フランス革命時の著名な啓蒙学者ヴォルテールの言葉として記憶されてきた実に有名な言葉ですが、実際には彼はこうは言っていないのだそうです。
実際に言っていないのに後世まで残る。ということは逆にいかにこの言葉が真実をついているかを物語っていると思います。
次の記事をお読みになって、皆さんは正直どうお感じになるでしょうか。
東洋大学のキャンパス内に許可なく侵入したとして、警視庁公安部は4日、建造物侵入の疑いで、過激派・中核派系の全日本学生自治会総連合(全学連)活動家、内海佑一容疑者(38)と作部(さくべ)羊平容疑者(27)=ともに住所、職業不詳=の2人を逮捕した。調べに対し、2人は黙秘している。
逮捕容疑は、7月下旬、共謀して東京都文京区の東洋大学白山キャンパスの建物内に無断で侵入したとしている。同部によると、2人はキャンパスの建物内にあるサークル団体の部室を訪問し、中核派の機関紙「前進」や同派作成のビラを配布。
同部は、東洋大での中核派活動家の在籍を確認しておらず、2人が学生の勧誘を目的に大学に侵入したとみている。
「過激派」
「中核派系」
「許可なく侵入」
「無断で侵入」
「中核派の機関紙や同派作成のビラを配布」
だから、建造物侵入で逮捕されるのは当たり前だという印象を持たれましたか?
けれども、イラク戦争反対の市民が立川の自衛隊官舎の郵便ポストに自衛隊派兵反対のチラシを入れたことで、平和運動をしている市民が逮捕された事件についても、官舎を管理している管理権者の意思に反しているから逮捕されて当然だと思われますか?
それとも、それは市民の表現の自由、政治的活動の自由を侵害する憲法違反の逮捕だと思われるでしょうか。
そもそも、私のマンションなんて毎日ピザハットや不動産屋さんなどなどのチラシが勝手にポストに投函されていますが、あれは「無断で侵入」になぜ当たらないのでしょうか?
NHKや新聞の勧誘は?
さらに、この事件では刑事訴訟法上の強制処分である捜索差し押さえも行われました。
東洋大の白山キャンパス(東京都文京区)内に許可なく侵入した疑いで過激派・中核派系の全日本学生自治会総連合(全学連)活動家の男2人が逮捕された事件に絡み、警視庁公安部は13日、中核派の活動拠点「前進社」(江戸川区)を家宅捜索し、機関紙など約50点を押収した。
同部によると、2人は7月下旬に東洋大のサークル団体の部室を無断で訪問し、中核派の機関紙「前進」や同派作成のビラを配布したとして、建造物侵入容疑で今月4日に逮捕された。学生の勧誘が目的だったとみられるが、これまでの調べに対し、いずれも黙秘を続けているという。
この事件の舞台は、私たち住民が平穏に暮らしているマンションではなくて、誰もが自由に行き来する大学の部室です。
大学でチラシや配布物を配るために大学に入ることがどうして「侵入」になるのでしょうか?
彼らが過激派だとレッテルを貼っていますが、彼らが暴力行為をしたらそれは逮捕は正当ですよ。しかし、実際にやったことはチラシ配りです。
もし、チラシの内容がピザの注文ではなくて、戦争反対でもなくて、中核派の宣伝だから許されないとして、表現内容に着目した強制捜査が行なわれたのであれば、これぞまさに思想弾圧です。
そして、この事件はどうなったかというと。
東洋大学の学生に機関紙を配るため無断でキャンパスに侵入したとして逮捕された過激派・中核派の活動家の男性2人について、東京地検は22日付で不起訴としました。
この事件は、今年7月下旬、東京・文京区にある東洋大学のキャンパスに無断で侵入したとして、過激派・中核派の活動家の男性2人が警視庁に逮捕されたものです。
2人は逮捕直後の警視庁の取り調べに対し、黙秘していたということです。2人について、東京地検は、22日付で不起訴としました。(22日18:45)
最終更新:11/23(金) 8:48 TBS
逮捕された人たちが黙秘していたから証拠不十分で釈放されたのではありませんよ。
そもそも、起訴できるような事案ではなかったのです。
それがわかって逮捕した警察、勾留請求した検察庁、もう一つ言えば、これに逮捕令状や勾留許可状を出した裁判所は裁判に出来ないような事案だとわかって、彼らの身柄を拘束し、中核派の運動を妨害できればよかったわけです。
これほど不当な刑事司法の濫用があるでしょうか。
しかも、逮捕と捜索差押だけ報道して不起訴は報道しない産経新聞と来たら、いったい報道の自由を満喫する報道機関として許される態度でしょうか。
もう一度、冒頭に掲げた表現の自由を高らかに謳いあげ、二世紀の間、人々に言い伝えられてきた言葉をかみしめるべき時です。
その人の意見に反対でも、その人が意見を言う権利は命を懸けて守らねばならない。
法律的に言うと、そもそも大学にチラシ配りのために立ち入る行為は、建造物侵入罪の「侵入」に当たらないのは明らかなので、裁判になれば無罪に決まっているんですよ。
つまり、この逮捕勾留と捜索差押という強制捜査は、刑事上罰を与えることはできない=罪にはならないとわかっている専門家たちがそれでもあえて実行しているところに、罪深さがあるわけです。
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森川文人 2018年11月15日
韓国大法院での徴用工判決をめぐる政府の攻撃を始め、排外主義的なナショナリズムを利用したプロパガンダが蔓延しようとしています。
むろん、支配層の策動です。政府・権力は、いまだ憲法9条破壊の改憲にむけてあがいています。天皇の代替わりをあえて来年のメーデーにぶつけ、資本のためのオリンピックを祝祭・サーカスとして利用して一挙に戦争できる国家体制へ我々を動員しようと企てています。
戦争をしなければ資本主義国家として生き残ることが出来ないという危機だから、です。
この焦りの中、資本は、戦争国家へ反対する民衆を押さえ付けるために国内の弾圧体制作りの一環として共謀罪法を昨年成立させ、すぐさま施行しました。
資本に与する政府・権力が最も畏れているのは、戦争に反対し、搾取に反対する思想や表現が私たち民衆の中に拡がり、力を持つことです。
ブルジョア憲法によっても表現の自由、とりわけ政治的な表現の自由は優越的地位を占めるとされています。もっとも、新自由主義のこの時代では、実際には、そのように扱われていないことは明らかでしょう。でなければ、共謀罪法など成立しないし、ビラを配ることが弾圧されるはずもないでしょう。
今回の逮捕・勾留もこのような支配層の危機の現れであり、明らかに不当違法な弾圧です。
たかが、大学で政治的ビラを配ること・・・これを大学資本、公安警察、検察庁、そして裁判所総がかりで刑事弾圧しようとしています。
勾留裁判官である多田祐一氏はそのことをわかりつつ弾圧に加担し勾留を認めた。7月に大学内でビラを配ったという事件で、いまさら罪証隠滅の恐れや逃亡のおそれがないことはわかりきっているにも関わらず、あるというのです。
これが多田氏の判断であり、つまり、いわば現在の裁判所の非常識です。いったい、どんな証拠を、どうやって、なんのために隠滅する可能性があるというのでしょうか。全くナンセンスです。
ちなみに、現行憲法には「すべて裁判官は,その良心に従い独立してその職権を行い,この憲法及び法律にのみ拘束される」(76条3項)と規定されています。すなわち、今回の勾留決定は多田氏の良心に従った、独立した判断、ということになります。決して、警察権力や裁判所内の構造的上部権力に与した判断ではない、ということです。
黒衣をまとって、その無名性の中で裁判官は仕事をしているわけでありません。多田裕という名前の一人の裁判官が良心に従い独立に判断したのです。
本当でしょうか?
司法の独立も三権分立も絵に描いた餅、フィクションにすぎません。多田氏の判断になんら裁判官としての独立と誇りを見出すことができません。ただただ、公安の弾圧に引きづられているだけの判断です。
これは治安維持法下の戦前の司法の延長です。治安維持法下、裁判官らは、治安維持法弾圧が悪であること、拷問が行われていることを実際には知りながら、粛々と判決を下し、悪であり、自らが責任追及されることがわかっていたが故にその判決および訴訟記録を自ら燃やし、証拠隠滅しました。「証拠隠滅」とは戦後の出発点における裁判所のお家芸であり、民衆が行うことではありません。この点を裁判所こそ、まったく反省していないのです。
そのことは、先月24日、ここ東京高裁の野山宏氏、宮坂昌利氏、吉田彩氏らの以下のような判決からも明らかです。
「第1審原告は、ポツダム宣言受諾後に担当の検察官、予審判事及び裁判官が治安維持法を適用したことを違法と主張する。しかし、・・・進駐軍の中核を構成するアメリカ合衆国においては、当時においても共産主義に対する抑圧的な政策がとられており、共産主義抑制策が多少は残ると考えることも、昭和20年9月の時期においては全く根拠を欠くとはいえなかった。・・・
当時は激動の時代であって、(治安維持法の)全廃の1ヶ月前である昭和20年9月の時点においては、治安維持法が今後どのように改廃されるかが予想できなかったとしても、やむをえないところである。昭和20年9月の時点における担当の検察官、予審判事及び裁判官による治安維持法の適用が、ポツダム宣言後であるとの一事をもって違法になると断定するには無理がある。・・・」
つまり、彼ら東京高裁裁判官らは敗戦後であっても共産主義弾圧=思想弾圧法である治安維持法は廃止されず存続されるかもしれなかったのだから、その法に従った裁判官らの職務はしかたない、といいたいわけです。これが連綿と続く裁判官らの意識の程度です。同じ実務法律家として誠に恥ずかしい。
多田氏をはじめ、今の裁判官らは時代が変われば、再び自らの決定・判決を燃やすだろう。自分の判断が間違いであることはわかっているはずです。必ず、歴史に裁かれるでしょう。
もし、今の内に、その恥辱の歴史を免れたいのであれば、ただちに勾留を取り消すべきです。それしかないでしょう。
大学構内に入って政治ビラを配ったから犯罪? それを裁判官が認めた?このような歴史的事実を後世の人々は大笑いしながら批判的に眺めることでしょう。
21世紀初頭の裁判官は、いったい何をやっていたのかと。良心と独立、そして誇りをもって判断してほしい。それが裁判官である多田氏へのメッセージです。
大学の構内でビラをまくことは犯罪か、が本件では問われています。同時に、3ヶ月も前のビラまきをネタに集会当日にマスコミにリークした上で参加しようする者を逮捕するという明らかな集会妨害、政治弾圧に裁判所が加担したことの是非が問われています。
学問の自由のための大学の自治が認められている、つまり政治言論を含めて精神的自由の空間の確保のために大学には、外部の権力・資本などに抗するための管理権が認められていることは否定しません。
しかるに今の新自由主義大学においては、その管理権の行使の仕方が本来の大学の自治とは逆転した使い方がされています。
大学の中を資本の論理のみで埋め尽くすこと、そのために、かつて大学の中でこそ認められていた思想良心の自由や学問の自由、そして表現の自由を規制し排除するために施設管理権が行使されているのです。
そして、それは極めて政治的に利用されています。つまりは、時の権力に迎合するために、です。
7月のビラ撒きを「犯罪」と既定して11月の集会の朝に逮捕することが政治的弾圧でなければなんでしょうか。
もちろん、公安警察が逮捕状を請求したのだろうけど、大学は被害届の提出等それに協力し、裁判官は逮捕状を発行した、つまり公安警察の策動に加担したのです。
そんな風に利用されるとは思わなかった、とでもいうのでしょうか。仮にビラまきを規制するとして、その場で抑制するのではなく、3ヶ月後に「犯罪」として逮捕・勾留をすることは大学にとってどのような意味を持つのでしょうか。
本件は政治弾圧であり思想弾圧です。勾留状に明記されている通り「革命的共産主義者同盟全国委員会(革共同中核派)発行の機関紙『前進』及び全日本学生自治会総連合発行のビラ並びに法政大学文化連盟発行のビラ」だから逮捕したのです。
建前上、政治表現こそ民主主義の基幹である、もっとも大事なものだとされていますが、大学、警察、そして裁判所の扱いは、現在の支配思想、安倍政権を打倒する革命思想・共産主義思想は最も下位にあるものとして弾圧する、というのが体制の思想に与しています。
裁判官らは、粛々と、従順にその体制の方針に与する令状発行機関にすぎません。戦前・戦中の治安維持法体制下と全く変わりません。かつての裁判官も治安維持法体制が弾圧であり、拷問が行われ、でっち上げの自白がなされていること等について見て見ぬ振りをしていただけ認識しながら裁判を行い、有罪判決を下していたのです。その責任を自覚していたからこそ、証拠を裁判所の中庭で焼却し自ら隠滅したのです。
たかがビラ、たかが機関紙、です。しかし、大学も裁判所もそこに書かれている思想・表現によって差別的に扱うことを認めています。
かつて大学は政治的表現を行使する、つまり例えばデモに参加する学生を警察から守るために大学の自治を、施設管理権を警察に主張していました。
今や、学生たちを規制し、逮捕に与するため、つまり公安警察を招き入れるために大学の自治が行使されています。
大学の中で自由な政治的・思想的な議論が流通しないで、どこで可能なのでしょうか。本来、支配思想が支配する外部の公共空間以上に大学のキャンパスこそ政治的・思想的に自由でした。
堕落です。いまや大学は私企業的な私物と同様に扱われようとしています。大学とはそのような場所ではない、開かれたパブリックな空間です、それは公立だろうが私立だろうが変わらないでしょう。
裁判所も同じ責任があります。逮捕状、勾留状、すべて裁判官が裁判官の責任で発行したものです。大学のビラまきを「犯罪」として扱うために。
反ナチズムのビラをミュンヘン大学でまいた「白いバラ」という組織のメンバーは逮捕され、なんと裁判官は死刑の判決を下しました。
この裁判官ローランド・フライスラーは「判決を下すことではない。国家社会主義の敵を撲滅することが重要なのである」と述べていたようですが、ナチスから共産主義への接近を疑われており、それゆえによりナチス的に振る舞ったと言われています。
裁判官はどのような思想を持っているのでしょうか。実はラディカルな思想を持っていて、ただそれを表に出すことは立場上できなかったとあとでいいわけしても、それではフライスラーと変わりません。
裁判官もその行い、つまり行った裁判により評価され、後世に裁かれるのです。思っていてもやらなかったことではなく。
もちろん、この言葉は、私を含め今を生きる全ての人に跳ね返ってきます。私も私の行いと表現で裁かれるでしょう。黙っていて思っていたことではなく、その時、発した言葉と判断で。
安易に勾留を認めた裁判官を弾劾せざるをえません。ただちに釈放してください。
東洋大を受験しようとしている皆さん。
要注意ですよ。
どんな大学か、オープンキャンパス以外では大学に入れません。うっかり、建物内を見ようと入ったら即逮捕?
不思議ですねー。
他大学の学生も、サークル間の付き合いがあっても東洋大には行けません。
保護者の皆さんも、注意しないと。
我が子がどんなところで学んでいるか、ちょっと見てみようなんて思って大学に入ったら、即逮捕。
東洋大って怖ーい。
私の家もそうしてます。
主張はキャンパス外でできるのではないでしょうか。
まだいたんだってのが正直な感想だ。
個人的には遥か昔の学生時代、講義を聴いてみたかった先生を怒らせて(それだが理由ではないようだけど)職を離れさせたりとか、ろくな存在ではなかった。
今世紀になって大学図書館に行く途中で、キャンパス正門前でルンゲがルンゲがあとかその筋の奴等と揉み合いしていたのを目撃したこともあった。
ルンゲって何よ?
ってのが揉み合いよりも気になったくらい中核派などにはよい思いも何もない私(笑)。
それでも、これはダメじゃん!
これがアリなら戦前じゃん(怖)。
たとえショッカー(中核派をはじめとした世界革命を夢見るセクトの人たち。その実態は部屋を用意しろ等と大学にせがむ一環でバリストを敢行して、あげくキャンパス内部で覆面にマスク姿で餅つきゴッコしたりする大学セクトもいましたなあw)としても、ビラごときでこれではお話になりません。
セクトどもだから大目に見ろよってのが許されるわけがない。そんなのを例外的処置みたいに
流すのは危ない芽を伸ばさせるだけだ。
ただひとつだけうーむな点もある。
東洋大学に対して(当然のことながら)手厳しいコメントも載せられているが、おそらくこれがよその大学でもここで宮武さんが記されているようなことを貫かれられるなとなると微妙なところかも?
この国の憲法を尊重する大学は現代日本にどれだけあるものだろうか?