転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



主人が、明日から関西方面に旅行しようと決めた。

明日からって。
宝塚大劇場もドラマシティも南座も、全部終わってるよ(泣)。
それで娘が見たいと言った、『11人いる!』を見ることにした。
演劇ユニット『アクサル』の、2004年上演の芝居の再演だ。

アクサル 公式サイト

萩尾望都による原作漫画は、私は連載をリアルタイムで読んで、
コミックスが出たらすぐ買ったという思い出深い作品だ。
娘も私の持っている漫画本から入ったので、
今回の舞台はふたりとも、原作ファンという視点から見ることになる。

あとは、京都や大阪市内を観光する、と主人が言っている。
私はグータラで、観劇以外の計画が出来ない人間なので、
旅行プランはいつもほとんど主人に従っている。
娘は、グルメな点では父親似だが、グータラは私譲りで、
もし娘と私の旅行だったら、芝居以外はホテルで寝ていそうだ。
活動的な主人がいる御陰で、我が家の家族旅行は、成り立っている。

では、明日から、ちょっと行って参ります~。

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(以下は、雪組公演『カラマーゾフの兄弟』および原作小説に関する、
ネタばれを含む文章です。結末は自分で見る(読む)まで知りたくない、
とお考えの方は、絶対に下の文章をお読みなりませんように。
私は以下の記述で、殺人事件の真犯人および物語の結末を明かしています。)


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アレクセイの沙央くらまは実に好演だったと思う。
思いやりがあり、純粋で、しかし自分の考えを持っている、
まっすぐな青年を、原作のイメージ通りに演じてくれた。
アレクセイは、最も年若く穏やかな性格であるために、
常に淡々と優しく、ほとんど能動的になることのない存在なのだが、
沙央くらまのアレクセイは、決して影の薄い青年ではなかった。
家族の争いに心を痛める優しさが、出番ごとにきちんと出ていて、
物語の根底を静かに支える存在感があったと思う。

スメルジャコフの彩那音も良かった。
設定も見た目も、原作よりずっと綺麗なスメルジャコフで、
彼の母親も無邪気さが強調された存在だった。
宝塚歌劇だし、そういう脚色は充分あっても良いと思った。
不気味さの点でも妖しさの点でも、
彼女のスメルジャコフは普通の人でない雰囲気があった。
どの場面も良かったが、やはり白眉は、最後に、
イワンに事件の真相をすべて語って聴かせるところ、
そして自分もまた「カラマーゾフの兄弟」であったのだと
明かすところだ。
受けるのが彩吹真央だから、尚更成功したのだとも思うのだが、
あのあたりのテンポや緊迫感は、展開を知っていても目が離せず、
3000ルーブルを出して見せるところなどゾっとさせられたくらいだ。

父親のフョードルに未来優希、うまいだろうなと思った通り、
とても巧かった。妙齢のお嬢さんとは思えません(爆)。
こちらも原作よりずっと美しいお父様で、品格ある道化だったが、
これくらい男ぶりの良い父親なら、単にお金の力だけでなく、
男としての魅力も相まって、女達をたぶらかすことが出来るだろう、
と見ていて思った。
ドミートリーの回想シーンで、母のアデライーダがいながら、
父フョードルが大勢の女達と次々に遊ぶ場面があったが、
あのヤらしい手つきなど、ハマコさんに目が釘付け(O_O)だった。

カテリーナの大月さゆ、とても綺麗だったのだが、
私の思っているカテリーナと、ちょっと違った。
それは脚本的な問題だったかもしれないとも思うのだが、
私としては、カテリーナは知性が高く、なおかつ美貌で、
自身もそれを自覚しているがゆえにプライドが高く、
常に張り詰めた細い金色の糸みたいなイメージがあったのだが、
大月さゆちゃんのカテリーナは、もっと柔らかい感じがした。
だから一旦はイワンを拒絶しても、すぐ結ばれそうに見えたし、
裁判の場で、ドミートリーのために証言したあと、
すべてを撤回するに等しい証拠を持ち出すに至るまでの、
彼女の、気の狂いそうになる葛藤は、あまり感じられなかった。
「イワンを救わなくては!」(←この台詞も凄いと思った、
まとめれば彼女の乱高下するような胸のうちはこの一言になるかと)
の一瞬でカテリーナの心がすべて簡単に決まったように見えて、
私としては物足りなかった。カテリーナは千々に乱れて欲しかった。
ただ原作のイメージから私が離れるならば、
大月さゆちゃんのしていたカテリーナも、アリだとは思った。
イワンの愛を受け入れる、可愛らしさや柔らかさがあったと思う。

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皆様が、今、それぞれの場所で
幸せなクリスマスをお迎えになっていますように。


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<高校新学習指導要領案>英語で授業…「自信ない」教諭も(毎日新聞)
『「使えない英語」から「使える英語」へ。22日に公表された高校の新学習指導要領案は「英語の授業は英語で行うことを基本とする」と明記した。文法中心だった教育内容を見直し、英会話力などのアップを目指すのが狙い。文部科学省は「まず教員が自ら積極的に用いる態度を見せるべきだ」と説明する。だが教諭の英語力や生徒の理解度はばらつきが大きい上、大学入試は従来通りとみられ、現場からは効果を疑問視する声も出ている。』

私の感覚では、大学入試及び入学後に求められる英語力というのは、
天気や買い物の話題で雑談する会話力ではなくて、
専門分野の研究論文を読んだり書いたりするための読解力や作文力、
だという気がする。
大学は研究機関なのだから、それはそれで、一見識だと思うし、
そのような種類の英語が「使えない英語」だとは私は思わないのだが、
どうして文科省はこんなに高校英語をやり玉に挙げるのか。
高校だって英会話スクールではなく高等教育の場だろうに。

英語で気軽な遣り取りができるように、
学校現場で生徒を教育したいと、もし本気で思うのであれば、
誰かも言っていたことだが、それは英語の授業でやるのではなく、
むしろ、体育とか音楽とか家庭科の授業を、
英語を使って行うようにすればいいのだ。
幾種類かの定型の指示と応答を徹底することが可能だし、
授業で出て来る英語が動作と直結していて、大変効率的だと私は思う。
日常会話で発する英語は命令文と疑問文に類するものが多いから、
英文テキストの解説を英語で聞くような英語の授業よりも、
実技系科目で、指示や応答を英語でするほうが適しているとも思う。
勿論、英語を母語とする外国人講師と協力しての、
ティーム・ティーチングの機会を、できるだけ多く設けることにして。

また、「英語教師のくせに英語も喋れない」などと、
英語を喋れない(かもしれない)人々が簡単に批判することが多いが、
そもそも、英語教諭と言ったって、ネイティブではないのだ。
先生方にどんなに研修の機会を提供したとしても、
英語だけで授業をして高校生が英語を操れるようにしろ、
などというのは要求のし過ぎだと私は思う。
英語で英語の授業をするということは、簡単に言えば、
現代国語の英語バージョンみたいな授業形態ではないか?
テレビで日本語でコメントする外国人教授やタレントの日本語でも、
我々が聴けば、ぎこちなさや発音の誤りがたくさんあるように、
日本人の英語は、かなり流暢に話しているようでも、多くの場合、
「ある程度、レベルの高くなった、第二言語」に過ぎないのだ。
高校生に最初に与える英語として、そんなものが適切とは思えない。
日本人教師の、ことによったら個人語レベルの英語による英語の授業を、
週5時間も聞かされたら、いい加減、生徒の英語は破壊されるぞ?
それが文法軽視のブロークンな英語になるとしたら、なおさらだ。

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(写真は某ホールのイルミネーション)

朝、ポゴレリチの来日中止の件がカジモト・イープラスのサイトに載り、
今年は本当にさんざんなクリスマス・プレゼントを貰った気分だった。
しかしこれもまた神様のご計画であろう、と思い直して
(↑ポゴレリチ本人はカトリック教徒だし)
午後から、姑がお世話になっている特養T園に行った。

T園でも、きょうはちょうどクリスマス・パーティだった。
車椅子で動けるおじいちゃん・おばあちゃん方が集会室に集まり、
面会の家族も一緒に座って、ケーキを食べて、
職員さんの余興で楽しませて頂き、最後は皆で、
手話つき『赤鼻のトナカイ』を歌った。
うちのおばーちゃんも、リクライニングになった車椅子に寝て、
端っこのほうから参加させて貰った。
きょうは平熱で気分はすっきりしている様子だったが、
痰が多く、途中で咳き込んだりして、ちょっと心配だった。

パーティのあと、おばーちゃんはベッドに戻り、
私も職員さんに挨拶してから、中区に帰るバスに乗った。
それからバスセンターで娘と待ち合わせ、夕食の買い物をした。
今夜は一応クリスマスのメニューらしくということで、
鶏の唐揚げとサラダをつくることに決めて、その材料と、
それからクリスマス・ケーキも買った。

家に帰って鶏をつけ込んだあたりで、主人からメールが入り、
帰宅は8時頃になるとのことで、まだ2時間ほどあると判明したので、
私はそれからまた家を出て、世界平和記念聖堂のクリスマス・ミサに行った。
娘も誘ったが彼女はあまり乗り気でなく、家で留守番すると言った。

グレゴリオ聖歌を聴いて、聖書朗読と司教様のお話を聞いて、
聖歌隊と一緒に「来たれ友よ」を歌った。
クリスマスは買い物する日でもなければケーキを食べる日でもなく、
本当はこうして、主の降誕を祝い讃え、感謝の祈りを捧げる日なのだ。
この教会は近所なので私は日常よく通りかかっているし、
日曜のミサに来たこともあったのだが、
今夜の聖堂内には、普段では考えられないほど大勢の人たちがいた。
「教会のクリスマス・ミサとはどんなものか見てみたい」
という関心だけでやって来た人たちもそれなりにいたようだった。
雰囲気に浸って満足していた私も、勿論、同類だった(苦笑)。

8時前に家に戻って、鶏を揚げていたら主人が予定通り帰宅した。
家族揃って夕食を取ることができ、
特に鶏の和風から揚げは主人にも娘にも大好評で、
静かだが、なかなか良いクリスマス・イブだった。
とてもとても、ありがたいことだった。

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緊急のお知らせ:ポゴレリチの来日が中止となりました。

ポゴレリチ 来日公演中止のお知らせ
カジモト・イープラス・インフォメーション


カジモト・イープラス会員の方々には、
カジモト・イープラスより払い戻しに関する案内のメールが来ます。

会員でない方は、一般的な、イープラスの払い戻しに関する詳しい情報
公演中止 払戻方法確認チャート」を参考になさって下さい。

また、イープラスのチケット裏面にも大まかな案内が掲載されています。
チケット代金、配送+システム利用料、返送に要した配達記録郵便代、
等々が、返送の際に指定する口座宛に返金されるとのことです。

その他、イープラスやカジモト・イープラス以外の、
チケットぴあ、CNプレイガイド等々をご利用になった方は、
各々のプレイガイドにて、払い戻し方法をお尋ね下さい。

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毎年毎年、暮れの30日になっても年賀状ができていなくて、
投函するのが大晦日、みたいなことを繰り返して来たのだが
2003年12月29日2004年12月30日、2005年は喪中、
2006年12月30日それの結末2007年12月30日)、
今年は、感心なことに、クリスマス前にして、年賀状がほぼ出来た。

こうなった理由のほとんどは、主人だ。
この人は、いつも人一倍、年賀状作成開始が遅いのに、
今年は仕事関係バージョンの年賀状にすると割り切り、
早々と印刷に出したので、いつになく出足が早かった。
そして、自分のが出来上がってきたら、途端に
「ほら!はよぅ、あんたらも、やりんさいよ!」
と、主人は胸を張って、娘と私に向かって言ったのだった。

娘は、一枚一枚、イラストを描いて手書きするので、
期末考査の始まる前から既にやっていた。
が、時間がかかりすぎるために手間取っていた。
イラストったって干支なんかではない。
マ王様の側近とか、あくまで執事なヒトや、
ガマ星雲出身の面々を擬人化したもの、などなど、
知らない人は全然なんのことかわからないような内容だ。
その娘が、今朝、言った。
「葉書、足りなくなっちゃった。案外、交友関係広いんだよアタシ」

どーゆーこーゆー関係か知らんが(--#)。
ということで、きょうは午後から郵便局へ年賀葉書を買いに行った。
そして私も、思い立ったが吉日と、自分のを印刷することにした。
市販の素材を使ってデジカメ写真を貼り付け、プリントする、
という方法で、今回は割と短時間で出来た。

ポゴ氏の写真をはめて、途中でちょっと遊んだりもした。
べぇ~べぇ~しげ美@Detroit Metal Cityみたいな牛さん達が踊る中央で、
「王様と私」風味のスキンヘッドでニヤリと笑うポゴ氏、フキダシには
『あけましておめでとう ことしもよろしくね』、
・・・勿論、それは印刷しませんでした(逃)。

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ポゴレリチが北斗の将なら、リシッツァは南斗の女。
・・・と私が心酔している、リシッツァお姉様の来日公演、
長らく詳細がわからなかったのだが、
きょう思いついて彼女の公式サイトを久しぶりに見に行ったら、
ちゃんと、公演先のホールのリンクが貼ってあった。

ヴァレンティーナ・リシッツァ ピアノ リサイタル
2009/1/19(月) 19:00開演 TOPPAN HALL
ラフマニノフ:練習曲集〈音の絵〉 Op.39より 第6番 イ短調
ラフマニノフ:〈10の前奏曲〉 Op.23より 第5番 ト短調
ラフマニノフ:〈13の前奏曲〉 Op.32より 第5番 ト長調/第10番 ロ短調/第12番 嬰ト短調
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第23番 Op.57 〈熱情〉
シューマン:こどもの情景 Op.15
タールベルク:歌劇セヴィリアの理髪師の主題による幻想曲 Op.63
リスト:死の舞踏(ピアノ・ソロ オリジナル版)

とーても聴きたいのは、ヤマヤマなのだが。
日にちが悪すぎだ。
どうして誰も彼も、月曜日の晩に弾きたがるのか(--#)(--#)。

まあ、今回のリシッツァの場合は、
ヒラリー・ハーン嬢の伴奏ピアニストとしての来日がメインで、
最後にソロ・リサイタルを組んだ、ということだろうから、
ほかの日ということは、難しかったのだろうとは思うが。

悩ましい。

ときに、トッパンホールには、リシッツァの愛する、
ベーゼンドルファーは、あるのかしら?

Valentina Lisitsa plays Rachmaninoff Etude Op. 39 No. 6(YouTube)

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娘は、昨日が終業礼拝とクリスマス礼拝で、
きょうから冬休みになった。
山ほどある宿題には目もくれず、
娘はさっそくお友達何人かと待ち合わせて市街地へ遊びに行った。
雨だというのに(--#)。

終業礼拝当日のHRのときに、担任の先生から
2学期の成績表をひとりひとり見せられ、コメントを貰ったそうだ。
通知表本体は、のちほど保護者懇談会で手渡し、あるいは郵送なので
このときは見せて貰っただけだそうだが、
娘は全部の評定を覚えて帰ってきた。

以下、娘の記憶に間違いがなければ、
英語・英会話・国語・聖書・家庭科は変わらず、
社会・数学・物理化学・生物・体育は上がり、
音楽・美術は下がった、・・・というのが今学期の結果だった。
担任の先生からのコメントは、
「社会が上がった。頑張った。三学期は更に一段階あがるように」。

どんだけ上がりシロが残っているかという(爆)。
娘の感想は、「良かった、今回は1が無かった」(爆爆)。

また、HRでは着席している生徒の間を担任の先生が歩いて、
補習該当者には封筒を机の上に置いて行かれたそうで、
先生が何もなく通り過ぎて行かれたら、セーフ、
と胸をなで下ろす展開だったということだった。
娘は、補習授業には呼ばれなかった。

だが、それは良いことなのかな???
悠々とお勉強がよく出来ていて、この調子で自分で頑張りましょう、
という状態なら結構なことだが、
娘のように「辛くも免れた」みたいな人は、
かえって損をしているという気がしないでもない。
むしろ補習に毎日通って、規則正しく、ある程度厳しく、
学習面でのフォローをして頂くほうが、ためになったのでは(汗)。

ともあれ、家ではサクサクと宿題をやるように見張っておかなければ。
とても良かったと思うのは、1学期2学期ともに無欠席で通えたことだ。
成績はおいといて(←おいとくなよ・爆)、
元気よく学校に行けたのは本当に有り難いことだ。

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(以下は、雪組公演『カラマーゾフの兄弟』および原作小説に関する、
ネタばれを含む文章です。結末は自分で見る(読む)まで知りたくない、
とお考えの方は、絶対に下の文章をお読みなりませんように。
私は以下の記述で、殺人事件の真犯人および物語の結末を明かしています。)


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主演の、長男ドミートリー・カラマーゾフ役は水夏希で、
男っぽい役で色気の出せる彼女に、よく似合っていて良かったと思った。
登場時から、ドミートリーは女をめぐって父親と激しく諍っており、
特に物語の前半は、猛り狂う姿が大変印象的なのだが、
ミズくんは台詞や設定の際どさの中に、一定の品格をきちんと保って、
宝塚歌劇の香りを端々に見せてくれたのが、大変良かった。
幕が下りたあとの挨拶で、ミズくん本人が、確か、
「ドロドロの人間模様を、宝塚らしく」演りたい、という意味のことを
話していたと思うのだが、それは確実に実現できていたと思った。
ラストで、手錠(縄か?)をかけられた両手を、
グルーシェニカの頭の上から背中側に回して抱き寄せ、キスする、
あの構図は実に魅力的だった。

グルーシェニカの白羽ゆりは、美貌は勿論のこと、
目力が素晴らしく、生き生きとしたロシア女性を見せてくれたと思う。
アントワネットなどの女王様然とした役の印象が今まであったのだが、
今回は、女が才覚と身ひとつで世の中を渡るしたたかさが、
全く無理なく出ていて、とても良かった。
身のこなしや衣装の着方など、かなり工夫したのではないだろうか。
低い声にもハっとさせられるような艶やかさがあった。
娘役と女役の中間にあるような役柄だと思うのだが、
となみ(白羽)ちゃんの舞台経験あってこそこなせた役かもしれない。
高利貸しのサムソーノフに囲われ、三兄弟の父フョードルをたぶらかし
ドミートリーを虜にし、さらに心の中ではポーランド人将校を想う、
という物凄い設定だが、そういう一筋縄でいかない女でありつつ、
ドミートリーの愛にあたいする魅力をも発揮していたのは、
となみちゃんの巧いところだと思った。

イワン・カラマーゾフには彩吹真央で、今の雪組なら確かに、
彼女でなければイワン役は務まらないだろうと私も思った。
これだけ歌えて踊れて芝居ができて、なおかつ二枚目が演れる、
という役者さんは、そんなにいない。
ファンの中には彼女の巧さをとっくに当然のことと思っている人も多く、
「また、いつものゆみこ(彩吹)でしかなかった」
という手厳しい感想も、某掲示板で見かけたのだが、
彼女の演じたイワンは、原作や映画と較べても、非常に魅力があり、
脚本・演出の斎藤吉正がプログラムに書いている「頼もしい彩吹真央」
という表現は、まさに言い得て妙だと私は思った。
イワンは一見クールで理知的だが、大変繊細であり、
心の奥には非常に病んだ部分をも持ち合わせている人物だ。
前半、それらが均衡を保っていた間のイワンは、常に冷静だが、
終盤でスメルジャコフの告白を聞いてから、彼の中の何かが崩壊する、
このあたりの壊れていくような演技も、ゆみこさんは大変巧みだった。

そのイワン・カラマーゾフには、原作でも「もうひとりのイワン」がいて、
原作や映画では彼の幻覚症状のようなかたちで登場し、口をきくのだが、
今回の演出では、最初から舞台上に、「イワンの幻覚」がいた。
演じるのは専科から出演の名ダンサー、五峰亜季
本来は娘役さんだが、この舞台では敢えて性別がわからないような存在で
まさに、実体を伴わない、イワンの心の中の、もうひとりの彼、
という雰囲気が、存分に表現されていたと思う。
「イワンの幻覚」は、物語の大半では、イワンのそばに付き従い、
彼の内心を代弁し、それはイワン本人にとっても心地良い囁きなのだが、
終盤になって、急に、「幻覚」は隠し持っていた刃を光らせるように、
イワンに続けざまに打撃を与え、彼の内心をズタズタにする。
ただ、原作のイワンは、生きる力さえ枯渇した存在になって終わるが、
今回の舞台では、カテリーナが彼に寄り添う結末なのが救いだった。

(続)

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