ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

メキシコ海軍練習帆船「クアウテモク」号 @ 晴海埠頭 前半

2017-09-11 | 軍艦

先週末、二回晴海に足を運んできました。

防衛団体の研修会でご一緒するKさん(ご子息が自衛官)という方が、
頻繁に見学や研修に頻繁に参加していることに少し驚き、

「どうやっていつもそれだけ色々情報を手に入れるんですか」

とお聞きしたところ、当方のメールに色々とHPなどを送ってくださったのですが、
その情報で、晴海にメキシコの帆船と「おおなみ」が来ることを知ったので、
早速土曜日息子を御茶ノ水に送っていった後、晴海にいってみたのでした。

今まで何度か練習艦隊を見送った同じ岸壁に、帆船がいます。
満艦飾と巨大なメキシコ国旗に彩られたその船は美しく、これが帆を張り
紺碧の海をゆく姿はさぞ美しいだろうと思われました。

岸壁には一応ゲートがあり、テーブルが置いてあって自衛官が並んでいます。
メキシコ海軍の練習船である「クアウテモク」を迎えるために、横須賀から
「おおなみ」が駆けつけて同じ岸壁で公開しているので、海自の隊員と
メキシコ海軍の軍人が共同で手荷物検査を行なっているのでした。

しかし、念のため聞いてみると、見学は4時で締め切り。
時計を見るとすでに3時40分です。
これではどちらも見るのはキツイと判断し、翌日出直すことにしました。

 

翌日、一人で再び晴海埠頭にやってきました。
風が強く、巨大なメキシコ国旗が一瞬も垂れることなく翩翻としています。

それではいよいよ「クアウテモク」に乗船します。

デッキでシマシマの制服を着た水兵さんが携帯電話中。
勤務中の電話はありみたいです。

「クアウテモク」はメキシコ海軍の練習用帆船です。
文字通り、メキシコ海軍の士官候補生が練習用に乗り込むものですが、
驚くべきはこれが帆船であるということです。

アメリカでいくつもの帆船を見てきましたが、海軍によって今も生きている
「コンスティチューション」のは海軍の象徴、あるいはレガシーとされています。

が、「クアウテモク」は実際に海軍士官候補生の練習用に就役している現役船。

船の前に立ててあった甲板には、英語で乗艦者への注意事項が書いてあります。
マストに登るな、子供から目を離すな、雨の日は滑るから走るな、等々。

この注意を怠って怪我をしても一切の責任はとりません、と最後の一行に。

階段も案内も、帆船のグレードに合わせた木目調で重厚感があります。

手すりがチーク材らしいラッタルは緩やかな傾斜で、舷側には階段を下ります。
そこでは軍曹クラスの乗員が立っていて、女性には手を出してくれました。

Thank you. と反射的にいってから、ふと思い出して

「ムーチョスグラシアス」

といってみると、ちょっと嬉しそうな顔をしました。

甲板から艦尾方向を望む。

見張り用のマストは当然ですが、木製です。
右側はフェンネルのようですが、補助動力のものなので小型です。

メインの動力はもちろん帆船ですので風ですが、現代の帆船は
エコを目的とした環境に優しい船で、どちらかというと風力を補助とするものが多いようです。

腐食しやすい甲板上の構造物は基本金属で表面を覆われていますが、
外側扉を開けると、中は昔ながらの木に真鍮のドアが姿を現します。

フェンネルの真ん前に立ってみました。

Armada De Mexico Buque Escuela "Cuauhtemoc"

メキシコ海軍練習船「クアウテモク」

Escuela Por La Extaltacion Del Espiritu Marinero

海軍精神高揚のための教育機関

という文字が刻まれています。

「コンスティチューション」でもお目にかかったビレイング・ピンにかけられた索。
当然ですが、帆船は帆を張る作業を手で行います。
ホテルのカーテンみたいに、ボタンを押したらブイーンと帆が貼られてしまう
便利な帆船では、士官候補生の訓練にも何もなりやしません。

大航海時代と同じようにマストに登ってその高みから海を見下ろし、
張った帆で帆走することを、彼らは船乗りの基礎として学ぶのです。

これはある意味原初的な船乗り精神を潮気とともに叩き込むのに
もっとも効果的な訓練ではないかと思うのですが、どうでしょうか。

艦尾のデッキ上階に登ってみました。
船内の所々では、候補生らしい姿もありますが、基本彼らはお休みらしく、
晴海のバス乗り場から数人で連れ立って東京見物に出かけるらしいのを目撃しました。

軍服を着ていなければ、彼らもただの外人のお兄ちゃんです。

これは護衛艦などとほぼ同じの探照灯。

両舷には実に美しい木造の作業艇が吊るされています。
動力がなんだったのか確認するのを忘れました。

帆船ばかりで集まって何かをする大会があるようです。
いわゆる帆船レースというやつでしょうか。

セイル・トレーニング・インターナショナルという組織は、トレーニングを行う
帆船の協会で、協議を行ったり、練習場所の提供を行うなどして彼らを助けているそうです。

ケルビンのボール(中に磁石入り)が赤と緑、真鍮製で木造の
昔ながらのビナクルがありました。

今日びの帆船はコンピュータ制御のものもあるそうですが、この練習船は
どこまで近代化されているのでしょうか。

見上げてみると、帆船に必要な無数の索のところどころに、
まるでお掃除モップのような緩衝材が巻いてあるのが目につきました。
帆船での航海は決して静かなものではないらしいですね。

エンジン音はそんなにしなくとも、帆や索が風を受ける音は物凄そうなのを
後ろの大国旗が受ける風の音で察しました。

乗艦するなり目についたこれ。
まさか、インマルサットみたいな衛星通信アンテナ・・・?

調べてみたところ、どうやらこれみたいです。

SAILOR

これで乗員のみなさんもインターネットができるってわけだ。

エクステリアも木目と真鍮、そして白が基調。
窓から皆中を覗き込んでいましたが、わたしは遠慮してしまいました。

展開式の非常用救命艇。

「クアウテモク」は世界を回るメキシコ海軍の親善大使のような役割を果たします。
自衛隊の遠洋練習艦隊もそうですが、特に帆船とあって、その効果は絶大。

船を通じて今まで全く知らなかったメキシコへの興味を持つ人もいるかもしれません。
この大メキシコ国旗は、そうやって各国を回る「クアウテモク」にとって、
自国を強くアピールするために不可欠なものなのです。

ちなみに艦尾にも国旗がありますが、これが国際的慣例通り海軍旗なのか、
それとも帆船に限りここに国籍旗を揚げるのかはわかりませんでした。

艦尾から後方の岸壁を見ると、あれー?
後ろにも帆船がいるぞ。

この時質問ができるような人が周りに誰もいなかったので確認していませんが、
どうもこの色形から、我が国の帆船

「海王丸」

である可能性が高いですね。
こちらも海技教育機構が所有する練習船で、平成元年に就航した2世です。

こちらの記述で初めてわかったのですが、可変ピッチプロペラを採用しているので
水流の抵抗を抑え、優れた帆走性を確保したそうです。

現代の帆船は、どこかしらに近代化の恩恵を受けて、全く昔のままの
機構ではないらしいことがこれによってなんとなく想像できますね。

また、海王丸は2004年に暴風の際、走錨のため座礁事故を起こしています。
幸い164名の乗員は全員救助され無事でした。

「海王丸」は「クアウテモク」の寄港を歓迎する意味でここにいて、
帆船同士の交流を持っていたのかもしれませんが、
一般に対しては全く公開しておらず、立ち入ることのできない
柵の向こうに繋留してありました。

 

後半に続く。

 




オーシャンビーチのクジラ〜サンフランシスコ

2017-09-10 | アメリカ

今夏のアメリカ西海岸滞在は、前半がシリコンバレー、最後にロスアンジェルスと
サンフランシスコ空港を降りるや否や南下してしまったわけですが、
それでもかつて住んでいた「アメリカの故郷」であるサンフランシスコには
家族で一度は行っておこうということになりました。

そうなると、ユニオンスクエアで買い物してディナーは
太平洋を望むこの街の「最北西端」、通称クリフで、というのが
全員の一致した意見になります。

まずユニオンスクエアの地下に車を停めて買い物へ。
道を横切るときにケーブルカーを必ず目撃します。

用事があって乗る人もたまに入るのかもしれませんが、
ほとんどが観光客で、必ず彼らはこうやって外の
「お上りさん専用お立ち台」に立って楽しみます。

日本ではまずありえませんが、アメリカでは
万が一落ちて怪我をしても自己責任、を貫いています。

いつ行ってもオフィスワーカーと観光客で人通りの絶えない市街地ですが、
通りの建物は昔のままの姿です。

市街地から太平洋側に向かって西に行くゲイリーストリートは、
中心から離れるに従って周りがチャイナタウン化していきます。

ちょっとウケた「沸騰」(ブートン)という麺の店。

海に近づくにつれ、道は狭くなって行くのですが、
そこにはロシア正教会のモスクがあります。

そしていつものサンフランシスコ最西端に到着。
いつ来ても清々しいくらい手の加えられていないままの海です。

この海岸は「オーシャンビーチ・ファイアーピッツ」という名前で
国立公園として政府が管理してるので、業者が何かをすることが許されません。

「シール・ロックス」と名前のついた岩礁は、
シールではなくカモメの休憩所になっており、その結果
岩が彼らのフンで真っ白に・・・。

手前の岩山は、海岸沿いにあって引き潮の時だけ上に登ることができます。
昇り降りは結構大変そうですが、いつ見ても観光客の姿があります。

レストランの窓際に席を取ってもらい、景色を見ていたら、
ロボス岬という名前の小さな岩の岬の先端のベッドで釣りをしている人が。

「あんなところに立っていて大丈夫なのかな」

と見ていたら、夕刻になって波がまともに覆いかぶさるように・・・。
さすがにこの後釣り人は諦めて帰っていきました。

海岸では、写真撮影会真っ最中。
カメラマンもモデルもプロではなさそうですが、
波打ち際を歩く姿を熱心に撮影しております。

そういえば大学生の時、友人の別荘に合流するために砂浜をトランク下げて一人で歩いていたら、
そこにいたカメラマンに撮らせてくださいといわれ同じようなことしたことがあります。

地方のコミニュティ雑誌のカメラマンで、あとで掲載された号を送ってもらいました。

というような何世紀も前の話はさておき、お料理です。

レストラン「クリフサイド」では去年に引き続きエビと帆立貝を注文。
粒の大きなクスクスとアスパラのペーストの色合いが食欲をそそります。

息子の頼んだのは鴨のロースト。

レストランの窓からの眺め、俯瞰にするとこうなっています。
注文を待つ間、食事中もずっとこの海に目をやっているわけですが、
少し時間が経って来たころ、海面の異変に気がつきました。

異常なくらい海鳥が海面を行き来しているのです。

よく見ると、鯨のあげる水煙。
しかも一箇所ではなく、見渡す限りの海面いたるところに頻繁に上がります。

魚の群れを追って来た鯨の大群が海面下で「踊り食い」しているようでした。

私たちのテーブル係だったうウェイターによると、彼にとってもこんなことは
初めてで、今までに一度も見たことがない、ということでした。

写真に写っているのを見ても、彼らが二頭単位で行動しているらしいことがわかります。
鯨って一夫一婦制だったんでしょうか。

早速レンズを中望遠(まさかと思っていたので望遠レンズを持っていなかった)に変え、
海面に鯨が姿を表すのをずっと待っていたのですが、鯨というのは基本
イルカみたいにジャンプしないので、これが限界でした。

これは背面ジャンプしてますね。

鯨撮影の合間にデザートが来ました。
いつも一つだけ頼んでみんなで食べる「ラーバ(溶岩)ケーキ」。
最初に来た時、ナイフを入れるとまさに溶岩のようにチョコレートが溢れ、
感激してそれ以来毎年頼んでいるのですが、年々噴出量が少なくなり、
今年は「とろ」っと出るだけになっていたのが残念でした。

いつ来ても基本曇っているクリフですが、なぜか鯨の頃から日が差して来ました。
ゴールデンゲートブリッジをくぐって来たばかりの「コスコ」の貨物船が通ります。

おそらく日本にも貨物を運んで行くんだろうな。

食事が終わってレストランからでるとき、ここに「ビナクル」、
つまり羅針儀架台があるのに気がつきました。
去年もこれありましたっけ?

ビナクルの両側にあるのは「ケルビンのボール」と言って
保障磁石が内蔵され、磁気の干渉を避けるための工夫です。

レストランの向かいのカフェには、モニターが最近取り付けられました。
フットボールの試合を見るためのものだと思われます。

この時、白黒の映画が上映されていたのですが・・・、

映画の舞台がどう見てもこのレストランの前の道。

レストラン前が駐車スペース(今も無料)なのも一緒。
後ろの崖はこの頃むき出しですが、今は補強されています。

車の形を見ると、1950年ごろの映画でしょうか。

なんかカーチェイスをしているらしいことはわかった。
車の後方にはゴールデンゲートブリッジが見えているので、
ブリッジ上の山道を走っているという設定らしいです。

それにしてもなんだろこの映画。

食事が終わって、外に出て少しだけ海を見ました。
岩山の上にもずっと鯨を見物しているらしい人々がいます。

砂浜では愛犬を連れて来たらしい旅行者の姿。
思いっきりここで運動させてあげようとしているようです。

この後飛び上がってボールをナイスキャッチしました。

先ほど同じ場所から撮ってから1時間後だとは思えません。
こんなに穏やかに晴れたオーシャンポイントは久しぶりに見ます。

アウトドア雑誌に登場しそうな装備の人たちが、海岸で釣りをしていました。
太ももまで浸かれる長靴着用で気合が入りまくりです。

サンフランシスコ湾ではヒラメやカタクチイワシ、キングサーモンが釣れるそうですが、
さすがにこんな浅瀬ではどうかなあ。

海岸に面した住宅街はほとんどがアパートで、サーファーが海の向かいだからと
ここに住居を借りるらしく、よくボードを持ってグレートハイウェイを横切ります。

風車は公園に二つあり、こちらは「ダッチ(オランダ)ウィンドミル」。

もう一つの風車は「マーフィ・ウィンドミル」といいます。
1902年に作られ、風で稼働していましたが、その後モーターになりました。
風車の足元にはチューリップ畑があり、写真スポットとなっています。

 

わたしたちにとっての今年最後のサンフランシスコは、印象的な晴天でした。
さようなら、また来年。

 

 


光と影〜陸自衛生学校 医学情報資料室「彰古館」

2017-09-09 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、衛生学校で公開された第1級救難衛生訓練見学を終わり
次に資料館の見学を行いました。

彰古館。

陸上自衛隊衛生学校、教育部教材課に設置された
「参考品展示室」を母体として、かつて軍陣医学と呼ばれていた
軍事医療の資料を収集している、全国でも稀有な医学情報資料の公開施設です。

ここは、体系的で機能的な展示の仕方も、湿度管理が完璧に行える
専門の電気ショーケースを使った資料の保存も、今まで見たどんな資料館をもしのぎ、
しかも資料館の担当である自衛官の説明は素晴らしいの一言でした。

資料を見ながら軍事医療について時系列に語ってくれるのは従来通りですが、
単にものの説明にとどまらず、幕末期から大東亜戦争までの軍事医療の発展と
改革を横軸に、縦軸として近代日本の軍事史をおさらいしているような感じです。

ある程度のことを知っている者にも、全く軍事を知らない者にとっても、
その名も悉知(しっち)さんという自衛官の解説は明快でわかりやすく、
歴史に対する興味を掻き立てずにはいられない魅力に富んでいました。

おかげでみっちり1時間の解説が、全く長いと感じられなかったほどです。

というわけでこの見学について詳しくお話ししたいのは山々ですが、
内部にはあちらこちらに写真撮影禁止の貼り紙がありました。

貴重な資料で保管にも最新の注意を払っているせいかと思いきや、
説明終了後に「撮っても構いません」

ただし、写真はご自分の飼料用としてお使いくださいとのことでした。
というわけで、本日画像は現地にあったものではなく、
パンフレットからの転載になります。

 

資料館外には陸軍病院と軍医学校の写真が展示してあり、
こちらは公開しても大丈夫そうなのででご紹介しておきます。

明治3年、政府に要請されて来日していたオランダ人医師ボードウィン(右上)
が大阪軍事病院の中に陸軍医学校を設立しました。

こちらは昭和4年に牛込に設立された陸軍軍医学校玄関。
広大な敷地に最新の建築が並びました。

標本館と図書館だそうです。

関東大震災の時には倒壊した建物から毒ガスが漏れるなどの騒ぎになったそうです。
現在ここには現在、厚生労働省戸山研究庁舎(国立感染症研究所および独立行政法人国立健康・栄養研究所)
新宿区立障害者福祉センター、全国障害者総合福祉センターが設置されています。

内部資料のコピーなどが一部だけですがロビーに展示されていました。
資料館では、原子爆弾投下に関する資料、例えば黒の部分だけ焼け焦げた
着物の切れ端などを見ることができます。

日華事変から終戦までの資料は、その多くが戦災や焼却処分、さらには
戦後の混乱期に散逸してしまったのですが、当資料館(というか防衛省?)は
その欠損を埋めるべく収集活動を継続しているということです。

また和紙に書かれた資料は大変保存がきき、現在も展示していますが、
特に大東亜戦争中の紙の資料は酸性化が進んでしまっているので、
これ以上の劣化を防ぐために公開していません。

しかし、将来の公開に向けて、電子ファイル化を進めているとのことです。

展示室入口にあった指差しマークは明治40年に使われていた
野戦病院への方向を示す道標がプリントされて使われていました。

これが彰古館の広報パンフレット表紙です。

医療を表すアスクレピオスの杖(蛇が絡まっている)と桜が組み合わされ、
英語で「メディカルスクール」と記された衛生隊のマークの下に、
赤一文字の医療背嚢を背負った西南の役での看護卒の後ろ姿の絵があります。

この赤一文字はどういう意味があるのでしょうか。

当時、軍衛生部の標識を決めることになった時、当然ですが
海外で使われているレッドクロスを採用するという運びになりました。
ところがここで、

「キリスト教の十字架はまかりならん!」

と時の太政大臣がしゃしゃり出てきて使用することを禁止したため、
やむなく十字の縦の棒を取り去って、横に赤一文字だけを描き、
いざとなると縦の棒を描き加えて十字にすることにしたのです。

ただしこれは西南戦争の時だけの措置だったようです。

これらも全て所蔵物で実物を見ることができます。

当時のメスや、顕微鏡、薬籠など。

上記の赤一文字背嚢も現物が展示されています。
右側は、西南戦争の戦傷者の形成手術ビフォーアフターを詳細な絵に描いたもの。
このビフォーアフターはコピー化されてファイルになったのを見ることができます。

これ以外にも頭皮からの傷口への移植手術の過程を表したリアルな模型、
(もちろん当時のもの)があって、医療関係者は必見!だと思います。

森林太郎、ペンネーム鴎外の肖像や写真も当然ですがありました。

森軍医総監は脚気論争で海軍の高木軍医と対立した時、高木の

「B1欠損による脚気併発論」

を嗤い、俺理論で突っ走ったため、
日清日露戦争で脚気蔓延の大惨事を招きました。

文学者としては明治の最高峰と言われた森鴎外ですが、軍医としては
その業績において後世に残る汚点を残したと言えるかもしれません。

 

右は日露戦争の捕虜収容所となった習志野捕虜収容所の写真。
当時の日本は国際法を守り、捕虜の扱いを人道的にどころか
教育まで与えるという紳士ぶりで世界の評価をえました。

バルトの楽園(予告編)

第一次世界大戦後になりますが、四国にあった捕虜収容所を舞台にした映画

「バルトの楽園」

という映画がありましたね。
日本で初めてベートーヴェンの「第九」を演奏したのが
ここに収容されていたドイツ人捕虜だったという実話に基づくものです。

軍トップの給料が九十円だった時代に、当時新しくドイツで使われ始めた
X線レントゲンを、

「どうしても欲しいんだい!」

とばかりに千円のポケットマネーで買ってきた芳賀栄次郎軍医。
持って帰ってきたX線に、たちまちみんなは興味津々。
どこも悪くないのに競ってレントゲンを撮ってもらったようです。

ただし、フィルム代はバカ高いので偉い人だけ。
あの乃木大将も好奇心を抑えきれなかったらしく(笑)

足の骨を撮ってそれが残っています。(左)

そして、右は、戦後腕を失った兵隊がタバコだけでも吸えるようにと
乃木大将自ら発明した「乃木式義手」で、これも実物が見られます。

 

乃木式義手といえば、わたしが個人的にここで一番印象的だった展示は、
ある陸軍近衛士官が、西南戦争の戦傷に受けた手術で取り出した骨の写真でした。


皆さんは渡辺淳一の直木賞受賞作「光と影」を読んだことがあるでしょうか。
わたしは知り合いの編集者のいう三文エロ小説家()になる前の、
医療小説ばかり書いていたころの渡辺淳一の小説が今でも好きなので、
ここで悉知さんの口からその題名が出た時、思わずぱあああっ(aa略)
となっちゃいましたよ。

「光と影」のモデルになったのは二人の軍人です。

西南の役の戦いで、ほぼ同じ時にほぼ同じ傷を
それぞれ右腕と左腕に受けた
二人の若い軍人がいました。
寺内寿太郎大尉、そして阿武時助少尉です。

二人は同じ日に大阪陸軍病院の佐藤進院長の手術を受けることになりました。

当時の医学ではそのような銃創を受けた腕は切り落とすのが常識で、
カルテが先になっていた阿武大尉の腕はあっさりと切断されました。

ところが、ここで執刀者の佐藤軍医は、二人の運命を大きく変える
ちょっとした「気まぐれ」を起こすのです。

「あまりにもたくさんの腕を切りすぎたので」

同じことをするのに嫌気がさし、腕を残して粉砕した骨片を取り出す
ランゲンべックの方式を寺内の傷に試してみることにしたのでした。

(これは小説に基づいて書いていますが、実際の理由はわかりません)

結論としては腕の機能が戻ることはありませんでしたが、
それでもとにかく自分の腕が残っていたことで、寺内は軍務に復帰。

腕を切られた小武大尉は寺内より優秀であると自覚していましたが、
負傷後軍を去り、その後設立された偕行社の事務長になります。

小説では二人の運命の分かれ道が「カルテの上と下」にすぎなかったと知り、
小部は精神に異常をきたして、最後は巣鴨の廃兵院の鉄柵の嵌った
精神病患者用の部屋で亡くなるという結末となっていました。

寺内はその後フランスに皇族の補佐官として派遣され、
陸軍士官学校長を経て、なお順風満帆の出世を遂げ、
陸軍大臣、そして内閣総理大臣寺内正毅として歴史に名を残します。

 

 

昔なん度も読み返した渡辺淳一の初期の小説の中でも特に印象的であった
「光と影」のストーリーが現場の説明で一気に蘇り、
「小部敬介」とこちらだけ仮名になっていた阿武時助の面影(イケメン)を
写真で見ることができ、感慨もひとしおでした。

ネットでは阿武時助については寺内正毅についての記述においても
何も出てこないので、彼の写真を見ることができるのはここだけかもしれません。

 

家に帰って早速「光と影」を読み返してみたのですが、小説中、
陸軍大臣となった寺内が偕行社の事務長である小武に

「この紹介状を持って行けば乃木式の義手を作ってもらえる」

というシーンがあります。

この乃木式義手というのがパンフレットの写真にも出ているそれで、
ここにはその実物が展示されているのです。

ちなみに小説では小武は陸軍大臣の前にもかかわらず、
自分より劣っていたはずの寺内を妬む心と劣等感に堪えきれなくなって
この申し出に激昂し、

「生半可な同情なぞはやめてくれ。俺は俺でお前はお前だ」

と暴れるということになっていました。

今回この資料を見て考えたことが二つあります。
渡辺淳一は、おそらく小説を書くために、この資料館を実際に訪れたであろうこと。
そして小説に書かれた小部の寺内に対する気持ちと、二人の間に起こったこと、
例えば教官になった寺内が学生に

「同期に小部という優秀な男がいた。彼が怪我しなかったら今頃偉くなっていただろう」

とその名前を喧伝していたことなどは全て創作であるということです。

そう断言する理由は、二人の階級。

小説では同期ということになっていますが、戦傷を受けた時点で二人は大尉と少尉。
カルテでは上と下でも、両者が同期で俺お前の仲であろうはずはありません。

偕行社の事務長として阿武が陸軍大臣の寺内と会うということはあったかもしれませんが、
そこで寺内に情けをかけられ(たと思い)キレて暴れるということなど考えられないし、
佐藤軍医が二人のカルテの順番や処置の違いについて、問われるままに
彼に真実を告げるというのも守秘義務の点でまずありえません。

「創作は創作」。

夢中になって読んだあの頃から何十年後になって、そのことに気づいてしまったわたしです。

 

さて、乃木大将といえば、海水浴場で撮られた半裸の写真がここには展示してあります。
実に均整のとれたしなやかな肉体で、説明によるとこれは
日露戦争より後のものだということでした。

「司馬遼太郎の小説だと日露戦争で乃木将軍はもうヨボヨボみたいに書かれてましたが」

そうそう、映画でもやたらどんよりしてやる気のない乃木将軍を
柄本明に演じさせてましたっけね。

「でもこれを見る限り、乃木さん全く若々しいです。
司馬遼太郎という人は・・」

そうそう、乃木さんのことあまり好きじゃなかったんでね。

「陸軍については随分いい加減なことも書いてます」

そうそう海軍についても・・

「海軍については正確に書いているみたいですが」

いやいやいやいや(笑)

司馬遼太郎は、不詳わたくしがブログのために行った程度の調査でも、
かなりの部分で「やらかして」いるのが判明してますよん。

 

展示にはこのほかにも、八甲田山の生存者の凍傷にかかった手足のカルテや、
戦後広島でGHQが作成した原爆患者の英文カルテ、
731部隊の石井四郎が考案した浄水器の実物などがあり、
軍事医療のみならず戦史に興味のある方なら一日いても飽きないかもしれません。

 

ロビーにあったイラク復興支援の際部隊が身につけていた防暑服。
胸には英語とアラブ語で「日本」と書いてあります。

マスクのようなものは砂塵マスクでしょうか。
この服装で「防暑」ができるとはちょっと信じられませんね。

 

 

当資料館の開館日は平日、希望者は2時間前までに予約をすれば
いつでも誰でも見学することができますので、みなさま折あらば是非
時間をかけて見学されることを心からオススメしておきます。

 

【陸上自衛隊衛生学校広報室】
 TEL (03)3411-0151

 広報 内線2211
 彰古館 内線2405

 

 

 

装備展示〜平成29年富士総合火力演習

2017-09-05 | 自衛隊

フィナーレの花火、じゃなくて発煙弾の投射も無事終わり、
平成29年度富士総合火力演習は無事に終了しました。

毎年、自衛隊はこの演習にキャッチーなコピーをつけるのですが、
今年のそれは、

「日本を防衛力(まもる)」。

去年は

「日本の本気」

であったと記憶します。
にしても、防衛力と書いてまもると読ませるのにはいささか無理というか、
「日本を防衛力」という文章が文章として成り立たないだけに、
イマイチな感じは否定できません。(ごめんね広報の人)
なんで今年がこうなのに昨年が

「日本の本気(マジ)」

でなかったのか、と個人的には思うものです。
どうしても防衛力を使いたければ、わたしなら

「日本の防衛力(まもり)」

にするな(提案)

さて、演習最後の頃の90式戦車の砲塔を、こんなこともあろうかと
アップで撮っておきました。

砲塔右側に、4つのノズルみたいなのが確認できますが、
最後の発煙弾はここから打ち出されます。

フィールドにいた装備が全て引き上げて行った後、
装備展示のための準備が始まります。
まずはヘリコプターが所定位置に着陸。

Cー47チヌークが他の装備に先駆けてグラウンドに降り立ちます。

続いて AH-64D戦闘ヘリ、アパッチ。

多用途ヘリコプター、 UH-60。

「ブラックホークダウン」という映画でダウンしていたブラックホークですが、
日本では単に「ロクマル」と呼ばれているようです。

海自も救難用に同じ形のものを保持しており、塗装はオレンジと白です。

今回事故を起こして脚を折ってしまったという対戦車ヘリAH-1S。
自他共に「コブラ」と呼ばれており、演習の時にも

「こちらコブラ」

とコールしていました。

アパッチよりたくさんあって、順次退役していく装備であることは
今回初めて知りました。

多用途ヘリコプター、UH-1、愛称ヒューイ。

「ヒューイ」になった経緯というのが最初の型番であった「HU-1」の
「1」を「I」に見立てて

「HUI」→「ヒューイ(HUEY)」

と読んだことに始まるそうです。
ただし我が自衛隊では単に「ユーワン」と呼んでいるとのこと。

何かに引っかかった時のためのワイヤーカッターが、
ツノのように突き出しているのがUH-1Jという現行タイプです。

しかしいつも思うのですが、このワイヤーカッター、役に立ったことあるの?

会場では施設科の隊員が、各装備の前に説明のための看板を置いていってます。

フライングエッグ、観測ヘリOH-6D、オスカー。
総火演に同じ観測ヘリであるOH-1ニンジャが来たこともありますが、
今日はオスカーくんだけでした。

OH-6は順次OH-1に置き換わっていくということなので、
できるだけ総火演で活躍させてあげようという親心?でしょうか。

後段演習には活躍しないけれど、展示には登場する装備もあります。
91式戦車橋。
これがまるでトランスフォーマーのようにあっという間に変身して
橋になってしまう動画は、みなさん一度見て損はないです。

91式戦車橋による架橋

特に4:00から後、橋を地面にどーんと置いちゃうんだよう。

74式戦車。
今日は特に後段演習では大活躍でした。

OH-6と同じ理屈で、花を持たせてもらってる可能性高し。(個人的見解)

せっかくなので車上の隊員さんをアップにしてみました。
そういえば、会場で流れていた自衛隊の広報ビデオで、

「顔を出して戦車に乗っている時、風を感じるのがたまらなく好きです」

というようなことを言ってる戦車隊所属の詩人がいました。

FV小隊も実は後段演習の殊勲賞というくらい出番が多かった気がします。
89式装甲戦闘車。

FVって、「ファイティング・ヴィークル」の頭文字なんですってね。
「戦う車」って漠然としすぎてませんかって感じですが、
英語圏ではこれを普通歩兵戦闘車、つまり

IFV:Infantry Fighting Vehicle

とか

ICV:Infantry Combat Vehicle

とか呼んでいるわけです。
ところが我が国に終戦後から蔓延する軍事アレルギーの空気を忖度した
(と思われる)防衛省が、「歩兵」はよろしくなかろう、と考え、
「Infantry」を外してしまったのでした。

こういうのを悪い忖度っていうんですよ?(個人的見解)

10式戦車の上の人。
10式戦車の部隊は正式には戦車教導隊第1中隊といいます。

ハクトウワシとその蹴爪が第1中隊のマーク。

90式戦車は戦車教導隊の第3中隊、マークはハチ。

流星のマークの90式を見たことがあるかもしれませんが、
90式の部隊は二つあり、こちらは第2中隊となります。

74式戦車は第4中隊で、ペガサスのシルエットがマークです。

96式装輪装甲車は普通科教導連隊第1中隊の所属。
こんなところに顔を出すハッチがあったんだ・・・・。

中距離多目的誘導弾、MMPM(ミドルレンジマルチパーパスミサイル)。
こうして見るとただのトラックぽいですが・・・・、

後ろの弾体射出機を持ち上げれば、おなじみの形に。

今回初お披露目となった水陸両用車AAVと16式機動戦闘車が並んでいます。

その向こう、隊員さんがヘアブラシみたいなのでお掃除しているのが
輸送防護車(ブッシュマスター)。

見たことない車だと思ったら、2014年に4両だけオーストラリアから購入し、
主に邦人救出を目的として中央即応連隊に配備されているのだそうです。

で、この検索をしていたら

「陸自が導入した輸送防護車は使えない」

として、

「この輸送防護車だけを導入しても邦人救出作戦は実行できない。
無理をすれば多大な犠牲を出して失敗する。

●子供や病人の輸送をどうするのか

輸送防護車は邦人保護に関する法改正に伴い、邦人救護輸送に関して
車輛が使用可能となったために調達されたものだ。
だが前回の調達分と、今回要求分の輸送防護車はすべてAPC(装甲兵員輸送車)型である。
回収車や輸送型、野戦救急車型は調達されていない。

耐地雷装甲車でも触雷やIED(即席爆発装置)の被害を受ければ無傷では済まない。」

という、何がいいたいんだお前は、と思わずツッコンでしまうヨタ記事があって、
しかもなんかすごいデジャビュ感があったのですが、それもそのはず、
今回の朝日記事と前回のAAV7の記事、どちらも例の戦争平和学者の筆によるものでした。

もう笑っちゃったよ。
このヒトの仕事って、防衛省の装備にとにかくケチをつけることなの?

装甲兵員輸送車で邦人を輸送するのは危ないからやめとけってこと?
回収車や輸送型、夜戦救急車はじゃあ地雷を受けないor受けても大丈夫だと?
全ての機能を備えた戦車並みの丈夫なスーパー装備が開発されるまで
邦人輸送のための備えはしてはいけないとでも?

要は邦人保護のために自衛隊が海外に派遣されること自体が気に入らないんでしょうけどね。
朝日とこの学者は。

これは木曜予行の、つまりE席スタンドから撮った写真です。
自走砲など高射部隊の装備が一番向こうの方にあります。

装備展示の準備が整い、待っていた人がグラウンドになだれ込みました。
わたしは去年と全く同じ、下まで行くのが面倒だったので、
スタンドから写真を撮りつつ皆の荷物番をしていました。

まっすぐに戦車の前に向かって行くのはほとんどが男性。

戦車の前でVサインする男の子。
早めに到着するとこんな写真も撮れます。

地面がぬかるんでいるらしいのも、わたしが下に降りなかった理由。

あっという間に戦車の前は人多すぎになりました。

74式戦車と俺。👍(いえーい)みたいな?

92式地雷原処理車。
処理弾を投射するときにはほとんど姿を見せないので、
実際に見ると投射機が大きいのに驚きます。

装備展示が始まるとシートには誰もいなくなります。
青少年のグループは未来の自衛官候補でしょうか。

ここまでが木曜予行の写真です。

日曜の本番の日、わたしと連れは後半が始まるまでに

「今日はどの段階で会場を抜けようか」

と謀議していました。
木曜日は装備展示を見たいとわたし以外の全員が言い張ったため、
その後引き上げるとバスまではともかく、御殿場インターに向かう道が
ギチギチにこんでしまって、大変でした。

しかもこの日は東名高速が大渋滞していて、昼過ぎに終わったはずのイベントなのに
家に着いたのは夕方の6時という大惨事となってしまいました。
前日夜中に家を出ているので、途中で仮眠をとったこともありますが。

そこで、ベテランである連れが、

「後段演習が終わる直前に会場を出ます」

ときっぱり。
発煙弾の写真を撮り終わった瞬間、わたしたちは脱兎のごとく会場を出て
同じように早めに会場を出た人々の驚くほどたくさんの人の列に加わり、
しかしながらあまり待つこともなくバスに乗り込みました。

バスの車窓から外を見ると、すでに帰宅の混乱が始まっている様子。

E席にいる人たちが手を振っています。
戦車などが退場するとき敬礼してくれているのに答えているのでしょう。

左手に会場となった黒の台やモニターなどが見えてきました。
驚いたのは、多くの人が側道を歩いていることでした。

ここから先は延々と舗装していない山道です。
武士の情けで?写真は挙げませんが、その中に
ひらひらのワンピース、麦わら帽子に10センチヒールのコルクサンダル、
しかも生足という高原の避暑に来たお嬢さんみたいな人がいてビビりました。

彼女が転けもせず、足に豆も作らずに数キロ歩き通すことができたことを
心の底から祈ってやみません(嘘)

朝は下の公園の無料駐車場に車を止め、トランクから自転車を出して
会場まで移動している人を目撃しました。
みんなすごいなあ・・・(と人ごとのように言ってみる)

いつもここを通るたびに気になって仕方がない慰霊碑。
調べてもこれに相当する慰霊碑についての詳細はわかりませんでした。

ここで亡くなった自衛隊殉職者の御霊を慰めるものであろうと思われますが・・。

歩いて帰る途中にラブと遭遇し、記念写真を撮る人。

蛇足ですが、わたしは同行者の的確な判断と行動のおかげで、
3時には自宅に到着していました。
あまりにも早く帰って来たので家族がびっくりしていたくらいです。


さて、こうして総火演の終わりとともにわたしの2017年夏も終わりました。

毎年同じようなことをしているようでも来るたびにいろんな発見があり、
故にどんな大変でも足を向けずにいられないのが総火演ですが、
今年はわたしにとっては今まででベストというくらい、
いただいたチケットから始まって予行と本番の席、本番の気候、そして
最後の帰宅まで全てがうまくいき、心から楽しめました。

日本を防衛力(まもる)自衛隊への知識もブログ製作と皆様のコメントによって
毎年少しずつでとはいえ、深まっていくのを感じます。
イベント運営には大変なご苦労もあると思いますが、広報の一環として
演習を公開してくれるのは我々国民にとって本当にありがたいことです。

自衛隊の皆さん、そして今回東富士演習場に来られた全てのみなさん、お疲れ様でした。
また来年もお会いできることを心より祈りつつ。

 

終わり。

 


戦果拡張の発煙弾〜平成29年度富士総合火力演習

2017-09-04 | 自衛隊

後段演習の仮想戦闘訓練が始まっています。

装甲機動車RCVが敵の兵力を測るための「様子見攻撃」を行いました。
敵を急襲し、それによっててんやわんやの大騒動が起きた、と仮定します。

オート班(バイクの偵察隊)は、その様子を観察しているという状態です。

急襲攻撃を終えたRCV班は急いで離脱するのですが、あれー?
本番の、しかも模擬戦闘だというのにオレンジの旗をあげたRCVが・・・。

オレンジの旗をつけた車両だけ、(´・ω・`)という感じで引き上げます。
早く離脱しないと相手に場所特定されちゃうよ?
予行とリハでは続出したオレンジ旗の装備は、仲間とは全く違う方向に
退場していくことに気がつきました。

「お仕置き部屋かな」

「・・・普通に整備するところでしょ」

オート班の報告によって、敵の居場所がわかったので、富士教導団は
A道、B道沿いに攻撃し、三段山を奪取することを決定しました。

まず、後方の特化火砲が敵陣地を攻撃し、間髪入れずに
74式戦車隊が射撃陣地を占領しようという構え。

会場左と右に2台ずつ配備します。

対戦車誘導弾を撃ち、それに反応して出てきた敵戦車を、
待ち構えていた74式戦車が撃破します。

74式戦車は決して移動しながら砲撃を行いません。
必ず移動し、止まって4秒目くらいに射撃を行います。

もし敵が三段山に展開していたら、被害多数。
もし本当の戦闘だったらここまで敵が何もしてこないなんてありえませんし、
こんな簡単にやられてくれる敵ならそもそも上陸なんかできそうにありませんが。

一連の攻撃は戦車隊、施設科、そして特科部隊によって行われます。

障害処理を行うため、特科部隊が援護射撃を繰り返す中、
発煙弾が弾着し、敵の戦闘行動を妨害します。

施設小隊の障害処理を妨害しようとする敵を再び74式が撃破!

今回改めて気づいたのですが、こういう「据え撃ち」に一番向いているのか、
実は後段演習で最も発砲回数が多いのが74式なのです。

引退が近いから花をもたせているのかなと思っていたのですが、
砲を換装して破壊力は普通にあるそうですし、つまり適材適所ってことなのかな。

次に施設小隊の地雷原処理車が地雷原処理ロケットを投射します。
画面が暗いですが、これは木曜日の予行の時の画像です。

この日は投射直後の煙も黒々としていましたが、本番は真っ白でした。
予行と本番では地雷原処理車の位置も投射方向も全く違いました。

理由はわかりません。

こちらが日曜本番に投射された地雷原処理ロケット。
右手から左手に向かって、予行とは全く逆方向から飛んでいきます。
(防衛相観覧席からの見やすさの問題かもしれません)

ロケットに付いている索には数珠のように丸いボールが連なっていますが、
これが爆薬ブロックで、地雷を爆発させ、戦車用の通路を確保します。

爆薬ブロックの数は24個ですが、展示用に爆薬を4分の1に減らしてあります。
ブロックがこんなにたくさんありしかも密接なのに、
爆発は広範囲に3箇所に分かれて起こるのがいつも
不思議です。

特科部隊が見えないところから何度かに渡って前進支援射撃を繰り返す中、
ヒトマル式戦車が攻撃前進してきます。

10式の展示は常にその軽快な機動性を見せることを重視しています。

進入してきて4台が斉射。

この後FV戦車の攻撃を支援するため、またしても74式戦車が撃ちます。

74式が撃つのはこれで確か4回目となります。
支援専用にしたら一番出番が多くなったということでしょうか。

後段演習では今のところ90式戦車の出番が全くなし。

続いて10式戦車、二連続同時射撃を行います。
もうわかったから90式にも撃たせてあげて!

そこに敵の戦闘ヘリが現れたので、87AW、ガンタンクがたたき落とします。
「ハエたたき」のあだ名は伊達ではありません。

実は破壊力はあるけれど、航空機を確実に落とせるかというとそうでもない、
とこの時聞いたような気がしますが、きっと何かの間違いでしょう。(適当)

この後FV小隊、特科火砲、迫撃砲が入り乱れて突撃支援射撃を行い、
敵対戦車部隊を撃破してしまったということです。まじか。

戦車中隊の突撃を支援する射撃の最終弾が弾着した後、どう聞いても

「自衛隊は突撃する!自衛隊、前へ!」

と言っているように聞こえたのですが、これも不思議な言い方だと思いません?


ここで後段演習になって初めて90式戦車が現れ、
そして締めの一発というべき一斉射撃後、敵陣にいきなり突入し、数秒後には

「突撃成功!」

と通信してきて、ようやく脚光を浴びました。
ある意味楽して一番おいしいところを取ったと言えなくもありません。 

戦車部隊が敵地に殴り込みをかけている時、ふと左手上空を見ると、
ヘリ部隊がホバリングしてこちらをうかがっています。

ここから行われるのが、総火演名物の打ち上げ花火、じゃなくて、発煙弾発射。
総火演を象徴する写真としてよく使われるあのフィナーレです。

よく「白煙弾」とこれを表現している人がいるようですが、白煙弾だと
あの白リン弾と同義になってしまうようなので、注意が必要です

自衛隊的にはこのシーケンスを「戦果拡張」と称しています。
発煙弾でこちらの存在を覆い隠し、同時に戦車教導隊が敵地に突入していくというわけです。

今回わたしは木曜日の予行の時、カメラを持ち替えなかったため、
望遠レンズ装着のままこのシーンに臨んでしまいました。
つまり失敗したということなのですが、おかげでこんな写真が撮れたのです。

空中にはっきりと分かるほどばらまかれた多量の発煙手榴弾。

大きさは小型ペットボトルくらいでしょうか。
確か新装備のMCVにも AAVにもついていたと思いますが、
発煙弾の発射機、スモーク・ディスチャージャーは、軍用車両であれば
普通に搭載している標準装備です。

戦車などには複数個まとめた状態で外装されており、車内からの遠隔操作で発射されます。

違う種類の装備がこうやって同じ発煙弾を上げることができるのはそのためです。
そしてこの写真を仔細に見ていただければ、点火前の発煙弾がほぼ一列、
同じ高さに打ち上げられているのがお分かりになるでしょう。

各装備はこの「戦果拡張」の際の発煙弾打ち上げの高さを揃えて投射します。
ほぼ同じ時間に点火し、同じ高さから美しい滝のような煙幕を降らせるというわけです。

これは放物線の頂点で発煙弾が発火する瞬間です。

火花によってフラミンゴのような淡いピンクに染められた白煙が、
投射した装備の上に降り注いできます。

どうしてこれが戦果拡張に必要なのか今ひとつなのかわかりませんが綺麗だから許す。

ちなみにこの写真から以降は日曜日の本番に撮ったものです。
二回参加してどちらも撮れたので、本当に良かったと思いました。

10式戦車にも、WAPCにも、等しく降りかかる火花と煙。
中にいる人はどんな気持ちで・・・あ、中からは見えないのか(笑)

段階に分けていますが、発煙弾発射の命令が下ってから火花が白煙に変わるまではほんの一瞬です。

発煙弾を上げた部隊が火花と煙のシャワーを浴びている間に、
74式戦車、87式AW、そしてヘリ部隊が会場左から現れます。

こんなこともあろうかと、今回は中望遠レンズのカメラに持ち替えておいたので、
ズームアウトし、スモークの全景も撮ることができました。

端っこのWAPCにはスモークはかかっていません。

最後の瞬間を写真に撮ろうとして頭上に伸びている腕の数が多すぎい!

そしていつのまにか敵は制圧され、畑岡地区は自衛隊統合群によって取り戻されました。
そして、残存する敵を今度こそフルボッコにするために、
全装備が空と陸を一斉に左から右へ移動していくのでした。

「状況、終わり!」

ソードソードミードミード ソミドミドソド〜〜〜

ソードソードミードミード ソミドミドソド〜〜〜(移動ド)

 

続く。

 

 


先遣部隊投入と諸島奪回作戦〜平成29年度富士総合火力演習

2017-09-03 | 軍艦

会場の左稜線には、皆からよく見える場所に火力誘導班がいます。

ここから敵部隊の捜索、評定、火力誘導を行います。
具体的には、ここから目標にレーザーを照射するのです。

空中で待機していたF-2戦闘機が、火力誘導班の評定によって判明した敵に対し、
攻撃を行うために飛来してきました。

このF-2戦闘機は築城基地の所属だそうです。
まず皆の前を通過、弧を描いて一周し、戻ったところで爆弾を投下しました。

ちなみに誘導班と火力調整所のコールは日本語ですが、戦闘機は英語です。
ただし、終わった後の

「ミッションズ・サクセスフル、Fー2、グレイト・ヒット!」

以外は何を言っているのか聞き取れませんでした。

レーザーJDAMによる対地攻撃の爆破力の凄さ。
実際にはこの2倍の爆破力がありますが、安全のため炸薬を半分にしてあります。

JDAMそのものは無誘導ですが、Jシリーズの誘導装置キットを取り付けることで、
無誘導の自由落下爆弾を全天候型の精密誘導爆弾(スマート爆弾)
に変身させることができます。

レーザー JDAMは そのJDAMを進化させたもので、爆弾が投下された後、
(ここでは草むらに潜んでいる)火力誘導班が目標にレーザーを照射すれば、
爆破させることができるというものです。

日本は戦略爆撃機を保有していないので、今のところこのLJDAMが、
対地精密攻撃戦力の主力という位置付けとなっています。

しかしながら、敵の侵攻は止まらず、さらに二段山、三段山を占拠しました。
何をしている自衛隊統合軍。

そこで我が軍は本土からいよいよ機動展開を決行することにしました。
まずは先遣部隊が上陸しようという構え。

観測ヘリOH-6が偵察のために単機で乗り込んできました。

観測ヘリは攻撃力がないので、敵に狙われたら逃げるしかありません。
というわけで飛び回り、ほぼ垂直に上昇下降と小回りの効くところを披露していましたが、
その姿があまりに健気なので、冒頭写真でフィーチャーしてみました。

ちなみにこの時、コールで

「こちらオスカー」

と言ってましたが、これがOH-6Dの愛称らしいです。
オスカーはオート班(バイク班)に観測結果を報告します。

多用途ヘリUH-1が2機進入してきました。

オート班の隊員二人、バイク二台を載せています。
む、よく見るとヘリ乗員がオート隊員の肩をそっと抱いているぞ!

いや、「まだ降りないでね」って制止しているんだと思いますけど。

スキッドが地面につくかつかないうちに、バイクを下ろすためのレールをまず設置。

エンジンかけっぱにしていたらしいバイクを、素早くヘリから降ろします。

何をしているこちらのオート隊員!

もう一機のUH-1からも2台のオート班が降りてきます。

斥候班、一瞬合図を待つ。

バイクを降ろす補助を行なったヘリ隊員二人が乗り込むと同時に
ヘリコプターは空中に浮かび上がりました。

いくら命綱をつけているとはいえ、一応ドアが開いているのだから
そんなに傾くと乗っている人が危なくない?

続いて先遣部隊が侵入し、機動展開を行います。

チヌークとヒューイがやってきました。

アパッチは先遣部隊の進入を援護するために 攻撃を行ないます。

 UH-1からはリペリングのためのロープが降ろされました。

降下中狙われないように、あくまでも素早く、一瞬での降下。
ファストロープではなく、カラビナを使ってのリペリングによる降下です。

見分け方は、両手だけで降下していたらリペリング。

4人の隊員は、ヒューイの全開された左右の扉から、
背中向けになってアパッチの援護射撃が行われると同時に降下を行います。

地上に到達するのもほぼ同時となります。

降りた途端ロープを外し、要点確保のために走っていきます。

こちらはチヌーク後部ハッチ。
まずロープが降ろされ・・・・、

二本のロープに次々と、こちらはファストロープ(カラビナをつけていない)
で降りていきます。

チヌーク後部から地上までは短い距離で降りられるので、
器具をつけず、手と両腿でロープを挟んで降りるファストロープ方式で行います。

摩擦が手と腿にかかるので、特殊な手袋を着用するとはいえ、
普通に手を離したら、落ちます。
さらにヘリの位置から落ちたら軽く死ねます。

かし、この方法は器具を使わないので素早く地面に展開できるのです。
簡単に見えますが、皆訓練に訓練を重ねた結果、こうやって何事もないかのように
地面に降り立っているというわけです。

地上に降りた先遣小隊は、海岸部要点(ということになっているところ)に展開します。

リペリングのロープがまだぶら下がっている状態で離脱。

そして海岸部の要点とされる場所に腹ばいになっております。

この後、設定としては LCACやオスプレイ、AAVなどが後に続き、
弾薬、燃料、人員や糧食などを輸送してくるというわけです。

チヌークもロープを引き上げつつ離脱。
向こうではアパッチが見かけは地味な機関砲攻撃でこちらを援護しています。

もう一機、チヌークが進入してきました。
中隊支力展開のために輸送を行う役目です。

観客席に(というか敵と反対側に)後ろを向けて着地したチヌークの
ハッチが
開くと同時に、銃を持った隊員が地面に寝て警護。

ヘリの乗員が先に外に出て、降りてくるトラックの誘導を行います。
車体幅はハッチギリギリで、しかもこの傾斜はかなりありそうなので、
運転の下手な人なら車体をこすってしまいそう。

カエルの口から出てきた車には、5名の隊員が乗っています。

この間にもアパッチが援護射撃を継続しています。

車が動き出すのとほとんど同時にチヌークも離陸。
リペリングやファストロープで降りた部隊が敵陣のあるA道を突入していきます。

バンザイ突撃か?(たぶん違う)

この角度は木曜日の予行の際、E席上段から撮ったもの。

お次は占拠された領土奪還作戦へと移行します。
まずオート班が敵情視察を行うべく入場。

席が高いところにあると、オート班の写真はイマイチ迫力が出ません。

敵がいるのとは別の方向ですが、バイクを盾に周囲を警戒。

ポケットから出したスコープで敵の様相を確認、報告を行います。

すぐにRCV、早期偵察警戒車がやってきて、急襲射撃を行います。
これは、相手にダメージを与えるというより、その反応を見て
相手の戦力や位置を特定するという情報収集目的のためのものです。

その様子を偵察しているのがオート班の偵察部隊なのです。


そして本格的な攻撃に移行した富士教導団は、特化火砲で攻撃準備射撃を
敵陣地にブチ込む、というわけです。

 

続く。

 

 

 

 


今ここにある水陸両用車〜平成29年富士総合火力演習

2017-09-02 | 自衛隊

戦車火力の展示が終わり、10式戦車が退場すると、変わって
富士総火演では初めて動的展示を行う装備が入場してきました。

新しく開発された装輪装甲車、16式機動戦闘車、通称MCVです。
本年度以降新編される偵察部隊、即応機動部隊に配備されます。

このタイヤの駆動を見ていただければわかるように、
機動性に優れているので迅速に展開することが可能です。
最大速度は100キロですから、高速道路にも乗ることが(多分)できます。

「下半身装甲車、上半身戦車」というイメージでしょ?
それもそのはず、装甲車の機動性に、戦車火砲と同等の攻撃力を積んだ、
まさしく島嶼防衛に投入することを念頭に置いて開発された装備だからです。

火力は74式戦車と同等口径の105ミリ施線砲(ライフル砲、
砲腔『ほうこう』に腔線を設けた砲身を有する火砲)を採用していますし、
10式戦車と同等の射撃統制装置も搭載している・・・・・ということは、

装甲車のスピード

74式戦車の火力

10式のインテリジェンス(情報共有能力)

と、いいとこ取りをした夢の装備ということになります。

車体が軽いことも大きなメリットとなります。
船舶並びに航空機(C2など)による輸送が容易になり、諸島部にも展開しやすいのです。
車体自体の小ささで敵から発見されにくく攻撃の命中率も低くなります。

いいとこ取りと先ほど書きましたが、現行の89式装甲戦闘車は路上機動性が悪く、
また74式戦車は空輸することができません。

かといって87式偵察警戒車や軽装甲機動車などの装輪装甲車では火力不足で、
目標発見後速やかに射撃することができないため、普通科部隊への火力支援が困難。

さらにアメリカの戦闘車両は、

「小型であること」

「今使っている弾薬が適合すること」

などの条件から外れるため、導入をやめて開発が決定されました。

時代は

より小さく、より速く、より強く、より賢く

を武器により一層求めるようになってきたということですね。

そして、もう一つのお披露目装備は、水陸両用車AAVです。

今年の6月ごろ、米海兵隊から陸自がAAV7を大量購入したというので、

「なぜこんな水上で遅い時代遅れの骨董品を買わにゃならんのだ!
日本技術の発展にも米海兵隊にもデメリットをもたらす!」

とある戦争平和学者(って何)が騒いでいましたが、
(ただし後半は会員制記事だったため読んでません)
これって新しく陸自に設立された水陸両用部隊の訓練と錬成のために
とりあえず旧型を購入し、新型開発を待つってことなんでしょ?

ろくに現状を知りもせずに、このような視野の狭い所見で
偉そうにデメリット云々と騒いだ戦争と平和学者(だっけ)は、
新型水陸両用車の開発を知り、恥ずかしさのあまり夜枕を抱え、
あああ〜と叫んだことでしょう。

(まだだったらぜひそうしてください)

アメリカからは教導用と研究用を供与してもらったそうですが、
次世代配備には10年はかかるだろうという話もあります。

パンフの紹介では「AAV」となっていますが、
今ここにあるのはアメリカから購入したAAV7のはず、
ただし陸自用に化粧直し済みということのようです。

水中で外を覗く一人用のドームみたいなのが全部で3つ見えますね。
ちなみに乗員は4名ですが、二個分隊の人員を乗せることができます。

この日の展示では随分と高速走行しているように見えましたが、陸上速度は72キロ。
そして問題の水上速度は時速13キロとなっています。

これは、もういっそLCACに乗っけて運んだ方がよくない?
という速さではありますが、開発中の新型は速度向上を重視しているとか。

時速13キロはウォータージェット2基で水上走行を行うときの速さで、
万が一ウォータージェットがやられたら、その時はとりあえず
水中でキャタピラをぐるぐる回せば、ちょっとは前に進むんだそうです。

相手からは逃げられそうにはありませんが。

それからこの映像を見て思ったんですが、日本の海岸部ってテトラポットだらけで
んな風に上陸できる場所って海水浴場しかないんじゃあ・・・。

今まで日本が保持したことがない水陸両用車なので、0から開発するのではなく、
既存の技術をたたき台にするということはわかりましたが、
日本の技術陣は小型化軽量化魔改造が得意なので、新型水陸両用車は
あっと驚くような切り口の装備になっていることを期待してます。

さて、続いては空挺団の降下が行われました。
雨が降ると中止になりますが、今回は木曜、日曜ともに決行されました。
まず会場右端で、目印となる白いスモークが焚かれます。

降下する隊員は、これを見て風の強さや向きを判断するのです。

高度1200mの高さを飛行しているチヌークから飛び出した空挺隊員は
およそ12秒間の間自由降下を行い、それからパラシュートを開きます。
パラシュートを開く高度は約900m上空です。

自由降下の間の落下速度は時速200キロ、新幹線と同じ速さで、
5名の空挺隊員たちは凄まじい風圧にその間晒されることになります。

自由降下は資格を持った隊員だけが行うことのできる技術です。

会場の奥では、飛び出し後4秒でパラシュートが開く自動索降下が行われ、
6名の空挺隊員がチヌークから飛び出しました。

観客席から遠いのと、自由降下の隊員ばかりが目立ち、
こちらの降下はいつもあまり注目されないのが気の毒です。

自由降下のパラシュートは、スパイラルを描きながら降りてきますが、
これは速度を調整(高度を急激に落とす、つまり早く降りる)ための技術です。

自動索降下の着地は、このような調整ができないので地面に転がるのが普通ですが、
自由落下の空挺隊員たちは軽々と地面に二本足で降り立ちます。

その度に観客からは拍手が送られますが、今まで転んだ人を見たことがありません。
万が一皆の前で転ぶようなことがあれば末代までの恥、と考えていそうです。

スモークにつつまれるように降り立った人。
同じところに降りないように示し合わせているのかもしれません。
ここに降りると退場口が近いので楽です。

両足綺麗に揃える派。

尻餅をつきそうですが、この後二本足で立ちました。
空挺隊員の仕事は降りることではなく、その先の活動などにあります。

メナドでもパレンバンでもそうでしたね。

あの頃は武器と一緒に降下して突撃、というのが空挺隊員の仕事でしたが、
現代では主に情報活動や遠距離火力の誘導による戦闘支援が主任務です。

地面に降り立った空挺隊員は次の瞬間索を引いて・・・

傘の中の空気を抜き、持って運べる大きさにたたみます。

この日の自由降下に選ばれる5名というのは第一空挺団の中でも
レジェンド級の精鋭隊員なんだろうなと思ったり。

顔の写っている人はとりあえずアップしてみましたが、
皆もう凄みがあるのを通り越して、ただものじゃない感じ。
(個人的感想です)

本番の時、隣の人が

「今日は観覧席前で挨拶するかもしれませんね」

というので期待していたのですが、何もせずに走って退場していきました。

ここで前段演習は終了です。
フィールドで整備が行われますが、何しろ20分しかないので、
わたしの周りは誰も動きません。

どうしてもトイレに行きたい人とか、前段演習だけで帰る人が移動していました。

わたしはこの日初めての食事をしましたが、買ってきたお弁当は
おかずが唐揚げ、肉団子、形成したエビのフライ、申し訳程度の青菜、
やたら辛い味付けのきんぴらというもので、値段は1,000円。

「これ千円って高すぎませんかね」

「ここでは仕方ないっすよ」

ぼやきながらこの時間を利用して腹ごしらえをしました。

そして、後段演習が始まりました。
オーロラビジョンには「状況開始」のお知らせが。

「ドッドドドッド ミッミミミッミ ドッドドソッソソ ドミドソド〜」(移動ド)

とラッパも鳴り響きます。

ところで後段演習は、統合運用における各種作戦の様子を展示するものです。
統合運用の「統合」とは、陸海空自衛隊のことで、特的の目的、つまり
日本に仇なす敵を(笑)やっつけるための作戦が「運用」となります。

で、この演習のシナリオとしては、ここ旗岡地区を「島」と仮定して、まず
海上から侵攻してくる敵部隊を統合部隊が撃破するところから始まるので、
本来ならば海上自衛隊の哨戒機であるP-3CやP-1が飛んでくるはずなのですが、
今回はP3C、演習に全く姿を見せませんでした。

何年か前飛んできたことがあったのですが、雲が厚かったので全く姿が見えず、
せっかく遠くからわざわざP3Cを飛ばしても、
ここ富士山近隣の変わりやすい天気では無駄になる確率が高いということになり、
ご時勢もあって(北朝鮮とかね)中止になったのだと思われます。

というわけで状況はいきなり中距離多目的誘導弾が、畑岡沖から
上陸しようとする敵舟艇を迎撃するところから始まることになりました。

装備紹介では3発連続でしたが、今回は相手が船なので1発です。

「目的管理番号、マルマルヒト、1発、撃てっ!」

で飛んでいくミサイルは・・・・・、

舟艇型のちょうど艦橋のど真ん中に大きな穴をあけました。
おそらくこの1発で艦橋にいた人たちは全員二階級特進したはずです。

しかし、敵もさるもの、こちらの攻撃をかいくぐり内陸部に進入してきたのです。
ってかチュウタの1発だけで防げるほど敵は甘くないってことですわ。

こののち、上陸してきた敵部隊を迎え撃つ我が自衛隊統合部隊でした。

続く。


戦車火砲〜平成29年度富士総合火力演習

2017-09-01 | 自衛隊

遠中距離、近距離火力、ヘリ火力の展示が終わり、
続いては対空火力である87式時装甲車機関砲の展示です。

87式辞装甲車機関砲、通称「ハチナナAW」。
いつもぐるぐる回っているちょんまげのようなものは索敵を行うレーダーのアンテナ、
前を向いているお皿は追尾レーダーのアンテナです。

 

薬莢が散らばっているのが確認できます。
前回話したゲパルト自走砲をモデルに作ろうとしたため、やはりこれにも
エリコンの35ミリ機関砲を2門搭載しております。

火を噴くと同時に砲のあちらこちらから白煙が噴き出してきます。

銃撃は4秒で終わりましたが、搭載砲は1分に550発撃ちますから、
この間に目標に撃たれた弾丸は全部で150発くらいということになります。

その一つ一つが破壊力のある35ミリ銃弾であるわけで・・。

ちなみに、89式装甲戦闘車が搭載しているのは同じ35ミリでも
弾速が1分間に200発というタイプ( KDE)です。

 

さて、次はいよいよ戦車火力の展示です。
周りのカメラ陣がすわっ!と緊張を高める空気が伝わってきました。

まずはみなさんが

「タイミングがわかりにくいので撮るのが難しい」

とおっしゃるところの74式戦車ですが・・・、

どうよ。

と思わず得意になってしまうくらい、今回は当たりました。
冒頭写真は爆発する炎の中から飛び出す砲弾の曳光が捉えられています。

74式戦車はいつもそれ専用に設置された坂を登り、登坂姿勢のままで
射撃を行うことができるという特性を見せるための展示を行います。

坂をうぃ〜んと登って行って、停止したのち発射。
というわけで、周りで、

「停まったら3秒後!」

とまるで合言葉のように大きな声で繰り返している人がいましたが、
実際に映像で確かめると3秒ではなくだいたい4秒少しくらいでした。
の1秒の違いが大きいのですが。(´・ω・`)

どうよ。

今回嬉しかったのは74式がよく撮れたことです。

こんな周りからの情報と自分のカンを駆使して一瞬を逃さぬように
シャッターを押し、コンマ単位の瞬間が大当たりして会心の写真が撮れたりすると、
否が応でもアドレナリンが噴出してくるのを感じます。

こと写真に関してはそんなに欲のないわたしですら。

皆やっぱりこの瞬間のために、苦労していい席を取るんだろうなと思いました。

ちなみにこの後74式戦車は、停止直後でも正確に射撃できることを示すため、
停止してしてすぐ発砲しますので、タイミングは4秒後とは限りません。

というわけで展示を終えて軽快に退場する74式。

戦車隊の人がほぼ全員メガネをかけているようなのですが、気のせいですか。

 

74式戦車は採用後40年近く経っているとは言え、主砲の105ミリ弾に
93式徹甲弾を採用しているので、現代の戦車とも「対等に戦える」そうです。

航空機や潜水艦と違って、模擬戦ができるってもんでもないと思うのだけど、
どうやって戦車戦の勝ち負けって判定するんでしょうかね。

続いて90式戦車が入場してきました。
4台の90式が土煙を立てながら坂を降りてくるシーンは圧巻。

イメージだけではなく三つの戦車の中でもっとも車体が大きいのが90式です。

 

90式のエンジンは150馬力で、10式より大きいのですが、
車体が重たいのでスピードは遅くなります。

「とまれえっ!」

の掛け声で急ブレーキをかけて車体をつんのめらせるのも展示ならでは。
74式と比べると車体が重くてなおかつスピードが速いので、こうなります。

これを「殺人ブレーキ」と呼ぶ人もいるとかいないとか。

74式の成果に比べ、今回は不思議なくらい90式は撮れませんでした。
唯一写っていたのがこの左側の砲弾らしき炎です。

戦車火力の最後はお待ちかねヒトマル式戦車です。
とは言え、制式採用されてからもう7年になるんですね。

火力、機動力、防護力を向上させ、さらにコンパクト化されていますが、
砲塔の大きさは90式より大きいので、見た目も大きく見えます。

左稜線に進入し、後続の同小隊の2両を援護するために射撃したところ。

いえーい。

コンマの狂いもなく同時に砲撃を行なっています。

先ほどの稜線にいた2両が1班、続いて進入してきた2両が2班となります。

「後進射撃」というから後ろ向きに走りながら撃つのかと思ったら、
普通に進入すると同時に撃ちました。

砲撃の瞬間、砲塔の上の人は相当熱いのではないかという気がします。

炎が消え、戦車の前部に煙がまとわりつくところもいとおかし。

報道写真やその他ネットに出回る写真にはあまりない瞬間なので載せておきます。

これもあまり出回っている写真にはないシーン。
砲撃の一番最初の瞬間で、シャボン玉のように可愛らしい炎が噴き出しています。

続いて2班の戦車は小隊長に

「前方に障害確認、後退する」

と報告をします。
10式を10式たらしめる性能を見せるため、後退蛇行射撃を行うのです。

言っておきますが、この蛇行射撃の時の撮りにくいことと言ったら、
74式戦車の時の比ではありません。

しかし・・・

やっほーい。

後退蛇行しながらの射撃は極めて高度な技術を要します。
10式の安定性と高い起動性能あって初めて可能となった攻撃&避退です。

ちなみにバック走行時の速度は、10、90、74式戦車の順に速くなります。

90戦車は”どんがら”の割に案外速いのですが、74式は90式より小さいのに
まずこれでは敵から追撃された時助かるまい、というくらいノロノロ走行ですし、
もちろん後退しながら銃弾を撃つこともできません。

んが、日本で運用するぶんには(つか実戦に投入される予定もないので)無問題。
それこそゴジラでも出てきて、ヒトマルもキュウマルもやられてしまい、
残った装備で特攻作戦を余儀なくされた時くらいですかねー。(失礼か?)

こうして挙げていくと、今回は結構発砲シーンが撮れていたように見えますが、
実はちょっと悔やむべき失敗があったのでした。


といいますのも、Nikon1V3のスマートフォトセレクターという

「適当に押せば5枚ベストショットを残してくれる」

というお節介機能を使うことをふと思いついたのですが、隣のNikon持ちが、

「それ、40枚の保存もできますよ」

と現場で(しかも展示が始まってから)悪魔のように囁いたため、
90式の展示前に切り替えてもらったら、なんとシャッター押し直後、

「保存枚数を超えています」

という謎メッセージが出て、しかもリカバーするのに時間がかかり、
貴重なシャッターチャンスが失われたからです。

あとで余計なお世話だったと謝られましたが、反省すべきは
現場で初めてのモードを試そう、などという気になったわたしでした。

手前を狙っていたのに後ろの戦車の発砲炎が撮れた例。
要は失敗ですが、これはこれで。

炎が消えていく瞬間。

本日のベストショットはなんといってもこれ。
こういうのが撮れると、ついついその気になってしまいます。

というわけで、この後、隣のNikon持ちから、買い替えのために
下取りに出すというD810の購入を決意したわたしであった。

くねくね蛇行しながら後退、というのも最近は見慣れてきたものの、
こうして実際に妙に身軽な動きを見ると、改めて10式戦車とは
日本の誇るヘンタイ技術の粋を集めたっぽいと感心してしまいます。

今年は際に履帯が外れたり破片が飛んできたりという事故もなく、
無事に安定した展示を見せてくれた戦車隊でした。

 


装備展示、もう少し続きます。