特集』
【DJ】鮎貝健
【ゲスト】渋谷陽一(音楽評論家)

5月10日(日)23:30~24:20 NHK総合
『愛しあってるかい?~キング・オブ・ロック 忌野清志郎~』

5月11日(月)24:45~25:35 NHK総合
『SONGS 忌野清志郎ライブ完全版』

****************

忌野清志郎さん特別番組をNHKが放送(日経トレンディネット)
『「愛しあってるかい?~キング・オブ・ロック 忌野清志郎~」はロック界の頂点に君臨し続けてきた忌野清志郎さんの偉業に敬意を表して放送される特別番組。70年代からNHKの番組に数多く出演した忌野清志郎さんの貴重なライブ映像がたっぷりと楽しめる。』『「SONGS 忌野清志郎」は忌野清志郎さんにとって最後のテレビライブ・ショーとなった2008年2月6日放送分「SONGS」の完全版。「雨上がりの夜空に」「スローバラード」「毎日がブランニューデイ」「誇り高く生きよう」「JUMP」に加えて、アンコールで披露した「上を向いて歩こう」、初公開となる「ダンスミュージック☆あいつ」の計7曲を放送する。』

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2日深夜以来、清志郎の情報を検索なさる方々が、
このような辺境サイトまでたくさんお越し下さり、
アクセス数・閲覧数とも、5月2日深夜から5月3日にかけて、
拙日記としては、かつてあり得なかったほどの記録になりました。
改めて、忌野清志郎の影響力の大きさを痛感しております。
ご覧下さいました方々にお礼を申し上げます。

イーヴォ・ポゴレリチの来日予定が報じられると
いつも急激にアクセス数が増えるのですが、
今回はその比ではなく、本当に驚きました。)

それで念のためなのですが、万が一、この日記のせいで、
告別式日時に関して誤った認識をされる方があってはいけないので、
更新された忌野清志郎 公式サイト『地味変』の記述を、
こちらにも貼っておくことに致します。

*************

1.日時 5月9日(土)12時~13時 (関係者)
  13時~18時終了予定 (一般)
2.場所 東京都青山葬儀所(東京都港区)
3.喪主 栗原景子(妻)

弔問の終了予定時刻は当初「終電くらいまで」との情報がありましたが、
これは飽くまでも関係者の御好意によるところであり、
公式的には18時終了の予定となっています。
18時以降、もし弔問が途切れないような状況であれば、
引き続き受け付けて下さると考えられますが、
必ず夜まで開いていると確約するものではありませんので、
お出かけになる方は、どうぞ18時までを目標になさって下さい。

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3日の早朝、携帯にたくさんメールが来ているのを不審に思い、
開いてみて、その一通目で清志郎の死を知った。
あとのメールも全部、清志郎のことを知らせてくれた、
友人たちからのものだった。

あの清志郎がいなくなってしまった。
BOSSだったのに。KINGだったのに。GODだった筈なのに。

自分に近しい人が亡くなったのとは別の種類の、
とてつもなく大きな喪失感があった。
例えば太陽とか北極星みたいな、大きくて、いつも遠くにあって、
いちいち存在さえ確かめなくても、そこにあるのが当然で、
とても頼りにしていて、見上げればいつでも目に入って、道標だったもの、
……が、不意に、見えなくなってしまったような気がした。

目の前の人間に何らかの影響を与えることは、ある意味当然で、
無意識に誰でもがしていることだけれど、
一度も個人的に働きかけることのない関係のままで、
人の人生に深い何かを与え、その気持ちを揺り動かし続けることは、
選ばれた人間にしか出来ないことだ。
清志郎は、私にとって、四半世紀以上、そういう人だった。

『ずっと夢みさせて くれて ありがとう』
『眠れない夜ならば 夜通し踊ろう』
『大人だろう 勇気を出せよ』
『誇り高く生きよう』
『最後のバラードまで そばに居てくれる
 本当さ それだけで感謝してる』
…………。

清志郎からは、数え切れない、たくさんの言葉を貰った。
普通の、私たちがいつも使っている言葉が、
こんなに綺麗なものだったなんて、清志郎が教えてくれたことだった。
若いときの清志郎は、
『お月様 お願い あの娘を返して』
『僕の心が死んだところさ そしてお墓が立っているのさ』
『汚れた心しかあげられないと あの娘は泣いていた 綺麗じゃないか』
等々と、哀しい歌をたくさん作ったけれど、近年になってからの詞で、
『今日も朝が来て 君の笑顔を見て 100%以上の 幸福を感じる
100%以上の 幸福を感じる  365パーセント 完全に幸せ』
と歌ったことを考えると、ファンとして、今、とても慰められる思いだ。
彼は、最後に、ひとりではなかったのだ。

ネットの情報によると、9日、13時からの青山葬儀所での告別式は、
一般も参列可能で、仕事帰りや遠方からの弔問客のことも考慮し、
かなり遅くまで会場を開けて待っていてくれるとのことだ
追記:その後の情報によるとおよそ18時までらしいとのこと)。
広島ベイベーである私には、9日当日の参加は時間的に難しいが
それでもなお、夜までにはもしかして辿り着けるかも?
というあたりは微妙で、今、往生際悪く考えているところだ。

いつも、ライブの最後に、
「とうとう最後の曲になっちゃいました」
「きょうも最後までこんなに盛り上がってくれてどうもありがとう感謝します!」
と必ず清志郎は言ったものだった。
それから、「OK、チャボ!」の声で、ギターが始まり、
『雨上がりの夜空に』を全員で歌って……。
私たちは、声を限りに歌って、踊って、それでも、
まだ終わってほしくない、もう一度出てきて欲しい、
と思いながら、会場を離れず、いつまでも拍手を送り、
清志郎ー!!清志郎ー!!と彼の名を呼んだものだった。

だから9日の午後も、私はどこにいようとも、
清志郎がもう一度姿を現してくれるのを待ちながら、
心の中で、最後まで、「きよしろっっ!!」と声援しようと思っている。
そして、盛大な拍手をもって見送りたい。
私たちは、ステージを降りる清志郎に、いつもそうやって、
賛辞と感謝を熱く熱く、表現して来たのだから。

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音羽屋(菊五郎)ファンとして今回の『加賀鳶(かがとび)』は
近年でも目を見張るような出来映えで、本当に観られて良かったと思った。

もう少し若い頃の菊五郎に関しては、私はやはり、
色気のあるいなせな江戸っ子風情が見たくて、
80年代の終わりだったか、初役での法界坊を国立劇場で観た頃でも、
「こっちまで兼ネルのかー。まぁ悪くはないんだけど」
と、まだ、どこか入り込めないものを感じていた。
が、4日に観た竹垣道玄は、もう、文句なしだった。
ボウズ頭で、汚れ役で、ニの線からは程遠いにもかかわらず、
今の菊五郎の良いところが全部出ている最高の舞台だと思った。

最初に天神町梅吉で出て来るところは、おっ!こりゃ辰五郎!と
胸ときめく男ぶりで、これはこれでさすが音羽屋だったのだが、
梅吉は実は、豪華で贅沢な前振りに過ぎなかった。
今回の音羽屋の真骨頂は、次の幕から出て来る竹垣道玄のほうだ。
わざと目の悪いフリをして、いんちきな按摩として稼いでいて、
同じく悪の仲間であるお兼(時蔵)を愛人にして、
ゆきずりの男を殺害して金を盗み、
妻を騙し姪を女郎屋に売り飛ばし、
姪が世話になっていた奉公先の伊勢屋の旦那のところへは、
うちの姪を蹂躙しやがってと強請りに行き、
……と極悪非道の限りを尽くしている道玄なのだが、
なんともこれが愛嬌があって、絶妙に可笑しいのだ。

最低の人間であることは明らかなのだが、
物凄く魅力ある男であることも間違いなく、
お兼が道玄に惚れているのは勿論、妻のおせつ(東蔵)だって、
もともと道玄を愛していたのは確かだろうし、
これからだって彼が改心してくれるなら、……するわきゃないのだが(笑)、
おせつは、きっと一緒にやり直したいと思ったに違いない、
などなどと、想像してしまった。

音羽屋ならではの、冴え渡るような口跡が見事だったのは無論のことだが、
一瞬の目の色の移り変わり、歩き方や腰つきひとつとっても、
道玄としての一挙手一投足が手の内に入っていて圧巻だった。
また、「むっちりした足に色気がある」と語っていた、
寺島しのぶちゃんの言葉にも改めて納得した。
音羽屋のあの体型や身のこなしは、ホントにいいと思った。

多分、二十年前の音羽屋では、こうは演れなかった・演らなかっただろう。
こういうふうに、今の年齢になったからこそ出来る、
という舞台を見せて貰えるのは、ファンとして実に幸福なことだ。
そして、音羽屋には、これまでの役では観せて貰っていないものが、
隠し球みたいにまだまだありそうだな、とも思った舞台だった。


しかし、この絶好調の舞台で、
一箇所、音羽屋が「かんだ」のを私は久しぶりに聞いた。
胸のすくような台詞回しの真っ最中に、なんと、
『こらしめ』という単語の発音に失敗していた。
好事魔多し、とは、よくぞ言った(爆)。

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瑞巌寺の手前の、某お店に松尾芭蕉の人形があった。
芭蕉は、松島では一句も読んでいないのだそうだが、
本来なら奥の細道のハイライトとなるべき光景を
描ききるに足る句が、結局、芭蕉をもってしても浮かばなかった、
ということなのだろうかと想像すると、少し面白かった。
ちなみに、この「松おばしょう」は
小さな記念撮影スポットであるがゆえに、一日中観光客にいじられ、
時には子供らに鼻をほじられたりして、お疲れ様だった。
なかなか良いお顔だし、風情もあるのにな(苦笑)。

さてその肝心な瑞巌寺なのだが、国宝の本堂は修理中のようで、
今は、門から参道、法身窟のあたりまでが見どころという感じだった。
『奥の細道』にも、勿論、瑞巌寺の描写が出ている。
『・・・雲居禅師の徳化に依て、七堂甍改まりて、
金壁荘厳光を輝かし、仏土成就の大伽藍とはなれりける』。
雲居禅師(うんごぜんし)の名が可笑しすぎる、
雅号なのに、なんでもうちょっと考えなかった、
これじゃホントに雲黒斎なんてのもアリだよねえ、
と笑いが止まらないころもんであった(--#)。

一方、戦国BASARAの片倉小十郎が大好きな娘にとって、
みちのく伊達政宗歴史博物館は外せない場所だった。
彼女の話によると(私は行かなかった)、ここの博物館の蝋人形は、
いろいろな名場面を再現していて楽しかったそうなのだが、
ただひとつ、政宗の子供時代の梵天丸の人形が、
あまりにも、顔がオッサンで、笑えたそうだ。
聡明なる少年・梵天丸が、どこかの高僧に向かって、
『なぜ不動明王はこのように恐ろしい顔をしているのですか』
と質問している場面もあったそうなのだが、娘の感想は、
「いやそれより怖いのはあんたの顔だから梵天丸」。

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(写真は、今朝の松島・福浦橋)

5月3日の午後4時4分、清志郎の出棺のとき、
都内の彼の自宅上空に虹が二本、かかったそうだ
http://sns.nikkansports.com/users/c_kobaya/diary/show/109532)。

その情景を思いながら、今朝は福浦橋を渡った。
ただ繰り返し波の音だけがして、とてもとても、静かだった。

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午後着いたときは、うららかな日差しで
ウグイスが鳴いているのが聞こえた。

夕刻からは静かな雨になった。

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娘が戦国BASARAの絡みで片倉小十郎にハマっているので
博物館に行って青葉城に行って片倉邸跡で写真を撮って。

午後からは松島に移動、さらに伊達家と小十郎を辿る旅を。

そういえば、伊達政宗はスペイン人、とかなんとか、
いつぞやテレビのトンデモ番組で言うとったが(爆)。

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