名古屋や~

徳川美術館

新館開館25周年・徳川園80周年記念 秋季特別展「徳川将軍の御成」
「将軍が公式に臣下の屋敷を訪問する御成の儀式は、大名屋敷における重要な儀礼の一つです。室町将軍家以来、天下人がおこなった御成は、徳川将軍家にも引き継がれ、諸大名との主従関係を再確認する場として機能しました。特に二代将軍秀忠による尾張徳川家江戸屋敷への御成は、御三家筆頭の威信が見事に示され、その後の規範となるほど盛儀を極めました。徳川将軍による御成儀式の実態と変遷を明らかにし、将軍饗応に用いられた茶道具の名品をはじめとする美術品の数々を紹介します。」(公式より)
唐物茶壺 銘 松花
壺の上3分の2は緑黄色をしており、そこから灰釉の流れが景色を成している。現存する茶壷では最も茶会記に登場する回数が多く古くから有名であった事が判る。足利義政より管領・斯波氏へ、以降は侘びの開祖とされる珠光、その養子となった村田宗珠、珠光の弟子であった誉田屋宗宅、利休最初の師とも云われる北向道陳が所持。その後は当然のように信長・秀吉・家康へと渡っていきました。
虚堂智愚墨蹟「与徳惟禅者偈」 虚堂智愚筆
虚堂智愚は南宋時代の禅僧。彼の書は茶人の間で重宝された。細川幽斎が所持し1587年幽斎邸への関白秀吉の御成で使用された。幽斎以前には北向道陳が所持した。
三島茶碗 銘 三島桶
高麗茶碗の一種。細川三斎は書状で「天下無双の名物」と称している。千利休所持でその後は子の千道安が所持した。
灰被天目
大名物。唐物茶碗で渋い赤味を帯びている。名人・鳥居引拙が所持しその後は油屋常祐から徳川家康に渡った。
油屋常祐は堺の商人。茶湯を 武野紹鴎に学んだとされ、大名物「油屋肩衝」「曜変(油滴)天目」を所持していた。
遠浦帰帆図 玉澗筆・自賛
南宋の画家・玉澗が描いた瀟湘八景の一つ。足利将軍家に伝来し以降、連歌師の宗長・太原雪斎から今川義元・北条氏と渡り小田原征伐によって秀吉所持となった。
一休宗純墨蹟「初祖菩提達磨大師」
らしい豪快な八字一行書。一休の書は珠光との関連から茶掛として好まれた。
竹茶杓 古田織部作
さび竹の茶杓。共筒に「宗句参 古織部」と書かれていることから、古田織部が五奉行の一人・前田玄以に贈った事が判る。
三島筒茶碗 銘 藤袴
大名物。高麗茶碗の一種。茶碗中央の花丸紋が狂言師の袴に付く文様に似ている事から狂言袴茶碗と呼ばれるもののひとつ。織田有楽所持。箱の貼札の「蘭茶碗」の墨書も有楽筆と伝わる。藤袴とは蘭の和名だそうで、狂言袴との「袴」を掛けた洒落っ気なんでしょうか。
唐物茄子茶入 銘 富士
大名物。天下三茄子のひとつ。飴釉の美しい姿で景色も変化に富んでいる。附属の茶杓は利休作と大変豪華な組合せ。
足利義輝・医師の曲直瀬道三・信長・秀吉が所持し、死の前年にあたる1597年に秀吉は富士茄子を前田利家に与えている。
唐物肩衝茶入 銘 山井
大名物。樋口石見守知秀が所持したことから樋口肩衝とも呼ばれる。1610年駿府にて家康より伊達政宗が拝領。
唐物肩衝茶入 銘 師匠坊
大名物。数々の茶会記に登場する落着いた印象の茶入。元は東大寺四聖坊に有った事から同じ読みの師匠坊と呼ばれた。徳川家康から山内一豊へ、その後は藤堂高虎や大老・酒井忠勝も所持した。
肩衝茶入 銘 勢高
大名物。すらりとした姿勢から背い高から転じて勢高とされる。
松永久秀の子ともされる住吉屋(山岡)宗無が所持し後に織田信長に献上された。本能寺の変で罹災した後に秀吉が所持する所となったが焼け物を嫌った事から利休七哲の芝山監物に与えられた。その後は古田織部が所持した。
漢作肩衝茶入 銘 靫
矢を収納する道具「靫」に似ている事から名付けられた。足利義政から管領・細川家に伝来し細川忠興から秀吉、更には木下長嘯子(勝俊)に渡った。
以上、特別展からでした。
第二展示室からもひとつ
漢作肩衝茶入 銘 宗無
大名物。堺の商人住吉屋(山岡)宗無が所持。その後は佐竹義宣の所持する所となった。義宣の茶湯師匠は織部で大坂の陣中でも交流があったようだ。
今までココで紹介していなかった道具を中心に紹介しましたが、もちろん利休の「泪」茶杓や紹鴎の白天目、荒木高麗等の徳川美術館を代表する茶道具がずらりと並んでいました。更には他所からの借物もあって、まあここまで揃えたものだと関心しました。