転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



主人の話。

主人がきょうの午後、市内の某書店で
いつものように少年サンデーを買って、
さぁ帰ろうとしたときだった。
目の前に、ガイドブックを手にした白人の中年女性がいて、
あ、と思った瞬間、主人は、その人と目が合ってしまった(汗)。

女性は、旅行で広島に来たばかりらしかった。
ホテル○○に行きたい、と彼女は英語で言った。
主人は英語は不自由極まるが、市内には詳しかったから、
彼女の言うホテルがどこかは、知っていた。
ここ
と主人は相手の地図上でその場所を指してあげたが、
女性は、自分が今どこにいるかも定かでなく、
地図を見ただけでは目的地に行けない、
という意味の英語を言った(と、少なくとも主人はそう理解した)。

「アー、ゴー・ストレイト・ディス・ストリート、
アンド、ターン・レフト・オーバーゼア」
と主人は言ってみたそうだが、
『over there(あそこ)』と言われたって、どこがあそこなんだか、
土地勘の無い者が景色を見たってわかるわけがなかった。

それで、ここからが主人のエライところなのだが、彼は果敢にも、
カモーーーン
と中指を立て、・・・じゃない、手招きして、
その女性を現地まで案内することにした。
女性は喜んでついて来た。

知らない土地で、得体の知れない男に道案内を頼んで、
もし変な場所に連れ込まれたらどうするつもりだったのか、
と私は話を聞いて、その女性の不用心さに驚いたが、
日本は治安が良いとガイドブックには書いてあったのか、
それとも主人が良い人オーラを出しまくっていたのか。

「ホエア・ドゥー・ユー・カム・フロム?」
と歩きながら主人が尋ねると、相手は、
「I am from Denmark」
と答えた。
デンマークから来日し、長崎~広島~大阪を巡る、
観光旅行をしているとのことだった。

目的のホテルは、そう遠くなかったので、
見えるところまで主人は一緒に歩いた。
「ザット・イズ・ユア・ホテル!!」
女性は、Thank you very much と、いたく喜んでくれたそうだ。
主人は最後まで手を抜かず、
「ハブ・ア・ナイス・トリップ!」
とも付け加えたそうだ。

カンペキじゃないでスか。

「あのご婦人が、コペンハーゲンにお城を持つ大富豪で、
見知らぬ土地で大変親切にしてくれたワシを、恩人じゃ言うてから、
ころころっと、10億円、くれんかな~~」
と、帰宅した怪獣ころもんはアイスをなめながら言った。

ちょっと前まで、
「トイレ貸してやったオヤジが、アラブの石油王だったら、
あとで礼じゃ言うて、ワシに油田の権利を譲ってくれるとか・・・」
とワケのわからない夢を語っていたものだが、
北欧貴族のマダムに、英語で、道をお教えして、
・・・とちょっとレベルアップした感のある、ころもんだった。

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広島球場の跡地に劇場を 商議所が市に提案(SANSPO)

移転する広島市民球場の跡地が何になるのかについて、
「劇団四季が公演できる劇場が建つかも?」という情報と、
上記記事のリンクとを、お友達の某氏が、きょう、教えて下さった。
お盆このかた、私は全く世相について行けていなかったのだが、
こういう話になっていたのかと、今更ながら知った。

『「『新平和公園』の実現に向けて」と題し、平和記念公園や原爆ドームに近い跡地西側を「緑地ゾーン」、東側を「にぎわいゾーン」に分ける。』『にぎわいゾーンにはシアターのほか、観光案内や休憩のできるレストハウスなどを整備。緑地ゾーンは横断歩道の幅を50メートルに広げ、御影石を敷くなどしてドームとの調和を図る。景観上の配慮から商議所ビルの移転も検討する。』

思い返せば、旧広島大学跡地も、放送大学が細々と利用したあと、
結局、マンションにするしかなく、
しかも大手のアーバンは倒産して計画頓挫、
という見苦しいテイタラクだというのに、
市民球場跡地という、広島市内でも超・超一等地に対して、
『緑地ゾーン』だなどと、一銭にもならない転用しか考えつかないとは、
広島市も本当にオワリだなと私は大変哀しくなった。

『秋葉市長は大田会頭に対し「世界遺産である原爆ドームと、都市的なにぎわいとのバランスがとれるよう議論したい」と前向きな姿勢を示した。』

既に市街地に緑地は腐るほどあり、バランスは全く心配ないので、
それより何より、『都市的なにぎわい』のほうを
全面に押し出して頂きたいというのが私の希望だ。
これに関する市民投票はないのだろうか(いきなり暴論)。

市民球場の土地は国有地だそうだから、
私の個人史から言えば、あの伝染病の出そうな官舎を
移転させ建て直して欲しいくらいだが
某議員宿舎じゃないので、公務員の住環境改善など絶対に有り得ず、
「官舎の建て直しは築何十年になろうと許可されません。良くて補修工事」
と営繕も言っていたことだし(爆)、これは諦めるとして、真面目な話、
今の、バスセンターを新築するなり拡張するなりしてはどうだろうか?
これには何か法的規制があるのだろうか。

現バスセンターは、よく機能しているとは思うが、もうひどく古いし、
狭くてバスが停車位置に困ったり、渋滞したりしているので、
いっそ福岡のバスセンター同様、乗り場が空調の効いた室内にあるような、
新しく快適で、広いバスセンターが出来たら良いのではないかと思う。
バリアフリーを徹底し、エレベーター、動く歩道のような設備も充実させて。
そして勿論、この建物は地下街やそごう、アストラムラインに繋ぐのだ。
そうすれば、あの閑古鳥の鳴くシャレオも、少しは復興できるのでは?
シャレオの地下街を広島駅まで延長できれば更に良いと思う。

とは言え、カルビーみたいに成功した企業からは広島は見捨てられ、
現状では大手と言える地元企業がマツダしかないので、
そもそもお金の出どころが無いのだろうとは思う。
しかしいずれにしても、平和公園にすがりついていては広島はモたないし、
また、観光事業にせよ「平和」を使って商売するのは違うと私は思う。
「平和」を切り離した別の次元で、商業的な都市計画を考えていかないと、
広島は廃れ、山陽・中国の中心は名実ともに岡山しかなくなるだろう。
現に、交通の拠点はとっくに岡山に集中してしまっているではないか。

私自身は舞台を見るのは趣味だから、ミュージカルシアターは嬉しいが、
郵便貯金ホールも厚生年金会館も、皆、お金がなくて倒れそうになり
文化事業の多くをことごとく失敗している広島市で、
そんな新たな劇場を維持して行けるのか、私にはとても不安だ。
某巨大掲示板に、ZEPPを呼べ、という案があって、
個人的にはこれに大変、賛成なのだけど(^_^;。

本当は私は、アジア大会のときにできたいろんなもん(爆)が無かったら、
市民球場を現在の立地のままで拡大できただろうに、
と、そのほうが悔やまれてならないのだが、
これはもう、言っても仕方ないので・・・。

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思いついて、ヒルビリー・バップスの曲が何か新しく
YouTubeにUpされていないかなと思って検索してみたら、
前には見たことのなかった、テレビ・クリップの、
『真夜中をつっぱしれ』があった。
何度聴いても、これは本当に名曲だと思う。
ロカビリーを、これほどのセンスとインパクトを持って、
演奏したバンドは、ちょっとなかなか見当たらないだろう。

HILLBILLY BOPS 真夜中をつっぱしれ<tv clip>(YouTube)

で、見て、本当に今更気づいて驚いたのだが、
これって、作曲者が「肝沢幅二」
「肝沢幅一」は清志郎のペンネームなのだが、
「肝沢幅二」も清志郎ですか??
それとも肝沢ナンバー2は別の人???

調べてみると、杏子の『二十歳のままで・・・』とか、
元ちとせの曲もいろいろと「肝沢幅二」が作曲しているようなのだが、
このあたり、清志郎の活動範囲なんだろうか?
曲想も、これってイマーノ先生なのかな???と、
ちょっと首をかしげてしまうところが、あるのだが・・・。

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このところ、姑の病室に座っている間、時間だけはあったので、
『カラマーゾフの兄弟』(亀山郁夫・訳、光文社)全5巻を読んだ。
辿れば高校1年生のときに新潮社版のを買って、三分の一も読めず
(三兄弟と父親以外の、人物関係がどうしても把握できなかった・呆)、
今年の初め、新訳が出たのだからと購入して、また一巻の途中で挫折
(少しずつ読んでいたら、最初のほうの設定が思い出せなくなった・爆)、
これはちょっと、腰を据えて一気に読まないと駄目だなと思い、
今回、毎日毎日、病院で何時間も過ごす間に読むことにした。

本編を読み終えてから、もう一度、
作者による序文と、訳者・亀山氏による解説とを改めて読むと、
つまりこの小説は未完のものだったのだ、ということがよくわかった。
当初の構想としては、三男アレクセイ・カラマーゾフの一代記を、
「第一の小説」「第二の小説」のふたつにわけて書く筈だったのが、
「第一の小説」を書き終わった時点で作者が急逝してしまったために、
「第二の小説」は、全く書かれないままで終わってしまった。
つまり、現在『カラマーゾフの兄弟』として読み継がれているのは、
その「第一の小説」の部分だけなのだ。

道理で、一代記どころか、この話はほんの数日間の事件を書いただけだし、
主人公という割には、読み終えて鮮烈だったのは、
少なくとも私にとってはアレクセイではなかった。
彼は物語のほとんどの場面に存在してはいたが、
彼自身のドラマがあったと言えるのは、
おそらく、尊敬するゾシマ長老が亡くなったときだけで、
あとは終始、淡々と、アレクセイらしいアレクセイのままだった。

エピソードの多くは、解決しないまま投げ出されていて、
終盤で突然、悪に目覚めちゃったリーザちゃんはどうなるの?とか、
思わせぶりなことをいっぱいやってた早熟少年コーリャは、それで?とか
ミウーソフさんやホフラコーワ夫人は、これっきりスか?とか、
カテリーナさんは、それで解決したんでしょうか?とか、
様々な疑問が、私には残った。
この「第一の小説」でとにもかくにも決着がついたのは、
スメルジャコフの物語だけだったのではないだろうか。

「第一の小説」に関する限り、私にとって最も印象的だったのは、
長男ドミートリー・カラマーゾフだった。
三兄弟で彼だけ母親が違っていて、彼の前半生は数奇で躍動的であり、
愛する女性を父親に取られそうになる苦悩も、狂おしいものだった。
信仰の問題や、「父殺し」の潜在的な心理、
心の中にある神と悪魔の対比、『ファウスト』の連想、
などなど、哲学的な側面を除外して考えたら、
単純には、ドミートリーの一代記のほうが面白かったのでは、
・・・とフトドキな読者である私は、読みながら、つい考えてしまった。
極東のテキトーなオバちゃんの読書なんて、こんなもんです(爆)。
ドストエフスキー先生、すみません。
これから、もう一回、読み直して、出直して来ます。

・・・・・・と思っていたら、こんなのが、あった。
宝塚歌劇雪組『カラマーゾフの兄弟』
配役を見ると、主演男役の水夏希が演じるのは長男ドミートリーだ。
ほれ見ろっ。やっぱり彼が一番印象的だろうが!
熱くワイルドなドミートリーは、きっと水くんには似合うと思う。
だが話のほうは、短い上演時間では、きっと『犯人は誰だ!』がメインの、
恋愛サスペンスにならざるを得ないだろう。
だって、次男イワンの取り憑かれたような4時間朗読があったり、
ゾシマおじーさんの若かりし頃の尋常ならざる体験を入れたりしたら、
それこそ何日にもわたって上演しないといけなくなるものな(汗)。
これはこれで、とてもタイムリーで、楽しみではあるけれど。

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広島市街地は、今、ちょっとばかり、えらいことになっている。
広島市民球場界隈の人混みと熱狂が、ただごとでない。
球場ゲートから延々と、長い長いとぐろを巻く人々の列、
球場座席券はとっくに完売状態だが、
それでも一縷の望みをかけて当日券を求める人たちと、
既に自由席券を持っていて場所取りのために並んでいる観客だ。
市民球場の入場者数は、まさに歴史を塗り替える勢いで伸びており、
市内の主立ったホテルは、この週末、軒並み満室だそうだ
(宿泊状況はタクシーの運転手さん情報)。

市民球場がついに長い歴史の幕を閉じようとしている今、
カープの単独3位浮上という、昨今にない目覚ましい展開になり、
地元ファンは勿論、県外在住の広島出身者・カープファンも皆、
この瞬間を見逃してなるものか!という思いにかられて集結したのだ。

私は、もともとスポーツに理解のない人間で、
純粋な意味での野球ファンだったことはない。
しかし、小学生時代から広島で暮らし、
広島カープを愛する広島市民の熱意には、我知らず強い影響を受け、
カープが広島にとってどれだけ意味のある存在であるかが、
よくよくわかるようになった。

勝てる球団や華やかなチームには、全国どこでもファンがいるし、
若い選手たちも望んで入団してくれる。
しかし広島カープを愛する人たちの気持ちは、そのようなものとは違う。
「逆指名やFA制じゃあ、カープに入りたがる選手はおらんわいや」
とファンである市民でさえ言っている。

一向に勝てなくても、古びた狭い球場で雨に打たれても、
市民がひたすらカープを、ホームである市民球場を愛して来たのは、
ただただ、「広島だから」だ。
親会社もなく、メディアからも決して優遇されない市民球団を、
広島市民だからこそ支援し、熱く見守って来たのだ。
広島市長や地元財界は、このことをもっと重大に考えるべきだ、
と私は常々思っている。
ほかの何が、ほかの誰が、広島市民の気分をこれだけ高揚させ、
街の空気を変えることができるだろうか。

前にも書いたが、既に市内から広島大学と広島空港を失い、
都市計画としては「失敗」の方向に向かいつつある広島市にとって、
最後の拠り所は広島カープだと、冗談でなく私は思っている。

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完璧に風邪症状になって、37度ちょっと熱もあったので、
きょうは初めて、病院通いを休んで、寝た。
病院から何も言って来ないところをみると、
今のところ、少なくとも大きな変化はないのだろう。
顔を見ないと、どうにも心配になるのだが、
風邪ウィルスをまき散らす私が出入りするより、
完全看護の病院にすべてお任せするほうが良いに決まっている。
・・・と思って、きょうは、我慢した。

という具合に、風邪で臥せっていて、ウツウツした気分だったが、
捨てる神あれば拾う神あり・禍福はあざなえる縄のごとし(?)、
こんなときに限って、道楽関係では良いニュースがあった。
前回発熱した8月下旬とよく似た状況で、
今回もまた面白い記事のURLを某氏から教えて頂いたのだ
(ありがとうございました!)。

Ivo Pogorelich's first press conference in Poland

フレデリック・ショパン協会のサイト内のNEWSのコーナーなのだが、
ポゴレリチが8月16日に、記者会見を行ったときの模様が、
8枚の写真とともに、簡潔な英語でUPされている。

この夏ワルシャワで開催された音楽祭'Chopin and His Europe'で
ポゴレリチは初日に演奏をしたのだが、
そのあと、御本人の要請で、この記者会見が設定されたそうだ。
記事によれば、10月26日に追加公演のようなカタチで
再度、リサイタルを行うとのことで、
予定されていたのに今回弾かなかった、ショパンのソナタと夜想曲も、
次の演奏会では弾くと話したということだ。
ほかに、演奏予定曲目は、リストのメフィストワルツ、
シベリウスの「悲しきワルツ」、ラヴェルのガスパール。

・・・・・本人臨席の記者会見で弾くと言っているのだから、
本当にこれらの曲を弾く気はあるということだな(爆)。

さらに、10月27日~29日には、ワルシャワで、
ポーランドの若いピアニスト三人を受講者として、
マスタークラスを開く予定だそうだ。

2007年1月の来日時に関する限り、ポゴレリチ御本人の演奏会は
賛否両論があり、必ずしも好評とは言えない面があったが、
軽井沢でのマスタークラスは、総じて大変に評判の良いものだった。
演奏家としての彼とは全く違うところが、指導者としての彼にはあり、
マスタークラスにおいて、それが良く発揮されていたようだった。
ポーランドは遠くて、とても聴きに行くことはできないが、
どなたかお出かけになれる方がいらっしゃいましたら、
是非是非、お話をお聴かせ下さい<(_ _)>。

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風邪  


朝起きたときはなんともなかったのだが、
きょうは、昼前から咽喉がヒリヒリして来て、
風邪の始まりの症状そのものになってしまった。

先週末から娘が風邪を引いているので
ウツされてしまったようだ。
8月下旬以来、毎日欠かさず姑の病院に通っていたから
私のほうの心身の疲れも、いつもよりあったと思う。

明日は、できれば、休もうと思った。

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夜、QUEEN ROCK MONTREAL cine sound ver.を観てきた。
スクリーンいっぱいに広がる、在りし日のフレディの姿、
27年も前のQUEENのライブ風景に、感無量だった。
1981年モントリオール公演の映像、フレディの亡くなる十年前だ。

81年と言えば、アルバムではだいたい『The Game』までの時代で、
華麗な活動の頂点を極めた70年代が終わり、
よりシンプルなスタイルに変わっていった時期だった。
私は生でQUEENに接したのは85年5月の来日公演だけなのだが、
彼らの黄金期と呼べるのは、恐らくこの81年前後だっただろうと思う。

セットリストがプログラムに掲載されているのだが、
この時期としてはこれ以上望めないほどの充実ぶりで、
前期QUEENのエッセンスのすべてが聴ける内容になっていた。
QUEENが、ハードロックもやればオールディーズも手がけ、
なおかつ時代感覚を取り入れたサウンド志向もあった、
非常に幅広いバンドだったことに、改めて気づかされた。
『監獄ロック』をこの時期にやっていたことを
私は記事では読んだがすっかり忘れていたので、
『Crazy Little Thing Called Love』の次に、
イントロが突然出てきたときには意外な選曲に面食らってしまった。

こんな鮮やかなステージを見せたフレディが、死んでしまった、
――と私はスクリーンに見入りながら、何度も思った。
フレディは、私たちの前から、居なくなった。
美しかった彼の声も、体も、もはや、失われたのだ。
けれども映像の中に留められた彼の姿は、やはり鮮烈だった。
フレディは、今になっても、ほかの誰も出来ないことを
私たちに向かって、してくれるのだった。

May Freddie be forever
and God bless him………!

************

さて、帰りに、この映画のプログラムがあれば欲しいと思い、
売店に寄って尋ねてみた。

転妻「あのー、クイーンの、プログラム、ありますか」
店員「プログラムですか?」
転妻「この映画の、曲目とか解説なんかが書いてある冊子です」
店員「ちょっとお待ち下さい」

店員さんは、カウンターの奥に引っ込んで、
しばらくして、手ぶらで出てきて、答えた。

店員「あるようです

をいっ、だったら、なんで一冊、持って出て来ないかね(--#)。
私が『そうですか。安心しました』と言い残して帰るとでも思ったか。

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娘の話。

娘「○○先生が、『デトロイト・メタル・シティ』、観に行ったんと」
私「ほー」
娘「面白かったと」
私「授業で、そういう話が出たん?」
娘「うん。んで、『自分も、もっと夢を与えるような話を、
 授業で、しないといかんなと、反省した』って」

なるほど。
先生のお仕事にあてはめて考えたら、そうなりますね。
人に夢を見せることができるなんて素晴らしいと、
クラウザーさんのお母さんも仰ってましたよね。
・・・ま、うちの場合は、そゆこと以前に、
いくら夢を与えるイイ話をして頂いたところで、
成績見た瞬間に、夢も希望も吹っ飛ぶんだけどね(--#)。

娘「で、そのあと、授業は、いつもと、なんも変わらんかった

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きょうも、姑の体調は、相変わらずだった。
胃からの出血が今のところ止まっているので、
それだけは、大変良いことなのだが、
あとは、はかばかしくなく、今日も発熱37度6分だった。

焦って経管栄養を始めると、胃を悪くするのだろうから、
ここは、じりじりとひたすら待つしかないのだろうが、
毎日毎日、発熱と呼吸苦とで弱っている姑を、
ただ眺めていることしか出来ないのは、
短気な私にとって精神的にかなりつらいものがある。

早く、胃潰瘍が落ち着いたと判断できるところまでこぎつけて、
胃瘻から栄養が取れるようになることを祈るのみだ。
でも「早く」と言ったって、先日の主治医の先生のお話からは、
多分、まだあと一週間くらいは、胃の具合を観察しないと駄目で、
ただただ、この状態のままで、待つ以外に、どうしようもない。
姑の、残っている体力との勝負、という感じがする。

病院の帰りに、バスを待っていたら、
「大学病院」行きが通り過ぎていって、
舅がいた頃、毎日毎日、大学病院に行ったなあ、と、ふと思った。
舅が緩和ケアのために個人病院に入ってからは、
連日、「商工センター」行きに乗ったものだった。

そもそも、舅姑のための病院通いの初めは、6年前のことで、
ふたりがほぼ同時に倒れてお世話になった最初の病院は、五日市方面だった。
次に、転勤先だった今治に二人を呼んでからは、
舅のいる松山の四国がんセンターに、特急で通い、
ダブルヘッダーで今治市内の姑のいる個人病院に行ったりしていた。
広島に帰ってきて、姑が敗血症で危なくなりかけたときは舟入に通ったし、
脳梗塞発作で反応がなくなったときは廿日市、
それらの合間合間に、前述の、大学病院と、緩和ケアとがあって、
そして今は、西区の某所。
このうちのいくつかは、こちらが場所を選んだのではなく、
そこしか受け入れてくれるところがなかったから、
という理由で決まった入院先だった。

あと、行ってないのは、どっち方面?という感じだ(爆)。

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