(10)
「私」モナドと「他者」モナドの出現の根拠は、「一つで共同的な《感覚・感情・欲望・意図》」という出来事が起きることだ。(Cf. 感覚とは、接触による相互に他なる物の出現だ。そして触覚が感覚の核だ。)その「一つで共同的」という出来事において二重化(分裂)が同時に生じる。つまり一方に「私(自)」モナドが、他方に「他者(他)」モナドが成立する。
(10)-2
「私」モナドとは、二重化(分裂)した《感覚・感情・欲望・意図》のうち、《痛みの感覚が及ぶ範囲で、かつ感覚・感情・欲望・意図に従って動く》物体(身体)をもつ側のモナドのことだ。この場合、「私」とは、「私」モナドにおける感覚・感情・欲望・意図のことだ。(※《感覚》は「他者」モナドと共有されるので、《感情・欲望・意図》が私の核だ。)(参照1467)
(10)-3
最初に「一つの共同的な《感覚・感情・欲望・意図》」という出来事がある。そこでは二重化(分裂)が同時に生じている。このとき、「私(自)」モナドに属する物と接する他なる物は、二重化(分裂)によって出現した他なる《感覚・感情・欲望・意図》あり、これはすなわち「他者(他)」モナドである。(参照1467)(※《感覚》とは接触による相互に他なる物の出現のことだ。)
(10)-4
感覚(当然痛みも含む)そして感情・欲望・意図・夢・意味世界・《意味世界の展開としての虚構》は、連続した全体だ。この全体がモナドである。(モナドは、宇宙あるいは超越論的主観性とも呼ばれる。)今や「私」モナドと「他者」モナドが区別されて出現する。(参照1467)
「私」モナドと「他者」モナドの出現の根拠は、「一つで共同的な《感覚・感情・欲望・意図》」という出来事が起きることだ。(Cf. 感覚とは、接触による相互に他なる物の出現だ。そして触覚が感覚の核だ。)その「一つで共同的」という出来事において二重化(分裂)が同時に生じる。つまり一方に「私(自)」モナドが、他方に「他者(他)」モナドが成立する。
(10)-2
「私」モナドとは、二重化(分裂)した《感覚・感情・欲望・意図》のうち、《痛みの感覚が及ぶ範囲で、かつ感覚・感情・欲望・意図に従って動く》物体(身体)をもつ側のモナドのことだ。この場合、「私」とは、「私」モナドにおける感覚・感情・欲望・意図のことだ。(※《感覚》は「他者」モナドと共有されるので、《感情・欲望・意図》が私の核だ。)(参照1467)
(10)-3
最初に「一つの共同的な《感覚・感情・欲望・意図》」という出来事がある。そこでは二重化(分裂)が同時に生じている。このとき、「私(自)」モナドに属する物と接する他なる物は、二重化(分裂)によって出現した他なる《感覚・感情・欲望・意図》あり、これはすなわち「他者(他)」モナドである。(参照1467)(※《感覚》とは接触による相互に他なる物の出現のことだ。)
(10)-4
感覚(当然痛みも含む)そして感情・欲望・意図・夢・意味世界・《意味世界の展開としての虚構》は、連続した全体だ。この全体がモナドである。(モナドは、宇宙あるいは超越論的主観性とも呼ばれる。)今や「私」モナドと「他者」モナドが区別されて出現する。(参照1467)