コメント
第二芸術論、ではなくて、
(
trotteur
)
2007-08-05 23:21:36
私は基本的にはマンガというものはアウトサイダーなものだと思うので、国家の積極的な庇護のもとで作られたマンガというものにはうんざりするんですけどね。国家が支援して作られたロックを聴くようなものです(笑)。
そんなわけで、私にとって、マンガが9e Artにされてしまうのはあまり好ましくないのですが、8番目までは以下の通りです。
1er art : Architecture
2e art : Sculpture
3e art : Peinture
4e art : Danse
5e art : Musique
6e art : Poésie
7e art : Cinéma
8e art : Télévision
一応、下のサイトを見ると23e artまで決められていますが、10e art以降は市民権を得ているとは言えず、9e Artも雑誌がなかったらあやしいです。8e artまでは正当だと思います。
http://www.wuacademia.org/francais-homepage.html
そうそう。
(
midi
)
2007-08-06 10:13:48
>国家が支援して作られた○○
って胡散臭いですよ……負け惜しみにしかとられないかな? 日本人がいうと。
わたしは文学や演劇が5番目、6番目だと認識してましたが違ったんですね。
やっぱり歴史の違いかしら?
(
raidaisuki
)
2007-08-06 19:38:19
trotteurさま、midiさま
ありがとうございます。
しかしずいぶん先まで決めてあるものですね。
ずいぶん首を傾げるところもありますが・・・
ところでたしかに国家の支援するゲージュツなんて日本じゃだめかなと思います。この件に関してはこんな風に思います:
この国は、天皇家は「真面目」であるように強いプレッシャーがかかっているし、首相以下独裁権をふるえる人は誰もいないから、ゲージュツの国家支援といっても「合議の結果の」国家支援になってしまう。
しかし複数の人の趣味を折り合わせたもの、というのはゲージュツ的にはひどく質が落ちるものです。10人が10人「まあ、悪くはないでしょう」という作品は、結局あってもなくても変わりがない平凡な作品です。
それに対して10人中9人までが「うわーやめてくれ!」と拒否反応を示しても、あとの1人が「素晴らしい・・・」と生涯の糧にするような作品なら、そういうのが存在価値あるものだと思います。
日本も後白河法皇とか足利幕府のころなんかはそうでもなかったと思うんですが、江戸時代になってしまうと権力と芸術的趣味がずいぶん乖離したように思えます。なぜですかね?
そのへん、フランスはなんか趣味にかんして一定の権力をもっている人が勝手にやれるシステムがあるみたいに思います。ゲージュツに関してはそれでないとうまくいかない、とみんな分かっているということかしら?
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そんなわけで、私にとって、マンガが9e Artにされてしまうのはあまり好ましくないのですが、8番目までは以下の通りです。
1er art : Architecture
2e art : Sculpture
3e art : Peinture
4e art : Danse
5e art : Musique
6e art : Poésie
7e art : Cinéma
8e art : Télévision
一応、下のサイトを見ると23e artまで決められていますが、10e art以降は市民権を得ているとは言えず、9e Artも雑誌がなかったらあやしいです。8e artまでは正当だと思います。
http://www.wuacademia.org/francais-homepage.html
って胡散臭いですよ……負け惜しみにしかとられないかな? 日本人がいうと。
わたしは文学や演劇が5番目、6番目だと認識してましたが違ったんですね。
ありがとうございます。
しかしずいぶん先まで決めてあるものですね。
ずいぶん首を傾げるところもありますが・・・
ところでたしかに国家の支援するゲージュツなんて日本じゃだめかなと思います。この件に関してはこんな風に思います:
この国は、天皇家は「真面目」であるように強いプレッシャーがかかっているし、首相以下独裁権をふるえる人は誰もいないから、ゲージュツの国家支援といっても「合議の結果の」国家支援になってしまう。
しかし複数の人の趣味を折り合わせたもの、というのはゲージュツ的にはひどく質が落ちるものです。10人が10人「まあ、悪くはないでしょう」という作品は、結局あってもなくても変わりがない平凡な作品です。
それに対して10人中9人までが「うわーやめてくれ!」と拒否反応を示しても、あとの1人が「素晴らしい・・・」と生涯の糧にするような作品なら、そういうのが存在価値あるものだと思います。
日本も後白河法皇とか足利幕府のころなんかはそうでもなかったと思うんですが、江戸時代になってしまうと権力と芸術的趣味がずいぶん乖離したように思えます。なぜですかね?
そのへん、フランスはなんか趣味にかんして一定の権力をもっている人が勝手にやれるシステムがあるみたいに思います。ゲージュツに関してはそれでないとうまくいかない、とみんな分かっているということかしら?