
盛岡市の中心部よりやや西側。北上川、雫石川、諸葛川に囲まれた地域に、厨川(くりやがわ)の柵、嫗戸(うばと)の柵があったとされる。前九年の役(1051年~1062年)終焉の地で、安倍貞任、藤原経清が斬首されたところでもある。この辺りには、安倍氏縁の地名が多く見られる。

現在の「厨川」は盛岡市街地の北端。しかし、前九年の役当時の厨川というのは、現在の天昌寺町、大舘町のあたり、より雫石川に近い地域とされる。ちなみに、雫石川の古い呼び名は「栗谷川(くりやがわ)」。
「安倍館町」。安倍館遺跡のある場所でもあるが、ここは嫗戸(うばと)の柵があった場所とされる。すぐ裏手は急峻な崖となり北上川が流れる。まさに天然の要害。現在、ここには厨川八幡宮が祀られている。旧一ノ倉邸付近のバス路線の道路沿いには今でも空堀が見られる。

安倍館から盛岡駅へ向かう坂が「舘坂」。
「前九年」。昭和41年(1966年)、当時の町内会長さんが、故事にしたがい、町民の意見をうかがい命名。当時の盛岡市民はまだ安倍氏の活躍、果たした役割の大きさを忘れていなかった。現在はたして・・・?
「大舘町」。岩鷲山天昌寺を中心としたこの辺りに厨川の柵があったようだ。空堀が廻らされている。
「夕顔瀬」。敵の目を欺くため、胴体をワラ、頭を夕顔で作ったダミー武者を北上川の河原に立たせておいたところ、すぐにばれてしまい、沢山の夕顔が川面に流れていたというところから「夕顔瀬」。
多少いい加減なところがあるかもしれませんので、訂正の必要なところがあれば、ご一報ください。
こうして、歴史をふまえて歩いてみると、今までとは町の景色が全然変わって見えますね。




現在の「厨川」は盛岡市街地の北端。しかし、前九年の役当時の厨川というのは、現在の天昌寺町、大舘町のあたり、より雫石川に近い地域とされる。ちなみに、雫石川の古い呼び名は「栗谷川(くりやがわ)」。
「安倍館町」。安倍館遺跡のある場所でもあるが、ここは嫗戸(うばと)の柵があった場所とされる。すぐ裏手は急峻な崖となり北上川が流れる。まさに天然の要害。現在、ここには厨川八幡宮が祀られている。旧一ノ倉邸付近のバス路線の道路沿いには今でも空堀が見られる。




安倍館から盛岡駅へ向かう坂が「舘坂」。
「前九年」。昭和41年(1966年)、当時の町内会長さんが、故事にしたがい、町民の意見をうかがい命名。当時の盛岡市民はまだ安倍氏の活躍、果たした役割の大きさを忘れていなかった。現在はたして・・・?
「大舘町」。岩鷲山天昌寺を中心としたこの辺りに厨川の柵があったようだ。空堀が廻らされている。
「夕顔瀬」。敵の目を欺くため、胴体をワラ、頭を夕顔で作ったダミー武者を北上川の河原に立たせておいたところ、すぐにばれてしまい、沢山の夕顔が川面に流れていたというところから「夕顔瀬」。
多少いい加減なところがあるかもしれませんので、訂正の必要なところがあれば、ご一報ください。
こうして、歴史をふまえて歩いてみると、今までとは町の景色が全然変わって見えますね。
学生時代、夕顔瀬で下宿してました。
いやいや、勉強になります。
「大釜」。やはりその戦いのおり、源、清原軍が大きな釜で炊き出しをしたところから「大釜」とのこと。
調べるといろいろ出てくるもんです。
昔幼い頃に住んでて今夕顔瀬町を調べてるものです。すごく嬉しい
何気なく過ごしている町の地名のそこかしこに歴史の痕跡が残っているって、いいと思いますけどね。
興味を持って調べてみると、町の様子も今までとは違って見えますね。