転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



日航ジャンボ機墜落21年、神流川で鎮魂の灯ろう流し(読売新聞)

この日航123便墜落事故で亡くなった、
河口博次さん(当時52歳)の遺書
『ママ こんな事になるとは残念だ 
さようなら 子供達の事をよろしくたのむ
今六時半だ 飛行機は まわりながら 急速に降下中だ
本当に今迄は 幸せな人生だった と感謝している』
の文章が、以前、某掲示板で紹介されたことがあったが、そのとき、
『偽物じゃないの?飛行機が落ちるときに普通そんなの書けないでしょ』
というレスがついたことに、私は本当に驚いたものだった。
(悪意でわざと書いたのではない、と一応、仮定してだが)
今や、日航123便の事故やその報道を全く知らない世代が
当然のようにネットでカキコミなどする年齢になっていたのか!と。

1985年8月12日の日航123便墜落は、私にとって大きな衝撃だった。
私が航空機というものに興味を持つようになったのは、
皮肉なことにあの史上最悪の大事故がきっかけだった。
ジャンボジェットは、およそどういう仕組みで飛んでいるのか、
そのどこに不都合が起きたために123便は操縦不能に陥ったのか。
事故原因についての、運輸省航空事故調査委員会の発表内容が、
私の疑問に答えるものでなかったことも大変に意外だった。
そして事故当日及び翌日、墜落地点特定まで異様に時間を要し、
それが救助活動開始の遅れに繋がったとしか言えない状況など、
日航123便の墜落事故に関しては、事故後21年になる今もなお、
疑問点や問題点が多々未解決のままに残されている。


生存者のひとり落合由美さんの証言
これほど生々しく恐ろしい文章を私はほかに知らない。
致命的な事故が起こったときの機内の緊迫した状態や、
それでも最後まで冷静に職務に忠実であろうとする客室乗務員たち、
そして、輝くような真価を発揮した無名の人々がいたことを、
なんの作為もない彼女の言葉の数々が、鮮明に教えてくれる。

日航機墜落事故で亡くなった人の遺書とメモ書き
日航機墜落事故 東京-大阪123便 新聞見出しに見る20年間の記録より)
前掲の『ママ こんな事になるとは残念だ』の遺書も含め、
乗客らの絶筆が、現物の写真とともに掲載されている。
奇跡的に焼け残った紙片、血染めの紙袋は凄まじい。
一方で、ひとりのアシスタント・パーサーの残した、
不時着を想定したアナウンス・メモにも心を打たれる。

日本航空123便(JA8119号機)御巣鷹山墜落事件
事故全容のわかりやすい記録と、ボイス・レコーダーの内容が
様々な角度から検証され掲載されているサイト。
油圧系統がすべて使用不能になるという異常事態の中、
電気系統だけの操縦で、機体を立て直そうと試みた、
高浜機長・佐々木副操縦士・福田航空機関士の努力は、
筆舌に尽くしがたい。
なお、私の聞き間違いでなければ、この三名の方々のお子様方が、
現在、それぞれ操縦士や客室乗務員として勤務されている筈だ。
お父上の無念な思いを受け継ぐ、見事さを感じずにはいられない。

日航ジャンボ機JAL123便フラッシュ動画 製作:かわはぎ氏
上記ボイス・レコーダーの音声を、フラッシュ動画とともに再生し、
日航123便の垂直尾翼破損から墜落に至る過程を再現したサイト。
ダッチロール、フゴイド運動が実際にはどのようなものであったか、
エンジン出力の加減と、手動で動かせるギアとフラップのみで、
航空機の飛行を維持することがどれほど困難だったかが、
音声と視覚の両面から再確認できる。

日航機事故:元宝塚の娘へ…母が生い立ちなどつづり1冊に(毎日新聞)
犠牲者の中に、元・宝塚歌劇団の北原遥子さんがいらしたことは
宝塚ファンには忘れがたい出来事だったと思う。

Trackback ( 0 )



« 夕立だ~ 庭掃除 »