1月12日、ツレが帰らぬ人となりました。
死因は誤嚥性肺炎でした。
何回か死線を乗り越えてきたので今回もというで望はありましたが・・・・・・。
1月8日(月)朝、病院から ツレが夜中に吐いた、その後酸素の値が低いので、酸素吸引していているが値が上がらない、
と電話があった。
長女と病院へ駆けつけるとツレは酸素マスクをして肺は痰で少しゼロゼロいっていたが特に重篤には見えなかった。
翌日(火)は前日よりは肺のゼロゼロ音もなくマスクをとってくれと言ったりして前日より良くなっているように見えた。
水曜日は良くなって見えたので二人とも病院へは行かなかった。
木曜日朝、病院から酸素の値がかなり落ちているという連絡を受けた。
医師から今日かもしれないし、明日かもしれないと言われた。
ツレは意識はなく、酸素を取り込もうと口を大きく開けて呼吸をしていた。
その日は3回意識が戻って意思の疎通ができた。
仕事を早引きして駆けつけた次女とも、仕事終わって来てくれた長女の夫とも会えた。
仮眠ベットを予約して長女と私はその日病院に残った。
12日、長女と私は少し仮眠を取り夜明け前から病室に戻りツレに付き添った。
ツレは苦しそうに口で呼吸をしていた。
呼吸が大変そうなので思わず
「お父さん頑張ったね。もう頑張らなくてもいいよ」
というと一瞬呼吸が止まった。それからまた呼吸をして徐々に穏やかな呼吸になった。
心拍も緩やかになり11時20分に脈が止まった。
よく頑張ったね!
これからは不自由な身体から抜け出して好きなところへ自由に行けるよ!
ありがとう!
と声をかけた。
死因は誤嚥性肺炎でした。
何回か死線を乗り越えてきたので今回もというで望はありましたが・・・・・・。
1月8日(月)朝、病院から ツレが夜中に吐いた、その後酸素の値が低いので、酸素吸引していているが値が上がらない、
と電話があった。
長女と病院へ駆けつけるとツレは酸素マスクをして肺は痰で少しゼロゼロいっていたが特に重篤には見えなかった。
翌日(火)は前日よりは肺のゼロゼロ音もなくマスクをとってくれと言ったりして前日より良くなっているように見えた。
水曜日は良くなって見えたので二人とも病院へは行かなかった。
木曜日朝、病院から酸素の値がかなり落ちているという連絡を受けた。
医師から今日かもしれないし、明日かもしれないと言われた。
ツレは意識はなく、酸素を取り込もうと口を大きく開けて呼吸をしていた。
その日は3回意識が戻って意思の疎通ができた。
仕事を早引きして駆けつけた次女とも、仕事終わって来てくれた長女の夫とも会えた。
仮眠ベットを予約して長女と私はその日病院に残った。
12日、長女と私は少し仮眠を取り夜明け前から病室に戻りツレに付き添った。
ツレは苦しそうに口で呼吸をしていた。
呼吸が大変そうなので思わず
「お父さん頑張ったね。もう頑張らなくてもいいよ」
というと一瞬呼吸が止まった。それからまた呼吸をして徐々に穏やかな呼吸になった。
心拍も緩やかになり11時20分に脈が止まった。
よく頑張ったね!
これからは不自由な身体から抜け出して好きなところへ自由に行けるよ!
ありがとう!
と声をかけた。