※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第5章 内存在そのもの」「【A】現の実存論的構成」「第29節 心境(情状性)としての現存在」(その2)
(4)「現存在」は「おのれの現のなかへ投げられている」!「被投性」!
F 「気分のなかで現の存在がその根源的事実において開示されている」という「現存在の存在性格」、つまり「《とにかくある》という事実を、われわれはこの存在者(※現存在)の、その現のなかへの被投性(Geworfenheit)となづける」。(135頁)
F-2 「現存在」は「おのれの現のなかへ投げられている」。(135頁)
F-3 「被投性」という言い方は、「この引き渡しの既成事実性(Faktizität der Uberantwortung)」を示唆する。(135頁)
G 「現存在の心境(※気分、気持ち)において開示された《ともかくもあり、そしてないわけにはいかない》
という『事実』」は、「客体性にそなわっている事実性(Tatsächlichkeit)」ではない。(135頁)
G-2 「心境(※気分、気持ち)のなかで開示された事実(Dass)」、「この事実性(Faktizität)は、ある客体的なものの・・・・事実性(Tatsächlichkeit)ではない。」(135頁)
G-3 「客体的なものの・・・・事実性(Tatsächlichkeit)」は「眺めやって確認する態度(※能動的注視)ではじめてみとどけられる」(「直観」)。(135頁)
《感想4》《意識》(※ハイデガーは「了解」と呼ぶ)は、現象学的に言うと《ノエシスとノエマの分裂的な統一》だ。今、ハイデガーが、その最も基礎的な様式について述べる。つまり、一方で、ただ漠然とした《ある》というノエマが構成され、他方で「気分」=「心境」と呼ばれるノエシスが(そのノエマを構成しつつ)受動的に(能動的にでなく)注視し、かつ両者は分裂的な統一の内にある。ハイデガーは、《ノエシスとノエマの分裂的な統一》のこの最も基礎的な様式について、「現存在」は「おのれの現のなかへ投げられている」=「被投性」(135頁)と表現する。(以下参照)
《感想5》「了解(Verstehen)に含まれている視(Sicht)(※「配慮」における「配視」及び「待遇」における「省視」(Rücksicht)!)」(133-4頁)に、普通、人(現存在)はとらわれている。これは能動的な注視だ。ハイデガーはその基礎にある受動的な注視を「被投性」(135頁)と呼ぶ。これは「事実性」(Faktizität)である。
《感想6》ハイデガーの「被投性」の議論は、ここでは実存主義的でない。認識論的かつ存在論的だ。
《感想6-2》ハイデガーは、無でなく有(存在)であることの謎を、それが起きてしまっているので、「被投性」と呼び、またそれを「事実性」(Faktizität)と呼ぶのだ。
《感想6-3》その「事実性」(Faktizität)とは、能動的注視に基づく「事実性(Tatsächlichkeit)」と異なる。
《感想6-4》「気分のなかで現の存在がその根源的事実において開示されている」こと、つまり「現存在」が「おのれの現のなかへ投げられている」こと(「被投性」)、そうした「事実性」(Faktizität)は、(※私見では)「気分」=「心境」において言わば受動的注視が起きていることだ。
(4)「現存在」は「おのれの現のなかへ投げられている」!「被投性」!
F 「気分のなかで現の存在がその根源的事実において開示されている」という「現存在の存在性格」、つまり「《とにかくある》という事実を、われわれはこの存在者(※現存在)の、その現のなかへの被投性(Geworfenheit)となづける」。(135頁)
F-2 「現存在」は「おのれの現のなかへ投げられている」。(135頁)
F-3 「被投性」という言い方は、「この引き渡しの既成事実性(Faktizität der Uberantwortung)」を示唆する。(135頁)
G 「現存在の心境(※気分、気持ち)において開示された《ともかくもあり、そしてないわけにはいかない》
という『事実』」は、「客体性にそなわっている事実性(Tatsächlichkeit)」ではない。(135頁)
G-2 「心境(※気分、気持ち)のなかで開示された事実(Dass)」、「この事実性(Faktizität)は、ある客体的なものの・・・・事実性(Tatsächlichkeit)ではない。」(135頁)
G-3 「客体的なものの・・・・事実性(Tatsächlichkeit)」は「眺めやって確認する態度(※能動的注視)ではじめてみとどけられる」(「直観」)。(135頁)
《感想4》《意識》(※ハイデガーは「了解」と呼ぶ)は、現象学的に言うと《ノエシスとノエマの分裂的な統一》だ。今、ハイデガーが、その最も基礎的な様式について述べる。つまり、一方で、ただ漠然とした《ある》というノエマが構成され、他方で「気分」=「心境」と呼ばれるノエシスが(そのノエマを構成しつつ)受動的に(能動的にでなく)注視し、かつ両者は分裂的な統一の内にある。ハイデガーは、《ノエシスとノエマの分裂的な統一》のこの最も基礎的な様式について、「現存在」は「おのれの現のなかへ投げられている」=「被投性」(135頁)と表現する。(以下参照)
《感想5》「了解(Verstehen)に含まれている視(Sicht)(※「配慮」における「配視」及び「待遇」における「省視」(Rücksicht)!)」(133-4頁)に、普通、人(現存在)はとらわれている。これは能動的な注視だ。ハイデガーはその基礎にある受動的な注視を「被投性」(135頁)と呼ぶ。これは「事実性」(Faktizität)である。
《感想6》ハイデガーの「被投性」の議論は、ここでは実存主義的でない。認識論的かつ存在論的だ。
《感想6-2》ハイデガーは、無でなく有(存在)であることの謎を、それが起きてしまっているので、「被投性」と呼び、またそれを「事実性」(Faktizität)と呼ぶのだ。
《感想6-3》その「事実性」(Faktizität)とは、能動的注視に基づく「事実性(Tatsächlichkeit)」と異なる。
《感想6-4》「気分のなかで現の存在がその根源的事実において開示されている」こと、つまり「現存在」が「おのれの現のなかへ投げられている」こと(「被投性」)、そうした「事実性」(Faktizität)は、(※私見では)「気分」=「心境」において言わば受動的注視が起きていることだ。