「一人遊びのできない大人」と題して、日記に書いている。
以下はそのコピー。
人間死ぬまで学び続けなければならないようだ。
というのもね、学んだつもりになっていることを、ふらっと忘れていることに気づいたから。
読み直したのは斉藤学著「家族依存症」。
このところ私をイライラさせている人がいるが、その人とのことが、この本を読んですっきりした。
「底の抜けたかめに水を注ぐがごとき」と、以前この日記に書いた人のことである。
私自身が、彼女の依存と支配による人間関係に巻き込まれそうになっていたようだ。
私の目には、彼女とお嬢さんがその関係から抜け出していないことが見えていた。
けれど、もちろん言わない。
その人と長時間話していると、私が同じような「場」に取り込まれていく。
もともとそうなりやすい傾向がある私である。
が、何かがそこから離れたいと訴えた。
何かとは私のなかから湧いてくる何か。
不快感と言ってもいいけれど、それは正しかったのではないかと今思う。
不快感とかの「感じ」に従ってもいいのではないか。
どこかで冷たく突き放すことをためらう私がいた。
彼女が私に依存している様子を、夫は微笑ましいと言い、なぜ私が苛立つのかわからなかった。
わからないだろうな。
彼はそういう相手が現れれば、身を乗り出していく人だ。
相手のためというよりは、自分の満足のため。
依存傾向の強い人は世の中に大勢いる。
ほとんどの人については勝手にやってよ、と言うしかない。
しかし依存の対象が子どもになったとき、悲劇が起きる。
寂しいから、退屈だからと、子どもに依存してはならない。
一人遊びのできない大人は、はた迷惑である。
なんだ。とっくにわかっていたのだわ。
この1か月、ぐにゃぐにゃと曲がりくねった道を行ったり来たりしていたけれど。
この日記を書いたちょうど同じころ、夫は彼女に電話をしている。
私は見事に彼のやりそうなことを予測しているではないか。
まるで私が方向を暗示したようなかたちである。
彼の過剰な親切心=彼の飢餓感からくるのだろうが=を、男の誘惑というストーリーに仕立てて、彼女は私に電話をかけてきた。
夫が愚かな電話をして2カ月も経っていた。
耳を疑いました。困惑しました。
まるでメロドラマのヒロインのような「作文」である。
そのような受け取り方しかできないステレオタイプの女性なのだろう。
まあね、夫の「過剰」は誤解を招きやすいし、このようなきっかけから情事へと発展することは多い。
なにしろ彼の「過剰」は、飢餓感が発生源だから。
私とのこともそのようなところから生まれたものだと思う。
今回はその一歩手前で、わけがわからなくなった女の暴露で、ストップがかかったのかもしれない。
彼はそういうことにはならない、と言うけれど、彼女がその気になったら、どうでしょう?
このような未来予想図に私は嫉妬したのだったけれど。
彼女が、2カ月間、いやあるいは半年間、ああでもないこうでもない、と考え、おそらくは友人らしき人に相談もし、結論は「主人に嘘をつかれている妻が可哀想だ。電話で誘ってきたことを言ってあげなくては」という親切心(もちろん建て前)で、意味深なメールをよこし、私からの電話を期待した。
私はそれでも彼女に電話をしなかった。
彼女の「あおり」に乗りたくなかった。
この手のものは、たいてい愉快な話なわけがないから。
彼女が誰かと不倫したどのの話かもしれない、とは感じた。
そんな話、聞いても不愉快なだけだから、無視した。
そうしたら辛抱できなくて、電話をかけてきたのである。
無視していては悪いと思い直した私が「数週間後なら会えるわよ」というメールを出したにもかかわらず。
彼女は、「夫の悪事を暴く正義の人」として私の平穏な生活に爆弾を落としたのだ。
しかもそのイケナイ夫から、内々に誘いを受けた、と決めつけて。
これで友だちとは言えないわね。
自分の宙ぶらりんの状態に耐えられず、私を傷つけ、家庭を破壊するような行為に及んだのだから。
そう、彼女は宙ぶらりんだった。
夫からの誘いを、哀れにも色事だと誤解した彼女は、おそらくは再度の電話があるかも、と甘い期待を抱いて日々を過ごしたかもしれない。
困惑、なんて体の良い言い回し。
その手の困惑があまやかな陶酔に人を導くことを、残念ながら私は知っている。
あなたはね、そうやって自分の不安や苦しみを、身近な誰かに押しつけて、気がつかない人。
娘さんが気の毒だ。
苦しむ娘さんの母として、とても辛いと訴え、悲劇のヒロインとなる。
代理ミュンヒハウゼンとかいう病理があるそうだけど、それに近いものを私は感じていた。
そんな彼女は、自分の困惑を全部私にぶちまけることで救われる。
悪いのは私の夫。
そしてその夫の信じられない行動により、友だちを失った可哀想な女。
彼女の現在はそんなところだろう。
深入りするな、と最初に直観した私が、ずるずると引っ張られたのには、やはりわけがある。
ひとつは、地元に全く友人と呼べる人がいなかったこと。
もうひとつは、夫の不機嫌と爆発の理由がわからなかったこと。
わからないことは不安である。怖いのである。
だから助けを求める人を必要とした。
しかし今回の事件のおかげで、私は夫と何度も会話をくり返し、なんとか彼の爆発に至るプロセスが何とかつかめた。
私の不在が彼に耐えられないことを、彼は「よくわからない」と言うに至った。
よく分からない事態が彼の脳味噌で起きるらしいことは、想像できる。
いつもべったりはできないけれど、彼が極度の不安に陥らないような手立てを試みることは可能だ。
彼女が私に暴露電話をしてくれたことを、私は彼女からの贈り物だと思うことにした。
彼女に対して、あるいは彼女の娘さんの問題(繰り返すリストカット)に対して誠実に対応したことのお返しだと理解する。
私の彼女への「贈答」がなかったら、このような展開にはならなかっただろう。
まだまだ地下に潜っていたかもしれない。
人のために働くのは、やはり良いことだと思うよ。
恩を仇で返された、と一時は思ったけれど。
以下はそのコピー。
人間死ぬまで学び続けなければならないようだ。
というのもね、学んだつもりになっていることを、ふらっと忘れていることに気づいたから。
読み直したのは斉藤学著「家族依存症」。
このところ私をイライラさせている人がいるが、その人とのことが、この本を読んですっきりした。
「底の抜けたかめに水を注ぐがごとき」と、以前この日記に書いた人のことである。
私自身が、彼女の依存と支配による人間関係に巻き込まれそうになっていたようだ。
私の目には、彼女とお嬢さんがその関係から抜け出していないことが見えていた。
けれど、もちろん言わない。
その人と長時間話していると、私が同じような「場」に取り込まれていく。
もともとそうなりやすい傾向がある私である。
が、何かがそこから離れたいと訴えた。
何かとは私のなかから湧いてくる何か。
不快感と言ってもいいけれど、それは正しかったのではないかと今思う。
不快感とかの「感じ」に従ってもいいのではないか。
どこかで冷たく突き放すことをためらう私がいた。
彼女が私に依存している様子を、夫は微笑ましいと言い、なぜ私が苛立つのかわからなかった。
わからないだろうな。
彼はそういう相手が現れれば、身を乗り出していく人だ。
相手のためというよりは、自分の満足のため。
依存傾向の強い人は世の中に大勢いる。
ほとんどの人については勝手にやってよ、と言うしかない。
しかし依存の対象が子どもになったとき、悲劇が起きる。
寂しいから、退屈だからと、子どもに依存してはならない。
一人遊びのできない大人は、はた迷惑である。
なんだ。とっくにわかっていたのだわ。
この1か月、ぐにゃぐにゃと曲がりくねった道を行ったり来たりしていたけれど。
この日記を書いたちょうど同じころ、夫は彼女に電話をしている。
私は見事に彼のやりそうなことを予測しているではないか。
まるで私が方向を暗示したようなかたちである。
彼の過剰な親切心=彼の飢餓感からくるのだろうが=を、男の誘惑というストーリーに仕立てて、彼女は私に電話をかけてきた。
夫が愚かな電話をして2カ月も経っていた。
耳を疑いました。困惑しました。
まるでメロドラマのヒロインのような「作文」である。
そのような受け取り方しかできないステレオタイプの女性なのだろう。
まあね、夫の「過剰」は誤解を招きやすいし、このようなきっかけから情事へと発展することは多い。
なにしろ彼の「過剰」は、飢餓感が発生源だから。
私とのこともそのようなところから生まれたものだと思う。
今回はその一歩手前で、わけがわからなくなった女の暴露で、ストップがかかったのかもしれない。
彼はそういうことにはならない、と言うけれど、彼女がその気になったら、どうでしょう?
このような未来予想図に私は嫉妬したのだったけれど。
彼女が、2カ月間、いやあるいは半年間、ああでもないこうでもない、と考え、おそらくは友人らしき人に相談もし、結論は「主人に嘘をつかれている妻が可哀想だ。電話で誘ってきたことを言ってあげなくては」という親切心(もちろん建て前)で、意味深なメールをよこし、私からの電話を期待した。
私はそれでも彼女に電話をしなかった。
彼女の「あおり」に乗りたくなかった。
この手のものは、たいてい愉快な話なわけがないから。
彼女が誰かと不倫したどのの話かもしれない、とは感じた。
そんな話、聞いても不愉快なだけだから、無視した。
そうしたら辛抱できなくて、電話をかけてきたのである。
無視していては悪いと思い直した私が「数週間後なら会えるわよ」というメールを出したにもかかわらず。
彼女は、「夫の悪事を暴く正義の人」として私の平穏な生活に爆弾を落としたのだ。
しかもそのイケナイ夫から、内々に誘いを受けた、と決めつけて。
これで友だちとは言えないわね。
自分の宙ぶらりんの状態に耐えられず、私を傷つけ、家庭を破壊するような行為に及んだのだから。
そう、彼女は宙ぶらりんだった。
夫からの誘いを、哀れにも色事だと誤解した彼女は、おそらくは再度の電話があるかも、と甘い期待を抱いて日々を過ごしたかもしれない。
困惑、なんて体の良い言い回し。
その手の困惑があまやかな陶酔に人を導くことを、残念ながら私は知っている。
あなたはね、そうやって自分の不安や苦しみを、身近な誰かに押しつけて、気がつかない人。
娘さんが気の毒だ。
苦しむ娘さんの母として、とても辛いと訴え、悲劇のヒロインとなる。
代理ミュンヒハウゼンとかいう病理があるそうだけど、それに近いものを私は感じていた。
そんな彼女は、自分の困惑を全部私にぶちまけることで救われる。
悪いのは私の夫。
そしてその夫の信じられない行動により、友だちを失った可哀想な女。
彼女の現在はそんなところだろう。
深入りするな、と最初に直観した私が、ずるずると引っ張られたのには、やはりわけがある。
ひとつは、地元に全く友人と呼べる人がいなかったこと。
もうひとつは、夫の不機嫌と爆発の理由がわからなかったこと。
わからないことは不安である。怖いのである。
だから助けを求める人を必要とした。
しかし今回の事件のおかげで、私は夫と何度も会話をくり返し、なんとか彼の爆発に至るプロセスが何とかつかめた。
私の不在が彼に耐えられないことを、彼は「よくわからない」と言うに至った。
よく分からない事態が彼の脳味噌で起きるらしいことは、想像できる。
いつもべったりはできないけれど、彼が極度の不安に陥らないような手立てを試みることは可能だ。
彼女が私に暴露電話をしてくれたことを、私は彼女からの贈り物だと思うことにした。
彼女に対して、あるいは彼女の娘さんの問題(繰り返すリストカット)に対して誠実に対応したことのお返しだと理解する。
私の彼女への「贈答」がなかったら、このような展開にはならなかっただろう。
まだまだ地下に潜っていたかもしれない。
人のために働くのは、やはり良いことだと思うよ。
恩を仇で返された、と一時は思ったけれど。