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中桐雅夫(1919ー)「二人の自分」『現代詩の展望』思潮社(1986年)所収:あの日、あの所に舞い降りた永遠の存在(イデアor意味)をこの詩人は認めない

2018-05-23 22:09:20 | 日記
 二人の自分 Two myselves

「かくあるはずの自分が、 "Myself that I should be,
いまある自分を、はるか遠くから、 from the distance far away,
じっと見つめて悲しげに眉をひそめている」 quietly looks at myself that I am now, and sadly frowns."
この言葉を知ったのは十年もまえのこと。 I knew this phrase as many as about ten years ago.

《感想1》
「かくあるはずの自分」とは何か?フロイト的には「超自我」であり、それは内面化された倫理・道徳だ。A.スミス的には「公平な観察者」であり、それが内面化されると「良心」だ。
《感想1ー2》
倫理・道徳や良心を、この詩人は、「かくあるはずの自分」と呼び、人格化する。自我を、分裂させて捉える。その自分が、もう一つの自分を「見つめて悲しげに眉をひそめている」と彼は思う。彼はモラリストだ。

それが相も変わらぬ怠け者の大酒飲みだ、 However, I unchangeably have been idle, and a heavy drinker.
戦いで死ぬより年をとって死ぬ恐怖の方が確かになり、 I have come to be scared of my death not because of being killed in the fight, but of getting aged.
あす生きていられるかどうかもわからないのに、 It is not sure that I will be able to live tomorrow.
夜、横になると糊のように眠ってしまう。 But when night comes, I lie and deeply sleep like paste at night,

《感想2》
モラリストである詩人が、自分を責める根拠が二つある。
(a)「怠け者」はいけない。それなのに自分は「怠け者」だ。倫理・道徳・良心に従わない「怠け者」だ。
(a)-2 しかし詩人は、実は、あまり反省していない。「怠け者」であることを、スタイル的に粋(イキ)だと思う。そうでなければ「怠け者」であることを、公言したりせず、隠すものだ。
(b)「大酒飲み」はいけないと思いながら、詩人は酒をやめなかった。
(b)-2 彼は、酒飲みに寛大な日本的文化のもとにある。プロテスタント的な禁欲主義者でない。日本は、倫理的・道徳的にルーズな国だ。(ただし異質の者を厳しく排除することもある。Ex. 「非国民」、「反日」、「攘夷」、「島国根性」)
(b)-3 「大酒のみ」を隠さず公言する点は、「怠け者」と同様、詩人は粋と思い、密かに、自慢する。
《感想2-2》
詩人は、今、年をとった。かつては「戦いで死ぬ」つもりだった。この「戦い」は、倫理的・道徳的使命にもとづく戦いだ。
《感想2-3》
だが詩人は、年をとり、一方で戦いのエネルギーが減り、他方で死が近づいた。(彼の平均余命の年数が短くなった。)彼は、モラリストとして弱気になった。今や、「戦い」の死でなく、「年をとって死ぬ」ことが、詩人の関心の中心となった。

かくあるはずの自分といまある自分と、 Will myself that I shoud be and that I am
二つに引裂かれたまま墓の下にはいるのか、 continue to be still torn in two pieces and enter the grave underneath?
墓の下では二つが一つになるのだろうか。 Will both of them come to one thing under the grave?

《感想3》
架空の質問だ。死は虚無だから、これらの問いが成立しない。死においては、”問い”がそもそも存在しない。
《感想3ー2》
これらの問いは、生きている間の問いだ。「二つに引き裂かれた」状態は、死(虚無)において消失する。つまり、生きている間は「問い」に内容があるが、死(虚無)においては、「問い」が内容をうしなう。存在の基体もその規定もない。ひたすら虚無だ。
《感想3ー3》
墓の下で、「二つが一つになる」ことははない。なぜなら死(虚無)においては、「二つ」がないし、「一つ」がないし、何かが何かに「なる」こともない。
《感想3-4》
かくて詩のこの問いは、生きている者にとってのただの戯れ、なくてよい気晴らし(pastime)にすぎない。死あるいは虚無は、あらゆる問いを存在させない。
《感想3ー5》
これまで死を虚無と定義したが、死を別に定義することも可能だ。もちろん、いずれの定義も生者の定義だ。詩人は、倫理・道徳の人として、此岸に生きる人だから、死は虚無として定義していいだろう。

このシレジアの言葉を教えてくれた立派な人も死んでしまった。 The great person who informed me this Silesian phrase came to die after all.
どんな人間も死の縛り首は避けられない。 Any human being cannot avoid putting to death by hanging.

《感想4》
この此岸的で、合理的、非信仰的、非魔術的時代の思考では、人の死は、これまでの人類の経験すべてにおいて例外がない出来事とされる。
《感想4ー2》
死を嘆くのは、死の事実を嘆くのでない。死によって失われるその人との関係の記憶、その人との関係にかかわるあらゆる意味(イデア)の記憶、あるいはその人・私・両者に関わるあらゆる人の《感覚・感情・欲望・意図》(心)の記憶が、もはや変化・発展・増殖しないことへの嘆きだ。
《感想4-3》
詩人は、死を「縛り首」と表現するか点で、死を自己に強制的に課される暴力ととらえる。彼は死を嫌い、憎む。彼にとって生は有意味で、守るべきものだ。彼は生を無意味で、失ってよいものと思わない。かれは人生の楽観主義者だ。

権力も富も家庭の幸せも、大嵐の前の砂埃(スナボコリ)だ。 Power, wealth, and happiness of family are only dust before a big storm.

《感想5》
権力・富・家庭の幸せが「砂埃」だと言えないのが、生きている間は普通だ。
(ア)権力の横暴、権力の恫喝、権力による国家の私物化、これらは、「砂埃」でない。君は権力によって殺され、拷問され、いたぶられ、慰み者にされる。権力は、「砂埃」でなく、無慈悲で暴力的な化け物、妖怪、魔物、悪魔だ。
《感想5ー2》
(イ)富が持つ力は、「砂埃」でない。勝ち組の豪華な生活。札ビラを切り、男も女もひれ伏させる。この世で、カネで、手に入らないものは、まずない。(小説的に、よほど強欲でとんでもないものを望まない限り、カネであらゆるものが手にはいる。)
(イ)ー2 カネ(富)で手に入る物の一覧!(a)豪邸、(b)君をちやほやする者たちを君の周りに集め君をいい気分にすること、(c)性的満足、(d)グルメ的満足、(e)人を見下す傲慢・人を命令する快感など。
(イ)-3 富が「砂埃」だというのは、貧者が富者に仕返しできる唯一の言葉だ。どんな富者も死ぬ、“いい気味だ”と言って貧者は、富者の死の不幸を喜ぶ。「他人の不幸は蜜の味」の最終形態が、他人の死だ。
《感想5ー3》
(ウ)この詩人は「家庭の幸福」が、死の不可避性によって「砂埃」だと言うが、そんなことはない。
(a)彼は、イデア(意味)の永遠性を知らない。ある日、ある所で、ある家庭に訪れた幸福は、その後、家庭が不幸となり失われようと、その「幸福」は決して消え去らない。
(b)それは記憶でない。その「幸福」は永遠に、イデア(意味)として、此岸をこえた永遠の意味の国、永遠のイデアの国に存在する。
(c)もちろん君が死ねば、そのイデアの国を知ることができなくなる。だからといって、あの日、あの所に存在した幸福が消えてしまうことはない。その「家庭の幸福」は君が死んでも「砂埃」にならない。それはあの日、あの所に舞い降りた永遠の存在(イデアor意味)だ。
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