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横浜鎮守府長官官舎一般公開〜瓜生外吉と繁子夫妻

2016-04-03 | 海軍

第二術科学校の見学で英語の教官だった芥川龍之介のことを
取り上げた時に、「蜜柑の碑」のことをさんぽさんに教えていただき、
その時に貼っていただいた「横須賀シティガイド」をみて、
横須賀鎮守府の長官官舎が一般公開されることを知りました。

HPを調べてみると、桜の頃の週末から週明けにかけて公開、とあります。
うちの桜(といっても共同住宅の敷地内にあるという意味ですが、
寝室の真ん前で咲き誇るのでもうほとんど独占状態)が8分咲きになり、
お花見をする少し気の早い人も近所ではいそうだなというある日、
この一般公開を御目当てに横須賀に行ってみることにしました。



横須賀中央駅から歩けない距離ではなかったのですが(帰りは歩いた)
何しろ行ったことがないところなので駅周辺に車を止め、タクシーに乗りました。
ここは「田戸台」というのですが、なんとなく勘違いしていて、運転手さんに

「たどころだいの横浜鎮守府庁舎お願いします」

と言ったところ、

「たどだいですよね?たどころだいじゃなくて。
たどころってのはないんですよ。たどだいのことですよね? (略)」

とご丁寧に何回も間違いを認めさせられました。(−_−#)


車は門の前まで行ってもらえます。
門のところには、公開の間じゅうずっと入り口で警衛をしなくてはいけないらしい
海曹が、時折スマホをチェックしながらユルい感じで立っていました。
(別にこんなイベントのときは構わないと思いますよ?)
ここでは折しも桜がほぼ満開で、見学にお花見も兼ねられます。



内部に昔の写真があったので、すかさず比べてみましょう。
あれ?これ、真ん中の石の柱なくなってませんかね?
昔は人が通る門と車が来たら開ける門に分かれていたようですが。

あとは門柱のてっぺんや根元が当時は新しいせいか白っぽいことや、
地面が全く舗装されておらず、砂利が敷き詰められているのが違う点です。
 


入った途端、妙に綺麗な外装でまるでスキー場のロッジみたいなので

「オリジナルを壊して造り替えてしまいおってからに・・・」

と思ってしまったわけですが、実は昔の写真を見ても
ほぼ同じ、つまり駆体は変わっていないらしいことがわかりました。




はいその証拠。ほぼ同じ角度から撮った写真です。
さすがにレンガや屋根、窓枠は変わっているようですが。
左の方に見えている和風建築には、当時は管理人が住んでいました。


しかし、建物周りの木を地面の舗装と共にほとんど失くしたのはいただけないわ。



この鎮守府長官庁舎、1913(大正2)年に建造されました。
企画設計に当たった桜井小太郎
もう少し先に、舞鶴訪問のときに知ったジョサイア・コンドルについて取り上げますが、
ロンドンで留学後、そのコンドル設計事務所で実務を学んだ人です。

海軍の技師として、呉鎮守府長官宿舎、大湊要港部水源地堰堤などを手がけ、
また三菱銀行や丸ノ内ビルヂングなどの設計を行った建築界の偉人ともいうべきで、
現存する建築のなかでは静嘉堂文庫(せいかどうぶんこ)、
旧横浜正金銀行神戸支店だった神戸市立博物館(国の登録有形文化財)があります。


この建築計画が持ち上がったとき、横須賀鎮守府司令長官だったのは、
第12代の瓜生外吉海軍中将でした。



左上がそうです。
で、その後この長官庁舎の主となった歴代長官の写真が続くわけです。
第3代に伊地知季珍という名前がありますが、「三笠」の艦長だった方ではありません。
第7代に、雅子妃殿下のご先祖だった山屋他人大将、そして第8代には
広瀬武夫と同期で恩賜の短剣だった財部彪大将がいますね。
(山本権兵衛の娘を嫁にもらって出世し、”財部親王”などと言われた人です)

で、もう少しこの写真を慎重に見ていただくとわかりますが、ここの最初の住人は、
東伏見宮 依仁親王(ひがしふしみのみや よりひとしんのう)なのです。

東伏見宮中将は第16代鎮守府長官。

つまり、ここに初代住人としてお住まいになった時には、宮様はまだ
鎮守府長官ではあらせられなかった
ということになるのです。

ここに、皇族の依仁親王を差し置いて他の長官を先んじるわけにはいかない、
と海軍が配慮した様子がみえます。
それが証拠に、依仁親王は3年後、間に3名の鎮守府長官を挟んで、
実際に横須賀鎮守府長官を拝命されてから、もう一度第5代の主となっています。


そしてもう一つ特筆すべきは、この庁舎が建設される時に横須賀鎮守府司令官で
この企画建築に深く関わった瓜生中将はここに住んでいないということです。

施工が終了した大正13年には瓜生中将はもう司令官ではなかったからですが、
それでは宮様を立てるために誰が「割を喰ったった」かというと、
第2代居住者の山田彦八中将(大正2〜大正3在住)でした。

鎮守府長官の任期は概ね1年というのが相場で、瓜生中将が3年と長かったのは
この鎮守府長官庁舎の設計の責任者となったせいだったからと思われます。
しかしさすがに4年もやらせるわけにいかないので、建築が終了した年には
長官の役職は第13代となる山田中将に移っていました。
そして、第2代居住者、山田中将の司令在任期間だけが2年間と長くなっています。

これは、おそらくですが、せっかく完成した長官庁舎に住まないまま
長官職を失うのはあまりに山田中将に気の毒というか中将の面子の問題もあるので、

「宮様を一番先に住まわせないといけないからそうするけど、
君の任期を2年にするから、
在任期間の後半ここに住んでね」

ということで手打ちとなったのではないか、と推察されます。
こういう人事をみて思うのですが、海軍でトップをすぐに交代させたのは
主にできるだけいろんな軍人にその地位を与えなくてはいけないから、
というのがメインの理由だったのではないでしょうか。


ところで、このときに現地でもらってきたパンフレットには、
このような一文があります。

「田戸台分庁舎は瓜生ご夫妻と桜井小太郎氏三人の博識と
創造力による合作であります」

瓜生外吉が庁舎建造のプラニングに参画した理由は、
(というか、プロデュースも瓜生だったと考えられる)
瓜生が加賀藩の藩士であり、海軍兵学寮入学後、抜擢されて
アメリカの海軍兵学校、アナポリスを卒業しており、6年の滞米経験から
海軍きってのアメリカ通であったことからであろうと思われます。

そして、わざわざ「ご夫妻」とあるのは、彼の妻があの津田梅子
大山捨松らとともに新政府の第一回海外女子留学生として渡米し、
10年間の海外在住経験を持つ瓜生繁子(旧姓永井繁子)であり、

長官庁舎建設にあたってはその経験からアドバイスを行ったからです。

wiki

留学時の繁子は左端。右端が大山捨松で津田梅子は彼女と一緒にいる少女です。
繁子はアメリカの名門大学、ヴァッサー大学の音楽学部に進みました。
彼女が専攻したのはピアノだったようです。

10歳からピアノを始めるというのはこの楽器を習熟するのには「遅すぎる」のですが、
それでも他にピアノの奏法を知っている日本人は当時いなかったため、帰国後、
彼女は音楽取調掛(後の東京音楽学校)の教授として破格の待遇で迎えられています。

ここで瓜生中将と繁子夫妻二人の経歴を比べてみると、
瓜生が1875年から1881年の6年間、繁子が1871年から1881年の10年間、

それぞれの留学で滞米しており、二人の結婚は帰国後の1882年となっています。

これは、二人がアメリカで知り合ったということですよね?
瓜生は帝国海軍少尉、繁子は芳紀芳しい十代の少女として。

つまり、彼らは当時珍しい恋愛結婚で結ばれたらしいということなのです。

異国の地で知り合い、心惹かれた相手がお互いに相応しい身分であったこと
(繁子の父は幕府の軍医)は若い二人にとって大変幸運だったと言えましょう。



繁子と津田塾の創設者となった津田梅子、鹿鳴館の花と呼ばれた大山捨吉

(大山巌の妻)らが再会したときの写真が残されています。



左から津田梅子、アリス・ベーコン(津田塾の教師・教育家)、
繁子、そして大山捨松。
津田梅子は生涯独身を貫きましたが、女子留学生のうち有名になった
三人(後二人は一人が若死、一人が行方不明)のうち二人が
青年士官と、いずれも熱烈な恋愛で結ばれているというのは興味深いですね。

さらに余談ですが、瓜生中将と繁子の間に生まれた息子のうち一人、武雄は
海軍兵学校33期に進み、卒業後35期卒業生の遠洋航海のため
「松島」に乗り組みましたが、ここでもお話ししたことのある
1908(明治41)年、遠洋航海先での「松島」の爆沈事故により死亡しています。

調べたところ、瓜生武雄の卒業時の成績は6位。
このときの首席は豊田貞次郎でした。


さて、横須賀鎮守庁舎から離れて余談ばかりしてしまいましたが、
元に戻ります。







これも同じ角度から見た昔と今の庁舎。
手前の紅葉?は当時からの古木のようですね。

呉の鎮守府長官庁舎と同じく、この庁舎も洋館と和風館の接続住宅で、
洋風館の部分は木造平屋建て。
屋根は亜鉛葺きの切妻(2つの傾斜面が本を伏せたような山形の形状)となっています。



屋根の軒部分には、「ハーフ・ティンバー」様式の特徴である

「柱をそのまま見せて、その間の壁を漆喰で埋める」

という施工方式で仕上げられた部分を見ることができます。 
わたしが一目見て「大幅に作り変えおって」と激怒する(嘘)原因になった
レンガの妙にツルツルした質感は、改装に当たって外壁を
年月に耐えやすい煉瓦タイルにしてしまったからですが、
もとは下見板張り (建物の外壁に長い板材を横に用いて、板の下端が
その下の板の上端に少し重なるように張る)だったそうです。

まあ、それなら仕方なかったかもですね。板じゃ風化に耐えないから。
ただ、最初の写真がどうも煉瓦に見えるような気がするのはわたしだけ?



さあ、それではいよいよ中に入ってみましょう。


続く。