DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

「現存在」は「おのれの現のなかへ投げられている」!「被投性」!:ハイデガー『存在と時間』(1927)「第29節 心境(情状性)としての現存在」(その2)

2019-06-14 21:44:23 | 日記
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第5章 内存在そのもの」「【A】現の実存論的構成」「第29節 心境(情状性)としての現存在」(その2)  

(4)「現存在」は「おのれの現のなかへ投げられている」!「被投性」!
F 「気分のなかで現の存在がその根源的事実において開示されている」という「現存在の存在性格」、つまり「《とにかくある》という事実を、われわれはこの存在者(※現存在)の、その現のなかへの被投性(Geworfenheit)となづける」。(135頁)
F-2 「現存在」は「おのれの現のなかへ投げられている」。(135頁)
F-3 「被投性」という言い方は、「この引き渡しの既成事実性(Faktizität der Uberantwortung)」を示唆する。(135頁)
G 「現存在の心境(※気分、気持ち)において開示された《ともかくもあり、そしてないわけにはいかない》
という『事実』」は、「客体性にそなわっている事実性(Tatsächlichkeit)」ではない。(135頁)
G-2 「心境(※気分、気持ち)のなかで開示された事実(Dass)」、「この事実性(Faktizität)は、ある客体的なものの・・・・事実性(Tatsächlichkeit)ではない。」(135頁)
G-3 「客体的なものの・・・・事実性(Tatsächlichkeit)」は「眺めやって確認する態度(※能動的注視)ではじめてみとどけられる」(「直観」)。(135頁)

《感想4》《意識》(※ハイデガーは「了解」と呼ぶ)は、現象学的に言うと《ノエシスとノエマの分裂的な統一》だ。今、ハイデガーが、その最も基礎的な様式について述べる。つまり、一方で、ただ漠然とした《ある》というノエマが構成され、他方で「気分」=「心境」と呼ばれるノエシスが(そのノエマを構成しつつ)受動的に(能動的にでなく)注視し、かつ両者は分裂的な統一の内にある。ハイデガーは、《ノエシスとノエマの分裂的な統一》のこの最も基礎的な様式について、「現存在」は「おのれの現のなかへ投げられている」=「被投性」(135頁)と表現する。(以下参照)
《感想5》「了解(Verstehen)に含まれている視(Sicht)(※「配慮」における「配視」及び「待遇」における「省視」(Rücksicht)!)」(133-4頁)に、普通、人(現存在)はとらわれている。これは能動的な注視だ。ハイデガーはその基礎にある受動的な注視を「被投性」(135頁)と呼ぶ。これは「事実性」(Faktizität)である。
《感想6》ハイデガーの「被投性」の議論は、ここでは実存主義的でない。認識論的かつ存在論的だ。
《感想6-2》ハイデガーは、無でなく有(存在)であることの謎を、それが起きてしまっているので、「被投性」と呼び、またそれを「事実性」(Faktizität)と呼ぶのだ。
《感想6-3》その「事実性」(Faktizität)とは、能動的注視に基づく「事実性(Tatsächlichkeit)」と異なる。
《感想6-4》「気分のなかで現の存在がその根源的事実において開示されている」こと、つまり「現存在」が「おのれの現のなかへ投げられている」こと(「被投性」)、そうした「事実性」(Faktizität)は、(※私見では)「気分」=「心境」において言わば受動的注視が起きていることだ。
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天野忠(1909-1993)「一生」:誰もが必死に生きるといっても、ある者たちは喰われる側、ある者たちは喰う側だ!

2019-06-14 19:48:06 | 日記
 「一生」 Someone's life

蟻は勤勉な一生をもつ An ant lives diligently.
蟻喰いとても同じ So does even an anteater.
ただ However,
一方は 喰い the one eats,
一方は 喰われる and the other is eaten.

《感想1》蟻は勤勉と言われるが、蟻喰いも勤勉だ。誰もが必死に生きる。
《感想1ー2》ただしある者の立場からすると、他の者が、優雅に怠惰に生きている(必死でない)と見えることがある。
《感想2》誰もが必死に生きるといっても、ある者たちは喰われる側、ある者たちは喰う側だ。食物連鎖or弱肉強食だ。
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「『自分探し』をしてはいけない3つの理由!?」(2016/1/11(月) 中原淳ブログ):立教大学経営学部教授・中原淳(1975-)過去は変えられない!だが「意味付け」は変えることができる!

2019-06-14 11:35:30 | 日記
(1)自分は「ここ」にいる!
「自分のやりたいことがわからない。僕、『自分探し中』なんです。」こう言う者に対し、次のような言葉がある。「『自分探し』って言いますけどね。見つかりませんよ。自分は『ここ』にいるんだから。」(役所広司)

(2)「自分探し」というメタファは危険だ!
90年代に流行した「自分探し」というメタファは、危険だ。(※中原氏自身が90年代に高校生・大学生で、「自分探し」をしたのだ!)
1.「現在の自分」とは「遠くかけはなれた場所」に、どこか「今の自分とは異なる自分」がいると考える。
2.「今の自分の周囲においてやらなければならないこと」と「理想の自分を探すこと」が乖離している。
3.「探す」というメタファには「終わりはない」すなわち「永遠に自分探し中」となってしまう。

(2)-2 「現在の自分」&「理想の自分」!
このメタファを過剰に信じてしまうと、「現在の自分」を放棄して、「自分」を探そうとする。
「今、自分がやらなければならないこと」と「理想の自分」が「別物」と考えてしまう

(3)すべての起点は「今の自分を受け入れること」だ!
自分を探してはいけない。あなたは「ここにいる」。今のあなたが「すべての起点」だ。「結局、今の自分だ・・・」 すべての起点は「今の自分を受け入れること」だ。そのうえで、さらに行動を為す。

(4)「人生ピボットターン理論」!
「何か新しいことを発見したい」ときには、まずは自分の「軸足」を定めることが大切。しかし「軸足」は「今まで自分がやってきたことのなかしかない」。「自分が、今までやってきた経験・培ってきたノウハウ」を「軸」にするしかない。そして「軸足」を決める。

(4)-2 「過去」は変えられない!でも意味は自由に付与できる!
あるいは、「軸足」だと信じ意味づけたものが「軸足」になりうる。軸足の根拠である「過去」は変えられない。でも意味は自由に付与できる。

(4)-3 「軸になる足」&「自由になる反対側の足」!
その上でさらに、大切なことは、新しい領域に踏み出そうとした場合、「軸になる足」だけは決して動かさず、逆に、「自由になる反対側の足」(「自由奔放な片足」)は、縦横矛盾に「くるり」「くるり」と動かす。

(5)「人生は違和感理論」!
「自由奔放な片足=軸足ではない足」をいかに動かすか? 自分の「やりたいこと」がわかるヒントは、やってみて、違和感を感じてみなければわからない。人は「次の行動の指針」を決めるとき、「やる前に思っていたこと」と「やってみたあとに率直に感じたこと」のあいだの「ズレ」や「違和感」を感じることからしか判断できない。

(5)-2 「違うな」&「なんか悪くないな」!
やってみて、「あっ思っていたことと違うな」という違和感を感じれば、他のことにチャレンジすれば良い。やってみて、「なんか悪くないな」と思えば、そのままやりつづけてみればいい。つまりすべての判断の根拠は「違い」であり「違和感」だ。

(5)-3 「自由奔放な片足」:トライする行動の積み重ね!
「自由奔放な片足」をおっかなびっくりある地点におろし、何かを実際にやってみる。そこで「やってみたあとに率直に感じたこと」が「自分の心の声」と近いなら、とりあえずは、そのままやりつづけてみる。もし、万が一、違いを感じてしまったのなら、また「自由奔放な足」を他の場所にうつし、自分のやりたいことに近くなるまで、トライしてみる。 こうした行動の積み重ねでしか、人はやりたいことがわからない。

《感想1》「自分探し」は節度を持って行う。現在の義務をさぼるor中断するにしても、適度にする。君は賢くならねばならない。
《感想2》今と違う自分に、一挙に変われるわけがない。「自分探し」が単なるさぼる口実になる。
《感想3》過去は変えられない。だが「意味付け」は変えることができる。
《感想4》「今の自分」以外に、遠くに「理想の自分」が居るなどありえない。「今の自分」を受け入れるしかない。
《感想5》「永遠に自分探し中」と言って、自分の「やらなければならないこと」をさぼるのは怠け者だ。
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結局、鳥辺野の煙だ!&信じられる者が少ない!

2019-06-14 08:58:30 | 日記
「死んだ子の年を数える」。死んだ子がたくさんいる。彼らが徘徊する。悪夢だ。
「後悔先に立たず」。後悔ばかりだ。後悔に責められる。面白くない過去だ。
「忘れられないやつばかり」と言ってみる。「いい奴」ならいいが、「嫌な奴」が「忘れられない」のは最悪だ。
「ため息をつくたび幸せが消えていく」。限りなく幸せが消えた。ひどい人生だ。
人生など、なくてよい。結局、鳥辺野の煙だ。
だが虚飾に必死だ。嫉妬にとらえられる。罵声が浴びせられる。くだらない世の中だ。
信じられる者が少ない。
情が薄い。薄情だ。情が深いのも嫌がられる。全く面倒くさい。悲観的だ。
自暴自棄にならないことだ。落ち着け!
「正気」を保つ生活習慣:清潔&整理整頓&規則正しい生活!
人間関係を壊さない最低基準:言ったことを守る!
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笑い話「飛入りの来ぬ中(ウチ)」安楽庵策伝『醒酔笑』(1628):「語るに落ちる」&「口は災いの人」!

2019-06-14 08:51:35 | 日記
夫と妻がお餅を何個か焼いていた。 A husband and his wife was toasting pieces of rice cake.
お餅を食べる直前、ある男が彼らを訪問した。 Just before they ate rice cake, a man visited them.
夫と妻は、彼を歓迎した。 They welcomed him.
妻が言った。「誰かがやって来る前にお餅をすぐ食べたほうがいいですよ。」 The wife said, “You need to eat rice cake soon before someone visit you.“

《感想》ある人に関し言ってはいけないことを、その人に、つい言ってしまう。困ったものだ。「語るに落ちる」。「口は災いの元」。
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