比較的冴えているときの母は、なかなか示唆に富んだことを言う。
本日の電話で母は、自分の心理状態について、
それなりに客観的に良い把握をしているところを見せていた。曰く、
「自分は91歳になり、目下、夫も居り、取り立てて生活に困ることもなく、
ここ(某ホーム)に居れば御飯も出てきて家事もすべてして貰えるし、
せねばならないことはひとつもなく、好きなことだけしていられるようになった。
自分に連なる人々は、それなりに皆、幸せになった。満足すべきと思う。
何も思い残すことはない。もはやいつ死んでも良い。
だのに、得体の知れない焦燥感に未だに追い立てられており、
『ああ、良い人生だった』『満足だ』と心が穏やかになることがない。
いくら考えてみても、何も不足はないし、
どうなれば自分が納得が行くのかも、わからない。たぶん、答えは無い。
仕方が無いから、『もう91ではないか、何もかも問題ない、思い煩うことなどない』
と自分に幾度も言い聞かせて過ごしている。
そうやって考え続けることも疲れたと最近はだんだん思うようになって、
ぼーっとしていよう、もう休もう、と以前よりは思えるようになった。」
まあ、アレだ、そのなんとも言えない焦燥感というか不満というのは、
つまるところ、「もう若くない」という一点に尽きるのではないか。
気付いてみれば、今の自分には「老い」しか無い。
将来を夢見ることのできた日々の輝きだけは、もはや取り戻せない。
という話なのでは。
それと半分は、母本人の性格に原因があんのやろな。
知らんけど(殴)。
何もかも忘れて開放されてみたい、というのは
若くてあれもこれもしなくてはならない、がんじがらめの境遇だから思うことで、
とうとう何もしなくて良くなってみると、残ったのは充足感どころではなかった。
御隠居で、世間に「職場」という居場所がなくなり、
自分が居なくても家族も世の中も回っている、
というのは、それはそれで解決のつかない虚無感に苛まれることだったようだ。
私にももし老後があったなら、おそらく同じようなメに遭うわけだが、
申し訳ないが今は、自由がなさ過ぎて首が回らないので、
観念的にしか理解して差し上げられない。申し訳ございませんね。
休みたかった時期には全く休むことが許されず、
いくら休んでも構わない境遇になったら、空しさに苛まれる。
皮肉なことだが仕方が無い。
母が自分で言っている通り、何もかも、もういいんだと自分に言い聞かせ、
少なくとも、取り返しのつかないことをしでかしてはいない、
という安心を繰り返し確かめ、自分をなだめるしかないだろう。
考え続けることに疲れたから、休もう、と思うようになったのは一種の解脱か。
あともうちょっとで悟りの境地に至れるかもね。
知らんけど(笑)。
なお、上記の話は、私が母の語りを400字にまとめたものである。
実際にはこれだけのことを言うのに、各逸話が5度は反復され、63分間かかった。
挙げ句に、母は、
「まあ、そうは言うても、誰にも迷惑かけとらんし、ええわ、と思て」
と話をしめくくった。
私の63分間を同時に消費したことについては、特に何も感じていない様子であった。
更にこの電話は、朝の6時33分に掛かってきたものである。
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