スノーマン見聞録

ジャンルも内容も気の向くまま~“素浪人”スノーマンの見聞録

渥美さん

2014年03月20日 | 雑感
        
     この写真いいですよね。 また使わせてもらいました。

他界してもう何年になりますかね。 最近BSで寅さん映画が結構放映されております。
実は私も寅さんのファンの一人で、48作全部観ているんですよ。 名作ですよね。

最近、付き人であった篠原靖冶さんの著 『 生きるの 精いっぱい 』という本を読んでみた。

「シノ シノ」と呼ばれ可愛がられた篠原さん。 宿舎の風呂にはいつも二人だけで入っていたとのエピソードも。

渥美さんは26歳の時肺を切除、背中と胸が手術痕で大きくえぐられていて、他の人に見られるのを極度に嫌っていたそうです。 誰もいないかをシノさんが確認に行き、見すましてから入っていたようです。

その頃C型肝炎を患っていたシノさんが渥美さんに思いっ切ってその悩みを話した時、『実は俺も肝臓が悪いんだよな』と打ち明けられたそうです。 その時もガンとは一切言わずに。

最終48作目をご覧の方は「 覇気のない やつれた 寅さん 」の印象を持たれたと思います。
胃薬だといって抗がん剤を飲みながら、壮絶な撮影を続けていたようです。


        
    ( 遺作「寅次郎紅の花」ロケ地にて~左は気遣うシノさん・寅さん辛そうですね )

その時の奄美大島ロケでも、現地に着くといつものことながら大フィーバーになるのですが、いつもと違いなぜか渥美さんは手も振らず、返事も返せなかったいう。

集まった人達からはこんな声がシノさんの耳に入ったという。
 『 渥美さん ぜんぜん挨拶してくれないね 』  『 寅さん なんだか ご機嫌悪いね 』

恐ろしい事に 病とは人をこんな風にまでしてしまうのですね。

シノさんの前ではいつも『 ああ嫌だ 嫌だ 死ぬのっていうのは嫌だね 怖いね 』と一年半もの間、渥美さんのひとりごとを何度も聞いたことがある、と記してあった。

それと、渥美さんは仕事に入ったら、家族のことは周囲に一切話したことはなかったようです。
でもとっても家族思いの渥美さんだったようですよ。 妻と一男一女。

妻(正子さん)とは年の差17歳。 仕事の無い時はいつも二人で映画や芝居を観にいったり、散歩もふたりで深夜によくしていたようです。

妻は若い時からクリスチャン。無神論者の渥美さんは亡くなる直前にクリスチャンの洗礼をうけていたとのこと。


渥美さんは尾崎放哉にかなり心酔していたようです。

(山の山頭火・海の放哉といわれた漂泊の俳人)

小豆島で墓参りもしており、『 できるかどうかわかんないけど 死ぬまで一度 尾崎放哉の役をやってみたいんだよ 』そう言っていたそうです。

早坂暁さんが脚本まで書いてくれたそうですが、ついに演ずることなく往ってしまいました。

渥美さんの放哉役、、観てみたかったなあ! 残念でなりません。

放哉の有名な句 『 咳をしても ひとり 』。

渥美さんの心が そこにあったのかなあ そんな気がしました。


器は料理のきもの

2014年03月20日 | 雑感
好きな陶芸作家を5人。

       

反骨の人・北大路魯山人。(1883年 - 1959年) 
良寛に心酔し、桃山時代の織部と吉野焼をとりわけ愛した破天荒な鬼才。

人間国宝を辞退。かなり勝手気ままな性格で、星岡窯では二年間で40人もの使用人を辞めさせたとの話も。
その性格がわざわいし晩年は孤独を余儀なくされたようですが、陶芸・書画・篆刻・絵画・漆芸も超一流。
 
料理にも秀でて高級会員制美食倶楽部・星岡茶寮を創ったりもした。「器は料理のきもの」という言葉は有名。

魯山人の著書によると納豆の食し方にもワザがあるという。
かきまぜるとねばりがスーっと消える瞬間がある。ここが至極の食べ時とのこと。
早速試しにやってみた。 それが凡人にはなかなかそのタイミングがわからない。 どうぞお試しあれ。


       

河井寛次郎。(1890年 - 1966年) 陶芸家・民芸運動家
(民芸運動 ~ 古い日用品の発掘。無名職人による日用の美を世に広め、新しい日用品を制作し普及)

旧宅は河井寛次郎記念館として公開されており、以前見学に行ってみたことがある。
京都の清水寺に近くの静かな佇まいの古民家で、上記のような素晴らしい作品が観られる。
この人も人間国宝に推挙されたが、辞退している。

   

ろくろの名人・加藤唐九郎。(1897年 - 1985年)
永仁の壺事件で有名。
鎌倉時代の古瀬戸の傑作であるとして国の重要文化財に指定されたが、その後唐九郎による作と判明。
推薦した文部技官が引責辞任をするなど、古美術史学界、文化財保護行政を巻き込むスキャンダルとなった。

人間国宝も取り消されたが、この事件で一躍唐九郎の名声が高まったという。

    

藤原 啓。(1899年 - 1983年)
備前焼中興の祖といわれる。 人間国宝。
若かりし時は文学で生きることを目指したが。神経衰弱に陥り断念したとのこと。

備前は信楽や伊賀焼と同様、釉薬を使わない。 なんとも味わい深いとっくりとぐい飲み。
こんなので酒を飲んだら、酔いかたも最高だろうなあ!


        

怠惰な人・スノーマン。
手術手術で傷だらけの人生を余儀なくされている。

いつでしたか陶芸に夢中になっていた時期があった。
手回しろくろと、てびねりにて作陶。 自称・石焼という。 所詮イモのレベルか。

いやいや、人間国宝のお呼びがかかることを、いまかといまかと待っている。
  かかるのは、あの世からのお迎えばかりじゃ 情けない!