転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



先日11月2日、A中高文化祭バザーが無事、終わったということで、
昨日は中2PTA役員の面々で「バザー反省会」をした。
と言ってもつまるところ、昼食会だ。
「反省」どころか、私も含めてほとんどの人は、
自分たちは、バザーをやりおおせて偉かった!と思っていたはずだ。

場所は役員代表の方が決めて下さった、某キャ○リィ・ロウだった。
広島としては、割と新しい店なので、参加者の多くは場所を知らず、
役員代表の方二名の自家用車に分乗させて貰って行った。
ご自身で運転して現地に行かれたお母さんのひとりは、
「場所に自信がなかったのでカーナビをつけたら、
当然のように東京のキャナリィ・○ウを案内し始めたので
殴ってやろうかと思った」
という話をあとでなさっていた。

行ってみたら、平日の昼だというのに、店内は既にいっぱいだった。
我々は予約だったから良かったが、大勢の方が外で並んで待たれていた。
しかも、そうしたお客さんは誰も彼もが女性客ばかりだった。
世の奥様方は大変に優雅な平日ランチをお過ごしということなのか、
あるいは近隣の会社などから車でやって来られるOLさんが主体だろうか。
室内だけでなく、ボートの見える海側テラスのテーブルまで埋まっていた。

ランチが始まり、出てきたお皿がNarumiで、途端に、
「これっっ!バザーで、あった!800円だった!!」
という話題になった。
何を見てもバザーが蘇り、値付けを始める私たちは既にビョーキだった。
それから、あの能面はどうなったかという話になった。
出品された品物の中に、今年は意表をツいた「能面」があったのだ。
中2のレジは通過しなかったようで、私も、もうひとりの金庫番の方も、
能面を見た記憶がなかったが、値引きセールの段階ではもう無かったから、
例年同様、変な(爆)商品ほど早い段階で売れたのではないかと思われた。
値付け作業のとき、受け取って中身を知らずにフタを開けたら、
中から能面がこっちを見ていた瞬間の、あの驚きと言ったらなかった、
と担当された方が言われて、またひとしきり笑った。

食事が終わって、話題は、去年と同じで、
「来年も役員、やる?どうする?」。
楽しかったのは間違いなかった。
こういうことでもないと、お母さん方と協力して何かをする、
という機会は滅多にないし、
忙しくとも可笑しいことが山ほどあり、最後には達成感もあって、
なかなか良い仕事だったと皆が言った。
何より、あんなに忙しい行事を大勢でやっていて、
衝突したり、カチンと来たりすることがただのひとつもなかったなんて、
本当に雰囲気の良い役員会だったと、昨日は改めて感謝した。

今年の役員15名中、昨年から引き続いて二度目だったのは、
私を含めて4名だったと思う。
あまりにも固定された顔ぶれになるのは良くないだろうから、
来年度もまた、今年の面々からいくらかは残って貰うと同時に、
新しい方々にも積極的に関わって頂けるといいなと思った。
負担になると考えて敬遠されている方も少なくないと思うのだが、
忙しいのは極論を言えばバザー時期だけだ。

4月初めのあの、クラスごとの役員選出の会議は、
毎年、どうも重苦しい雰囲気でイヤなものだが、
「楽しい!」「負担にならない!」
「クラスに3名いるのだから、忙しい人も補い合えば大丈夫!」
等々と強調し、来年はこれまでなさっていない方にも、
楽しみに感じて、引き受けて頂けるようであれば、と思う。
で、勿論、私はハズれるのだっっっ!!!

しかしこれは力説すればするほど自分のクビを絞めることにもなる。
ラクだ・オモシロい・負担ではない・良いことづくめ!
・・・なら、そんなに人に押しつけんと、またオマエがやっとけ、
というオチになってしまうからだ。

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先日来、ポゴレリチについてちょっと書いておきたいことがあって、
それはまだ残念ながらきちんとしたカタチになっていないので、
こちらにもUPしていないのだけれども、
それを書くにあたり、私はポゴレリチに関してのみ、
自分の脳内アーカイヴが図書館の索引カードのように機能する、
ということを、改めて発見した。

あの記載があったのは、95年9月録音スケルツォの英語版ブックレット、
あの見解が掲載されていたのは、94年5月のアンバサダー・レポート、
あの発言が出ていたインタビューは、82年1月のクラヴィーア、
あの批評を載せていたのは99年10月のワシントンポスト、
・・・と私はポゴレリチのことなら、
彼がいつ何をして、マスコミがそれをどう書いたか、
場合によっては書いた人間がなんという名前だったか、ということまで
頭の中の抽出にいつでも取り出し可能な状態で収まっているのだ。

どうだ、すごいだろう。
昨日の夕飯が何だったかも、既に定かでない、このワタシが。
昔、ドラえもんオタクの同僚が、ひとつの台詞やエピソードだけで、
それは第○巻の○ページのどこそこ、とすぐ言い当てていたが、
そういうのと同じことだ。
ヲタをなめては、いけません。

正直に告白すると、私はカップラーメンの値段も知らないし、
ホッケなる魚をどうやって料理するのかも全然知らなかった。
ワインの相場も知らないし、ビール一缶いくらかも自信がない。
いつも書いていることだが、グッチとシャネルとヴィトンと、
どれがどう高いのだかも私には判然としていない。
こうしたもの、どれもこれも、私の生活の中に全く登場しないからだ。

私は非凡な面がひとつだけあると同時に、
どうやら「庶民生活というものを知らぬ非常識な」人間であるようだ。
ただ、私の非凡さは、全く世の中の役に立たず、
富にも権力にも結びつかないので、
誰からも賞賛されず羨望の的にもならず、
よって、私の「非常識」さも、世間から非難される機会がない。

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昨夜、広島厚生年金会館でブーニンの演奏会を聴いた。
理由はわからないが開演が10分近く遅れ、
演奏が始まったあとも、ブーニンはたびたび汗を拭いたり、
数曲終わるごとに舞台袖に引っ込んだりして、
全体にやや落ち着かない雰囲気のリサイタルだった。
演奏そのものは結果的には良かったと思うのだが、
もしかしたらベストコンディションではなかったのかもしれない。

使用楽器は珍しいことにイタリアのファツィオリで、
今までこれが広島に来たことがあったかどうか私は詳しくないが、
私自身は初めて生で聴く楽器だった。
全部の音域が均質な音色を持つのが特色と言われるファツィオリで
スカルラッティやバッハを聴いたらさぞかし面白いだろう、
・・・という私の予想はある意味で外れまくり、
ブーニンが最初に弾いたスカルラッティ3曲(L.187、L.422、L.495)
いつかどこかで聴いたことのあるブーニン節のショパンそっくりだった。

次のバッハ『イギリス組曲第2番』も不思議な演奏で、
ペダルを遠慮なく踏み込み、テンポ・ルバートを存分に効かせて、
確かにこういう演奏に接してみると、私がいつも思っている、
『ショパンもまた秀逸なポリフォニーだ』ということが
バッハによって証明されたような(?)意味不明な手応えは感じたのだが、
これらスカルラッティとバッハで、あまりにも奇妙な気分になっているうちに、
前半のメインが終わってしまった。

前半の最後がメンデルスゾーン『甘い思い出』と、
シューマン=リスト『献呈』だった。
ここに来て初めて私は、ブーニンの良いところが聴けた気分になった。
甘く歌う旋律、柔らかな和音の響きは、
ブーニンの繊細さがあってこそ、という気がした。
ブーニンがどういう人か、私人としては全く知らないが、
大変なロマンチストなのではないかと、こういう曲を聴くといつも思う。
考え過ぎかも知れないが、今回は最初からブーニンの感性が、
ロマン派の音楽のほうにはっきりと力点の置かれたものになっていて、
その影響が、スカルラッティやバッハにも、
多少なりとも出ていたのではないだろうか?

ここで休憩になり、舞台上では調律が行われていた。
ファツィオリなので専門の方がついて来られたのだろうか?

後半はショパンとドビュッシーだった。
まず、ショパン『夜想曲嬰ヘ長調作品15-2』『英雄ポロネーズ』
そして『マズルカ変ロ長調作品7-1』『マズルカ嬰ハ短調作品63-3』
最初の二つは、85年のショパン・コンクール二次予選で弾いた曲だし、
変ロ長調のマズルカはコンクールの受賞者演奏会で披露した曲だ。
これらはブーニンの最も初期から、私にとって馴染みのある曲で、
覚えのあるブーニンのショパンが聞こえてきて、懐かしかった。

私にとっては面白いことに、ブーニンはショパンになると、
シューマンで聴かせたようなロマンチストぶりが、
なぜかあまり前面に出て来ないような気がする。
ブーニンのショパンは、美しいには違いないのだが、
根底には、即物的に処理した爽快さがあって、それゆえに、
ブーニンは日本で、従来のクラシックファンでない層からも
広く支持されたのではないかと私は常々思っている。
昨夜のショパンにもその割り切れた小気味よさがあった。

最後がドビュッシー『喜びの島』『ピアノのために』
これらは当初、プログラムとしては逆の曲順で掲載されていたのだが、
「演奏者の都合により」入れ替えると休憩時に放送があった。
ドビュッシーは、ブーニンのレパートリーとしては
私は昔から破格に気に入っているものだ。
ブーニンをドビュッシー弾きだと定義する人は少ないようだが、
私は現代ピアニストの弾くドビュッシーなら、
今も昔も、ブーニンのものが抜群に好きだ。

ブーニンは、ドビュッシーにピタリと添っているように私には感じられる。
音色の変化、ダイナミックな表現、微妙な揺らぎのような歌い方、
どれを取ってもドビュッシーの表情の魅力が
本当によく伝わってくるように思われるのだ。
バッハのときはペダリングに違和感があって、
楽器が悪いのか、私の場所(二階の最後尾)が良くなかったかと
いろいろ理由を考えていたのだが、ドビュッシーのペダリングは、
実に多彩で、効かせるべき音にだけ効いていて、
本当に見事だったと思った。

アンコールはバッハ『目覚めよと呼ぶ声あり』
最後にこれを弾いてリサイタルを閉じるということは、
私の感触とは違って、ブーニンは今、バッハへの思い入れが深いのだろうか。
このタイミングなら、ドビュッシーの『ベルガマスク組曲』から何か、
『プレリュード』とか『月の光』あたりを最後に聴きたかったが、
しかし、これはこれで、クールダウンの一曲として心地よかったのも本当だ。


ブーニンは85年以降の数年間、あまりにも日本で騒がれ、
アーティストとしての生活すら脅かされそうな印象があったが、
よくぞここまで来られたと、昨夜は私の側に勝手な感慨があった。
ブーニン本人にも、きっと幾多の困難な課題がこれまであり、
そうしたものを彼なりに乗り越えてきたのが今の姿だと思った。
そして、ブーニンの演奏を、これからも聴きたいし、
デビューから聞いてきた聴衆のひとりとしては、
今後、彼が年を重ねていくところを、追い続けたいものだと思った。

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音羽会からのお知らせによると、今年は、
音羽会クリスマスパーティーが行われるのだそうで、
旦那さんや菊ちゃんだけでなく、純子夫人もしのぶちゃんも
皆さんご出席になるご予定だそうだ。
くは~、なんて豪華な。行きたいな~~。
でも1月にサントリーホールに行かなくてはならないから、
そんな毎月毎月、東京遠征を敢行できる余裕は、今の私には無い。
ああ、ホンマにどうにかして『ころころっと』十億円入らんかと
私まで、ついつい妄想してしまったよ(泣)。

オマケに、音羽屋さんのところは、3月にはロンドン公演がある。
飛行機がおっかない旦那さんは海外なんか行かれないだろう、
と私は長年、タカをくくっていたのだが、ついに実現の運びとなった。
『NINAGAWA 十二夜』が、2009年3月24日(火)~28日(土)に
バービカン・シアターで公演されるのだ。
『ころころっと』入ろうものなら、私なんか5公演全部観るのだがな。

『NINAGAWA 十二夜』公式サイト

音羽会企画による観劇ツアーも勿論あって、
全部で6日間の旅程、滞在先のホテルはメイフェア地区だそうだ。
メイフェア、ああ、昔ポゴレリチが住んでいた・・・。
そういえばポゴレリチはバービカンで弾いたことだってあった。
だいたい、ロンドンといえば、ポゴ氏のみならず、
ふれで先生(フレディ・マーキュリー)ゆかりの場所もいろいろあるし、
なんだかもう、私はこんなところに行ったら、当分帰って来られないよ。

ちなみに、ツアーパンフによると、ロンドン6日間で
およそ旅行費用は30万円前後の設定になっているのだが、
これがファーストクラスで行くとなると、なんと、
190万円ほど追加になるのだそうだ。
ビジネスクラスでもだいたい70万円ほどよけいにかかるという。
海外旅行費用の大半は、つまるところ飛行機代なのだ。
やはり、一回行ったら、長く滞在しないと損だ。

いや、まあ。
損かトクかと真剣に厳密に云々している人間には、
渡欧は現実問題として難しい、ということだが(泣)。


真面目な話、『NINAGAWA 十二夜』は、来年7月に松竹座で観ます。

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こちらに書くのが遅くなったが、7日(金)に、
姑がついに退院できた。三ヶ月弱の入院生活だった。

8月18日に呼吸困難で個人病院に入院し、誤嚥性肺炎と診断され、
発熱や炎症所見のおさまった9月3日に、胃瘻造設の手術を受けたが、
これが引き金となって、もともと胃にあった「びらん」から出血し、
9月いっぱいはその対応に追われてしまった。
胃からの断続的な出血と、発熱の繰り返し、
栄養源は点滴だけという状態で、姑は一時期かなり衰弱し、
貧血が進んだので輸血を複数回受けた。
9月は持久戦で、まさに体力の限界での闘いだったと思う。

落ち着いて来たのは10月に入ってからで、
胃の出血がなくなったので、まず一日に白湯200ml×3回から始め、
次に栄養剤を胃瘻から注入することが出来るようになった。
それに連れて、呼吸機能が良くなって酸素マスクが取れ、
尿量も安定して導尿の必要がなくなり、
栄養補給が順調に進んだので最後には点滴も不要になった。

発熱だけは断続的にあったが、残暑の毎日が終わって涼しくなると、
だんだんに平熱が維持できるようになったので、どうやら、
外気温に連動して発熱したり解熱したりしていたようだった。
・・・これから真冬になると、おばーちゃんは冬眠するのか(^^ゞ。

9月頃は低カリウム状態にもなり、話しかけても反応がなく、
痰を吸引されて不快な筈なのに、なんの意思表示もなかったが、
10月頃から、家族の顔を見ると笑顔でうなずくようになり、
言葉ははっきりしないまでも、声が出るようになった。
10月下旬には、吸入や吸引のとき眉根を寄せて顔を背けたり、
離床のリハビリのために体を起こすと、
「そがいに、起こさんで、ええよ」
と言うことも出来て、『戻ってきた』手応えがあるようになった。

11月4日の血液検査の結果が良好だったことから、
「医療の介入が必要ないところまで来た」
との主治医の先生のご判断で、退院が決まった。
退院直前の説明では、
「現時点では体調は安定しているので、施設の介助があるなら、
病院を離れても生活することは可能な状態と判断している。
慢性気管支炎だけは完全には取れないので、微熱が出るかもしれないが、
これも全身的に悪影響を及ぼすことはないと考えている。
今後も痰や唾液の誤嚥による肺炎を起こす可能性は常にあり、
その際には速やかに医療機関に搬送して治療を受ける必要がある」
ということだった。
この個人病院で今後また受け入れて頂けることになったので、
姑の状態にはこれからもよく注意し、早めの対処を心がけたいと思った。

ということで、7日の昼に、病院の皆様にお礼のご挨拶をして、
以前からお世話になっている特養T園の方に車で迎えに来て頂き、
姑はすっかり晩秋の風景になった街の中へ、三ヶ月ぶりに、出た。
ストレッチャーに寝たままだったが、姑は初めて病院を離れたのだ。
8月の入院のとき着ていた服は、当然のことながら夏服だったので、
この日は私が家から持っていった厚いズボンとセーターを身につけ、
ふくらはぎまである、ゆるゆるのソックスをはいてもらった。

T園に到着したら、園長さんや職員さんや看護師さんが出迎えて下さった。
二階の居室フロアに上がったら、ここでも介護職員さんが一斉に
「おめでとう~~!!」「おかえりなさ~い!!」
と姑を囲んで出迎えて下さり、姑は寝たままそれを見て、
ぱあっと満開になったような笑顔を見せた。
私はそれを見たら、もう、なんだか、やたらと涙が出て困った。
こんな明るい、元気な場所に、また帰ってくることが出来たのだ。

ばーちゃんは、偉かった。強かった。
80歳の、寝たきりの、細いおばあちゃんだけど、
苦痛があっても、誰のことも怒ったりせず、イライラもせず、
意識がはっきりしているときは笑顔さえ見せてくれて、
三ヶ月もの長い間、頑張ってくれたのだ。
勿論、病院の先生やスタッフの方々の適切な対処の御陰だと思うし、
待っていて下さったT園の方々の応援も大きかった。
私は病院の看護師さんが部屋に来て下さるたびにブツブツと訴え、
家ではT園のスタッフさんに電話でメソメソとよく愚痴った。
また、ここでもいろいろなことを書き殴って、
その都度、たくさんの方から、励まして頂いた。

皆様、本当にありがとうございました!
御陰様で、こうして、元いた場所に、帰ってくることが出来ました。

そして、ばーちゃん、立派だったぞ~~!!!偉いっっっ!!!

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イーヴォ・ポゴレリチの来日公演で、今のところわかっているのは
2009年1月19日(月)サントリーホール、これ一回しかないのだが、
ヴァレンティーナ・リシッツァも同じ時期に来日するよな?と思い出し、
彼女の公式サイトのスケジュールを見に行ってみたらば。

Jan 19 Tokyo, Japan Recital

こんなん、アリか。
滅多に来ない二人が、それぞれ来日するのは良いが、
どちらも一回だけのリサイタルで、両方とも1月19日に東京か。
リシッツァの招聘元も会場も、まだ調べていないのだが、
ポゴレリチ19時は既に発表になっているので、
リシッツァがマチネでない限り、両方とも聴くことは不可能だ。
月曜平日に、そんな公演は、あり得ないよな。

っていうか、昼にリシッツァ、夜にポゴレリチだなんて、
もし万一、聴いたら私はもう、全身、外から中から滅多切りにされ、
聴き手として復活不可能になるだろう。
南斗と北斗の両方の将に立て続けにヤられるようなものだから。


しかし、それにしてもリシッツァの件、間違いないのだろうか。
聞き逃すのは、あまりにも、惜しいのだが・・・

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清志郎ファンにとって、恩人であり同志とも言えた、
筑紫哲也さんが、7日、亡くなった。
私は思想的には、この方の考えに同調したことはほぼ無いが、
ジャーナリストとしての先駆的な姿勢には敬意を表していたし、
清志郎との長い友情にも、私なりに親しみと感謝を感じていた。

今年3月の清志郎京都公演のときに、「前説」として筑紫さんが、
京都会館第一ホールのステージに立たれたのだが、
あれが私にとって、生で拝見した最後の筑紫さんの姿になった。

アレ誰??筑紫哲也?筑紫哲也だ!と大騒ぎの客席を前に、
帽子を被った筑紫さんは、いつもの調子で、
「前説というのは会場の空気を温めるためにやるんだけど、
もうこんなに盛り上がっている中での前説は、じらす意味もあり」
「宝くじは買わない、というのがありましたが、
宝くじより貴重な、きょうのチケットを手に入れた皆さんに・・・」
「私と清志郎さんとはガン友です」
「メル友ってのはわりと簡単になれると思うんだけど、
『ガン友』ってのはなかなかなれないよ」
「今日の多事争論・・・じゃなかった、前説は、こんなところです!」
等々と語られた。

そのときの声も様子も、全くご病人のようではなく、
私は、この方もまた治癒間近なんだと勝手に思ったものだった。
清志郎も筑紫さんも、一時期は治療のためにお休みをされても、
こうして良くなってちゃんと復帰されて元通りになるんだ、
と私は、目の前の出来事の明るい面だけを見て、
自分本位な納得をして喜んでいた。

清志郎ショック“同士”の死「とても残念」(スポニチ)
『突然の訃報に驚いています。
共に病気と闘っているという仲間意識があったのでとても残念です』
『長い間お疲れさまでした。ゆっくり休んでください』
『あのやわらかな笑顔が忘れられません。ありがとうございました』

療養中である清志郎の動静は、このところ報道されなかったが、
久々に見ることのできた現在の彼の言葉が、
筑紫さんへの追悼になろうとは、
3月の京都会館のときには、誰も予想もしていなかったと思う。
今は、ただ、筑紫さんのご冥福を、心からお祈り申し上げたい。

****************

筑紫哲也さんは、元ヘビースモーカーだったそうで、
かつては一日三箱を喫うペースだったと記事に書いてあった。
私は全くタバコに縁がないので、ヒト箱何本なのか知らず、
検索してわかった、一箱20本だった(苦笑)。
だから三箱なら毎日60本ほどだったということだ。

喫煙が各種癌の原因になるということは誰でも知っているし、
とりわけ肺ガンの発症と喫煙本数には密接な関係があると
以前から報道されており、どんな庶民でも知っている。
ジャーナリストだった筑紫さんがそれらに対して無知だった、
とは全く考えられない。
「リスクも何もかも承知の上だったろうよ」
と主人は言った。

だが、私は、ふとここで『そうだろうか?』と思った。
かつてやはり毎日三箱は消費していた舅は、
食道ガンの手術を終えたとき、しみじみと、
「若い頃は仕事が忙しかったし、よぅ外食しては、
脂っこい焼肉やなんか、よけい食いよった。
あれがガンの原因になったかのぅ」
と、煙草を次々と喫いながら、真面目に反省していたものだ。

おとーさま、それはこの際、取るに足りないことだったのでは、
と私は内心思った。言わなかったけど。
知識と実感なんて、このくらいには乖離できるものよ(苦笑)。

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ポゴレリチ来日のニュースを知ったのが昨日の24時直前で、
日本のポゴ仲間にすぐさま喋りたい衝動にかられたが深夜で、
仕方がないから自分ちを含め思いつく限りのサイトに情報をUPし、
それから、自分の知っている中でもかなり熱いファンである、
ザグレブ在住クロアチア人の大学生の男の子にメールした。

と言っても先方と私が共有できる言語は英語しかないので、
いつものように勢いだけの物凄いメールになった。

「マエストロが日本にくる急に1月来年 今晩知った凄く嬉しい行きます」

先方からは一時間で返信が来た。
時差を考えると、むこうはまさに昼間だったのだ。

「ヨシコ!ベリーマッチグレートなニュースだ、良かったね!!
ヨーロッパのプログラムは、かくかくしかじかだった。
行ったら感想を聞かせてね。グレートだ、良かった良かった!!」
むこうも凄い英語だった。

顔も知らないクロアチア少年と変な友情を育んでいる自分が、可笑しかった。

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ついさっき知った。ビックリだ。
来るとなったら突然来るよと冗談を言っていたら、本当だった。

カジモトイープラス
上記リンクが切れていた場合は、カジモトイープラスのトップから、
「ポゴレリッチ」で検索して頂きましたら情報が出ます。
また、チケットぴあでも「ポゴレリッチ」で掲載されています。

2009年1月19日(月)
サントリーホール(大) (東京都)
ショパン:夜想曲 変ホ長調 作品55-2
ショパン:ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 作品58
リスト:メフィスト・ワルツ第1番
シベリウス:悲しきワルツ
ラヴェル:夜のガスパール

チケットは
会員限定先行受付 : 11/14(金)12:00 ~ 11/18(火)18:00
一般発売 : 11/22(土)10:00 ~ 


私はこれを知った今さっきから正気を失っている。
明日が休みで本当に良かった(涙)。

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番外  


・『CHICAGO』のママ・モートン役の田中利花さんが、
「記者達が来たわよ」の台詞を出だしで思いっきり噛んでおられて
プロの舞台でもここまで真面目に噛むことってあるんだと
私は感心してしまったのだが、なんとそのあとの『私生活』で、
エリオット役の内野聖陽さんまでも、一幕だけで二度も噛んで、
私はまたまた驚いてしまった。
思うのだが、噛んでもつっかかっても、言い直しをしないほうが、
まだしも「なかったこと」にできるのではないだろうか。
何かワケのわからない発音の箇所があっても、観客は案外気にしていないし、
それより同じ台詞を二度言ったりして流れを損なうほうが、
かえって目立ってしまうように思った。
ほとんど反射的に言い直してしまうものなのかもしれないが・・・。

・『CHICAGO』梅田芸術劇場の二階席は、上演時に暗いのは当然としても、
開演前や休憩時までも、客席の照明がひどく暗いのには閉口した。
一階で観劇した友人は、そんなことはなかったと言っていたので、
二階だけが暗かったのだろうか。
ロビーから二階客席に入った途端、席を探すのも、つらいものがあった。
私の背後でも、先に来ていた年配の女性ふたりは、
完全に違う席に座っていて、後からその席のお客さんが来て、
「え、違いまっかいな」
「そっちやと思うんですけど。ごめんなさい」
「あら~、えらいこと、すんまへん。ぬくめてしもて
と、イリノイ州シカゴとは懸け離れたナニワな会話が
後ろのほうで展開され、私は悶絶した。

・『私生活』の休憩時、近くの席にいた女性が連れの男性に、
「凄いわねえ、よくあんなにペラペラペラペラって台詞が言えるわね」
と感想を仰っていた。
私は内心、『CHICAGO』のビリー(河村隆一)の言った、
「そこで僕が正義とナントカについて喋る、べら、べら、べら」
の箇所を思い出して、苦笑しそうになった。
しかし奥さん、この舞台はいずれ劣らぬ名優揃いであるうえ、
しのぶちゃんってのがまた、際だって滑舌がよろしいのですよ。
あれだけ声色を使い分けて、小さい台詞もすべて客席に届ける、
というのは、苦もなくやっているようでいて、
その実、驚嘆するほど凄い技術だと思いますよ~。

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