あの現実存在の、馬鹿なオレ。全部禅です、以上なし、のほうの。

あの現実存在の頃、

山号寺号は、成城山 耕雲寺。
曹洞宗のお寺。

坐禅をし、講話を受ける。
夕方からの2時間体験である。

坐禅に関しては、本来の坐禅場が、定員がいっぱいで、
使うことが出来ずに、広間での積まれた長机を眺めての坐禅である。

少々、興醒め。

西欧の外国人も10名ほど体験に来ていた。

あっという間の坐禅40分が過ぎた。

マインドフルネスという、
(ざっくり、といって、呼吸に意識し、集中していく行為)
を、以前、体験していたので、
説明が不十分でも、要領は飲み込めた。

説明する人も、いつもと場所が違い要領が得ることが出来ずに、
「まっ、いいか、今回は」と、本来の説明ができずに、この言葉を、繰り返す。
参加者から、小さな笑いが起きる。

この辺り、禅の極意なんだろうか。


坐禅が終わり、
道元禅師の講話となる。

ミミズを二つに切ったら、
仏性は、どちらにあるか。

ミミズは、切る前はひとつだったと決めつけられるか。

仏性は、あると言えるか、ないと言えるか、等。

オレには、
大変、興味深い話となるのだが、

一歩、講話が終わり、寺の外にでると、
随分、のんびりとした、話である、と、いうことに気づく。

こんな毎日を、坐禅をして過ごしているとしたら、
世間との繋がりを、どう折り合いをつけているんだろう、か。
不思議に思う。

キリスト教も聖書を解釈することに、永い歴史を費やしている。
彼らも、未だに、道元禅師の正蔵眼蔵の、解釈を続け、
すべては、坐禅の中に、答えがあると、とらえている。

オレは、日常からの非日常の世界だが、
彼らは、これが、日常である。

一休宗純は、臨済宗だが、
室町時代、乱れた高僧たちの中で、
自らも、街にでて、酒を飲み、女を抱きその中で、
禅師の公案を解いていった、そうだ。

あのオレたちに坐禅の説明をして頂いた方も、「まっ、いいかっ、」と、
戒律を破り、迷いのなかで、禅の中を泳いで、公案を解いているのだろうか。

機会をみて、
早朝の、掃除、坐禅、お粥をいただく、体験も参加してみたい思う。



ホントは、
オレって柄じゃないんだが。





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