当ブログ イスラミック・ナイト での質疑応答では、その夜は ≪ハラルフード≫ がメインテーマでしたので
実はスノーマンが 「イスラムでの禁酒について」 の質問を一つさせていただいたのです。
その時の質疑応答の内容はこうでした。
スノーマン 『 第4章と第83章とを例にあげ、コーランでの酒を飲む慣習があるとの記載を提示し、
これほどに旨い酒を厳禁するまでもないのでは?』
とばかな質問をしてみました。
第4 章 メッカ啓示 19節 < 頭痛がしない うま酒が 天国のよさを 示すもの >
第83章 メッカ啓示 25節 < 彼らは 封印を施した 酒を そそいでもらう > とある。
なにせ通訳つきの質疑応答。 返答する側も右往左往、コーランのページを探し始め、こう答えた。
返答 『 確かにムハンマドの時代、コーランの初期には酒を飲む慣習はありました。しかし徐々に
5段階を経て、時を経てハルム(ぶどう酒)は禁酒との結論に至ったのです。
第5章にも書かれているし、スンナ(ムハンマド言行録・慣行・範例)にも書かれている。』
とコーランでの酒を飲んでいた事を認めた。
コーランは神の啓示じゃなかったのですか、とも訊ねてみたかったがやめた。 でも納得いかず、
スノーマン 『 じゃ、コーランの記載には優先順位があるのですか?』 大人げなく突っ込んだ。
返答 『 コーランは23年間にわたって書かれたものですから 』
確かにそうなのです。 当ブログコーラン パートⅠにも記載した通り、コーランは教義学問上は整理されているよう
だが、全体的に前後が交錯しており、非常にその編纂の方法も章の長さなどにより配列されている為、
啓示が下った時期が無視されていて(メッカ啓示・メディナ啓示が前後入り組む)非常に解りづらいのです。
コーランの第4章メディナ啓示43節にこうある。 『 酒に酔って礼拝参加してはならない 』 とある。
私見ですが、多分当時どこの国でも同様に飲んだくれが多く、泥酔し礼拝していた人などを諌めるため
禁酒に至ったのが派生したのではと推察する。
≪ 私見としての結論 ≫
第一、 酒は適度に飲むべし、これで終わり。
第二、 世間はそれぞれの宗教を尊重すべしというが、それは大切かも知れない。
しかしそれ以前の問題だと思う。 宗教とは考えることを途中でストップさせることなのか。
集団になると更にだ。 哲学者・池田晶子女史は ≪ 集団とは考えない人の別名である ≫
≪ 信じるとは、自在に考える自由を放棄している。正確には信教の不自由というべきだ≫
と語っていた。 私もこれには同感する。
聖書もコーランも信者には神の言葉だが、数十年間もの間で数多くの人々が編纂したのは事実。
その根源的なものの見方を正さない限りは、世の争いは絶対に無くならない そう思う。
争いの原因は貧困にあるとか言われるが、そのことを悪用している為(偽)政者のひと握り。
それは極端なエゴとしての解釈だ。 騙されるなかれ。 崇高な人々の念・祈りを汚すなかれ。
宗教について大して知らない私が、ちょっと言い過ぎだったかも知れません。 お許し下さい。
年内これだけはブログに書いておきたかった。 そろそろ事情があって ≪冬ごもり≫ です。
実はスノーマンが 「イスラムでの禁酒について」 の質問を一つさせていただいたのです。
その時の質疑応答の内容はこうでした。
スノーマン 『 第4章と第83章とを例にあげ、コーランでの酒を飲む慣習があるとの記載を提示し、
これほどに旨い酒を厳禁するまでもないのでは?』
とばかな質問をしてみました。
第4 章 メッカ啓示 19節 < 頭痛がしない うま酒が 天国のよさを 示すもの >
第83章 メッカ啓示 25節 < 彼らは 封印を施した 酒を そそいでもらう > とある。
なにせ通訳つきの質疑応答。 返答する側も右往左往、コーランのページを探し始め、こう答えた。
返答 『 確かにムハンマドの時代、コーランの初期には酒を飲む慣習はありました。しかし徐々に
5段階を経て、時を経てハルム(ぶどう酒)は禁酒との結論に至ったのです。
第5章にも書かれているし、スンナ(ムハンマド言行録・慣行・範例)にも書かれている。』
とコーランでの酒を飲んでいた事を認めた。
コーランは神の啓示じゃなかったのですか、とも訊ねてみたかったがやめた。 でも納得いかず、
スノーマン 『 じゃ、コーランの記載には優先順位があるのですか?』 大人げなく突っ込んだ。
返答 『 コーランは23年間にわたって書かれたものですから 』
確かにそうなのです。 当ブログコーラン パートⅠにも記載した通り、コーランは教義学問上は整理されているよう
だが、全体的に前後が交錯しており、非常にその編纂の方法も章の長さなどにより配列されている為、
啓示が下った時期が無視されていて(メッカ啓示・メディナ啓示が前後入り組む)非常に解りづらいのです。
コーランの第4章メディナ啓示43節にこうある。 『 酒に酔って礼拝参加してはならない 』 とある。
私見ですが、多分当時どこの国でも同様に飲んだくれが多く、泥酔し礼拝していた人などを諌めるため
禁酒に至ったのが派生したのではと推察する。
≪ 私見としての結論 ≫
第一、 酒は適度に飲むべし、これで終わり。
第二、 世間はそれぞれの宗教を尊重すべしというが、それは大切かも知れない。
しかしそれ以前の問題だと思う。 宗教とは考えることを途中でストップさせることなのか。
集団になると更にだ。 哲学者・池田晶子女史は ≪ 集団とは考えない人の別名である ≫
≪ 信じるとは、自在に考える自由を放棄している。正確には信教の不自由というべきだ≫
と語っていた。 私もこれには同感する。
聖書もコーランも信者には神の言葉だが、数十年間もの間で数多くの人々が編纂したのは事実。
その根源的なものの見方を正さない限りは、世の争いは絶対に無くならない そう思う。
争いの原因は貧困にあるとか言われるが、そのことを悪用している為(偽)政者のひと握り。
それは極端なエゴとしての解釈だ。 騙されるなかれ。 崇高な人々の念・祈りを汚すなかれ。
宗教について大して知らない私が、ちょっと言い過ぎだったかも知れません。 お許し下さい。
年内これだけはブログに書いておきたかった。 そろそろ事情があって ≪冬ごもり≫ です。