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二人のベルギー大使と日白友好(おまけ:オリンピックロゴ問題)

2016-08-25 | 日本のこと

日白友好、とはあまり聞いたことがない言葉ですが、
日本と白耳義の友好、つまりベルギーとの友好を指します。

いきなり余談ですが、各国を漢字で表し「日●」とすると、妙なことになる国があります。

「日氷友好」ー日本アイスランド友好

「日乳友好」ー日本ニュージーランド友好

「日裸友好」ー日本ラオス友好

「日Q友好」ー日本イラク友好

「日豚友好」ー日本ブータン友好


ブータンは漢字表記では不丹なのに、なぜ一字だと「豚」なのか。

「ぶーた・・・ん???」



さて、もうはるか昔のことのような気がしますが、東京五輪のロゴ問題で
応募から選ばれた(ということになっていた)デザイナー、佐野研二郎氏の
デザインが、ベルギーの王立劇場のロゴにそっくりだったといわれたとき、
佐野氏を擁護一色だったマスコミが、テレビのコメンテーターに

「(そのベルギーの劇場って)有名なの?」「これで有名になったね」

などと劇場の売名行為であるかのような発言をさせ、劇場側が

「この抗議で私達にどんなメリットがあるのか説明してほしい」

と激怒したということがありました。



ベルギーは親日国であり、両国は大変友好な関係を築いています。
かつて日本が関東大震災に見舞われた時、アメリカ、イギリスに続いて
小国のベルギーが世界で三番目に多い義援金を送ってきたということがありました。

東日本大震災で、台湾がアメリカとほぼ同じ義援金を送ってきたようなもので、
このことは日本人を感激させ、かの国への親近感はぐっと深まったのです。
そんな両国間の友好にヒビを入れかねないこの無神経で相手をバカにした発言が
いかに大手広告会社の意を受けた浅はかな電波芸者によるものでも、
その無礼さに呆れた日本人はわたしだけではありますまい。

 

一人の人物や団体が2カ国間の固い信頼関係のきっかけとなることがあります。
日台における八田與一、日印におけるラダ・ビノッド・パル博士。
日本とトルコの間には難破したエルトゥールル号の乗員を助けた日本人たちと、
数十年経ってその恩を返してくれたトルコ政府。

日本とベルギーには、二人の外交官がいました。

アルベール・ダネタン(Albert D'anethan)は1893年(明治26年)に
特命全権公使として来日着任して以来16年の長きにわたってその職にあり、
その間、一国の代表としての任務にとどまらず、日本を理解し、
世界に向けてそれを発信してくれた「日本の恩人」でした。

自分の着任国が受ける誤解までを自分の足を使って解き、それを
世界に発信してくれた大使は、おそらくダネタン伯爵をおいてなかったでしょう。
その話をする前に、もう一人のベルギー大使をご紹介します。


日本とベルギーの間に国交が成立したのは1866年(慶応元年)。
ダネタン男爵は国交成立前の「特別全権公使」であり、正式な大使ではありません。
ダネタンの後任という形でベルギーが送ってきた正式な大使が、1920年に来日した


アルベール・バッソンピエール男爵

です。
この人物こそは当時のベルギーを東日本大震災における台湾のような
「小さい最大災害支援国」と知らしめた第一の恩人でした。

A.バッソンピエール

バッソンピエール大使は震災発生を受け、すぐに本国にそれを通知し、
「日本人救済ベルギー国内委員会」を結成してその推進役を務めました。
wikiに掲載されている大震災を描いた有馬生馬の絵には、白い第二種軍装をまとった
海軍軍人の横に、麻のスーツで立つバッソンピエール大使とその姪の姿が見られます。

犬養首相の孫娘、犬養道子氏の著書「花々と星々と」には、彼女の母親が
政府の親善パーティで「バッソンピエールさん」の席の隣に座り、

「気のいい話好きのおじさんで助かっちゃった」

と言っていたことがを書きのこされています。

このときのベルギーは、チャリティを目的の音楽会、講演会、バザー、さらに
『日本の日』が各地で催され、国を挙げてキャンぺーンに積極的に取り組みました。

しかし、この善意がバッソンピエール大使一人の掛け声で湧きあがったのかというと
それだけではなく、これはいわばイラク戦争におけるトルコ政府のように

「日本に恩返しをせねば」

という国民の声に後押しされたというべきものでした。
関東大震災(1923年)の9年前に起こった第一次世界大戦。

このとき、ドイツはべルギー領内を通過してフランスに攻め込もうとしました。
ベルギー王国は当時永世中立を標榜しており、国王のアルベール1世(イケメン)は

「ベルギーは道ではない。国だ」

「結果はどうであろうと、拒絶する。
我々(王族と軍人)の義務は国土を守りぬくことだ。この点で間違えてはいけない」

としてドイツ軍の侵攻に根気強く反抗しました。

アルベール1世

武力において圧倒的に劣るベルギー国防軍は、緒戦では敗退を余儀なくされましたが、

国境の一角を終戦まで死守しました。
連合国からは何度も援軍の要請がなされましたが、これをほとんどを拒絶し、
最後まで自国の防衛軍中心に戦い抜いたのです。


「自国を守れというけど血を流すということがどういうことかわかっているのか」

などと宣う落合恵子さんに、アルベール1世の気概をどう思うか聞いてみたいですね。


さて、そんな小国ベルギーの姿に、当時の日本人は感激し、熱狂しました。
戦闘が続いている間、日本人は勇敢なベルギーを応援するために
連日義援金キャンペーンを行い、支援活動を行いました。

なかでも、朝日新聞の創刊メンバーであり社長である村山龍平

「中立を蹂躙せられ国歩艱難を極めつも親しく陣中に在はして
将卒と共に惨苦を嘗め給へる白耳義皇帝アルバート陛下の勇武を欣仰」
(大正3年11月7日付大阪朝日新聞)

として、備前長船の名刀一振りを献上しています。
これらの激励と支援を、ベルギーの人々は感謝しつつ受け止め、
その記憶が終戦4年後の未曾有の震災における国を挙げての支援活動につながりました。

このときにベルギー国内で配布された「元兵士へ」(1923年)と題する文書には
ドイツ軍の侵略と戦うべルギー軍兵士に対して、支援と声援を寄せてくれた日本に
このときの恩義を今こそ返そうではないかということが書かれていたそうです。

ただ、その後、ドイツを相手に三国同盟を結んだ日本に対して、
当然のことですが、ベルギーは猛烈に抗議を行っています。
そして、抗議の印として日本大使引き上げという措置を取り、
日本を愛していたバッソンピエールは失意のうちに帰国したと言われます。 


さて、時間は巻き戻ります。
バッソンピエールの前任であったダネタン伯爵が
特命大使として着任した翌年、日清戦争が起こりました。

このことを、ダネタン大使は

「アジア人の間の戦争においてはおそらく初めてだと思われるが、
日本は傷病者に配慮し、赤十字は皇后陛下の後援のもとで
完璧なまでに仕事を遂行し、ジュネーブ協定は遵守されている」 

と書いています。

ところが、 旅順港の敗残兵掃討の際、日本軍が旅順市民を殺戮したということが
米紙などによって告発されました。

犠牲者数も当時ですら500人から1500人まで諸説あり、例によって
現在中国政府の見解は2万名弱と膨れ上がっているのが南京と同じ構図です。

日本軍が進撃する前に旅順に駐屯した支那兵は、恣いままに民家に乱入し、
家具を破壊し、略奪を始めたと現地の中国人が証言しており、
故に日本軍が来た時には時は旅順市街はすでに空っぽに近かったといいます。

しかも実際のところ、当初日本軍は

「被害者の死体を集めて焼き、骨を棺に入れて埋め、
「清国将兵の墓」と書いた木の札をたて」

つまり、敵兵の死骸を切り刻んだどころか、
彼らを火葬にして葬ってやっていたことになります。 

しかし現在、「旅順大虐殺」のWikipedia記述は「数はともかく虐殺はあった」
ということを前提にこの戦闘が論じられており、ダネタンの報告も、否定的だった
当時の世界の新聞の意見すら、全く顧みられていないのが異様な感じです。

戦死者に非戦闘員はいなかった、と証明することができないがため、
それが虐殺として定義されてしまっているというように思われました。 


そしてその曖昧さこそが、当時の米のマスコミと中国政府によって
この掃討戦が虐殺としてプロパガンダに利用されるきっかけとなったといえましょう。


その急先鋒であったのがアメリカの新聞ワールド紙で、この大虐殺について

「帝國陸軍が清帝國の非戦闘員・婦女子・幼児ら6万人を虐殺した。
逃げられたのはわずか36人だけだった」

とまるで見てきたかのような記事を書いて日本を非難しました。

「無防備で非武装の住人達が自らの家で殺され、その体は
言い表すことばもないぐらいに切り刻まれていた」

という記事には、それが便衣兵か民間人かの論拠はなく、当初日本人の遺体が
切り刻まれ(体の部分を持って行ったら賞金が出たため)それに怒ったなどという
日本側の報復感情については全く考慮しない一方的な論調でした。

このときの他の新聞の論調は概ね「日本軍の行為は報復であった」というものでした。
ニューヨークヘラルドなどは虐殺があったとしながらも、
土城子戦への報復として正当化する形で日本を擁護していますし、
英紙「セントラル・ニュース」は

「公正な戦闘以外では一人の中国人も殺されていない」

またフランスは

「日本軍は味方の捕虜が支那兵に四股を斬り分けられるなどして
虐殺されたのを見たために支那兵を皆殺しにしたのだ」

と書き、残虐行為は日清双方にあったとし、オーストリアの各紙も
残虐行為は日清共にあり、ただし日本のそれは報復だったと書き、
ドイツの新聞は日本軍にやりすぎはあったが、正当な理由によるものとしました。


ダネタン大使はこれに対し、調査を行い、

旅順港において日本軍によって行われたと伝えられる残虐行為は、

新聞報道者、特に二ューヨーク・ワールド紙の記者によって
多分に誇張されたものであった。

その場に居合わせたフランス武官ラブリ子爵より直接聞いたところ、
殺されたのは軍服を脱いだ兵士で、婦女子が殺されたのは真実ではない。
住民は占領前に避難、残っていたのは兵士と工廠の職工だけ。
日本兵は無残に扱われた戦友の死骸を見ながら、
何とか敵を捕虜にするだけにとどめた。」

と日本の立場を擁護する報告をあげて本国に送信しました。

日本が本当に民間人を虐殺したのかどうか、それが
全て残虐な支那兵への報復であったのか、それは今はさておき、
心証だけから書かれた、事実とは全く異なる数字をあげ、
それをもって一国を非難することを目的に書かれた記事は訂正されるべきであり、
ダネタン大使はそれに断固声をあげてくれたのでした。




日露戦争においても同じようなことがありました。
戦争前夜、欧州の各紙が口を揃えて

「日本人の外国人への憎悪が増し、日露が戦うと在日外国人が虐殺される」


といいだしたことがありましたが、ダネタン大使は

「外国人への憎悪や敵意は日本に存在しない。
単身、あるいはメイドを連れただけで、外国人の婦人が日本各地を旅行している。
在日外国人は仮に戦時下になっても日清戦争同様、全く安全である」

と自分の体験に基づいてその意見に反論してくれています。
また開戦後も、ロシア兵捕虜が日本で虐待されているとする報道が流れたことがありました。

これもとんでもないデマで、実際は「敵兵を救助せよ!」の明治版である
上村将軍のリューリック救助で
多くのロシア兵の命が助けられたばかりでなく、
(もちろんロシア側が撃沈した船の日本兵の命を救ったことなど一度もない)
彼らは日本の捕虜生活で
大いに優遇され、虐待どころか読み書きの出来ない捕虜に
日本側は語学教室を開いてやっていたくらいでした。
(在日外国人キリスト教団の主導によるものだったといわれている)

さらに日本軍がジュネーブ条約に則り、直ちに艦の従軍司祭を自由にして
海戦で死亡したロシア兵をロシア正教の司式で葬ることを許したことも、
ダネタン大使は丁寧に説明を尽くし、世界に向けて誤解を解いてくれたのです。


よく、日本の戦争責任が日本にあるとしたら、それは外交で国際問題を解決せず
戦争という安易な道を選んでしまったことだ、という人がいます。

そんな人にわたしは聞いてみたいのですが、それではあの時日本が
外交でうまくやりさえすれば、日本は戦争をせずに済んだのでしょうか。
それ以前に、外交で戦争を避けるということを欧米の大国が許したでしょうか。

大陸に進出したのが日本の罪だという論説もあります。
しかし、それを非難していた当時の大国は全て例外なく植民地をもち
「お前が言うな」状態でした。
要は、既存の大国が、新興発展国の日本に
自分たちの地位を脅かすことを許さなかったということなのです。

盧溝橋事件以降の日中戦争は
中共の挑発による疑いが濃厚であったにもかかわらず、
世界のメディアは、アメリカと中国の主張だけを聞いて全く日本の味方をしてくれませんでした。
その欧米メディアは、国民党中央宣伝部の手先になって、南京事件を
大虐殺事件に仕立て上げるに至ったわけですが、これも全て日本のせい、
すなわち日本の支那政策が失敗で、
情報戦に勝てなかったことは日本の罪でしょうか。



後からならなんとでも言えますが、たとえば旅順事件のとき、日本政府は

政治的配慮から伊藤博文が我が国の立場を公式に表明すべく、

● 清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡
旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を脱いだ兵士であった

● 住民は交戦前に逃亡していた。
逃亡しなかった者は、清から交戦するよう命令されていた。

● 日本軍兵士は捕虜となった後、残虐な仕打ちを受け、それを見知った者が激高した。

● 日本側は軍紀を守っていた。

● (ワールド紙の)クリールマン以外の外国人記者達は、彼の報道内容に驚いている。

● 旅順が陥落した際捕らえた清兵の捕虜355名は丁重に扱われ、
二三日のうちに東京へ連れてこられることになっている。

 
とし、ちゃんと釈明を行っているのです。

それはアメリカの新聞に取り上げられて一応世界にも好意的に迎えられ、
(もともと虐殺を非難したのはアメリカだけだったのですから)
虐殺への非難は当時は収束を見たということになっています。

しかしアメリカは日本の大陸進出そのものを非難する立場であり、

虐殺を捏造したのもおそらく政府の意を受けてのことだったわけですから、
日本政府が懸命に潔白を証明しても、大局的にはあまり意味がなかったと言えます。

戦争という手段を選ばされた日本が、世界デビューしたばかりで外交の歩を
読み切れず、失敗したというのは大陸における日本の悔やむべき失敗とはいえ、
決して「安易に戦争の道を選んだ」と自分の国を責める問題ではない気がします。

あのとき欧米メディアを味方につけておけば、と後からいうのは簡単ですが、
こちらがどんなに理解を訴えても向こうには全く理解する気がなかったのですから
そもそもうまくいくわけがないのです。

その後中国は、蒋介石政府が稀代の毒婦宋美齢のお色気&お涙頂戴作戦まで投入し、
「かわいそうな中国」を演じてアメリカに取り入っていったわけですし、
ただでさえ馬鹿正直な日本人が、権謀術数に太刀打ちできたとは思えません。



さて、それはともかく、日白の関係に話を戻すと、歴史的に痛恨事といえるのは、
二人の偉大なベルギーの大使への大恩を返さないうちに、日本が三国同盟で
ドイツと手を組んでしまい、それがベルギーを失望させたことかもしれません。


現在では皇室外交でやはり王国でもある日白の関係は大変良好だそうですが、
いわば日本はまだその負債をベルギーに返済していない状態なのです。

日本人も今のベルギー人ももはやそんなことは誰も気にしていないでしょうけど。

それはさておき、今回のロゴ問題で、さらに日本とベルギーの間に
動かしがたい蟠りができた、とまでは思いたくはないですが、少なくとも、
なにか国際問題が起きたとき、世界に向けて第三者の目で公平に
日本の言い分を広報してくれるような国同士の儀礼を超えた友情があるかというと、
胸を張ってそうだ、とはいえなくなったような気がしないでもありません。





 



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