心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

7月豪雨の傷跡に接して~卯之町、大洲

2019-03-13 22:40:32 | 四国遍路

 「歩き遍路」から帰った翌日は、先週に引き続き講座日でした。この日は午前中が座学、午後は校外学習でした。でも意外と元気なのに驚きます。夕刻、家に帰ると、2日前に泊まった大洲の「ときわ旅館」さんからお礼のお葉書が届いていました。若いご夫婦で運営なさっている旅館でしたが、雛人形が飾ってあるお部屋で朝夕のお食事をいただきました。
 先週の金曜日、大阪・梅田から午後10時20分発の高速バスで宇和島バスセンターに向かいました。車中泊に慣れてくると、それとなく眠る術を覚えてしまいます。翌朝6時過ぎに宇和島に着くと、予土線に乗って務田駅下車。今回は、この駅がスタート地点になります。
 農道を歩いて半時間もすると、第41番札所・龍光寺の門前に到着です。久しぶりに般若心経を唱えてお参りをしました。次に向かう遍路道を捜していると、駐車場の中ほどに小さな階段があって、そこを登っていくと墓地。その後、遍路道が続きます。道端には菜の花が満開でした。
 そうこうするうちに、遠くに第42番札所・仏木寺の本堂が見えてきます。昔、牛馬の守り仏として信仰されてきたお寺で、最近はペットを慕う参拝者も絶えないのだとか。ここで少し休憩しました。
 次の第43番札所・明石寺へは、第一日目の難所・歯長峠を越えなければなりません。県道、農道を歩いて峠まで2.4キロの地点まで来たところで「この先、7月豪雨の影響で遍路道の一部が崩壊しているため、安全に通行する事ができません」の看板を発見。でも、ここまで来たのだからと、ダメモトで歩を進めると、今度は「この先、”四国の道”通行止め」の看板。これはヤバいと諦め、元の道に戻り県道を歩いて歯長峠を越えることにしました。
 その道すがら、所々に豪雨の傷跡が今でも生々しく残る箇所があって、復旧工事中。と、そのとき、すれ違った叔父さん、急にポケットに手を入れて五百円硬貨を取り出すと、「お気をつけて」と私の手にその硬貨を。とっさのことで状況がよく分りませんでしたが、これも所謂「お接待」のひとつであることに気づきました。「ありがとうございます」と丁寧にお礼を述べてお別れをしました。いただいた硬貨は、地元にお返しするという意味で、次の明石寺の納経代とお賽銭に使わせていただきました。
 そうこうするうちに、やっと歯長峠に到着です。すばらしい景色に見入って小休止。その後、小さなトンネルを抜けたところで、遍路道に入りました。あとは下るのみと思いきや、なんと道がズタズタで、コンクリートの橋げたまで豪雨で流されている惨状に出会いました。倒木を潜り抜け道なき道を下りながら、やっと県道に出ると、歯長地蔵の祠と遍路の墓がお出迎えです。さらに歩いて2時間。やっと明石寺に到着です。
 この日は、卯之町の「まつちや旅館」に泊まりました。女将さんの温かいおもてなしをいただき、ほっとひと息です。お客は私を入れて3名。いずれも区切り遍路でした。そのうちのお一人は、歯長峠の手前で北海道からやってきた男性と巡り合い、通行止めを無視して旧遍路道を歩いたのだと。「一人では到底できないこと」とおっしゃっていました。
 そういえば宿の女将さんから、集中豪雨のときの模様をお聞きしました。ふだんは穏やかな小川だが、ダムの放流を契機に荒れ狂いたいへんな被害が出たのだと。自衛隊が動員され、今も避難所暮らしの方もいらっしゃるのだと。お遍路さんはぱったりと止まってしまったが、代わってボランティアさんがたくさんお泊りになったのだそうです。
 こんな話もありました。街に大きな冷凍食品の製造工場ができ、フル操業のときは遠くからベトナム人の方々が応援にやってくるそうです。彼ら彼女らの真面目で真剣な仕事ぶりと生活態度が街の評判になっているのだとか。日本の若者たちも見習わなければなりません。その昔、農村地方の若者たちが集団就職で都会の工場にやってきた時代がありました。それが日本の後の高度成長を下支えしてきた。そんなことを皆でお話をしながら、美味しいビールをいただいてその日の疲れを癒したものでした。
 翌朝は、残念ながら雨模様。ポンチョに身をつつんでの出発と相成りました。この日は鳥坂峠越えです。宿の女将さんから「鳥坂トンネルは歩道が狭くて怖いから、少し時間はかかっても遍路道を歩いた方がよい」とのアドバイスをいただきました。2時間ほどで鳥坂峠に到着です。
 山道を降りると、雨の中をのんびりと歩きながら大洲の街をめざしました。この日お世話になる「ときわ旅館」の場所も確認。でも、少し早いので、さらに歩を進めて別格第8番「十夜ヶ橋」(弘法大師御野宿所・十夜ヶ橋永徳寺)に向かいました。1200年前、弘法大師が日が暮れたため小川に架かる土橋の下でひと晩野宿したところだそうです。そんな関係で、お大師さんに失礼にならないようにと、お遍路さんが橋の上を通るときには杖はつかないという風習が生まれたのだそうです。
 このお寺の納経所でお話を伺いました。このお寺も7月豪雨で大被害を被ったのだとか。大師堂の相当上の方まで水位が上がったということで、その目印が記してありました。卯之町、大洲の街は大変な被害に遭われたことを改めて思ったものでした。
 翌朝は、大洲の街を散策したあと、午前9時21分発の高速バスで大阪に帰りました。大洲から松山までは50数キロの道のりです。第1番札所・霊山寺を出発して区切り遍路で1年半。お寺の数は折り返し地点になりました。......ここ数週間、少し突っ走った感なきにしもあらず。明日の会議を終えたらしばらく休息日をとることにいたします。

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