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凡庸で偉大なジェット戦闘機 グロスター・ミーティア〜スミソニアン航空博物館

2020-07-11 | 航空機

スミソニアン博物館プレゼンツ、ジェットエンジン開発の歴史、
各国の開発の歴史をご紹介してきましたが、いよいよ残るは
当時の最先端だったイギリスとアメリカのみとなりました。
というわけで今日は大英帝国とまいります。

イギリスの開発については先駆者であるサー・ウィットルの項で
かなり詳しくお話ししているので重複する部分もあります。

🇬🇧 イギリス

イギリスが連合国軍側で初めてジェット機を搭載して飛ばすのに成功した
量産試作型のグロスターミーティア F-1です。

Fは戦闘機のF、その1号機というわけでしょうか。

おもちゃじゃないよ

スミソニアンのHPを検索したらこんな手抜きっぽい模型が
無駄に高画質でアップされていました。

今日はこのミーティアの話を中心にお届けしたいと思います。

 

さて、スミソニアンのコーナー展示を紹介しながら、ジェットエンジンが生まれてから
それが航空機に搭載され始めた頃の各国の技術競争について紐解いているわけですが、
そもそもタービンを使った駆動のアイデアは、いつから実在していたのでしょうか。

歴史を遡ると、イギリスでは1791年に最初のガスタービンが
ジョン・バーバーなる発明家によってパテントを取得されています。

その意味でもイギリスはタービンを発明した国というわけですね。

バーバーはこれを治金作業を効率的に行うために作ったということで、
仕組みは、外部にあるボイラーで木材、石炭、油などを燃やして得られたガスを加熱し、
それを別の部分で冷却し、 シリンダーで圧縮され、燃焼室に送り込まれて
そこで点火され、高圧ガスを生成して機械を駆動するというものです。

燃焼によってジェット=噴流を発生させ、推進に利用するという意味では
仕組みはジェットエンジンと同じといえないこともありません。

ここで確認のためにジェットエンジンの種類を簡単に書いておきます。
まず、広義にはジェットエンジンとは次の二つに分けられます。

1、ターボジェットエンジン

タービンを回して圧縮機で空気を圧縮し、その燃焼によって得られる排気流

2、ターボファンエンジン

ファンのついたターボエンジン
空気をエンジンコアに送り込み、飛行速度と同じ速さで排出する


さらに、

ターボプロップエンジン

エネルギーの大部分をプロペラを回すために消費するエンジン

プロップファン

ターボプロップエンジンに後退角のついた二重反転プロペラをつけたもの

ターボシャフトエンジン

圧縮機を動かすタービンの他にフリータービンを持っている。
ヘリのローターに使用される。

ラムジェットエンジン


吸入した超音速気流をラム圧(ram)により圧縮し亜音速まで減速させ、
そこに燃料を噴射して燃焼した排気の反動で推進力を得る

パルスジェット

単純間欠燃焼型のジェットエンジン。
給湯器などに応用されている。
ミサイルや航空機の推進装置として実用化されたことも。

スクラムジェットエンジン

ラムジェットエンジンと違うのは超音速燃焼が行われるところ。

外部動力圧縮ジェットエンジンジン

圧縮機を外部動力(通常はレシプロエンジン)で駆動する形式のエンジン。
カプロニ・カンピーニ、桜花はこのタイプを搭載していた。

 

さて、それでは次に「ジェットエンジン発祥の地」イギリスにおける
エンジン開発者を続いて紹介していきましょう。

collectionimages.npg.org.uk/std/mw188958/Alan-A...「金属疲労」を最初に見つけた人

アラン・アーノルド・グリフィス 
Alan Arnold Griffith 1893−1963

1926年に彼は

「タービン設計の空力理論」

を発表しました。
彼の初期の設計はターボプロップエンジンの理論につながります。

この頃、前にもここで取り上げた サー・フランク・ウィットルが、
遠心圧縮機を使用した
タービンエンジンに関する論文を書いています。

そのとき彼の論文は計算間違いがあったため、航空省に無視されたと書きましたが、
この間違いを指摘し、その排気が推力を提供しないであろう、
ダメ出したのが、他ならぬこのグリフィスでした。

ウィットルは当然失望しましたが、空軍軍人だった彼のRAFの友人たちは
とにかくこのアイデアを彼が追求することを確信し、応援し続けました。

その声に励まされた彼は、1930年にはエンジンの特許を取得し、5年後には
会社を立ち上げて研究を開始したというのはお話しした通りです。

グリフィスは、航空省研究所RAEの所長を務めながら、ここで
逆流ガスタービンを発明しましたが、研究は理論上の不備で中止されました。

RAEのジュニアエンジニアでグリフィスの部下でもあった
ヘイン・コンスタント Hayne Constant  1904-1968 は、
グリフィスを励まし、研究を再開するように勧め、自分自身も
RAEでタービンエンジンの研究を続けました。

これって、友人の励ましで立ち直ったサー・ウィットルを
落ち込ませた
張本人もまた技術者として落ち込んでいたところを励まされた
ということになりますね。

Why Metrovicks? | Thrust Vector師弟愛?

 

そして落ち込んで励まされたグリフィスにダメ出しされたサー・ウィットルは、
その理論を実験によって押し進め、彼を落ち込ませた張本人グリフィスも
その成果を見て彼のスタンスを再評価することを余儀なくされました。

サー・ウィットルのエンジンは、 Me 262にかなり似たデザインになり、
パフォーマンスも向上しましたが、それにもかかわらず、
機構が複雑すぎると考えられ、生産されませんでした。

 

グリフィスは1939年にRAEの主任科学者の職を辞してロールスロイスに転職し、
同社初の軸流圧縮機を使用するターボジェットエンジン、

ロールスロイス・エイヴォン Rolls-Royce Avon

の基本設計を行いました。

Mk.23

グリフィスの研究の中でも最も歴史的に重要なのは、エアジェットを使用した
ホバー内の制御、つまり 垂直離着陸 (VTOL)技術でしょう。
航空機を水平姿勢で空中に維持させるために、グリフィスは小型でシンプルな
軽量ターボジェットのバッテリーを使用することを提案しました。

これが「フラットライザー」です。

 

他にイギリスでジェットエンジンの開発に足跡を残した一人に、
ウィットルやグリフィスとは別系統で

フランク・バーナード・ハルフォード少佐 1894−1955

がいます。

File:Triumph-1922-Ricardo-Frank-Halford.jpg - Wikimedia Commons

第一次世界大戦で王立空軍のパイロットだったハルフォードは、
その後エンジニアリング部門でエンジン設計を行い、バイクのレースに出たり
バイクの製造をしたりというマルチな人生を送っています。

レーシングカーに航空機、動くものならなんでも、という勢いで
ホイホイといろんなエンジンを設計しまくっているうち、
ジェットエンジンにも興味を持ち、デハビランド H-1「ゴブリン」
そしてあの名作、H-2「ゴースト」を生み出します。

「ゴブリン」も「ゴースト」も、デハビランド のジェット戦闘機、
DH100 「ヴァンパイア」に搭載されることになりました。

この機体はヴァンパイアの F.Mark1で、ゴブリンエンジンを二基、
1400kgの重量で推力を安定させるために搭載しています。

 

ちなみにこの「ヴァンパイア」ですが、富士重工が
航空自衛隊の練習機T-1の参考にするために輸入したため、
日の丸をつけた機体が一機だけ現在浜松で公開されています。

なんかすごい微妙なところに日の丸があるっていうか・・・(笑)

グロスター ミーティア Meteor F.1

ジェット試験機を設計するという仕事がグロスター社にきたのは、
歴史は古いものの、二流メーカーとみなされていた同社が
戦時にもかかわらず暇にしていたためだったそうですが、
たしか日本にもおなじような話がありませんでした?
あれはたしか震電の開発に指名された九州飛行機という・・。

面白いことに、これと同じパターンはアメリカにもあって、
初のジェット戦闘機「FHー1ファントム」開発を指名された時の
マクドネルも当時は新興で暇にしていたのだそうです。

戦中、リスクの多いジェット機の開発は生産ラインに影響を及ぼすので
大手の航空会社ではなく暇そうなところにやらせるというのが理由だったとか。

 

さてこのミーティア、搭載するエンジンでゴタゴタが起き、
ウィットルのW1を積むかどうか
さんざん揉めた結果、結局のところ
ハルフォードのH1「ゴブリン」に決まりましたが、
戦闘機としての評価は

「機体は革新性皆無の凡庸なもの」

「機動が±2Gに制限されていて対戦闘機戦闘は不可能」

「連合国初のジェット機という存在価値しかない」

と散々でした。(です?)

しかも、ジェットエンジンという先端技術を搭載していたため、
連合軍が機体を鹵獲されるのを恐れて連合国の上だけしか
飛ぶことを許してもらえなかったという・・・・。

 

結局ミーティアがこのエンジンでドイツ上空に出て作戦を行ったのは
ドイツが散々弱ってもうだめぽ、となった最後の数週間だけでした。

もともとミーティアはMe262との交戦を想定して作られましたが、
もしそうなっていたとしても、結果は見えていた気がしますね。

1942年に撮影されたミーティアの姿です。

そんな振るわないデビューだったミーティアちゃんですが、
究極のターボジェットエンジン、ロールスロイスのニーンが誕生すると、
すぐにこれを搭載して、パワーアップし、Me262に同等、あるいは
下手すれば勝つる、
というところまでこぎつけました。

しかし時すでにお寿司、ニーンを積んで行った初飛行は1945年5月。

はい、みなさん、ドイツが降伏したのはいつだったですか?
今まで散々性能を馬鹿にされたグロスター関係者は、きっと
このタイミングの悪さに涙を流して悔しがったことでしょう。

しかし、当初から凡庸で革新性のない機体と言われたことは、
逆にいうと潰しが効くというか、中を入れ替えて使いやすいということです。

ミーティアはその後練習機となったり新しく導入する機体の
繋ぎを務めたり、訓練機や連絡機として、そして
次世代エンジン開発のためのテスト機を務めたりと大忙し。
空母運用試験では艦上搭載機のテストのために離着艦を務めたりしています。

実験機としてこんな面妖な姿にされてしまった子もおりました。

グロスター・ミーティアF8「プローン・パイロット」

は、人間の耐Gの限界を解明するため、機種の部分に
伏臥位の姿勢で乗る
コクピットを備えていたという実験機です。

伏臥位で操縦したら、より大きなGに耐えられる可能性があるかも、
と仮説を立てたんですね。
それでこんなものを作ってしまったということらしいですが、結果は

後方視認性と射出の難しさは、より高い
「G」効果を維持する利点を上回っていることを証明した

直訳するとこうですが、簡単に言い換えると、

「後ろが見えないし、射出がうまくいかないので、
この問題を解決するくらいならGをなんとかする方が早い」

ってことですよね。
作る前にそれくらいわからなかったのかな。わからなかったんだろうな。

 

しかしミーティア、外国空軍からも「初めてのジェット機」として
大変需要が高く、イギリス連邦以外の多くの国に輸出されました。
ベルギーやオランダなどのようにライセンス生産した国もあります。

まさに凡庸さが使い勝手の良さを生んだという意味では
それなりに偉大な航空機だったといっていいでしょう。

 

 

続く。